2017年12月23日土曜日
69.いまだ、あるいはすでにない欲望ーーテリー・ジョーンズ『ミラクル・ニール!」(2016年)
三つの願いという民話がある。色々とヴァリエーションはあるが、そのひとつはこうである。夫婦して真面目に働き、生活には不自由しないだけの収入をあげている肉屋があった。あるとき、貴族が乗ったきらびやかな馬車が通るのを見かけ、一度でもあんな馬車に乗ってみたいもんだ、仙女でもいれば願いを叶えてもらうのに、と願った。すると輝くばかりの仙女があらわれ、なんでも口にした三つの願いを叶えてあげようといった。どんな願いをするべきなのか、迷っているうちに、その日も終わり、暖炉で温まっているときに、おかみさんは願い事がなんでもかなうとなれば、お祝いに一メートルのソーセージでも食べたいもんだね、とふと口に出してしまい、ソーセージが宙のなかから落ちてくる。夫は三つしかない願い事をつまらぬことに使った妻に怒りをおぼえ、そんなソーセージなどお前の鼻にくっついてしまえ、と怒鳴りつけると、ソーセージが鼻から離れない、これじゃあ恥ずかしくって人前に顔もだせはしない、とソーセージが鼻から離れますようにと最後の願いを使ってしまった。
この映画はこの民話のヴァリエーションであり、いかに欲望が曖昧で明確に言葉にすることができないかをうまくあらわしている。人間よりもはるかに力をもつらしい宇宙人が(もっともモンティ・パイソンの連中が声をあてているので、バカっぽいことこの上ないのだが)、地球を破壊する前に、人間という生物の本性を見るため、無作為に選んだ一人の人間に全能の力を与えることにする。選ばれたのはイギリスのしがない学校の教師(サイモン・ベッグ)であり、何か願いごとを口にし、右手を振ればなんでも実現する。しかも、三つなどと細かいことはいわずに、十日間無制限である。
民話の仙女は異教的な神々の生き残りであろうが、この宇宙人にしても全能の神とは異なり、個人の内心のことまではわからない。願いははっきりと理解されるように口にされなければならない。バスに乗りたいと願えば、ボンネットの上に乗せられるし、死者が甦れと願っても、スティーブン・キングの『ペット・セメタリー』のように、死んだときのままの不気味なゾンビが動きだすだけである。アメリカの大統領になりたいと願えば、早速テロリストに襲撃される。
三つであろうと無制限であろうと、欲望を十分適切に言いあらわすことは難しい。階下に気を引かれる放送局勤めの女性が住んでおり、もちろんその力をもってすれば、セックスや支配することなど容易なのだが、基本的に万能の力を得ても良心を失うことのない彼はそんなことをしても欲望が満たされないことを知る聡明さを兼ね備えている。
最初にあげた民話のヴァリエーションには、なんでも望みを叶えてなるといわれた老夫婦が、お互いに心のなかでこれからも一緒に幸せに暮らせますように、と願って末長く暮らしたというものもあるが、永遠にそれが続いたとすれば、呪縛でしかないだろうが、いかにも教訓的な話らしく、それからも幸せに末長く暮らしましたとさ、で済ませている。現状の維持でしかないことも、それを言葉に出して、願いとしてしまえば、欲望となり、満足のできないものとなる。
幼児期がしばしば生における理想ととられるのは、欲望がまだそれほど分化されておらず、全面的に庇護してもらえるという全能感もあるが、その裏側には言語の未発達によって、まだ欲望を表現できない、という欠如による満足もあるわけで、どちらにしろ、我々はすでに過ぎ去ったもの、あるいはいつの日か到来すべきものとしてしか欲望の満足を思い描くことができない。
2017年12月20日水曜日
ピタゴラス――ルイス『哲学史列伝』
II.ピタゴラス
ピタゴラスの生涯は、ぼんやりとした荘厳な伝説に包まれていて、そこから救い出そうとする試みは希望がない。ある種の一般的証拠は間違いなく信用される。しかし、それはほとんどなく、曖昧である。
その伝記に必要とされる難点の一例として、古代の作家たちや現代の学者たちが探求の結果あげた誕生年のことをあげよう。ディオドロス・シクラスは61回オリンピアのときだと言った。クレメンス・アレックスは62回オリンピア。ユーセビウスは63あるいは64回オリンピア。スタンレーは53回オリンピア。ゲールは60回。ダンシエは47回。ベントレーは43回。ロイドは43回。ドッドウェルは52回。リッターは49回。サールウォールは51回。48年の幅で変わっている。もし選択をしなければならないなら、ベントレーに決めることになろう。素晴らしい学者にたいする敬意のためだけではなく、ピタゴラスの友人や同時代のアレクシマンドロスによって知られている誕生の日と合致しているようだからである。
ピタゴラスは通常、偉大なる数学の創設者に分類される。このことは、彼の広範囲にわたる労作、彼が主に専念していたのは広がりや重量の決定、音楽の音の比率にあったことなどを知ると納得される。彼の科学と技術は、彼の生涯とともに、無意味なまでに過大視されている。伝説によると、彼は聖人であり、奇跡の使い手であり、人間の知恵の教師以上の存在だった。生まれもまた驚くべきもので、ヘルメスの息子ともアポロの息子ともいわれている。その証拠として彼は金の腿をあらわしていたと言われる。国を荒廃させたダフネの熊を飼い慣らした。彼はメタポンタムとタウロミニアムの異なった場所で、同じ日同じ時間に講義を開いた。川を横切るときは、川の神が「これは、ピタゴラス」と挨拶をし、彼にとって天球の調和は音楽に聞こえたという。
伝説はこうした驚異を記している。しかし、伝説的な伝承として存在しうるのは、ピタゴラスの意味深い偉大性ということである。ブルワー・リットン卿に十分にいわれているように、「ピタゴラスに関するあらゆる伝統だけではなく、彼個人が後にイタリアにもたらした強い影響、彼が人類に及ぼした個人的影響、道徳的命令を必要としていた者に及ぼした熱狂、諸派閥や制度の創立者であることは、彼がいまだ名前のない芸術を有していたことを証明している。ピダゴラスの時代と教えに多くの者が服従したが、彼が入念にギリシャの古代からの宗教と政治を探求し、異邦人ではあったが、訪れたデロスの伝統を(いかに寓話によってそれを損なったとしても)拒否し得ず、デルフィーの敬虔な奉仕者から教えを受けて感動したということが信じられていた。」*彼は通常の人間ではなく、寓話によって詩的な領域においてまで賛美されていた。ロマンティックで、奇跡的な行為が帰せられているときには、英雄はそうした驚くべき栄光を担うに足るだけ偉大であることはたしかだ。
*『アテネ、その勃興と没落』ii.412。
しかるに、示された事実は、一般的に伝えられている、彼がその教えと哲学をすべて東洋から借りたという説を反駁する。こうした偉大な人物が異邦からの教師なしですますことができるだろうか。実際できたし、そうしたことはたしかである。しかし、同郷の者たちは、ごく自然な考えによって、彼の偉大さを東洋での教育の結果だと見なした。彼の国には予言者はいなかった。想像力のあるギリシャ人は遠く離れた異境の国の者にそうした性質があるとする傾向があった。彼らは自分自身のなかから知恵が湧いてでるということを信じることができなかった。東洋という広大で未知の領域から、すべての新しいもの、思考が生じるに違いないとみていた。
リッターが観察したように、古代ギリシャにとってエジプトがいかに驚異に満ちた土地であったか、後にもっと知られるようになっても、人々の性格は保留したとしても、国家的建築の途方もない構造に観察者の注意がねじ曲げられるのを見るとき、ギリシャ人が強力な東洋と偉大なピタゴラスとのあいだに何らかの関連をつけたことは容易に想像される。
しかし、我々はピタゴラスがその学説についてエジプトにさほど負うことはないことを信じるとしても、彼がエジプトを旅したことに懐疑的なわけではない。サモスはエジプトと定期的な交流があった。ピタゴラスがエジプトを旅したか、旅したものに話を聞いたかしたならば、その体系にあらわれているように、エジプトの慣習について多くの知識を持っていたことだろう。そしてそれは司祭から教えを受けるまでもないことだっただろう。輪廻の教えはエジプトでは一般的なものだった。リッターがいうように、彼はそのために教えを請うまでもなかったのである。埋葬の習慣やある種の食物を禁じることは旅行者にはよく知られたことだった。しかし、ピタゴラスがエジプトの司祭から教えを受けたことに対する根本的な反論は、司祭階級そのもののなかに認められる。もし同じ階級に属さないのならば、同郷人の最も親しい者へも教えることを惜しんだとするなら、異邦人であり、異なった宗教をもつ者にどうして教えを授けることがあろうか。
古代の作家たちはこの反論に気づいていた。それを無視するために、彼らはブルッカーが与えている物語を発明した。ポリクラテスはエジプト王であるアマシスと友好的な関係にあり、ピタゴラスを送って、司祭と接することができるように推薦したというのだ。王の権威は司祭が異邦人にその神秘を明かすことを認めるほど十分なものではない。それゆえ、彼らはピタゴラスをテーベにおいて古代に精通したものとした。テーベの司祭は王族から選任されたものとして畏敬されており、異邦人に儀式を見られることを嫌っていた。新参者を嫌いながらも、彼らは割礼を含めたいくつかの残酷な儀式に参加させた。しかし、彼をくじくことはできなかった。彼は忍耐をもって指図に従い、最終的に信頼を得た。彼はエジプトで二十二年を過ごし、あらゆる学問に精通して帰ってきた。これは悪い物語ではない。しかし、一つ反論があるとしたら――実体がないということである。
哲学者という言葉の発明は、ピタゴラスに帰せられている。ペロポンネソスにいたとき、レオニティアスに「なにがおまえの技芸なのだ」と問われた。「私には技芸はない。私は哲学者だ」というのが答えだった。レオニティアスはその言葉を聞いたことがなく、なにを意味するのか尋ねた。ピタゴラスは重々しく答えた、「それはオリンピアの競技に比較できるかもしれない。あるものは栄光と王冠を求める。買ったり売ったりすることで利益を求める者もいる。彼らより高貴な者たちは、利益も賞賛も求めず、この素晴らしい見世物を楽しみ、そこで起きるすべてのことを知ろうとする。同じように、我々は天国である国を出て、多くの収益、多くの利益を得るものの集まりである世界にきたが、そこには数こそほとんどいないが、貪欲や虚栄を軽蔑し、自然を研究するものが存在する。それらを私は哲学者と呼ぶ。というのも、個人的な関心なしでいる観客ほど高貴なものは存在せず、その生涯では、瞑想と自然の知識とが他のどんな仕事よりも名誉あるものとされているからだ。」ピタゴラスが言うところによれば、「知恵を愛するもの」という通常の哲学者の解釈は、「愛するもの」という言葉に最高度の広がりをもたせたときにだけ正確なものとなることを見ておく必要がある。知恵というのは哲学者にとって「ここにあり目的でもあるすべてであり」、単なる好みや一つの追求すべきものであってはならない。それは生命を捧げる貴婦人でなければならない。それがピタゴラスにとっての意味であった。それ以前に賢人を指していたのはσοφςという言葉だった。しかし、彼は自分を、その体系において為したのと同様に、Sophoiあるいは当時の哲学者とは区別することを望んでいた。Sophosの意味は何であろうか。間違いなく我々はそれによって哲学者とは異なる賢人を意味している。その知恵とは実践的なものであるか、実践的な目的に変わるものであった。知恵を愛するものは、それ自体を愛しているのではなく、目的のために愛していた。ピタゴラスは知恵をそれ自体において愛していた。彼にとって瞑想は人間性の最高度の修練だった。生きることの底辺にある目的のために知恵を引きずり下ろすことは冒涜だった。それゆえ、彼は自信を哲学者――知恵を愛するもの――と呼んだが、知恵をより有益な目的のために求める者とははっきりと区別した。
哲学者という言葉のこの解釈は、彼の意見のいくつかを説明することになろう。とりわけ、厳格な入会儀礼の後でなければ入ることが認められない秘密結社の設立を説明する。五年のあいだ、加入希望者は沈黙を守らねばならなかった。多くのものが絶望のうちにそこで断念した。彼らは純粋な知恵のための瞑想には値しなかった。饒舌な傾向のないものは、その期間を守り通した。様々な屈辱に耐えねばならなかった。自己否定の力を測るために様々な実験が為された。それらによってピタゴラスは彼らが世俗的かどうか、科学という聖域に入るのにふさわしい者かどうかを判断した。浄化、犠牲、通過儀礼によって魂の基本的な部分を一掃した後に、彼らは聖域に入ることが認められ、魂のより高次の部分も、非物質的で永遠な事物についての知識からなる真理に関する知識によって祓い清められるのだった。この目的のために彼は数学から始めたが、それは物質的なものと非物質的なものとを媒介し、それだけが精神を感官的な事物から切り離し、知的なものへ導くことができるからである。
我々が不思議に思うのは、彼は神として崇拝されていただろうかということである。世俗的な争い、偉人になろうとする野心も超越し、知恵のためだけに生きた彼こそが、通常の人間よりも高次の刻印を押されているのではないか。後の歴史家たちは、白いローブをまとい、黄金の王冠をかぶった、重々しく荘重で、沈着な彼の姿を描いた。人間的な喜びや悲しみなどは超越し、存在のより深い神秘について瞑想している。音楽や、ホメロス、ヘシオドス、タレスの頌歌、あるいは天上の調和に聞き入っている。活気があり、おしゃべりで、議論好き、活動的で多才なギリシャ人から、荘重で謹厳、沈黙と瞑想を旨とする人物が現れるほど驚くべき現象があろうか。
ブルワー・リットン卿の『アテネ』から、ピタゴラスの政治的経歴についての部分を引用しよう。――「キケロとアウルス・ゲリウスの証言によると、ピタゴラスはタルキニウス・スペルブスの統治下にイタリアに到着し、アカイア族のギリシャ人によって植民地化されたタレンタム湾の一都市であるクロトンに住居を定めた。もし後の弟子たちの途方もない話を部分的にでも信じ、けばけばしく飾り立てられたものから、もともとの単純な真実を引き出そうとするなら、彼は最初は若者の教師としてあらわれ、当時としては異例のことではないが、すぐに法制官の教師となった。都市の紛争は彼の対象として好まれた。議会(千人の人員があり、間違いなく異なった人種からなっていた――最初は入植者の子孫たちであったが、最後には土着の人々も加わった)は雄弁で名声のある哲学者の到着と影響を利用した。彼は貴族の強化に力を尽くし、同じく、民主主義と専制主義に反目した。しかし、彼の政策はなんら世俗的な野心を伴ったものではなかった。彼は少なくともしばらくの間は、表向きは権力や地位を拒み、時期的にいうと比較的最近であるロヨラによって創設されたような強力な秩序に似ていなくもない、組織化された畏怖される社会を創設することに満足していた。弟子たちは試験と見習い期間を経ることでこの社会に入ることを認められた。段階を経ることで彼らはより高い栄誉を受け、より深い神秘に与ることが認められた。宗教は同胞愛の基礎となり、進歩と力を得る目的のために人間を結びつけた。彼はクレトンで高貴な家族のあいだから自らの制度を形成するのに三百人を選び、彼らは自らの身分を知り、世界に命令するのに適するように育てられた。ピタゴラスが首長となったこの社会は、古代の元老院に取って代わり、行政管理を得てからさほどたっていなかった。この制度においては、ピタゴラスは他に類のない唯一の存在だった。ギリシャ哲学の創建者たちの誰も彼には似ていない。誰から聞いても、女性の重要性を認めることにおいてその時代の賢人たちとも異なっていた。彼は女性に講義をし、教えたといわれている。彼の妻自身が哲学者であり、十五人の女性の弟子たちが、彼の学派を光彩を放つものとしている。人類を魅了し欺すあらゆるものについての深い知識をもとにした制度が、一次的な権力を守ることに失敗するはずがない。彼の影響力はクロトンに限られることはなかった。他のイタリアの都市に及んだ。政治制度を修正し、転覆した。ピタゴラスがより粗野で、個人的な野心を持っていたなら、彼はおそらくは強力な君主制を築き、社会年代記を新しい実験の結果でより富ますこともできたろう。しかし、彼の野心は英雄のものではなく、賢者のものだった。彼は自分の身分を高めるよりもむしろ制度の確立を願った。彼の直接の後継者たちは、彼が創設した同朋社会から生じる結果のすべてを見ることはなかった。そして彼の華麗で、荘厳な政治的企図は、しばらくの間は成功したが、無能な友愛感情の茶番と熱心でなかばは気のきいた禁欲主義を残しただけだった。
かくも神秘的で革命的な権力が社会のいたるところに行き渡り、イタリアの相当の部分で確立されたとき、警戒と疑惑の一般的感情が賢人と宗派のものに向けられた。ポルフィリーによれば、反ピタゴラスが勃興し、後の長い世代に記憶されるほど多数で活発だった。賢人の友人たちの多くは死んだと言われ、ピタゴラス自身敵たちの怒りの犠牲になったのか、弟子たちとメタポントゥムに逃亡して死んだのか疑問をもたれている。最近までイタリア南部は騒乱によって疲弊し、ギリシャも仲裁や調停に入ったが、騒動は収まらなかった。ピタゴラスの制度は捨て去られ、アカイアの金権的な民主主義が知的であるが共感は呼ばなかった寡頭政治の残骸の上に築かれている。
ピタゴラスは、社会を革命しようと試みたときに、官吏として貴族に頼るという致命的な間違いをした。革命、特に宗教に影響されたものは、民衆の感情によらなければ決して働き得ない。この間違いから、彼は人々に反感を買うようになった。ポルフィリーに関連してネアンテスが考察し、他のすべての証言からも明らかなことだが、部分的な暴動ではなく、民衆の反撥によって彼の没落が決したことは間違いないからである。彼の死後、哲学的な派閥は残ったが、政治的規範が消え去ったことも明らかである。彼がまいた種で、大きな国家にまで育ったのは、よいことであれ悪いことであれ、それは多数のものの心に植えるのだということである。」
長い間世界を楽しませてきた、彼が音楽のコードを発見したのだという物語も除くわけにはいかない。ある日のこと、鍛冶屋で、多くの男が次々に熱した鉄を叩いているのを聞いて、彼はひとつのハンマーを除いて他のすべてが調和のとれたコードを、つまりオクターブ、五度、三度、を生みだしていると述べた。しかし、五度と三度のあいだの音は不調和だと。仕事場に入ったとき、彼は音の多様性はハンマーの重さの相違によるのだとわかった。彼は正確な重さをはかり、家に戻ると、平面に四本の弦を張り、それぞれの弦の端にハンマーと同じ重さのものをつるし、かき鳴らすと、ハンマーの音に対応した音がした。彼はそこから音楽の音階をつくりだすことに進んだ。
このことについて、バーニー博士は『音楽の歴史』のなかでこう述べている。「ハンマーと鉄床がオーストリッチのように消化力のある古代人と現代人によって飲み込まれ、検証と実験がなされたとしても、異なった大きさと重さのハンマーは同じ鉄床の上で異なった音を出すに過ぎず、それは異なった大きさの矢や鐘の舌が、同じつるや鐘でしか異なった音を出さないのと同じであろう。」
ピタゴラスの生涯を終えるにあたって読者に思い起こしてもらいたいのは、途方もない矛盾した主張を歴史や伝記から集め、「権威」として無批判に使うことである。一例としてそうした「権威」をひとつあげよう。イアムビリカスはピタゴラスの生涯を、キリスト教の勃興と戦い、キリストに異教の哲学をもって対立したという視点で書いている。ピタゴラスに帰せられている奇跡も同様に根拠がないことである。
ピタゴラスの生涯は、ぼんやりとした荘厳な伝説に包まれていて、そこから救い出そうとする試みは希望がない。ある種の一般的証拠は間違いなく信用される。しかし、それはほとんどなく、曖昧である。
その伝記に必要とされる難点の一例として、古代の作家たちや現代の学者たちが探求の結果あげた誕生年のことをあげよう。ディオドロス・シクラスは61回オリンピアのときだと言った。クレメンス・アレックスは62回オリンピア。ユーセビウスは63あるいは64回オリンピア。スタンレーは53回オリンピア。ゲールは60回。ダンシエは47回。ベントレーは43回。ロイドは43回。ドッドウェルは52回。リッターは49回。サールウォールは51回。48年の幅で変わっている。もし選択をしなければならないなら、ベントレーに決めることになろう。素晴らしい学者にたいする敬意のためだけではなく、ピタゴラスの友人や同時代のアレクシマンドロスによって知られている誕生の日と合致しているようだからである。
ピタゴラスは通常、偉大なる数学の創設者に分類される。このことは、彼の広範囲にわたる労作、彼が主に専念していたのは広がりや重量の決定、音楽の音の比率にあったことなどを知ると納得される。彼の科学と技術は、彼の生涯とともに、無意味なまでに過大視されている。伝説によると、彼は聖人であり、奇跡の使い手であり、人間の知恵の教師以上の存在だった。生まれもまた驚くべきもので、ヘルメスの息子ともアポロの息子ともいわれている。その証拠として彼は金の腿をあらわしていたと言われる。国を荒廃させたダフネの熊を飼い慣らした。彼はメタポンタムとタウロミニアムの異なった場所で、同じ日同じ時間に講義を開いた。川を横切るときは、川の神が「これは、ピタゴラス」と挨拶をし、彼にとって天球の調和は音楽に聞こえたという。
伝説はこうした驚異を記している。しかし、伝説的な伝承として存在しうるのは、ピタゴラスの意味深い偉大性ということである。ブルワー・リットン卿に十分にいわれているように、「ピタゴラスに関するあらゆる伝統だけではなく、彼個人が後にイタリアにもたらした強い影響、彼が人類に及ぼした個人的影響、道徳的命令を必要としていた者に及ぼした熱狂、諸派閥や制度の創立者であることは、彼がいまだ名前のない芸術を有していたことを証明している。ピダゴラスの時代と教えに多くの者が服従したが、彼が入念にギリシャの古代からの宗教と政治を探求し、異邦人ではあったが、訪れたデロスの伝統を(いかに寓話によってそれを損なったとしても)拒否し得ず、デルフィーの敬虔な奉仕者から教えを受けて感動したということが信じられていた。」*彼は通常の人間ではなく、寓話によって詩的な領域においてまで賛美されていた。ロマンティックで、奇跡的な行為が帰せられているときには、英雄はそうした驚くべき栄光を担うに足るだけ偉大であることはたしかだ。
*『アテネ、その勃興と没落』ii.412。
しかるに、示された事実は、一般的に伝えられている、彼がその教えと哲学をすべて東洋から借りたという説を反駁する。こうした偉大な人物が異邦からの教師なしですますことができるだろうか。実際できたし、そうしたことはたしかである。しかし、同郷の者たちは、ごく自然な考えによって、彼の偉大さを東洋での教育の結果だと見なした。彼の国には予言者はいなかった。想像力のあるギリシャ人は遠く離れた異境の国の者にそうした性質があるとする傾向があった。彼らは自分自身のなかから知恵が湧いてでるということを信じることができなかった。東洋という広大で未知の領域から、すべての新しいもの、思考が生じるに違いないとみていた。
リッターが観察したように、古代ギリシャにとってエジプトがいかに驚異に満ちた土地であったか、後にもっと知られるようになっても、人々の性格は保留したとしても、国家的建築の途方もない構造に観察者の注意がねじ曲げられるのを見るとき、ギリシャ人が強力な東洋と偉大なピタゴラスとのあいだに何らかの関連をつけたことは容易に想像される。
しかし、我々はピタゴラスがその学説についてエジプトにさほど負うことはないことを信じるとしても、彼がエジプトを旅したことに懐疑的なわけではない。サモスはエジプトと定期的な交流があった。ピタゴラスがエジプトを旅したか、旅したものに話を聞いたかしたならば、その体系にあらわれているように、エジプトの慣習について多くの知識を持っていたことだろう。そしてそれは司祭から教えを受けるまでもないことだっただろう。輪廻の教えはエジプトでは一般的なものだった。リッターがいうように、彼はそのために教えを請うまでもなかったのである。埋葬の習慣やある種の食物を禁じることは旅行者にはよく知られたことだった。しかし、ピタゴラスがエジプトの司祭から教えを受けたことに対する根本的な反論は、司祭階級そのもののなかに認められる。もし同じ階級に属さないのならば、同郷人の最も親しい者へも教えることを惜しんだとするなら、異邦人であり、異なった宗教をもつ者にどうして教えを授けることがあろうか。
古代の作家たちはこの反論に気づいていた。それを無視するために、彼らはブルッカーが与えている物語を発明した。ポリクラテスはエジプト王であるアマシスと友好的な関係にあり、ピタゴラスを送って、司祭と接することができるように推薦したというのだ。王の権威は司祭が異邦人にその神秘を明かすことを認めるほど十分なものではない。それゆえ、彼らはピタゴラスをテーベにおいて古代に精通したものとした。テーベの司祭は王族から選任されたものとして畏敬されており、異邦人に儀式を見られることを嫌っていた。新参者を嫌いながらも、彼らは割礼を含めたいくつかの残酷な儀式に参加させた。しかし、彼をくじくことはできなかった。彼は忍耐をもって指図に従い、最終的に信頼を得た。彼はエジプトで二十二年を過ごし、あらゆる学問に精通して帰ってきた。これは悪い物語ではない。しかし、一つ反論があるとしたら――実体がないということである。
哲学者という言葉の発明は、ピタゴラスに帰せられている。ペロポンネソスにいたとき、レオニティアスに「なにがおまえの技芸なのだ」と問われた。「私には技芸はない。私は哲学者だ」というのが答えだった。レオニティアスはその言葉を聞いたことがなく、なにを意味するのか尋ねた。ピタゴラスは重々しく答えた、「それはオリンピアの競技に比較できるかもしれない。あるものは栄光と王冠を求める。買ったり売ったりすることで利益を求める者もいる。彼らより高貴な者たちは、利益も賞賛も求めず、この素晴らしい見世物を楽しみ、そこで起きるすべてのことを知ろうとする。同じように、我々は天国である国を出て、多くの収益、多くの利益を得るものの集まりである世界にきたが、そこには数こそほとんどいないが、貪欲や虚栄を軽蔑し、自然を研究するものが存在する。それらを私は哲学者と呼ぶ。というのも、個人的な関心なしでいる観客ほど高貴なものは存在せず、その生涯では、瞑想と自然の知識とが他のどんな仕事よりも名誉あるものとされているからだ。」ピタゴラスが言うところによれば、「知恵を愛するもの」という通常の哲学者の解釈は、「愛するもの」という言葉に最高度の広がりをもたせたときにだけ正確なものとなることを見ておく必要がある。知恵というのは哲学者にとって「ここにあり目的でもあるすべてであり」、単なる好みや一つの追求すべきものであってはならない。それは生命を捧げる貴婦人でなければならない。それがピタゴラスにとっての意味であった。それ以前に賢人を指していたのはσοφςという言葉だった。しかし、彼は自分を、その体系において為したのと同様に、Sophoiあるいは当時の哲学者とは区別することを望んでいた。Sophosの意味は何であろうか。間違いなく我々はそれによって哲学者とは異なる賢人を意味している。その知恵とは実践的なものであるか、実践的な目的に変わるものであった。知恵を愛するものは、それ自体を愛しているのではなく、目的のために愛していた。ピタゴラスは知恵をそれ自体において愛していた。彼にとって瞑想は人間性の最高度の修練だった。生きることの底辺にある目的のために知恵を引きずり下ろすことは冒涜だった。それゆえ、彼は自信を哲学者――知恵を愛するもの――と呼んだが、知恵をより有益な目的のために求める者とははっきりと区別した。
哲学者という言葉のこの解釈は、彼の意見のいくつかを説明することになろう。とりわけ、厳格な入会儀礼の後でなければ入ることが認められない秘密結社の設立を説明する。五年のあいだ、加入希望者は沈黙を守らねばならなかった。多くのものが絶望のうちにそこで断念した。彼らは純粋な知恵のための瞑想には値しなかった。饒舌な傾向のないものは、その期間を守り通した。様々な屈辱に耐えねばならなかった。自己否定の力を測るために様々な実験が為された。それらによってピタゴラスは彼らが世俗的かどうか、科学という聖域に入るのにふさわしい者かどうかを判断した。浄化、犠牲、通過儀礼によって魂の基本的な部分を一掃した後に、彼らは聖域に入ることが認められ、魂のより高次の部分も、非物質的で永遠な事物についての知識からなる真理に関する知識によって祓い清められるのだった。この目的のために彼は数学から始めたが、それは物質的なものと非物質的なものとを媒介し、それだけが精神を感官的な事物から切り離し、知的なものへ導くことができるからである。
我々が不思議に思うのは、彼は神として崇拝されていただろうかということである。世俗的な争い、偉人になろうとする野心も超越し、知恵のためだけに生きた彼こそが、通常の人間よりも高次の刻印を押されているのではないか。後の歴史家たちは、白いローブをまとい、黄金の王冠をかぶった、重々しく荘重で、沈着な彼の姿を描いた。人間的な喜びや悲しみなどは超越し、存在のより深い神秘について瞑想している。音楽や、ホメロス、ヘシオドス、タレスの頌歌、あるいは天上の調和に聞き入っている。活気があり、おしゃべりで、議論好き、活動的で多才なギリシャ人から、荘重で謹厳、沈黙と瞑想を旨とする人物が現れるほど驚くべき現象があろうか。
ブルワー・リットン卿の『アテネ』から、ピタゴラスの政治的経歴についての部分を引用しよう。――「キケロとアウルス・ゲリウスの証言によると、ピタゴラスはタルキニウス・スペルブスの統治下にイタリアに到着し、アカイア族のギリシャ人によって植民地化されたタレンタム湾の一都市であるクロトンに住居を定めた。もし後の弟子たちの途方もない話を部分的にでも信じ、けばけばしく飾り立てられたものから、もともとの単純な真実を引き出そうとするなら、彼は最初は若者の教師としてあらわれ、当時としては異例のことではないが、すぐに法制官の教師となった。都市の紛争は彼の対象として好まれた。議会(千人の人員があり、間違いなく異なった人種からなっていた――最初は入植者の子孫たちであったが、最後には土着の人々も加わった)は雄弁で名声のある哲学者の到着と影響を利用した。彼は貴族の強化に力を尽くし、同じく、民主主義と専制主義に反目した。しかし、彼の政策はなんら世俗的な野心を伴ったものではなかった。彼は少なくともしばらくの間は、表向きは権力や地位を拒み、時期的にいうと比較的最近であるロヨラによって創設されたような強力な秩序に似ていなくもない、組織化された畏怖される社会を創設することに満足していた。弟子たちは試験と見習い期間を経ることでこの社会に入ることを認められた。段階を経ることで彼らはより高い栄誉を受け、より深い神秘に与ることが認められた。宗教は同胞愛の基礎となり、進歩と力を得る目的のために人間を結びつけた。彼はクレトンで高貴な家族のあいだから自らの制度を形成するのに三百人を選び、彼らは自らの身分を知り、世界に命令するのに適するように育てられた。ピタゴラスが首長となったこの社会は、古代の元老院に取って代わり、行政管理を得てからさほどたっていなかった。この制度においては、ピタゴラスは他に類のない唯一の存在だった。ギリシャ哲学の創建者たちの誰も彼には似ていない。誰から聞いても、女性の重要性を認めることにおいてその時代の賢人たちとも異なっていた。彼は女性に講義をし、教えたといわれている。彼の妻自身が哲学者であり、十五人の女性の弟子たちが、彼の学派を光彩を放つものとしている。人類を魅了し欺すあらゆるものについての深い知識をもとにした制度が、一次的な権力を守ることに失敗するはずがない。彼の影響力はクロトンに限られることはなかった。他のイタリアの都市に及んだ。政治制度を修正し、転覆した。ピタゴラスがより粗野で、個人的な野心を持っていたなら、彼はおそらくは強力な君主制を築き、社会年代記を新しい実験の結果でより富ますこともできたろう。しかし、彼の野心は英雄のものではなく、賢者のものだった。彼は自分の身分を高めるよりもむしろ制度の確立を願った。彼の直接の後継者たちは、彼が創設した同朋社会から生じる結果のすべてを見ることはなかった。そして彼の華麗で、荘厳な政治的企図は、しばらくの間は成功したが、無能な友愛感情の茶番と熱心でなかばは気のきいた禁欲主義を残しただけだった。
かくも神秘的で革命的な権力が社会のいたるところに行き渡り、イタリアの相当の部分で確立されたとき、警戒と疑惑の一般的感情が賢人と宗派のものに向けられた。ポルフィリーによれば、反ピタゴラスが勃興し、後の長い世代に記憶されるほど多数で活発だった。賢人の友人たちの多くは死んだと言われ、ピタゴラス自身敵たちの怒りの犠牲になったのか、弟子たちとメタポントゥムに逃亡して死んだのか疑問をもたれている。最近までイタリア南部は騒乱によって疲弊し、ギリシャも仲裁や調停に入ったが、騒動は収まらなかった。ピタゴラスの制度は捨て去られ、アカイアの金権的な民主主義が知的であるが共感は呼ばなかった寡頭政治の残骸の上に築かれている。
ピタゴラスは、社会を革命しようと試みたときに、官吏として貴族に頼るという致命的な間違いをした。革命、特に宗教に影響されたものは、民衆の感情によらなければ決して働き得ない。この間違いから、彼は人々に反感を買うようになった。ポルフィリーに関連してネアンテスが考察し、他のすべての証言からも明らかなことだが、部分的な暴動ではなく、民衆の反撥によって彼の没落が決したことは間違いないからである。彼の死後、哲学的な派閥は残ったが、政治的規範が消え去ったことも明らかである。彼がまいた種で、大きな国家にまで育ったのは、よいことであれ悪いことであれ、それは多数のものの心に植えるのだということである。」
長い間世界を楽しませてきた、彼が音楽のコードを発見したのだという物語も除くわけにはいかない。ある日のこと、鍛冶屋で、多くの男が次々に熱した鉄を叩いているのを聞いて、彼はひとつのハンマーを除いて他のすべてが調和のとれたコードを、つまりオクターブ、五度、三度、を生みだしていると述べた。しかし、五度と三度のあいだの音は不調和だと。仕事場に入ったとき、彼は音の多様性はハンマーの重さの相違によるのだとわかった。彼は正確な重さをはかり、家に戻ると、平面に四本の弦を張り、それぞれの弦の端にハンマーと同じ重さのものをつるし、かき鳴らすと、ハンマーの音に対応した音がした。彼はそこから音楽の音階をつくりだすことに進んだ。
このことについて、バーニー博士は『音楽の歴史』のなかでこう述べている。「ハンマーと鉄床がオーストリッチのように消化力のある古代人と現代人によって飲み込まれ、検証と実験がなされたとしても、異なった大きさと重さのハンマーは同じ鉄床の上で異なった音を出すに過ぎず、それは異なった大きさの矢や鐘の舌が、同じつるや鐘でしか異なった音を出さないのと同じであろう。」
ピタゴラスの生涯を終えるにあたって読者に思い起こしてもらいたいのは、途方もない矛盾した主張を歴史や伝記から集め、「権威」として無批判に使うことである。一例としてそうした「権威」をひとつあげよう。イアムビリカスはピタゴラスの生涯を、キリスト教の勃興と戦い、キリストに異教の哲学をもって対立したという視点で書いている。ピタゴラスに帰せられている奇跡も同様に根拠がないことである。
2017年12月19日火曜日
アナクシマンドロス――ルイス『哲学史列伝』
第二章 数学者
§1.ミレトスのアナクシマンドロス
「ここで、ギリシャ哲学の歴史においてはじめて、我々は同時代的な発展に出会うのであり、観察してみれば、哲学の最初期において、相互影響の歴史的な証拠が、どちらの系譜も完全に間違ってもいなければ、信用に値する価値がないと余計なことを考えることもないだろう。他方において、内的な証拠は非常に限定された価値しかなく、というのも、他方において進化し活用された観念がもう一方においては完全に無視されていることを理解することは不可能だからである。古い哲学者は共通の源泉から、同じ考え方の習慣に従って考えを導いているので、知悉されたことから出発する議論は広範囲にわたるものでもなければ、容易に理解することもできない。実際、これら二つの方向がとことん追求されたなら、自然と宇宙に対する正反対の見方について活発な争いの十分な証拠が見られただろう。実際には、初期の哲学者たちが自分の考えを伝える不適切な方法のことを思えば、それぞれの体系は長い間非常に狭い仲間内でしか知られていなかった。しかしながら、当時の哲学的衝動が真に国家的な欠如感の結果だと想定すると、多様な要素がほぼ同時期にイオニアに、独立して、外的な関わりなく姿をあらわしはじめたことはありそうなことである。」*
*リッター、I.265
我々が考察しようとする学派の長は、ミレトスのアレクシマンドロスで、42回オリンピア(紀元前610年)に生まれたとされる。彼はタレスの友人とも、また弟子とも言われる。前者の関係の方が好ましい。少なくとも歴史を見る限り弟子ではない。政治的、科学的知識についての評判は非常に高かった。多くの重要な発明が彼によるものであり、そのなかには日時計や地図がある。天体の大きさと距離の計測について小冊子が書かれたが、それはもっとも早い哲学的著作だとされている。彼は情熱的に数学に熱中していて、一連の幾何学的問題を心に抱いていた。彼はアポロニアの植民地のリーダーだった。また、ピタゴラスとアナクレオンが住むサモスに専制君主ポリクレトスの宮殿を建てたと伝えられている。
アナクシマンドロスの教義については、どの歴史家も一致していない。実際、相応の歴史的位置についてもほとんど同意されていない。
アナクシマンドロスは事物の起源にアルケーαρχηという語を用いたとされている。この言葉、根本原理でなにを意味していたのか、古代の作家たちによって様々に解釈されている。彼がそれを無限と呼んだことについては一致しているが、無限によって彼がなにを理解していたかについてはいまだ決定されていない。*
*リッター、i.267.
一見したところ、この教義「無限が万物の根源である」にはなんら理解できるところはない。ずっと後の一神論のようにも思えるし*、神秘主義の言葉遊びのようにも思える。我々の精神には、多かれ少なかれ、タレスの「水は万物の根源である」という説よりは理解するのが困難である。想像力によって当時に戻り、こうした意見が起きた理由を考えられないか見てみよう。
*それがあり得ないことは確かである。この種の誤解を防いでおくために、それは、制限のない力でもなければ、現代の概念に含まれているような制限のない精神でもないことを言っておこう。一世紀後に生まれたアナクサゴラスでは、τεαχειτονは巨大さでしかない。――シンプリシアス『物理学』83,b、リッターによる引用を参照。
アナクシマンドロスを、偉大な先行者であり、友人でもあるタレスの傍らに置いてみると、彼の思考の際だった抽象性に衝撃を受けざるを得ない。沈思黙考する形而上学者の代わりに、我々は幾何学者を見る。タレスは、その有名な警句「汝自身を知れ」によってもわかるように本質的に具体的であり、「無限は万物の根源である」と言い、究極的な努力によって抽象にいたったアナクシマンドロスとは対照的である。こうした傾向を認めよう。彼のうちにモラリストや物理学者よりも幾何学家を見てみよう。いかに万物が彼の精神に抽象的な形をとってあらわれるのか、いかに数学が諸科学の科学であるかを理解しようとすれば、おそらく彼の説を理解することができるだろう。
万物の起源を探したタレスは、すでに見たように、水が起源だと考えた。しかし、抽象的に物事を見ることに慣れていたアナクシマンドロスは、水のように具体的な事物を受け入れることはできなかった。分析にはより究極的ななにかが必要とされた。タレスとともに、水が宇宙の材料だと考えたとしても、それは諸条件に従うものではないだろうか。それらの諸条件とはなにか。万物がそこから成り立つ水分は、多くの場合水分であることを止めているのではないか。あらゆるものの起源が常に変化し、個別の事物において常に混乱するものだろうか。水自体は事物である。しかし、ある事物がすべての事物であることはできない。
タレスの教義に対するこうした反論が彼をしてこの説を捨てさせた、あるいは変更させた。彼は、アルケーが水ではないといった。それは制限のないすべてξο απειρουでなければならない。
この理論が曖昧で、無益なことは間違いなく明らかだろう。「すべて」という抽象は言葉の上の単なる区別であるように思える。しかし、我々は繰り返し気づくことになるが、ギリシャ哲学において、言葉の上での区別は一般的に事物についての区別と等しい。数学者が自分の科学の本性に従って、いかに抽象を実在とみるか――形式を切り離し、それだけが物体を構成しているかのように扱う――を読者が考えてみるなら、アナクシマンドロスの有限な事物と無限な全体との区別を考えることは難しいことではなかろう。
かくして、我々が彼の説を説明できるのはただひとつの方法による。この説明はアリストテレスとテオフラテスの証言によるもので、それによれば、無限とは、分離によって生じた個物の基本的な部分の多数を意味するという。「分離によって」という箇所は意味深い。それは抽象から具体への過程を意味している――そして全体は無限な事物の内に実現するのである。無限を存在の名で呼び、「存在そのものとなにかの存在がある。前者が存在で、多様な存在する事物がいつまでの流れ出る源泉である。」こうしてみれば、おそらくアナクシマンドロスの意味が理解可能なものとなるだろう。
リッターのいうところを聞こう。アナクシマンドロスは「第一実体が無限だとし、我々を取り巻く制限なく多様な事物を生み出すのに十分だと論じるものの代表である。アリストテレスはこの無限を混合物として特徴づけたが、我々は単にそれを多数の一次的要素だと考える必要はない。というのも、アレクシマンドロスにとっては、それは不死で滅することがなく――永久に生産し続けるエネルギーだからである。この個物の生産から彼は無限の永遠の運動を引きだした。」
アナクシマンドロスによれば、第一存在は疑問の余地なく統一である。それは一者であるだけでなくすべてでもある。そこにはすべての日常的なものが構成される多数の要素がある。それらの要素は自然の異なった現象としてあらわれるときに分離される必要があるに過ぎない。創造は無限の分解である。どうやってこの分解は生じるのか。無限の条件である永遠の運動によってである。「常に始まりの状態にある無限は、無限の要素が常に分泌しては凝固するものでしかない、と彼は見ている。それゆえ、全体の部分は常に変化し、全体は変化し得ないものだということができる。」
抽象が存在――あらゆる事物の起源である――にまで高められるという考えは十分な根拠がない。それはこういっているようなものである、「1,2,3,20,80,100という数がある。そしてまた抽象的な数があり、これらの個別の数はその具体的な実現化に過ぎない。数がなければ、どんな数字も存在しないだろう。」と。だが、人間精神から抽象を除き、それを抽象に過ぎないと考えることは困難であり、この欠点は哲学体系の大多数の根に存在する。現代において賞賛されているヘーゲルやその他にも、幾分言葉は異なるにしろ、同じ特徴が残っていることを学べば、アナクシマンドロスの間違いに対してある種寛容の心を抱く助けとなるかもしれない。彼らは創造は神が活動することによって起こり、その行為によって尽きることはないという。別の言葉で言えば、創造は神のごく日常的なありかたである。有限な事物は永遠な運動、全体のあらわれに過ぎない。
アナクシマンドロスは抽象に具体的なものよりもより高次の意味を与えることによってタレスと自分を区別した。この傾向において、我々はしばしば数学学派と呼ばれるピタゴラス派の起源を見る。タレスの思弁は宇宙の物質的構成を発見することに向けられていた。それらはいかに帰納が不完全なものだろうと、観察された事実からの帰納によってある程度見いだされた。アナクシマンドロスの思弁は完全に演繹的である。そして、そうしたものとして、純粋な演繹の科学である数学に向けられていた。
この数学的傾向の一例として、我々は彼の物理的考えを例に引くことができる。宇宙の起源の中心的な点は地球にある。というのも、底部と高さが1:3の円筒となっており、中心部は世界の果てまでの等しい距離によって支えられているからである。
上述の説明から、読者はアナクシマンドロスをタレスの後継者と位置づける一般的な歴史的議論の妥当性を判断できるだろう。彼が思弁的探求の偉大な系列の一つから現れ、その系列はおそらく古代を通じても最も風変わりなものだったことは明らかである。タレスにとって、万物の根源である水は実在の物理的要素として捉えられていたが、後継者たちには徐々に、まったく異なったもの(生命あるいは精神)の代表的な証票でしかなくなった。そして、代表として名を貸しているその要素は、それが標章である一次的力から派生した二次的な現象と見なされるようになった。水はタレスにとっては真の一次的要素だった。ディオゲネスでは、水は(それ以前に空気に取って代わられていたが)精神の標章に過ぎなかった。アナクシマンドロスの全体は、抽象的であるが、にもかかわらず、多くの点で物理的である。それはすべての事物である。彼の無限の概念は観念的なものではない。それは象徴の状態に移ることはなかった。それは単に存在の一次的な事実の記述であった。とりわけ、日常的な有限な事物を例外として、知性の概念を含んでいなかった。彼の先験的なものとは無限の存在であり、無限の精神ではなかった。このことの後の発展は、エレア派においてみることになろう。
§1.ミレトスのアナクシマンドロス
「ここで、ギリシャ哲学の歴史においてはじめて、我々は同時代的な発展に出会うのであり、観察してみれば、哲学の最初期において、相互影響の歴史的な証拠が、どちらの系譜も完全に間違ってもいなければ、信用に値する価値がないと余計なことを考えることもないだろう。他方において、内的な証拠は非常に限定された価値しかなく、というのも、他方において進化し活用された観念がもう一方においては完全に無視されていることを理解することは不可能だからである。古い哲学者は共通の源泉から、同じ考え方の習慣に従って考えを導いているので、知悉されたことから出発する議論は広範囲にわたるものでもなければ、容易に理解することもできない。実際、これら二つの方向がとことん追求されたなら、自然と宇宙に対する正反対の見方について活発な争いの十分な証拠が見られただろう。実際には、初期の哲学者たちが自分の考えを伝える不適切な方法のことを思えば、それぞれの体系は長い間非常に狭い仲間内でしか知られていなかった。しかしながら、当時の哲学的衝動が真に国家的な欠如感の結果だと想定すると、多様な要素がほぼ同時期にイオニアに、独立して、外的な関わりなく姿をあらわしはじめたことはありそうなことである。」*
*リッター、I.265
我々が考察しようとする学派の長は、ミレトスのアレクシマンドロスで、42回オリンピア(紀元前610年)に生まれたとされる。彼はタレスの友人とも、また弟子とも言われる。前者の関係の方が好ましい。少なくとも歴史を見る限り弟子ではない。政治的、科学的知識についての評判は非常に高かった。多くの重要な発明が彼によるものであり、そのなかには日時計や地図がある。天体の大きさと距離の計測について小冊子が書かれたが、それはもっとも早い哲学的著作だとされている。彼は情熱的に数学に熱中していて、一連の幾何学的問題を心に抱いていた。彼はアポロニアの植民地のリーダーだった。また、ピタゴラスとアナクレオンが住むサモスに専制君主ポリクレトスの宮殿を建てたと伝えられている。
アナクシマンドロスの教義については、どの歴史家も一致していない。実際、相応の歴史的位置についてもほとんど同意されていない。
アナクシマンドロスは事物の起源にアルケーαρχηという語を用いたとされている。この言葉、根本原理でなにを意味していたのか、古代の作家たちによって様々に解釈されている。彼がそれを無限と呼んだことについては一致しているが、無限によって彼がなにを理解していたかについてはいまだ決定されていない。*
*リッター、i.267.
一見したところ、この教義「無限が万物の根源である」にはなんら理解できるところはない。ずっと後の一神論のようにも思えるし*、神秘主義の言葉遊びのようにも思える。我々の精神には、多かれ少なかれ、タレスの「水は万物の根源である」という説よりは理解するのが困難である。想像力によって当時に戻り、こうした意見が起きた理由を考えられないか見てみよう。
*それがあり得ないことは確かである。この種の誤解を防いでおくために、それは、制限のない力でもなければ、現代の概念に含まれているような制限のない精神でもないことを言っておこう。一世紀後に生まれたアナクサゴラスでは、τεαχειτονは巨大さでしかない。――シンプリシアス『物理学』83,b、リッターによる引用を参照。
アナクシマンドロスを、偉大な先行者であり、友人でもあるタレスの傍らに置いてみると、彼の思考の際だった抽象性に衝撃を受けざるを得ない。沈思黙考する形而上学者の代わりに、我々は幾何学者を見る。タレスは、その有名な警句「汝自身を知れ」によってもわかるように本質的に具体的であり、「無限は万物の根源である」と言い、究極的な努力によって抽象にいたったアナクシマンドロスとは対照的である。こうした傾向を認めよう。彼のうちにモラリストや物理学者よりも幾何学家を見てみよう。いかに万物が彼の精神に抽象的な形をとってあらわれるのか、いかに数学が諸科学の科学であるかを理解しようとすれば、おそらく彼の説を理解することができるだろう。
万物の起源を探したタレスは、すでに見たように、水が起源だと考えた。しかし、抽象的に物事を見ることに慣れていたアナクシマンドロスは、水のように具体的な事物を受け入れることはできなかった。分析にはより究極的ななにかが必要とされた。タレスとともに、水が宇宙の材料だと考えたとしても、それは諸条件に従うものではないだろうか。それらの諸条件とはなにか。万物がそこから成り立つ水分は、多くの場合水分であることを止めているのではないか。あらゆるものの起源が常に変化し、個別の事物において常に混乱するものだろうか。水自体は事物である。しかし、ある事物がすべての事物であることはできない。
タレスの教義に対するこうした反論が彼をしてこの説を捨てさせた、あるいは変更させた。彼は、アルケーが水ではないといった。それは制限のないすべてξο απειρουでなければならない。
この理論が曖昧で、無益なことは間違いなく明らかだろう。「すべて」という抽象は言葉の上の単なる区別であるように思える。しかし、我々は繰り返し気づくことになるが、ギリシャ哲学において、言葉の上での区別は一般的に事物についての区別と等しい。数学者が自分の科学の本性に従って、いかに抽象を実在とみるか――形式を切り離し、それだけが物体を構成しているかのように扱う――を読者が考えてみるなら、アナクシマンドロスの有限な事物と無限な全体との区別を考えることは難しいことではなかろう。
かくして、我々が彼の説を説明できるのはただひとつの方法による。この説明はアリストテレスとテオフラテスの証言によるもので、それによれば、無限とは、分離によって生じた個物の基本的な部分の多数を意味するという。「分離によって」という箇所は意味深い。それは抽象から具体への過程を意味している――そして全体は無限な事物の内に実現するのである。無限を存在の名で呼び、「存在そのものとなにかの存在がある。前者が存在で、多様な存在する事物がいつまでの流れ出る源泉である。」こうしてみれば、おそらくアナクシマンドロスの意味が理解可能なものとなるだろう。
リッターのいうところを聞こう。アナクシマンドロスは「第一実体が無限だとし、我々を取り巻く制限なく多様な事物を生み出すのに十分だと論じるものの代表である。アリストテレスはこの無限を混合物として特徴づけたが、我々は単にそれを多数の一次的要素だと考える必要はない。というのも、アレクシマンドロスにとっては、それは不死で滅することがなく――永久に生産し続けるエネルギーだからである。この個物の生産から彼は無限の永遠の運動を引きだした。」
アナクシマンドロスによれば、第一存在は疑問の余地なく統一である。それは一者であるだけでなくすべてでもある。そこにはすべての日常的なものが構成される多数の要素がある。それらの要素は自然の異なった現象としてあらわれるときに分離される必要があるに過ぎない。創造は無限の分解である。どうやってこの分解は生じるのか。無限の条件である永遠の運動によってである。「常に始まりの状態にある無限は、無限の要素が常に分泌しては凝固するものでしかない、と彼は見ている。それゆえ、全体の部分は常に変化し、全体は変化し得ないものだということができる。」
抽象が存在――あらゆる事物の起源である――にまで高められるという考えは十分な根拠がない。それはこういっているようなものである、「1,2,3,20,80,100という数がある。そしてまた抽象的な数があり、これらの個別の数はその具体的な実現化に過ぎない。数がなければ、どんな数字も存在しないだろう。」と。だが、人間精神から抽象を除き、それを抽象に過ぎないと考えることは困難であり、この欠点は哲学体系の大多数の根に存在する。現代において賞賛されているヘーゲルやその他にも、幾分言葉は異なるにしろ、同じ特徴が残っていることを学べば、アナクシマンドロスの間違いに対してある種寛容の心を抱く助けとなるかもしれない。彼らは創造は神が活動することによって起こり、その行為によって尽きることはないという。別の言葉で言えば、創造は神のごく日常的なありかたである。有限な事物は永遠な運動、全体のあらわれに過ぎない。
アナクシマンドロスは抽象に具体的なものよりもより高次の意味を与えることによってタレスと自分を区別した。この傾向において、我々はしばしば数学学派と呼ばれるピタゴラス派の起源を見る。タレスの思弁は宇宙の物質的構成を発見することに向けられていた。それらはいかに帰納が不完全なものだろうと、観察された事実からの帰納によってある程度見いだされた。アナクシマンドロスの思弁は完全に演繹的である。そして、そうしたものとして、純粋な演繹の科学である数学に向けられていた。
この数学的傾向の一例として、我々は彼の物理的考えを例に引くことができる。宇宙の起源の中心的な点は地球にある。というのも、底部と高さが1:3の円筒となっており、中心部は世界の果てまでの等しい距離によって支えられているからである。
上述の説明から、読者はアナクシマンドロスをタレスの後継者と位置づける一般的な歴史的議論の妥当性を判断できるだろう。彼が思弁的探求の偉大な系列の一つから現れ、その系列はおそらく古代を通じても最も風変わりなものだったことは明らかである。タレスにとって、万物の根源である水は実在の物理的要素として捉えられていたが、後継者たちには徐々に、まったく異なったもの(生命あるいは精神)の代表的な証票でしかなくなった。そして、代表として名を貸しているその要素は、それが標章である一次的力から派生した二次的な現象と見なされるようになった。水はタレスにとっては真の一次的要素だった。ディオゲネスでは、水は(それ以前に空気に取って代わられていたが)精神の標章に過ぎなかった。アナクシマンドロスの全体は、抽象的であるが、にもかかわらず、多くの点で物理的である。それはすべての事物である。彼の無限の概念は観念的なものではない。それは象徴の状態に移ることはなかった。それは単に存在の一次的な事実の記述であった。とりわけ、日常的な有限な事物を例外として、知性の概念を含んでいなかった。彼の先験的なものとは無限の存在であり、無限の精神ではなかった。このことの後の発展は、エレア派においてみることになろう。
2017年12月18日月曜日
アポロニアのディオゲネス――ルイス『哲学史列伝』
§III.アポロニアのディオゲネス
アポロニアのディオゲネスは、無批判的に師の説を採用したことで、自分の時代を形成しなかったが、アナクシメネスの正統な後継者である。かくして、テンネマンは彼をピタゴラスの後に置いた。ヘーゲルは、奇妙な見逃しによって、ディオゲネスについては名前以外に何も知らないといっている。
ディオゲネスはクレタのアポロニアに生まれた。それ以上確かなことはいうことはできない。しかし、アナクサゴラスの同時代人だといわれているので、80回オリンピア(紀元前460年)の頃に全盛を迎えたと推定できる。彼の作品『自然について』はシンプリキウスの時代(六世紀)には存在していて、いくつかの文章が書き抜かれている。
ディオゲネスは事物の起源が空気であるというアナクシメネスの説を採用している。しかし、彼は魂との類推により惹かれ、より大きく深い意味を与えている。*この類推の力によって、彼は究極的なところまで結論を推し進めた。空気を事物の起源たらしめているのは何であろうか、と彼は自問した。明らかにその生命力である。空気は魂である。それゆえ、それは生きており、知性を持っている。しかし、この力、あるいは知性は空気よりも高次の存在であり、空気を通じて自らの姿を現す。結果的に時間の点に先行したものでなければならない。それは哲学者が探していた実体であるはずである。宇宙は自発的に進化し、生命力によって変容する生きた存在である。
*魂によって、我々は現代的な意味における精神よりも、むしろもっとも一般的な意味における生命と理解するべきである。かくして、アリストテレスの魂についての論考は、精神を含んだ生命原理に関するものであり、心理学的論考ではない。
この考えにおいて、二つの顕著な点があり、どちらも考察の大きな進歩を示している。第一に、αρχη第一実体が与える知性という属性である。アナクシメネスは第一実体を生気のある実体だと考えた。彼の体系では、空気は生命であるが、生命は必然的に知性を含むわけではない。ディオゲネスは生命は力であるのみならず、知性だとみた。彼のなかにかき立てられた空気は刺激するだけではなく、教え導くものでもある。あらゆる事物の起源である空気は必然的に永久で、破壊し得ない実体である。そして、魂として、必然的に意識も備わっている。「それは多くを知っており」、この知識が第一実体であることのもう一つの証拠である。「というのも、理性なしには」と彼はいう、「すべてを適切に、均衡をもって配列することが不可能である。そして我々がどんな対象を考えようと、最良に、最も美しいやり方で配列され秩序づけられているのが見いだされるだろう。」秩序は知性から生じうる。それゆえ、魂が第一にある。この考えは間違いなく偉大なものである。しかし、読者はその重要性を過大評価し、ディオゲネスの残りの教えも同じように、正当で深遠なものだと思わないように、また、歴史的真理を守るためにも、この考えの適用の仕方にも言及しなければならない。つまり、
生命ある統一体である世界は他の個体のように、生命力を全体から引き出さねばならない。それゆえ、彼は世界に呼吸器官に当たるものを与え、それを星々にも発見したと空想した。あらゆる創造と物質的運動は呼吸の作用でしかない。水分が太陽に引かれ、鉄が磁石に引かれるように、呼吸の過程を同じように見た。人間が獣より知性において優れているのは、地面に顔を垂れている獣よりも人間のほうがより純粋な空気を吸っているからである。
現象を説明しようとするこうした素朴な試みを見れば、ディオゲネスが大きい一歩を踏み出してはいたが、旅を達成するにはほど遠いことがわかるだろう。
彼の体系の第二の顕著な点は、タレスが開いた探求の道を閉じたそのやり方にある。四要素のひとつが世界の起源であるという確信から出発したタレスは、水をその要素だとし、アナクシメネスはそれに続き、空気が水よりもより普遍的な要素であるばかりか、それは生命でもあり、普遍的な生命に違いないとした。それに続いたディオゲネスは、空気は生命であるばかりではなく知性でもあり、知性が事物の最初であるに違いないとした。
それゆえ我々はリッターとともに、物理学的な方法を用いた哲学者としてはディオゲネスが最後だとすることに一致する。彼の体系において、この方法はその達成を見た。かくして、思索の大きな流れをたどってきた我々は、同時期に別の方向に進化を遂げたものたちに目を向けねばならない。
アポロニアのディオゲネスは、無批判的に師の説を採用したことで、自分の時代を形成しなかったが、アナクシメネスの正統な後継者である。かくして、テンネマンは彼をピタゴラスの後に置いた。ヘーゲルは、奇妙な見逃しによって、ディオゲネスについては名前以外に何も知らないといっている。
ディオゲネスはクレタのアポロニアに生まれた。それ以上確かなことはいうことはできない。しかし、アナクサゴラスの同時代人だといわれているので、80回オリンピア(紀元前460年)の頃に全盛を迎えたと推定できる。彼の作品『自然について』はシンプリキウスの時代(六世紀)には存在していて、いくつかの文章が書き抜かれている。
ディオゲネスは事物の起源が空気であるというアナクシメネスの説を採用している。しかし、彼は魂との類推により惹かれ、より大きく深い意味を与えている。*この類推の力によって、彼は究極的なところまで結論を推し進めた。空気を事物の起源たらしめているのは何であろうか、と彼は自問した。明らかにその生命力である。空気は魂である。それゆえ、それは生きており、知性を持っている。しかし、この力、あるいは知性は空気よりも高次の存在であり、空気を通じて自らの姿を現す。結果的に時間の点に先行したものでなければならない。それは哲学者が探していた実体であるはずである。宇宙は自発的に進化し、生命力によって変容する生きた存在である。
*魂によって、我々は現代的な意味における精神よりも、むしろもっとも一般的な意味における生命と理解するべきである。かくして、アリストテレスの魂についての論考は、精神を含んだ生命原理に関するものであり、心理学的論考ではない。
この考えにおいて、二つの顕著な点があり、どちらも考察の大きな進歩を示している。第一に、αρχη第一実体が与える知性という属性である。アナクシメネスは第一実体を生気のある実体だと考えた。彼の体系では、空気は生命であるが、生命は必然的に知性を含むわけではない。ディオゲネスは生命は力であるのみならず、知性だとみた。彼のなかにかき立てられた空気は刺激するだけではなく、教え導くものでもある。あらゆる事物の起源である空気は必然的に永久で、破壊し得ない実体である。そして、魂として、必然的に意識も備わっている。「それは多くを知っており」、この知識が第一実体であることのもう一つの証拠である。「というのも、理性なしには」と彼はいう、「すべてを適切に、均衡をもって配列することが不可能である。そして我々がどんな対象を考えようと、最良に、最も美しいやり方で配列され秩序づけられているのが見いだされるだろう。」秩序は知性から生じうる。それゆえ、魂が第一にある。この考えは間違いなく偉大なものである。しかし、読者はその重要性を過大評価し、ディオゲネスの残りの教えも同じように、正当で深遠なものだと思わないように、また、歴史的真理を守るためにも、この考えの適用の仕方にも言及しなければならない。つまり、
生命ある統一体である世界は他の個体のように、生命力を全体から引き出さねばならない。それゆえ、彼は世界に呼吸器官に当たるものを与え、それを星々にも発見したと空想した。あらゆる創造と物質的運動は呼吸の作用でしかない。水分が太陽に引かれ、鉄が磁石に引かれるように、呼吸の過程を同じように見た。人間が獣より知性において優れているのは、地面に顔を垂れている獣よりも人間のほうがより純粋な空気を吸っているからである。
現象を説明しようとするこうした素朴な試みを見れば、ディオゲネスが大きい一歩を踏み出してはいたが、旅を達成するにはほど遠いことがわかるだろう。
彼の体系の第二の顕著な点は、タレスが開いた探求の道を閉じたそのやり方にある。四要素のひとつが世界の起源であるという確信から出発したタレスは、水をその要素だとし、アナクシメネスはそれに続き、空気が水よりもより普遍的な要素であるばかりか、それは生命でもあり、普遍的な生命に違いないとした。それに続いたディオゲネスは、空気は生命であるばかりではなく知性でもあり、知性が事物の最初であるに違いないとした。
それゆえ我々はリッターとともに、物理学的な方法を用いた哲学者としてはディオゲネスが最後だとすることに一致する。彼の体系において、この方法はその達成を見た。かくして、思索の大きな流れをたどってきた我々は、同時期に別の方向に進化を遂げたものたちに目を向けねばならない。
2017年12月17日日曜日
トポロジー的身体――立川談志『あたま山』
[立川談志のものが名演だというわけではないが、まだ頭をくらくらさせるような『あたま山』を聞いたことがないので。]
武藤禎夫編『江戸小咄事典』によれば、『あたま山』のもとになっているのは安永二年の『口拍子』にある小咄だという。先に『あたま山』の筋をいうと、けちん坊がもったいないからとサクランボの種まで飲み込んでしまう。すると頭のてっぺんに桜の木が育ち、満開の桜の花が咲く。花見客が大勢訪れ、どんちゃん騒ぎやら喧嘩やらうるさくて仕方がない。そこで桜の木を引っこ抜いてしまった。ところがそこにできた穴に水がたまり、池となり魚が棲むようになる。今度は釣り客が集まり、船を出すわ網を打つわで、これまたうるさくてしょうがない。そこでこの男世をはかなんで自分の頭の池に身を投げてしまった。
小咄の方はこうである。神田にお玉が池があるが、実はあたまの池である。昔、この辺りに棲んでいた男のあたまに池ができて、鮒や金魚が棲むようになる。珍しいといって遠近から群衆が集るようになった。息子は外聞も悪いし、見物の来ないようにしたいから、山の手からあたまの池を拝見に参りました、という人に向かい、せっかくですが、世上の沙汰がいやになり、夜前、あたまの池へ身を投げました。
お玉が池は、かつての神田松枝町(昭和四十年代の初めまでこの町名があった)、いまの岩本町にある地名で、神田駅の東、秋葉原駅の南に位置する。江戸時代の初めには実際にお玉が池という池があったというが、三代将軍家光の寛永年間には既にその存在が不明となっているという。それ以前は桜ヶ池と呼ばれていたその池の池畔の茶屋にお玉という看板娘がいたが、二人の男に言い寄られ、どちらとも決めかねるままに池に身を投じてしまった。それからお玉が池と呼ばれるようになったという。
つまり、この噺は、「お玉が池」と「あたまの池」というごくくだらない駄洒落の発想から生まれたのだ。また、この小咄には『徒然草』第四十五段からのヒントもあるという。良覚という怒りっぽい僧正があった。坊の近くに大きな榎木があったので、「榎木の僧正」と呼ばれた。そのあだ名は面白くないと、榎木を切り倒してしまった。だが、切り株が残っていたので今度は「きりくひの僧正」と呼ばれる。ますます腹が立つので切り株を掘り起こして捨ててしまった。その跡に今度な大きな堀ができたので「堀池僧正」と呼ばれるようになった、という話だ。
より落語に近い類話もある。安永二年の『坐笑産』にある「梅の木」では、道楽者と信心深い二人の浪人が隣り合わせに住んでおり、信心深い男の頭に見事な梅が咲き乱れる。多くの見物人が訪れ、敷物代で大いに儲かる。それを嫉んだ隣りの浪人が、夜中忍び込むと梅の木を根こぎにして盗んでしまう。盗まれた浪人はがっかりするが、やがてその穴が池となり金魚が湧きでるようになる。隣りの浪人、再び忍び入り、煙草のヤニを投じ金魚をすべて殺してしまう。浪人はいよいよがっかりして、家主のおかみさんに頭の池に身を投げることを告げる。自分の頭にどうやって身を投げられるものか、とおかみさんに言われた浪人は、「イヤその儀も工夫致しおいた。お世話ながら煙管筒を仕立てるやうに、足から引つくり返して下され」と答える。自分の頭の池に身を投げる方法が説かれているのがいちばん大きい。煙管筒とは、その名の通り煙管を入れる筒で、通常刻み煙草を入れるための袋と対になっている。煙管筒は木製のものが多いが、布製や革製の場合、細長く縫い合わせた袋状のものを最後にひっくり返すことになる。それを「煙管筒を仕立てるやうに」と表現したのだろう。
川戸貞吉の『落語大百科』によれば、典型的な小咄である「あたま山」を一席の落語として演じたのは、八代目林家正蔵だけだったそうだ。正蔵はサゲの自分の頭に身を投げる方法について、紐を縫うとき、最初は針目を上にして、それから物差しをあてがってひっくり返す、それと同じで、頭の池にめくり込めばみんな入っちゃう、と説明した。
アカデミー賞短編アニメーション部門にもノミネートされた山村浩二の『頭山』(2002年)では、釣り客や水遊びをする者たちの騒ぎに耐えきれなくなった男が夜のなかをさまよっていると、池に行き当たり、その池を覗き込むことがあたま池を覗き込むことでもあって、合わせ鏡の間に身を置いたように、無限の反復に捕らわれるというような解釈になっていた。しかし、この解釈は私には疑問だった。『あたま山』の最後の面白さとは、トポロジーの面白さであって、無限の生みだす面白さとは自ずから性質が異なっていると思われるからである。
2017年12月15日金曜日
アナクシメネス――ルイス『哲学史列伝』
§II.アナクシメネス
アナクシマンドロスは、多くの歴史家によって、タレスよりも後の人だとされている。我々はリッターとともに、その場所をアナクシマンドロスに与えることに同意する。我々がこの順番を基礎にする理由は、第一に、そうすることによって我々はもっとも安全な案内役、アリストテレスに従うことができるからである。第二に、アナクシマンドロスの教義は、タレスのものの発展だからである。アナクシマンドロスはまったく異なった思弁に従っているが。実際、イオニア学派の通常のあり方としては、弟子は師匠に反対するだけでなく、師匠の先生の教義に立ち戻るのだった。かくして、アナクシマンドロスは、正反対の考えだったが、タレスを引き継いだ。そして、アナクシメネスはタレスの原則を実行して、アナクシマンドロスの弟子になった。212年の間、つまり六、七世代の間に、4人のもの、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス、アナクサゴラスが教師と弟子の関係にあったといえば、読者も伝統を継承する関係の価値が評価できるだろう。
本当は、哲学の偉大な先導者の名前だけが守る価値がある。教えを応用したり拡大しただけのものは、忘却にゆだねられるべきである。それはまた、現在歴史が構成される際の原則でもある。それゆえ、アナクシメネスをタレスの次に置いたからといって非難するものはいないだろう。彼の弟子だからではなく、歴史的な後継者としてである。タレスとその弟子たちが残した思弁をより発展した形で後継者に伝えたからである。
アナクシメネスの生涯で知られているのは、おそらくは63回オリンピアの際(紀元前529年)ミレトスで生まれ、58回オリンピアのときだというものもあるが、正確に日付を決定することはできない。日時計によって日食の黄道傾斜角を発見したと言われている。
タレスの方法を追求し、彼は自分の教義の真理に満足できなくなった。水は彼にとってはもっとも意味深い要素ではなかった。彼は自分の内部に、どうしてだか、またなぜだかわからないが、彼を動かすものを感じた。それは彼よりも高次のものだった。目に見えないがずっと存在していた。それを彼は生命と名付けた。その生命は空気だと信じられた。内部ばかりでなく、外部においても、常に動き、常に存在するのが目に見えない空気ではないか。空気が内部にあるときには生命と呼ばれ、それは彼がいなくとも空気の一部なのではないか。もしそうなら、この空気こそが事物の始まりではないか。
彼は周囲を見回し、自分の推測が肯定されると考えた。空気は普遍的なものであるようだ。*地上は幅広く、草が生い茂っている。あらゆるものはそこから生み出された。あらゆるものがそこで分解する。息をすると、普遍的な生命の一部を取り込むことになる。あらゆるものは我々と同様空気によって養われている。
*アナクシメネスが空気について語るとき、タレスが水について語る場合のように、それらの要素を地上であらわれるときのあれこれの限定的な形で理解するべきではなく、エネルギーに満ち、無限の変化が可能な生命力に満ちたものとして捉えるべきである。
古代人の多くにとってと同じように、アナクシメネスには、吸って吐かれる空気はまさしく生命の流れであり、身体を構成する異質な実体をまとめ上げ、それらに統一ばかりでなく、力、生命力を与える。生きている世界についての信念――つまり、有機体としての宇宙――は非常に古いもので、個人の生から普遍的な生へ一般化したアナクシメネスは、どちらも空気に依存するのだとした。多くの点でこれはタレスの教えより進んでおり、読者は現代科学との一致を見いだして喜ぶかもしれない。デュマのような厳粛な化学者は「植物と動物は空気から生じ、空気が凝縮したものではないが、空気によって生き、そこに帰って行く」というかもしれないし、リービッグは『化学書簡』のよく知られた一節で、同じ考えを雄弁に表現している。
アナクシマンドロスは、多くの歴史家によって、タレスよりも後の人だとされている。我々はリッターとともに、その場所をアナクシマンドロスに与えることに同意する。我々がこの順番を基礎にする理由は、第一に、そうすることによって我々はもっとも安全な案内役、アリストテレスに従うことができるからである。第二に、アナクシマンドロスの教義は、タレスのものの発展だからである。アナクシマンドロスはまったく異なった思弁に従っているが。実際、イオニア学派の通常のあり方としては、弟子は師匠に反対するだけでなく、師匠の先生の教義に立ち戻るのだった。かくして、アナクシマンドロスは、正反対の考えだったが、タレスを引き継いだ。そして、アナクシメネスはタレスの原則を実行して、アナクシマンドロスの弟子になった。212年の間、つまり六、七世代の間に、4人のもの、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス、アナクサゴラスが教師と弟子の関係にあったといえば、読者も伝統を継承する関係の価値が評価できるだろう。
本当は、哲学の偉大な先導者の名前だけが守る価値がある。教えを応用したり拡大しただけのものは、忘却にゆだねられるべきである。それはまた、現在歴史が構成される際の原則でもある。それゆえ、アナクシメネスをタレスの次に置いたからといって非難するものはいないだろう。彼の弟子だからではなく、歴史的な後継者としてである。タレスとその弟子たちが残した思弁をより発展した形で後継者に伝えたからである。
アナクシメネスの生涯で知られているのは、おそらくは63回オリンピアの際(紀元前529年)ミレトスで生まれ、58回オリンピアのときだというものもあるが、正確に日付を決定することはできない。日時計によって日食の黄道傾斜角を発見したと言われている。
タレスの方法を追求し、彼は自分の教義の真理に満足できなくなった。水は彼にとってはもっとも意味深い要素ではなかった。彼は自分の内部に、どうしてだか、またなぜだかわからないが、彼を動かすものを感じた。それは彼よりも高次のものだった。目に見えないがずっと存在していた。それを彼は生命と名付けた。その生命は空気だと信じられた。内部ばかりでなく、外部においても、常に動き、常に存在するのが目に見えない空気ではないか。空気が内部にあるときには生命と呼ばれ、それは彼がいなくとも空気の一部なのではないか。もしそうなら、この空気こそが事物の始まりではないか。
彼は周囲を見回し、自分の推測が肯定されると考えた。空気は普遍的なものであるようだ。*地上は幅広く、草が生い茂っている。あらゆるものはそこから生み出された。あらゆるものがそこで分解する。息をすると、普遍的な生命の一部を取り込むことになる。あらゆるものは我々と同様空気によって養われている。
*アナクシメネスが空気について語るとき、タレスが水について語る場合のように、それらの要素を地上であらわれるときのあれこれの限定的な形で理解するべきではなく、エネルギーに満ち、無限の変化が可能な生命力に満ちたものとして捉えるべきである。
古代人の多くにとってと同じように、アナクシメネスには、吸って吐かれる空気はまさしく生命の流れであり、身体を構成する異質な実体をまとめ上げ、それらに統一ばかりでなく、力、生命力を与える。生きている世界についての信念――つまり、有機体としての宇宙――は非常に古いもので、個人の生から普遍的な生へ一般化したアナクシメネスは、どちらも空気に依存するのだとした。多くの点でこれはタレスの教えより進んでおり、読者は現代科学との一致を見いだして喜ぶかもしれない。デュマのような厳粛な化学者は「植物と動物は空気から生じ、空気が凝縮したものではないが、空気によって生き、そこに帰って行く」というかもしれないし、リービッグは『化学書簡』のよく知られた一節で、同じ考えを雄弁に表現している。
2017年12月14日木曜日
タレス――ルイス『哲学史列伝』
ルイスはしばしばボルヘスがエッセイで言及している。
第一部 古代哲学
第一時代 宇宙の本性についての思弁
第一章 物理学者
§1.タレス
その生涯の出来事、哲学の正確な教義は神秘に包まれ、伝説の領域に属しているが、にもかかわらず、タレスはギリシャの思弁の父祖にあたると正当に考えられる。彼は一時代をつくった。ギリシャ哲学の礎石を置いた。彼の踏みだした一歩は小さなものだったが、決定的だった。従って、ほんの僅かの教義しか残っていないにしても、そしてそれが断片的で、不整合なものだろうと、我々はある程度の確かさで、語ることができる程度にはその教えの一般的方向を知っている。
タレスは小アジアのギリシャ植民地であるミレトスで生まれた。生まれたときはきわめて疑わしい。しかし、36回目のオリンピアの最初の年(紀元前636年)が一般的に正確だと受け入れられている。彼はフェニキア人のなかでももっとも著名な一族の一員で、政治的要職のすべてを務めた――それは市民たちからの高い声望から来たものだった。彼の政治での精力的な活動は、プラトンによって描きだされたその生涯を孤独と瞑想に送ったという言い伝えに反するものとして、孤独を愛することは政治的な活動の根拠を疑問にふすものとして、後の作者たちには否定されている。両者は完全に両立可能であると思える。瞑想は行動的人間に必ずしも合わないわけではない。活動的な生活を送ったからといって、瞑想のためにまったく時間が残されていないわけではない。賢人は行動する前に瞑想によって自分を強くすることもあるだろう。自分の見解の真理を検証するために行動することもあろう。
ミトレスはギリシャの植民地のなかでももっとも繁栄していた。当時はまだペルシアやリディアによる束縛もなかったので、精神の発達にはこの上ない条件が整っていた。海路、陸路による通商は莫大なものだった。政治制度は個人の発達にもっとも素晴らしい機会を与えた。タレスは生まれつき、また教育によって、定着し、十分な根拠があっていわれているわけではないが、研究を完成させるためにエジプトやクレタに旅をすることもなかっただろう。そうした推測の唯一の根拠は、タレスが数学的知識に堪能だったという事実である。ヘロドトスに見られるように、歴史の最初期から、ほとんどあらゆる知識がエジプトに起源をもつことは流行のようなものだった。そうすると、旅行の途中で、ピラミッドの高さをその影によって示してエジプト人を驚かせたという話にはほとんど信頼性はないことになる。もっとも単純な数学上の問題で容易に驚くような国民が、教えることのできるものなどほとんどなにもないだろう。おそらく、彼がエジプトに旅をしなかったというもっとも強力な証拠――あるいは、旅をしたとしても、司祭たちと会話はしなかっただろう――は、タレスの哲学のなかに、自国にいたら見いだせないようなエジプトの教義がまったく欠けているという点にある。
第一の時期におけるイオニア学派の際だった特徴は、タレスがはじめた宇宙の成り立ちに対する問いかけにある。「タレスはあらゆる事物の原理は水にあると教えた」と通常いわれている。一見すると、これは単なる突飛な考えに思えるだろう。あわれみの笑いをもって迎えられ、そんなばかげたことは受け入れられないと思われることだろう。しかし、まじめな学生なら、先人の説を単に馬鹿馬鹿しいとして非難を急ぐことはあるまい。哲学の歴史は間違いの歴史かもしれない。しかし、愚劣さの歴史ではない。受け入れられたあらゆる体系は豊かな意味をもっており、そうでなければ受け入れられなかっただろう。その意味は時代の尺度に見合ったものであり、そうしたものとして考察の価値がある。タレスは歴史上でももっとも非凡なひとりであり、非凡な革命を行った。そうした人間が子供でも反駁するような哲学を発言したとは思えない。少なくとも彼にとっては、その考えには深い意味があった。とりわけ、事物の起源を発見する試みにおいては深い意味合いをもっていた。彼の考えの意味するところを考察してみよう。彼の精神のなかでそれがどのように生じ、育っていったか、たどれないものか見てみよう。
想像しうるあらゆる多様性を一つの原理に還元するのは哲学的精神に特徴的なことである。多神論が一神論に還元されるのが宗教的考察の避けられない傾向であるように――すべての超自然的な力が一つの表現へと一般化される――あらゆる可能な存在の様態がひとつの存在そのものに一般化されるのが初期の哲学的思弁の傾向だった。
宇宙の成り立ちを考えたタレスは、一つの原理――初源的な事実――すべての特殊な存在がその様態に過ぎないような実体を発見するよう努めざるを得なかった。周囲を見回すと常に変容が――誕生と死、形、大きさ、存在のあり方の変化――あり、その存在のありようを一つの存在と見なすことはできなかった。それゆえ彼は自問した、常に変化がある状態で、変わることのない存在とはなんだろうか。一言で言えば、事物のはじまりとはなんであろうか。
こう問うことは、哲学探究の時代を開くことだった。それまでは、自分が見いだした世界を受け入れることで満足していた。見たものを信じ、見ることができないものを崇拝していた。
タレスは、事物のはじまりに関して答えることがきわめて重大な問題だと感じていた。周囲を観察し、瞑想をした結果、水分こそがはじまりだと確信するにいたった。
彼は地球の成り立ちを検証するという考えにとらわれた。至る所に水分を見いだした。彼が見たすべてのものは水分によって養われていた。暖かさそのものが水分の働きによって生まれたものだった。水は凝縮されると地表となった。水が普遍的に存在することが確信されたので、彼はそれを事物の始まりだと宣言した。
タレスは容易にこの考えを古代のものの見方と調和させることができた。たとえば、ヘシオドスの『神統記』では、オーケアノスとテーテュースが自然に関係する神々の親だとされていた。「彼は現代科学が『創世記』に行ったことを当時の一般的な宗教について行ったことになろう。以前には謎であったことを説明したのである。」
このことによってタレスは哲学に地歩を占めた。アリストテレスは、彼を、神話の助けを借りずに、初めて物理的な始まりを確立しようとした人物だと呼んだ。結果的に彼は現代の作家たちによって無神論者として責められている。しかし、無神論はずっと後になって発達したものであり、タレスにその名を負わせるとしたら、アリストテレスの沈黙という否定的な証拠しか、つまり、タレスが水よりも深く、また水より先んじて信じていたり、また信じていないことがあったら、アリストテレスが黙っているはずはないという推測によるのである。水はすべてのものの始まりだった。タレスの時代から遠く離れて影響を受けたり与えたりしていたキケロが、彼は「水をすべての始まりだとし、神は水から事物を創造する精神である」と言うとき、アナクロニズムに陥っている。我々はヘーゲルとともに、タレスは知性としての神の概念を持てなかったとするが、それはより進んだ哲学の概念だからである。造形的な知性、あるいは創造的力の概念があったかどうかも疑われる。アリストテレスははっきりと、古代の物理学者たちは物質とそれを動かす原理、あるいはそれを生み出す原因と区別していたことを否定している。さらには、造形的な知性という考えに最初に到達したのはアナクサゴラスだと付け加えている。タレスは神々を、神々の系譜を信じていた。他のものと同じく、彼らも水に起源をもっていた。それが何を意味するのであれ、これは無神論ではない。彼がすべての事物が生きており、世界が霊や神々で充満していると理解していたのが本当だとしても、それは起源、出発点、第一存在としての水分に矛盾しているものではない。
しかしながら、無批判的な伝統のなかで、断片しか残っていない思想家の見解を議論しても無益なことである。我々が確実に知っているのは、タレスが二つのことでもたらした影響である。――第一に、始まりを、あらゆる事物の第一物質を発見すること。第二に、もっとも潜在能力があり、偏在する要素を選択すること。人間精神の歴史を知悉すると、両者がまったく新しい時代においても意味深いものであることがわかる。
第一部 古代哲学
第一時代 宇宙の本性についての思弁
第一章 物理学者
§1.タレス
その生涯の出来事、哲学の正確な教義は神秘に包まれ、伝説の領域に属しているが、にもかかわらず、タレスはギリシャの思弁の父祖にあたると正当に考えられる。彼は一時代をつくった。ギリシャ哲学の礎石を置いた。彼の踏みだした一歩は小さなものだったが、決定的だった。従って、ほんの僅かの教義しか残っていないにしても、そしてそれが断片的で、不整合なものだろうと、我々はある程度の確かさで、語ることができる程度にはその教えの一般的方向を知っている。
タレスは小アジアのギリシャ植民地であるミレトスで生まれた。生まれたときはきわめて疑わしい。しかし、36回目のオリンピアの最初の年(紀元前636年)が一般的に正確だと受け入れられている。彼はフェニキア人のなかでももっとも著名な一族の一員で、政治的要職のすべてを務めた――それは市民たちからの高い声望から来たものだった。彼の政治での精力的な活動は、プラトンによって描きだされたその生涯を孤独と瞑想に送ったという言い伝えに反するものとして、孤独を愛することは政治的な活動の根拠を疑問にふすものとして、後の作者たちには否定されている。両者は完全に両立可能であると思える。瞑想は行動的人間に必ずしも合わないわけではない。活動的な生活を送ったからといって、瞑想のためにまったく時間が残されていないわけではない。賢人は行動する前に瞑想によって自分を強くすることもあるだろう。自分の見解の真理を検証するために行動することもあろう。
ミトレスはギリシャの植民地のなかでももっとも繁栄していた。当時はまだペルシアやリディアによる束縛もなかったので、精神の発達にはこの上ない条件が整っていた。海路、陸路による通商は莫大なものだった。政治制度は個人の発達にもっとも素晴らしい機会を与えた。タレスは生まれつき、また教育によって、定着し、十分な根拠があっていわれているわけではないが、研究を完成させるためにエジプトやクレタに旅をすることもなかっただろう。そうした推測の唯一の根拠は、タレスが数学的知識に堪能だったという事実である。ヘロドトスに見られるように、歴史の最初期から、ほとんどあらゆる知識がエジプトに起源をもつことは流行のようなものだった。そうすると、旅行の途中で、ピラミッドの高さをその影によって示してエジプト人を驚かせたという話にはほとんど信頼性はないことになる。もっとも単純な数学上の問題で容易に驚くような国民が、教えることのできるものなどほとんどなにもないだろう。おそらく、彼がエジプトに旅をしなかったというもっとも強力な証拠――あるいは、旅をしたとしても、司祭たちと会話はしなかっただろう――は、タレスの哲学のなかに、自国にいたら見いだせないようなエジプトの教義がまったく欠けているという点にある。
第一の時期におけるイオニア学派の際だった特徴は、タレスがはじめた宇宙の成り立ちに対する問いかけにある。「タレスはあらゆる事物の原理は水にあると教えた」と通常いわれている。一見すると、これは単なる突飛な考えに思えるだろう。あわれみの笑いをもって迎えられ、そんなばかげたことは受け入れられないと思われることだろう。しかし、まじめな学生なら、先人の説を単に馬鹿馬鹿しいとして非難を急ぐことはあるまい。哲学の歴史は間違いの歴史かもしれない。しかし、愚劣さの歴史ではない。受け入れられたあらゆる体系は豊かな意味をもっており、そうでなければ受け入れられなかっただろう。その意味は時代の尺度に見合ったものであり、そうしたものとして考察の価値がある。タレスは歴史上でももっとも非凡なひとりであり、非凡な革命を行った。そうした人間が子供でも反駁するような哲学を発言したとは思えない。少なくとも彼にとっては、その考えには深い意味があった。とりわけ、事物の起源を発見する試みにおいては深い意味合いをもっていた。彼の考えの意味するところを考察してみよう。彼の精神のなかでそれがどのように生じ、育っていったか、たどれないものか見てみよう。
想像しうるあらゆる多様性を一つの原理に還元するのは哲学的精神に特徴的なことである。多神論が一神論に還元されるのが宗教的考察の避けられない傾向であるように――すべての超自然的な力が一つの表現へと一般化される――あらゆる可能な存在の様態がひとつの存在そのものに一般化されるのが初期の哲学的思弁の傾向だった。
宇宙の成り立ちを考えたタレスは、一つの原理――初源的な事実――すべての特殊な存在がその様態に過ぎないような実体を発見するよう努めざるを得なかった。周囲を見回すと常に変容が――誕生と死、形、大きさ、存在のあり方の変化――あり、その存在のありようを一つの存在と見なすことはできなかった。それゆえ彼は自問した、常に変化がある状態で、変わることのない存在とはなんだろうか。一言で言えば、事物のはじまりとはなんであろうか。
こう問うことは、哲学探究の時代を開くことだった。それまでは、自分が見いだした世界を受け入れることで満足していた。見たものを信じ、見ることができないものを崇拝していた。
タレスは、事物のはじまりに関して答えることがきわめて重大な問題だと感じていた。周囲を観察し、瞑想をした結果、水分こそがはじまりだと確信するにいたった。
彼は地球の成り立ちを検証するという考えにとらわれた。至る所に水分を見いだした。彼が見たすべてのものは水分によって養われていた。暖かさそのものが水分の働きによって生まれたものだった。水は凝縮されると地表となった。水が普遍的に存在することが確信されたので、彼はそれを事物の始まりだと宣言した。
タレスは容易にこの考えを古代のものの見方と調和させることができた。たとえば、ヘシオドスの『神統記』では、オーケアノスとテーテュースが自然に関係する神々の親だとされていた。「彼は現代科学が『創世記』に行ったことを当時の一般的な宗教について行ったことになろう。以前には謎であったことを説明したのである。」
このことによってタレスは哲学に地歩を占めた。アリストテレスは、彼を、神話の助けを借りずに、初めて物理的な始まりを確立しようとした人物だと呼んだ。結果的に彼は現代の作家たちによって無神論者として責められている。しかし、無神論はずっと後になって発達したものであり、タレスにその名を負わせるとしたら、アリストテレスの沈黙という否定的な証拠しか、つまり、タレスが水よりも深く、また水より先んじて信じていたり、また信じていないことがあったら、アリストテレスが黙っているはずはないという推測によるのである。水はすべてのものの始まりだった。タレスの時代から遠く離れて影響を受けたり与えたりしていたキケロが、彼は「水をすべての始まりだとし、神は水から事物を創造する精神である」と言うとき、アナクロニズムに陥っている。我々はヘーゲルとともに、タレスは知性としての神の概念を持てなかったとするが、それはより進んだ哲学の概念だからである。造形的な知性、あるいは創造的力の概念があったかどうかも疑われる。アリストテレスははっきりと、古代の物理学者たちは物質とそれを動かす原理、あるいはそれを生み出す原因と区別していたことを否定している。さらには、造形的な知性という考えに最初に到達したのはアナクサゴラスだと付け加えている。タレスは神々を、神々の系譜を信じていた。他のものと同じく、彼らも水に起源をもっていた。それが何を意味するのであれ、これは無神論ではない。彼がすべての事物が生きており、世界が霊や神々で充満していると理解していたのが本当だとしても、それは起源、出発点、第一存在としての水分に矛盾しているものではない。
しかしながら、無批判的な伝統のなかで、断片しか残っていない思想家の見解を議論しても無益なことである。我々が確実に知っているのは、タレスが二つのことでもたらした影響である。――第一に、始まりを、あらゆる事物の第一物質を発見すること。第二に、もっとも潜在能力があり、偏在する要素を選択すること。人間精神の歴史を知悉すると、両者がまったく新しい時代においても意味深いものであることがわかる。
2017年12月13日水曜日
明治の学者についての柳田国男の説――桑原武夫『時のながれ』
学問を支えるもの
1.明治の学者とそれ以後の学者との断絶についての柳田國男の説。これは読んだときにびっくりしてしまった。生きた「もの」が失われたということには、非常に説得力があるが、孝行心と書くことを結びつけたことのない私は陥没地帯に落ち込んだようで、しかし、こう言ってしまうと、それも「宙に浮いた観念」に過ぎず、「糸車」が観念を収斂する「もの」として見事な働きをしている。
それは正しい、自分も君と全く同感だ、と言下に答えられたので、それでは
その理由は何でしょうか、と重ねて聞くと、先生はこれも直ちに答えられた―
―孝行という考えがなくなったからです。
私はびっくりして、それは一たいどういうわけですか、と伺うと、先生は大
よそ次のような意味のことをいわれた。
明治初期に生れた学者は、忠義はともかく、孝行ということだけは疑わなか
った。自分なども『孝経』は今でも暗誦できる。東京へ出て勉強していても、
故郷に学問成就を待ちわびている父母のことは、夢にも忘れることがなかっ
た。人間には誰しも怠け心があり、酒をのみに行きたい、女と遊びたいという
気も必ずおこるのだが、そのとき眼頭にうかぶのが自分の学費をつむぎ出そう
とする老いたる母の糸車で、それは現実的な、生きた「もの」である。ところ
が、私たち以後の人々は、儒教を知的には理解していても、もはやそれを心そ
のものとはしていない。学問は何のためにするのか、××博士などは恐らく、
真理のため、世界文化のため、あるいは国家のためなどというだろうが、それ
らは要するに「もの」ではなくて、宙に浮いた観念にすぎない。観念では学的
情熱を支えることができにくい。平穏無事な時勢は、それでも間に合うように
見えるけれども、一たび嵐が吹きあれると、そんなハイカラな観念など吹きと
ばされてしまう。その上、悪いことに日本人は自分の身のまわりの物を見て、
そこから考えることを怠って、やたらに本を読むくせがついた。本の中には真
理が入れてあり、それを手でつかめばよいかのように。だから日本のことは、
歴史のことも身のまわりのことも何も知らなくても、西洋の本に書いてあるこ
とを知っておれば、けっこう学者として通用するようになった。学者が弱々し
い感じを与えるというのは当り前のことです。
2017年12月11日月曜日
内藤湖南と狩野直喜――桑原武夫全集4『人間認識』
湖南先生
1.内藤湖南の本の読み方。京都大学、中国研究の黄金時代の話。おそらく、「大ていの書物」というのは、学者として読んでおかなければならないが、それほど強い関心をもっていない本のことを指すのだろう。ちなみに、幸田露伴は京都大学に呼ばれ、一年間教鞭を執ったが辞めてしまった。その理由は、生徒に教えるともなると、自分が興味をもたない本も読まなければならないから、というものだった。
先生は大ていの書物はまず序文を丹念に読み、それから目次を十分にらんだ
上、本文は指さきで読み、結論を熟読すれば、それで値打はわかるはずだと漏
らされたというが、それでなくては一流の学者とはいえまい、と当時の私はい
たく感服したものであった。
君山先生
2.狩野直喜の辞書の引き方。私は漢和辞典は本で引いた方が早いので使っているが、そのほかは電子辞書に頼っており、辞書をひきつぶした経験もない。全然関係ないが、外国語を習得するにはエロ本を読むにしかず、という説があって、もっともいまでは活字でオナニーをするものもほとんどいないだろうから、この説そのものが意味を失っているのだが、種村季弘はどこかで、この説は間違っており、エロ本にはその国特有の俗語が満載されており、普通の小説を読むより難しいといい、例としてあげているのがよりにもよって永井荷風の『四畳半襖の下張』なのだからそれは難しいだろうさ、と思ったものだが、私も若い頃には英語のエロ本を読んだことあって、いちいち辞書を引きながら読んでいたのだが、出てくる単語の意味が「湿った」、「びしょびしょの」、「潤んだ」などばかりなのでばかばかしくてやめてしまった。
・・・驚いたのは先生の『康煕字典』の引き方である。そばにいる私に字典を
もって来させ、それをといわれるので指ざされた巻をお渡しすると、先生はい
きなり両手で何かものを割るように本をやや乱暴にぐっと開かれる。求める字
はそのページになくても、必ずその数ページ前後のうちにある。一、二回成功
しなかったこともあったが、その際ももう一度同じ操作をくり返すだけで、指
で字を書いてみて字画を勘定されることは殆どなかった。字典が先生に忠実に
つかえているという感じがして、はなはだ見事だった。
2017年12月9日土曜日
部分と全体――ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ボーダーライン』(2016年)
ドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』は、異星人とのコミュニケーションという大好きなテーマだったにもかかわらず、期待しすぎたせいでもあろうか、それほど満足のいくものではなかった。こうしたテーマでは、タルコフスキーの『惑星ソラリス』を思い起こすのは自然なことだが、『メッセージ』の異星人には、彼らはなにを望んでいるのか、という大きな謎はなく、また彼らとの意思疎通が『ソラリス』ほどには切実なものとは感じられなかったのである。
『ボーダーライン』も大きく括れば、『メッセージ』と同じテーマの映画である。FBIの女性捜査官(エミリー・ブラント)がメキシコの麻薬組織壊滅作戦のチームに抜擢される。麻薬がらみで大量の死体を発見したばかりの彼女は、その作戦に加わることを希望する。作戦の指揮をとっているのは、会議にもサンダル履きで参加するようないかがわしい男(ジョシュ・ブローリン)と、組織に精通しているらしい南米系の男(ベニチオ・デル・トロ)である。捜査官はいかにもアメリカで活動してきたFBIの職員らしく、証拠を固め、法律に従って事件を解決しようとする。だが、組織の中心である二人は、黙ってみてれいればそのうちわかるさというばかりだ。ある人物を逮捕するや、四方から狙撃手がわらわらと集まってきて、メキシコ警察は信用してはいけないと教えられる。この巨大で目に見えない組織にどう働きかければいいのか彼女は最後まで理解することはできない。いや、自分のFBI捜査官としての倫理観、道徳観からいえば、拒否すべきだということはわかるのだが、拒否したところで、どう対処すればいいのかわからないのである。
グーグル・アースのようにはるか上空から見下ろした町や、西部劇でしか見ないようなロング・ショットの連続が印象的である。また、カフカの『城』を思い起こさせる映画でもある。『城』では、巨大な城の存在は見まがうまでもないが、そのなかに入るのに誰に連絡し、なにをすればいいのかわからない。同じように、夜のロングショットで、山の中腹で、拳銃のものらしい火花がちかちかと起こるが、遠くから見ているものには、それをどう調停し、あるいは関与すればいいのかさっぱりわからない。それは、作戦行動が一応の成功を収め、捜査官が自分がなんのために招集されたのか理解したのちもそう変わりはしない。麻薬組織を逃れるかのように不法移民しようとするメキシコ人たちや、ボスといわれる人物も登場するのだが、それはあくまでも部分であって、麻薬カルテルの全体をあらわすものではない。ここにあるのはその両者を媒介するもののない部分と全体だけの世界である。
2017年12月7日木曜日
芭蕉の誠と西欧文学のサンセリテーー桑原武夫『伝統と近代化』
芭蕉について
1.芭蕉の誠と西欧文学のサンセリテの相違。同じく桑原武夫の「第二芸術論」からつながる論である。「第二芸術論」は、手元に本がないので、記憶だけでいうが、著名な俳人と投稿された俳句を冒頭に並べ、桑原本人も含め、幾人かにみせたところ、誰も俳人と無名の投稿者の句の区別がつかず、そこから、俳句が結局は第一芸術とはなり得ず、第二芸術にとどまるということになる。私は基本的にはこの考えに賛成である。桑原の文章は俳壇に強い反発を引き起こしたらしいが、彼に反駁する説得力のある文章を読んだことがない。私自身は俳人はむしろ、役者や芸人と同じ立場にあるものだと思う。素人がそんじょそこらの俳優よりもずっといい演技をし、芸人よりも面白い話をすることがあるのは、ままあることだが、だからといってその人物がいくつもの役を演じ分け、あるいはいくつもの番組に出たり、地方の営業に回れるかといえば、話はまったく別のことになる。当然のことだが、芸術家と役者や芸人に優劣があるとはまったく思っていない。はからずも「型」という言葉が用いられているが、「型」が焦点になるのは芸事の世界である。さらにいえば、私は「人生的倫理的態度」などはどうでもいいと思っているので、第二芸術でもなんでもいいのだが、近・現代の俳人が「日本中古の文学と唐宋詩文の伝統をつぐことを誇りとした」芭蕉が存在したことなど忘れたかのように、「表現のための誠実」を忘れ、人生的な俳句を輩出しているのを見ると、芸術にも芸にも「誠」がない二重の欺瞞をみせられる気がする。
ところが綿密な研究をつづけた学者のうちにも、同じように芭蕉を西洋風の人
生詩人に見たてようとする傾向がある。そして「誠をせむる」などという言葉
に力点がおかれすぎた。誠はフランス語でいえばサンセリテとなろう。しかし
近代文学でいうサンセリテとは、スタンダールなどの場合に最もはっきりあら
われるように、「主のたまいければ」という言葉を否定しようとする、つまり
既成倫理を反発して、自己が倫理創世の主体になろうとする個体の自覚であ
る。ところが芭蕉の誠というのは、人生的倫理的態度ではなく、恐らく表現の
ための誠実、あるいは表現における誠実ともいうべきものであったろう。誠を
せむるというのが、既得のあらゆる「型」をつき破ることであって、芭蕉は貞
門の型、談林の型をつぎつぎと破っていったというのは正しいが、しかも彼は
日本中古の文学と唐宋詩文の伝統をつぐことを誇りとしたものであった。内的
自己の革新をはかり、その新しい感動を吐露することによって「新しみ」を創
造しようとしたのだ、とは考えられない。「昨日の我にあける人」といって
も、それは自己改革などではない。俳諧が「上手になる」ための前提にすぎぬ
のである(小宮豊隆『芭蕉の研究』)。芭蕉は一つ前の型をすてはしたが、常
に大きな伝統文学の型の中で考えていた。本当の意味での型を破る誠とは、
「自分はフランス語で書くが、フランス文学では書くまい」といったスタンダ
ールの言葉に要約されるような精神であろう。
2017年12月6日水曜日
桑原武夫『文学とはなにか』ーーノート
文学とはなにか
1.文学と科学。ローレンツなどの動物行動学が話題になる以前に書かれた文章であるだろうから、ファーブルの伝統が意外なところから芽を出したのを見てどう感じたのか聞いてみたいところだが、それでも科学のなかで小さな領域であることは確かで、むしろ、今日では後半の部分、現実を観察し、そのなかで実践をしている代表者として文学者があげられるかが問題になるだろう。
ファーブルのように自然界の中で直接の観察をすることは、今日むしろ稀れで
あって(そういう意味で『昆虫記』は文学である)、多くの科学者はラボラト
リで目盛りを読んでいるのだ。現実の社会、ないし自然に存在するものを直接
に見るのではない。つまりガリレオのように塔の上からものを落としてみた
り、フランクリンのように大空にタコを上げたりはしない。そうしたことは、
むしろ今日の文学者がしているといえる。文学者は自己の世界観を導きの糸と
して、現実を観察し、また現実の中で実践することによって(実践によってし
か見えないものがある)、集めた多くの経験を調整して、一つのまとまった経
験をつくる。それは言語シンボルによって表現されるから、当然抽象性をもつ
が、しかし作品の結末が結論なのではなく、そこへの過程が作品なのだから、
その点において一個の全体的な「もの」として、他の芸術作品と相通じる面を
もつ。
文学入門
2.よい本。これは「よい本」についてのおそらくはもっとも素晴らしい定義であると思う。そして、「ひどく正しい」ところを見いだすのが読書の快楽である。
よい本とは、初めからしまいまですべて正しい本という意味ではなく、多少の
錯覚があっても、正しいところはひどく正しい、という本のことである。そし
てわれわれが鍛錬されるのは、むしろそういう本によってである。
2017年12月3日日曜日
土地の霊――桂文楽『愛宕山』
総合的な噺家と分析的な噺家がいる。もちろん両方を兼ね備えていなければ一流の噺家とはいえないので、程度の問題に過ぎない。両者の相違がもっとも明瞭にあらわれるのは登場人物の扱いだろう。
分析的な噺家が各人物の性格や行動を解釈し、あとはそれぞれの行動原理の赴くところにまかせるとしたら、総合的な噺家は、各人物の性格や行動をうまく組合わせて一枚の織物となるように緊密に織りこんでいく。
古今亭志ん生や立川談志が分析的な噺家だとすると、桂文楽や古今亭志ん朝は総合的な噺家だと言える。そして総合的な噺家と親和性が高いのが、『愛宕山』や『つるつる』のような噺だろう。
幇間ものとひとくくりに言っても、『鰻の幇間』のように騙しあいが楽しいものもあれば、『富久』のようにひとりの幇間の生き方が惻々と伝わってくるものもある。『愛宕山』や『つるつる』は内容だけを読めば弱い者いじめでしかない。旦那と幇間の性格と行動をうまく織物として織りこまねば、いじめ的ないやみや弱い立場のルサンチマンなどがつい浮かびあがってしまうのである。
旦那のお供で京都の愛宕山に登ることになった幇間の一八、監視役の繁八がついて逃げようにも逃げられない。ようやく旦那たちに追いついて休憩となった。そこに土器投げの的があり、旦那は器用に的に当てる。一八も投げてみるがまったく当らない。上手い人になると軽い塩煎餅で当てるらしい、今日は逆に重たいこれで試してみようと、旦那は小判を取りだし、三十枚すべてを投げてしまった。あの小判はどうなるんです、と訊くと、それは拾った者のものさ、という答え。一八は茶店で傘を借り、広げて谷の底に飛び降りようとする。足がすくんで飛べないでいるところを、シャレに背中を押してやれよ、と旦那が言うから繁八がどんと押して、落ちていったがなんとか無事だった。三十枚みんなありましたよー、と一八、みんなやるよー、どうして上がるー、と言われた一八、そこまで考えてはいなかった。欲張りー、狼に食われて死んじまえー、と罵声を浴びて大いに慌てて、絹の羽織、着物、長襦袢を裂き始めた。それで縄をこしらえ、縄の先に石を結び、それを長い竹の先に引っかけて手許に引きよせ、撓った力を利用して、地を足でとんと蹴り、ヒラリと戻ってきた。偉い奴だな、一八、生涯贔屓にしてやるぞ、金はどうした。ああ、忘れてきた。
川戸貞吉の『落語大百科』によると、本来これは上方の噺であり、三代目の三遊亭円馬によって東京に伝えられ、その円馬から教わったのが文楽だという。「この噺には無理がある。その無理をお客に感付かれたらお終いだよ」と円馬は文楽に言ったそうだ。谷底からヒラリと舞い戻るところなどが無理な部分というわけだろう。
ところで、幸田露伴の『魔法修行者』によれば、室町後期の武将細川政元は晩年、魔法修行に凝って、終いには「空中へ飛上つたり空中へ立つたりし、喜怒も常人とは異り、分らぬことなど言ふ折りもあつた。空中へ上るのは西洋の魔法使もする事で、それだけ永い間修行したのだから、其位の事は出来たことと見て置かう」と露伴は述べている。この細川政元が幼いときから尊崇していたのがこの愛宕山であり、多少身が軽くなるくらいのことは土地の霊が許してくれるに違いない。
2017年12月2日土曜日
ガストン・バシュラール『瞬間と持続』(抜き書き)
1.ベルグソンとバシュラール。いまから見ると、両者は互いにそう違ってはいないように感じる。ベルグソンにしても、純粋持続の意識が創造的な瞬間であることは否定しないだろうし、バシュラールは、生によって豊かにされた瞬間の積み重ねが純粋持続の創造的な面であることを拒否しないだろう。要は二人とも時間に創造性を認め、それを生において最も重大なことと見ていることについては完全に一致しており、そうした究極的な目的のもとでは、方法の相違などたいしたことではないように感じられる。
ベルグソン氏とわれわれとの間には、常に変わらない方法の相違が存在する。すなわち彼は、出来事にみちた時間を、それらの出来事の意識の水平そのものにおいてとらえ、ついでそれらの出来事、したがってそれらの出来事の意識をだんだんと消していく。思うにそのようにして彼は、出来事のない時間、つまり純粋持続の意識に到達するのであろう。これに反してわれわれは、意識する瞬間を積み重ねるときにしか、時間を感覚することはできないと考える。たとえわれわれの怠惰が、思索を生ぬるいものにしているとしても、持続しているという、多少とも漠然とした感情を持つのに充分な、感覚や肉体の生によって豊かにされた瞬間が、なおわれわれに残されうることはいうまでもない。しかし、われわれとしては、その解明はただ思考の積み重ねの上にしか見出しえないだろう。時間の意識とは、われわれにとっては常に、「瞬間」の利用の意識であり、それは常に能動的であってけっして受動的ではない。言いかえれば、われわれの持続の意識とは、我々の内部存在の進歩ーーたとえその進歩が実効あるものであれ、見かけだけのものであれ、あるいは単に夢想されただけのものであれ、--の意識のひとつである。
2017年12月1日金曜日
ガストン・バシュラール『新しい科学的精神』(抜き書き)
バシュラールにはイメージの原型を探ろうとする著作と、科学哲学に関する著作とがある。私が読み始めたのはイメージに関するものだったが、惹かれたのは科学哲学に関する作品だった。
1.デカルトの蜜蝋。デカルトが『方法序説』でコギトを導きだした蜜蝋が問題にされている。しかし、感覚がコギトと同一視されるなら、諸感覚に散乱することのない私、蜜蝋が変化している「その瞬間」に私をまとめ上げているものはなんなのだろうか。と、問題が先送りされることになる。感覚だろうと思惟だろうと、私がそれを感覚、思惟することを感覚し、思惟する私、と無限後退に進んでしまう。
もし蜜蝋が変化するなら、私も変化するのである。私は私の感覚といっしょに変化する。そしてこの感覚は、私がそれを思惟しているその瞬間には、私の全思考にほかならない。なぜなら、感覚するとは思惟すること、コギトのデカルト的な広い意味において思惟すること、だからである。しかしデカルトは、実体としての魂の実在性にひそかな信頼をよせている。コギトの一瞬の光に眩惑されて彼は、われ思うの主語であるわれの永続性を疑ってみることはしなかった。だが、かたい蜜蝋を感覚する存在とやわらかい蜜蝋を感覚する存在とが、なぜ同一の存在であるのか?一方では、この二つの異なった経験において感覚される蜜蝋が、同一の蜜蝋ではないとされているのに。もし仮に、コギトが受身の形に言いかえられて、私によって思惟されてあるcogitatur ergo estとなっていたとしたら、能動的主語は印象の不確かさや曖昧さといっしょに霧散してしまったであろうか?
2.リズム・時間。リズムは持続的なものと著しい対照を示す。我々は、たとえば、ラモンテ・ヤングの音楽の持続音にもリズムを感じ取る。バシュラールのここでの仮想敵はベルグソンである。
リズムが構造に働きかけることをよく示している実証的な実験が、いくつかある。・・・もしフォスゲンCOCL2に、振動数がちょうど<塩素三五>の帯スペクトルに入るような紫外線をあてたとすると、このフォスゲンから<塩素三五>だけを分離してとりだすことができる。<塩素三七>のほうは、あてた紫外線のリズムに同調せず結合状態のままとり残される。この例で分かるように、輻射は物質を解きはなつのである。リズムに支配されるこれらの反応をそのあらゆる細部にいたるまで理解することが無理だとしたら、それは時間にたいするわれわれの直観がまだ相当に貧しいことによるのである。われわれは絶対的な始まりと、連続的持続についての直観をもっている程度にすぎない。この無構造の時間は、最初に見たときには、あらゆるリズムを自分に受け入れる能力をもっているように見える。しかしそう見えるのは見かけだけで、それは時間の実在性を連続的なもの、単純なものと見込んでいるからなのである。これにたいして、ミクロ物理学というこの新しい領域では、時間の驚異的な作用のすべては明らかに非連続的なものと関係している。ここでは、時間は持続によるよりも、反復によって作用することが多い。
2017年11月30日木曜日
小島政二郎『食いしん坊 続1』(抜き書き)
期せずして久保田万太郎のことばかりが続く。
1.万太郎と島崎藤村。万太郎と藤村という組み合わせはちょっと意外だった。とはいうものの、藤村は読まず嫌いで、『春』と詩ぐらいしか読んでいない。詩は確か小学生のときに暗記させられて、「小諸なる古城のほとり」とすらすら出てくるが、この後が出てこない。そういえば、万太郎が藤村の机をもらったか、譲り受けたかして使っているというようなエッセイを読んだような気がする。
久保田さんは、日本の作家では藤村が好きだった。藤村はおいらんのことを言うのにも、「長いキセルを持った女が――」というような言い廻しをした。ああいう遠慮をした、しかしいや味な言い廻しが気に入る要素が久保田さんにもあった。いや、それよりも藤村の押さえに押さえたセンチメンタリズムが、彼と一脈通じるものがあったのだろう。久保田さんの大根は、センチメンタリストだった。
2.久保田万太郎の作品の魅力。雨といい、台詞回しといい、・・・の多用といい、「音」が重要なのはよくわかる。
久保田さんの作品の魅力も、亡びて行く下町の人達の亡びて行く音だったろう。その音を出すのに、作者は骨を削る苦労を一生し続けた。彼が出そうとしている音が、あの音だなと読者に分かってしまっては作者はいやなのだ。それと分からないうちに、読者の感情を包んでしまわないと気に入らないのだ。作者の狙っているのは、常にニュアンスだったからだろう。
3.万太郎と三馬。式亭三馬好みというのはよくわからない。泉鏡花は一九の『東海道中膝栗毛』が愛読書だったらしいが、それと同じ程度にわからない。
江戸時代の作者では、久保田さんは三馬が好きだった。いや、三馬しか認めなかった。これも、いかにも久保田さんらしい好みであり評価だったと思う。一度ならず三馬論を書いてくださいと言って勧めたが、議論嫌いなあの人はとうとう書かずじまいだった。かえすがえすも残念だったと思う。三馬に対して一家の言を持っていた。三馬のあの低い調子に対する万太郎の鑑賞は、恐らく学者からも、外の作家からも聞けないものだったろう。
4.万太郎の勘。岡本松浜のことは全然知らなかった。ウィキペディアで代表句としてあげられている「一人湯に行けば一人や秋の暮れ」は確かに万太郎に通じるところを感じる。
しかし、久保田さんの勘は実に優れていた。何かの陰に咲いているような花の美しさを発見することに掛けては特に一家の見を持っていた。
例えば、芭蕉をそんなに有難がらずに、人の顧みない太祗のような作者の俳句に傾倒したりーー。太祗の俳句に血の近さを感じて、そこから自分の俳句の行く道を発見したのなど、勘の非常に優れた一つの証拠になるだろう。
恐らく人並に芭蕉に傾倒していたら、久保田さんは芭蕉からは思うようにーー芥川さんのように十分に栄養は吸収出来なかったに違いない。従って今日の久保田さんの俳句はなかったろう。
同じ時代の俳句作者で、百人が百人虚子へ虚子へと靡いて行ったのに、久保田さん一人は、今は名を言っても恐らく誰も知らない岡本松浜に近付いて行った勘。あの勘が、久保田さんの俳句をーーいや、彼のすべての芸術を生んだ源だと思う。
堂々と正面を切った芸術は久保さんの好みに合わなかった。小さいが純粋なもの、例えば芥川さんでなら「雛」のような作品、荷風でなら「狐」のような初期の作品をいつも懐かしがっていた。
2017年11月29日水曜日
小島政二郎『食いしん坊 1』(抜き書き)
もともと全六冊の本なので、河出文庫のものは抄録だろう。小島政二郎が食べ物についてエッセイを書く多くの作家たちと異なるのは、酒を飲まないことにある。従って甘いものの話が多い。また内田百閒に通じるような変なところがあって、十年以上にわたり(年数ははっきりおぼえていないが)、家にいる限り、昼食はスパゲッティに決まっていた。立川談志が「先生」と呼ぶ数少ない人物たちの一人であったこともぜひ付け加えておきたい。
1.東京の菓子――越後屋。空也の最中や生菓子は食べたことがあるが、そのほかは見当もつかない。現存するか確かめようとするほどの食への執着もないのだな、これが。
食べ物は、東京より上方の方がうまい。菓子も然り。しかし、大地震前までは――大負けに負けて戦争前までは、東京にもうまい菓子屋があった。例えば、本所一つ目の越後屋、日本橋の三橋堂、上野山下の空也、お成街道のうさぎや。
越後屋については、こんな話がある。徳田秋声の親戚に岡栄一郎という金沢生まれの戯曲家志望の青年がいた。帝大出で、芥川、菊地、久米などと友達だった。この岡が、自慢で金沢の森八の菓子を土産に持って漱石先生を訪れた。
その後、漱石先生の批評が聞きたくってまた尋ねたところが、この間の菓子はうまかったともまずかったとも言わない。で、岡が恐る/\伺いを立てたところ、大して称美したらしくもない口振りだった。岡が、では東京ではどこの菓子がうまいのかと聞いたところ、漱石は、「越後屋だろうね」
と言ったというのだ。私など、まだ小説を一つか二つしか書いていなかった頃の話である。
2.横光利一伝授の雑煮。何となくうまそうな感じはするが、後の処理が面倒なので、揚げ物は自宅では一切しないのだな、これが。
横光伝授の食べ物のうち、未だにわが家で愛用している一つに、正月の横光雑煮がある。それは、まずお餅をそのままゴマの油でちょいと揚げて、それを雑煮汁の中で少し煮て食べるのだが、これはしつッこくって、酒を嗜まない私には、お雑煮中第一の美味である。
3.芥川龍之介と砕氷機。砕氷機は氷を砕く機械なのだから、ちっともおかしいことはないと私も思う。
いつかなど、本郷の切通しを歩いていると、「砕氷機」という大きな看板が目に付いた。すると、芥川さんが、
「砕氷機というのはおかしい」
と言い出した。
「おかしいことはありませんよ」
と私が言うと、
「おかしいさ。だって君、氷を砕いたら、何になるんだ?」
「大きな氷を小さく砕くんだから、ちっともおかしいことはない」
「氷を砕いたって氷じゃないか。氷以外のものになるのでなければ、おかしいよ」
そんなことを言い合って、いつまでも歩いていた。
4.菊正宗。「純粋の菊正」というのは混ぜものをしていないということか。
さて、菊正宗だが、酒飲みは異口同音に菊正がいゝと言う。私の知っているだけでも、鈴木三重吉、水上滝太郎、室生犀星などは菊正党で、戦争前まで、銀座の鉢巻岡田、日本橋の灘屋の二軒は、純粋の菊正を飲ませると言うので、菊正党に愛されていた。外に、読売新聞の隣に、菊正のビルディングがあって、そこの何階かで菊正を飲ませた。室尾犀星はそこの定連で、そこからの眺めを書き出しにした小説がある。
5.原稿を書く速さ遅さ。忘れる速度に手が追いつかないときはあるが、発想に手が追いつかないなどということは経験したこともないので一晩に六十枚など夢のような話だ。
芥川さんが一ト晩苦吟してやっと二枚、鈴木三重吉の「桑の実」の中に、梅雨になる頃の描写があるが、ホンの五六行の文章を書くのに、書いては消し、書いては消し、同じところの書きよごしを私は二十三枚持っている。
久保田万太郎は、毎日/\「中央公論」の記者が通って、一日に一枚ずつ渡されて帰った。〆切の日までに十八枚、しかも未完だったという記録が残っている。谷崎さんも、一日に二枚組だと聞いている。
早い方で、佐藤春夫、室生犀星、三上於菟吉。佐藤さんが「売笑婦マリ」を書いた時には、一ト晩に六十枚書いたそうだ。これは当時「改造」の記者で、佐藤さんのところへ居催促に行っていた和木清三郎から直接聞いた話だから間違いはあるまい。
6.典山の芸。講談は興味があるものの、あまり販売もされていないし、NHKでときどき中継されるのを聞くとげんなりする。
この人の芸には何か威厳があって、私など、どうしてもあぐらをかいては聞けなかった。こんなうまい人は到底二度と現れないだろう。人には癖があるもので、この人が高座へ上がる、或いは一服して後席を話し始める時、
「昨夜申し上げました通り、鼠小僧が――」
という風に話し出す時には、どういうものか、出来がよくなかった。何にもそんなことを言わずに、
「稲葉小僧新助が――」
と、ぶッつけに本題にはいる時には、いつの時でも出来がよかった。だから、私などは、キセルをしまって軽くお辞儀をして、彼が第一の口を利くところに千金の期待を賭けていたものだった。いつだったか、真夏の晩、神田の小柳亭で典山の独演会があって、「伊達騒動」を立て続けに二席読んで聞かせてくれた時の面白さは、彼の一生の傑作の一つだったろう。
7.泉鏡花が推奨する講釈師吉瓶。上に同じ。
神田伯龍という講釈師と私が親交のあるのを泉さんは誰かから聞いて知っていて、伯龍のことを話題にしてくれたことがあった。泉さんは伯龍の「薮原検校」を一席聞かれたことがあるらしく、私の耳を教育して下さるおつもりだったのだろうと思うが、ニヤ/\笑う笑い方で、ある程度伯龍を認めてはいるが、未だしという御自分の感想を上手に私に伝えながら、
「あなたなどは聞いておいででないでしょうか、吉瓶という講釈師――」
残念ながら、私の頃は死んでいなかった。芥川さんは一度だけ聞いたと言っていられた。紺屋の職人上がりで、どうかすると、印半纏のまゝ高座に上がったこともあったという語り草を残している。印半纏というザッカケない姿で、シト/\とした口調で静御前吉野落ちなどを語らせると、水も滴るような色気があって、得も言えなかったそうだ。あのめったに人をよく言わなかった典山さえ、吉瓶のことというと、読み口の真似までして推奨していたところを見ると、余程の名人だったに違いない。
8.修善寺の旅館新井と虚子、斎藤茂吉、小津安二郎『お茶漬けの味』。修善寺には行ったことがない。『お茶漬けの味』は見たが、このシーンは思い出せない。そもそも小津作品はどれもこれもごちゃごちゃになって、どの場面がどの映画だったのかはっきりしない。
新井は虚子の定宿でもあった。長編小説「お丁と」が「国民新聞」に連載される時、虚子は私たちのように毎日一回ずつ書かずに、全部この宿屋で書き上げたと聞いた。大正二三年ごろの話である。
虚子の部屋は、――大体この新井という宿の大ざッぱな略図を書くと、一番奥に大きな池があって、その池の右側に上下部屋がある。その池の水が一度そこで深く淀んで、それから細い流れになって流れ下って行く。その上に長い屋根のある廊下があり、流れの左右に幾つか部屋がある。池にも、流れにも、大きな緋鯉が遊弋していた。茂吉五十歳の「春日五種」の中にある
しげみよりわきかへりくる山水の浪に入りゆきしあかき鯉くろき鯉
は、おそらくこの宿での詠であろう。この水の上に屋を重ねている新井の眺めの美しさを心行くまで描写したのは、小津安二郎の「お茶漬けの味」に及ぶものはあるまい。あの美しい女友達ばかり三四人で酒盛りをする部屋、女主人公が或る思いを込めて見おろす池の鯉、おそらくあれは虚子がその昔「お丁と」を書いた部屋あたりだろうと思う。
9.東京の鰻屋。ウナギは大好きで、竹葉亭には何度も行ったが、銀座に出ることもなくなり、スーパーで買うようなものでもないと思っているので、もう何年も食べていない。
ウナギの好きな人は相当多い。ウナギが好きだという人に逢うと、私は口癖のように、
「どこのウナギがお好きですか」
そう言って聞く。すると、十人が十人、竹葉だとか、飯倉の野田岩だとか言う。私は五十人ぐらいの人に同じ質問をして、
「小満津が一番――」
と答えた人にはたった一人にしかぶつからなかった。其の人は、工学博士の川上高帆さんである。
戦争前までは、小満津の外にも、麻布芋洗坂の大和田、麹町三丁目の丹波屋、飯倉の野田岩の三件がズバ抜けてうまかった。やや下って、日本橋通三丁目の和田安、小舟町の高島屋、小網町の喜代川、神田お台所町の神田川、深川の宮川、霊岸島の大黒家、千住の尾花家、駒形の前川、麹町の秋本、まあ、この辺だったろう。安くってうまいのが千住の松のウナギ。
2017年11月28日火曜日
ジャン・ボードリヤール『物の体系』(抜き書き)
1.物の分化に反比例する人間の行為の分化。かつて、寺山修司は、確か三島由紀夫との対談のなかで、歯磨きの仕方が変わったときにはじめて革命が起きるのだといっていた。もちろん、それは比喩的な意味で、習慣として生活のなかに組み込まれている行為が変わるときに、革命といえるものが生じるのだといいたかったのだろう。しかし、私が幼いときには、歯磨きとは歯ブラシを横に動かすもので(つまり歯並みとは直角に)、歯並みにそって縦に動かすものではなかった。また、私は使っていないが、電動歯ブラシでは、手を頻繁に動かすものでもなくなっている。しかし、革命といえるものは生じていない。習慣は実はテクノロジーによって容易に変化してしまうものなのだ。
習慣になっているいくつかの行為が役に立たないこと、身体の操作に基づく
日常生活のリズムの切断からは、深い心理・生理的な結果が生ずる。事実、真
の革命が日常のレベェルで生じている。今日、物は物とかかわる人間の行動よ
りも複雑になっている。物はしだいに分化して行くが、われわれの行為はしだ
いに分化しなくなっている。このことは次のように言いかえることができる。
物は、物が役を演ずる行為の劇にもはや囲まれてはいない。物はその目的性の
ために、人間は脇役を演ずるか観客になっているところの全体的なプロセスの
なかでの俳優のようなものになっているのが現状である。
2017年11月27日月曜日
ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』(抜き書き)
マクルーハンとかボードリヤールは、一時期盛んに読まれたが、すっかり忘れ去られてしまったかのようだ。
1.原子力発電所がつくりだす危険。原発が破壊され、「美しい日本」にはふさわしくない醜い姿をさらし、コントロールなどされていないにもかかわらず、政府が手放そうとせず、あまつさえ輸出までしているのは、それが支配と権力の原型だからである。
原子力発電所がつくり出す本当の危険は、安全性の欠如とか公害とか爆発な
どではなく、それをとりまいて放射状に拡がる最大限の安全保障のシステム
だ。徐々にあらゆる領域に拡がりゆく管理と抑止の斜面、技術的、生態的、経
済的、地政学的斜面なのだ。原子力が問題なのでは決してない。原子力発電所
が絶対的な安全のモデルを入念につくり上げる原型であり、それが社会のあら
ゆる分野に蔓延しようとしている。それこそがまさしく抑止のモデルだ。
2.獣、無意識と領土。ニーチェやドゥルーズなどとは異なり、ボードリヤールはメタモルフォーズを信じていない、「認識」の人に思えるのはこうした部分である。
獣には無意識がない、というのは、それらには領土があるからだ。人間に無
意識が生まれたのは領土を失ってからのことだ。領土とメタモルフォーズは同
時に人間から取り去られたーー無意識とは個人的な喪の構造だ。そこではたえ
ず、絶望的に、この領土とメタモルフォーズの喪失が再度上演されるーー獣と
は、こんな失われたもののノスタルジーといえよう。
2017年11月26日日曜日
若旦那生成の場――桂文楽『明烏』
その完成度に呼応するかのようにレパートリーの少ない桂文楽だが、そのなかでも文楽の精髄とも言える噺は主人公となるものにしたがって三つに分類できる。すなわち、盲人(『心眼』や『景清』)、幇間(『つるつる』『愛宕山』『鰻の幇間』など)、若旦那(『船徳』『よかちょろ』など)の噺である。
これら三者に共通することはなんだろうか。主体的に状況をつくりあげていくというよりは、受動的に状況に対応していくことにあると思われる。盲人は身体的なハンディキャップにより噺のなかでは願をかける位のことしかできない。幇間は、もちろん、自分が主導権を握るよりは旦那の言うことに即応していくことが求められる。若旦那もまたその未経験から、状況を把握することができない。『船徳』の若旦那は自分から船頭になることを申し出るが、当然のことながら船の動きをまったく掌握できない。
『明烏』の若旦那もまたそうであって、いい年をして本ばかり読んでいる倅の時次郎を心配した父親が、町内の不良二人に遊びに連れてってくれるよう頼む。二人は浅草観音の裏にあるお稲荷さんにおこもりに行こう、と若旦那を誘いだす。吉原に着くと、さすがに未経験の若旦那でもそこがどういう場所かわかり、わめくやら泣くやらの騒ぎとなった。「帰れるものなら帰ってごらんなさい。三人できた者がひとりだけ帰ろうとすると、怪しい奴だと大門のところで止められる規則になっている」と二人は若旦那を脅しつけて、嫌がっているのも構わず部屋に放り込む。ところが、朝になると、案に相違して遊び人の二人の方は振られ、若旦那の方は相方となった浦里と一緒にまだ蒲団に入っていて、浦里が離してくれないとのろける。バカバカしくなった二人が先に帰ろうとすると、「帰れるものなら帰ってごらんなさい、大門で止められる」。
『明烏』の若旦那が『船徳』や『よかちょろ』の若旦那とまったく異なるのは、『明烏』の若旦那が『船徳』の、『よかちょろ』の若旦那になることはあっても、その逆はあり得ないことにある。つまり、『明烏』は若旦那がまさしく誕生する噺なのだ。若旦那というはっきりとした型があらわれるのは、放蕩息子という性格が加わることによる。もちろん、若旦那が恋わずらいにかかるような噺もあるが、それらの場合、若旦那は無性格な背景であることが多く、たいていはその恋を成就させようとする周囲のドタバタが中心になる。
若旦那は家によって庇護されながら、どうすればその安楽を手放さずにすむかに腐心する。いつまでも跡継ぎという立場にあることこそが安楽であり、成長や変化に徹底的に抗することに悪知恵を働かせるのが若旦那である。一晩にして女に籠絡され、浦里が離してくれないと、二人の不良の大人をからかうところなどは、既にして時次郎が若旦那という立場、型を自覚し、ほくそ笑んでいるのが感じられる。若旦那を演じるのに長けた噺家が、桂文楽や古今亭志ん朝といった良い意味でも悪い意味でも落語の世界を毀そうとしなかった人であったことが、若旦那の意味を別の側面から照射することになろう。
2017年11月25日土曜日
オルダス・ハックリレー「修正イッソプ寓話」
『ヴァニティ・フェアー』の1929年1月号に発表された。
1.アリとキリギリス
キリギリスは芸術家であり、その労働は多くの芸術家のように、利益がなく、その余暇は陽気で費用がかかる。反対に、アリはその共同体の支柱である。彼は常に会社に行き、一日に十四時間働き、一ペニーにいたるまで節約する。
時が過ぎた。アリの資本は年々増え、キリギリスのものは年々減っていった。「この若者は」とアリは予言した「ろくな最後を迎えないだろう」。そして彼は偽善的にため息をついた。しかし、密かに彼は喜んでいた。才能がなく、よく働き、自己否定的なすべての虫のように、幸福なものに羨望と悪意を懐いていた。彼は才能、知性、精神的な質が生まれつき優れているものに恐れを懐き、憎んでいた。彼はあらゆるものの生を陰鬱な労働であり、退屈であり、自分と同じように無駄で空虚なものにしたがっていた。あらゆる寓話にもかかわらず、世俗的な成功によっているべき貧民街から抜け出て、楽天的な陽気さを示す才能を見るほど悩ましいことはない。凍結によって死ぬこともなく、冬を冬眠して過ごす蝶の光景などは一週間彼の食欲を失わせるに充分だった。彼の最も大きい喜びは、自分より美徳もなく才能もないものが不幸になることを観察し、そこから有望な道徳を引きだすことにある。
最終的に、破産したキリギリスが金を貸してほしいとやってくる長らく願い待ち望んだ出来事が起こったとき、アリは道徳的義憤に、陳腐で勝利に満ちた「いった通りだろう」という調子で悪意のこもった説教を行った——いや、そうではない。もっとも高度な倫理的社会的根拠に基づいて、一ペニーも貸すことを拒んだ。
数日後、蜘蛛が歴史的な最後通告としてまるはな蜂を送り込んだ。戦争が宣告された。じが蜂やスズメバチ、ミツバチはすぐにまるはな蜂の側についた。アリとシロアリは古くからの同盟軍で蜘蛛に向かった。すぐに、世界中のあらゆる虫が抗争に巻き込まれた。キリギリスも軍に編入された。アリは家にいて、二年間で財産を三倍にし、(有徳な虫の慎重さでもって)上流に貸し付けし、国債に投資していた。戦争が終わると、彼は億万長者になっていた。三ヶ月もすると、アリ国の通貨は暴落したが、累積した財産は、もはや通貨交換はされなくなったが、一週間のパンとマーガリンを蓄えるのに足りるほどだった。
しばらくして、株と証券で向こう見ずな賭に出たキリギリスは世界で四番目に豊かな虫になった。このことの道徳は、慎重さと美徳とはその美点にもかかわらず、常にそれに見合った報酬を得るとは限らないということである(ありがたや、と我々は合唱できよう)。
しかしこの話には続きがある。貧しくなった古い友人が助けを求めてきたとき、過剰な親切さという悪徳をもっていたキリギリスは、即座に巨額の小切手を書き、利害に関心を抱くことを拒んでしまった。アリは借りた金を二つに分けた。一方で金融に関わるジャーナリストを買収して市場に恐慌を起こした。他方で、充分パニックに襲われたキリギリスが売りにだした株を急落した値段で買い付けた。そしてその過程で、価格は再び上昇し、アリは再び非常に豊かになり、キリギリスは比較的貧しくなった。
このことの道徳は明らかである。授けられたものは常に善に対する防御壁でなければならず、善は彼らの本来的な敵であり、その美徳と才能のあいだには終わることのない戦いがあり、これからも続くだろう。
II.蛙とその王様
指導者のない蛙たちはジュピターに王を願った。ジュピターは彼らの祈りを聞き、彼らの池に丸太を投げ込んだ。水しぶきは蛙たちのあいだに警戒を呼び起こした。しかし漣が収まると、隠れた場所から出てきて、新たな支配者に敬意を表した。親しむにつれて彼らの尊敬は軽蔑に変わり、数日後には、蛙たちはなんの反応も示さない王によじ登り、跳躍台や日向ぼっこの場所に使うようになった。
時が過ぎた。丸太王の穏やかな治世のもと、蛙たちは増えて数倍になった。愛国的両生類の満足がいくように、蛙の数は跳ね上がった。「わが偉大なる成長する国」と蛙のジャーナリストは書いた、「増加する数は我が国の偉大さと道徳的進展の間違いのないしるしである」等々。
しかし、数年が過ぎると、池は密集して快適さを失っていった。虫や浮き草、蚊の卵やナメクジ、カゲロウなど生活に必要なものの価格は恐怖を感じさせるほど高騰した。スイレンのなかの最適な区画は借りることが禁止された。池の中央にある工業地帯は怖ろしく混み合っていた。ヤナギの根にあるスラムは——筆舌に尽くしがたいほどひどかった。思慮深い蛙たちは、出生率が最も高いところがもっとの最悪の地帯だと苦しげに観察した。バトラチアの、余暇をもち専門職にある者たちの階級では、著しく出生率が低かった。彼らのあいだでは避妊の実践が広まっていたのだ。過去には六千から七千の卵を産んでいた女性蛙たちは、いまでは六、七百しか産まなかった。
反対に、スラムの住人たちは、無謀に卵を産み続けた。もっとも表面的な観察者でも、数多くの変形した、くる病や、白痴や、なかば狂ったオタマジャクシが池で泳いでいるのに衝撃を受けた。同じ割合で進んでいけば、数年後にはバトラチアの在庫が完全に取り返しのつかないほど減ってしまうことは明らかだった。質の低下は人口量の増加と運命的に結びついており、バトラチアの最優秀な統計学者によれば、池の資源が住人の数に対して不十分になることは遠くなかった。
代表団は王を待ったが、丸太は問題を扱うために踏みだそうとはしなかった。ベンサムやジョン・スチュワート・ミルの自由放任学派によって育てられたに違いなかった。最終的に、バトラチアの聖職者がジュピターに対して荘厳な訴えかけをした。「主たるジュピターよ、」と彼らはゲロゲロといった、「あなたの王は我々の役に立ちません。彼は行動せず、政治的観念は時代遅れで、現代生活の問題を扱うことができません。」
ジュピターは蛙たちの忘恩と変わりやすさに驚いた。「よろしい、」と彼は答えた、「新しい王が望みなら、得るであろう」非常に大きなコウノトリが送られ、宗教的儀式の真ん中に降り立つと、自制できないままに枢機卿とバトラチアの指導的聖職者の半分を飲み込んだ。残りは睡蓮の葉から飛び降り、深い安全なところまで泳いでいった。新たな王の食欲は底なしだったので、あっという間に池の人口は半分以下になった。
ジュピターのユーモアのセンスは粗雑で、悪ふざけ以外のジョークを理解できなかったので、池の様子をまごうことなき満足な様子で見つめていた。「新しい王は気に入ったか」と彼は少したったのちにもっとも賢い蛙に尋ねた。嫌悪をもちながらも、年老いた蛙は、自分も友人たちも情け深い王に非常に満足していると答えた。
「満足?」とジュピターは繰り返した、別の不満を聞くことを予期しており、そのときには蛙たちに気まぐれについてのよい説教をしてやろうとしていたのだ。「満足している?しかし彼はおぬしらの半分を食ったではないか。」
「それこそまさに我々が王に感謝していることです」と賢者蛙は答えた。「より強く、より知的なものだけがなんなく王のくちばしから逃れることができます。犠牲になるのは精神や身体が脆弱なものだけです。確かに王は民衆の半分を食べました。しかしよりよい半分が残ったのです。不適合者を皆殺しすることによって、彼は我々の種族の退化を防ぎ、政治的問題を解決し、我々の社会的悪――スラム――の叫びを消し去ったのです。彼は価値の下落と人口の増大の原因となった餓えの解消を保証してくれたのです。彼の支配は、一言で言えば、長い目で見れば慈善なのです。王をどれほど高く評価してもしすぎることはありませんし、このような立派な王を与えてくれた、主たるジュピターよ、あなたにもどれほど感謝しても足りるものではありません。」
「そうか、なんてことだ」とジュピターはいった。
III.狐と烏
ある烏が木の枝にとまっていた。たまたま一匹の狐がその下を通りかかった。狐は空腹だった(狐は慢性的に空腹なのである)。烏はくちばしに一片のチーズを挟んでいた。とても大きいわけでもなく、特によいものでもなかった。しかし、狐はおごった口をもってはおらず、どんな小さなつまらないものを拾い上げても尊厳が下がるとは思ってもいなかった。そこに彼の成功の秘密があった。
「こんにちは、お嬢さん」と彼は烏を見上げていった、「一目見ただけであなたがとても感受性に豊かで、芸術的な魂をもっていることがわかりましたよ、無理解な者たちと同じ趣味をもたない者たちのあいだでは、あなたの本来の才能を伸ばすことはできないでしょう。」
烏はまんざらでもなさそうで、より注意深く聞くために頭を立てた。
「自己紹介をさせてください」と狐は続けた、「私の名は狐で、仲間を助けることを使命としています。特に私が力を注いでいるのは、人格の発達、正当な幸福の実現、成功の達成で、私はそれらをほんのわずかの料金で教えていますが、成功しなかった場合には返金することになっています。あなたの場合には、お助けできることがわかります。誤解された魂というのは私の専門の一つですから。どうか自己表現の手助けをさせてください、自己表現とともに成功、幸福、富が訪れるのです。」
「喜んで」と烏は不明瞭に答えた。というのも、くちばしを開くことなく話し、言葉はチーズによってこもってしまったからだ。すべての女性同様、彼女も自分の魂について語られることを好んでいた。自分が誤解されており、誤解されやすい性格をしているといわれて、得意になった。
「ではお話ください」と狐はいった、「あなたの特殊な才能はどんなもので、私的な野心はなんです。銀幕であなた自身を表現することをお望みですか。それとも、短編小説や広告の書き手として富と名声を得るのが夢ですか。」
烏は頭を振った。
「多分ミケランジェロやダナ・ギブソンの例に霊感をうけて彼らに続こうというのでしょう」と狐は続けた、「もしそうなら、あなたを六週間で、巨匠にすることを保証しますよ。書くことができるものなら、描くこともできるものです。テーブルクロスに染みをつけるものならば絵を描くこともででます。よい趣味と芸術についての私の通信教育は、十分満足のいくものだろうし、科学的でもあります・・・」
しかし、再び鴉は頭を振った。
狐は落胆はしなかった。「もし最高のセールスレディになることをお望みでしたら、」と彼は続けた、「あるいは歯医者になる、有能な助産婦になるという薔薇のような夢を見ていらしているなら・・・」
「いいえ、いいえ、」と鴉は注意深く、チーズの隙間からほとんど聞えないような声で語った「私はミュージカルが好きですの」
「みゅーじかる!」狐は叫んだ、「そうだと気づくべきでした。芸術のなかでももっとも神聖な音楽!私のハリトキシック的体系によるピアノ教育では、練習の退屈な必要は完全になくなります。」
「でも私は歌い手です」と鴉は言った。
「なおさらよろしい」と狐は答えた。「私の声形成獲得学習過程を取ることです。学生は学んでいるあいだにミュージカル・コメディーやグランド・オペラの役を取りました。」
「本当なの」と烏は大いに興味を見せた。
「本当ですとも」と狐は実績のあるものの確信をもって答えた。「でも教科にはいる前に、あなたの歌を聴かねばなりません。すぐに歌ってもらえますか」
既にカルメンかマルガリーテ二成りきった烏は、頭をそらすと高いCの音を出した。チーズは嘴から落ち、狐は落ちてきたものを受け取ると、すぐにのみ込み、口を舐め、急いで去って行った。その間、鴉は恍惚として歌っており、音楽のこと以外頭になかった。そのカーカーなく声が調度そのとき後ろを飛んでいたわたりガラスの耳に入った。隣の枝に止まると、わたりガラスは注意深く歌を聴いた。彼女が歌い終わると「ブラボー!」と叫んで、黒人のキャバレーの経営者であるかのように、場所を空けた。烏は喜んで申し出を受け、短い時間ではあったが、この国でもっとも称讃された有色の演者だった。
愚かさが幸運と結びついて狡知に至ることをこのことは示している。
しかし、その大半は一時的なものである。烏が狐にチーズを与え、教科課程に入ったのであるから、その料金を払う必要があることを根拠に、狐は最初の日のもうけの十パーセントを支払うべきであることを証明した。いうまでもなく、彼の言い分は通った。
1.アリとキリギリス
キリギリスは芸術家であり、その労働は多くの芸術家のように、利益がなく、その余暇は陽気で費用がかかる。反対に、アリはその共同体の支柱である。彼は常に会社に行き、一日に十四時間働き、一ペニーにいたるまで節約する。
時が過ぎた。アリの資本は年々増え、キリギリスのものは年々減っていった。「この若者は」とアリは予言した「ろくな最後を迎えないだろう」。そして彼は偽善的にため息をついた。しかし、密かに彼は喜んでいた。才能がなく、よく働き、自己否定的なすべての虫のように、幸福なものに羨望と悪意を懐いていた。彼は才能、知性、精神的な質が生まれつき優れているものに恐れを懐き、憎んでいた。彼はあらゆるものの生を陰鬱な労働であり、退屈であり、自分と同じように無駄で空虚なものにしたがっていた。あらゆる寓話にもかかわらず、世俗的な成功によっているべき貧民街から抜け出て、楽天的な陽気さを示す才能を見るほど悩ましいことはない。凍結によって死ぬこともなく、冬を冬眠して過ごす蝶の光景などは一週間彼の食欲を失わせるに充分だった。彼の最も大きい喜びは、自分より美徳もなく才能もないものが不幸になることを観察し、そこから有望な道徳を引きだすことにある。
最終的に、破産したキリギリスが金を貸してほしいとやってくる長らく願い待ち望んだ出来事が起こったとき、アリは道徳的義憤に、陳腐で勝利に満ちた「いった通りだろう」という調子で悪意のこもった説教を行った——いや、そうではない。もっとも高度な倫理的社会的根拠に基づいて、一ペニーも貸すことを拒んだ。
数日後、蜘蛛が歴史的な最後通告としてまるはな蜂を送り込んだ。戦争が宣告された。じが蜂やスズメバチ、ミツバチはすぐにまるはな蜂の側についた。アリとシロアリは古くからの同盟軍で蜘蛛に向かった。すぐに、世界中のあらゆる虫が抗争に巻き込まれた。キリギリスも軍に編入された。アリは家にいて、二年間で財産を三倍にし、(有徳な虫の慎重さでもって)上流に貸し付けし、国債に投資していた。戦争が終わると、彼は億万長者になっていた。三ヶ月もすると、アリ国の通貨は暴落したが、累積した財産は、もはや通貨交換はされなくなったが、一週間のパンとマーガリンを蓄えるのに足りるほどだった。
しばらくして、株と証券で向こう見ずな賭に出たキリギリスは世界で四番目に豊かな虫になった。このことの道徳は、慎重さと美徳とはその美点にもかかわらず、常にそれに見合った報酬を得るとは限らないということである(ありがたや、と我々は合唱できよう)。
しかしこの話には続きがある。貧しくなった古い友人が助けを求めてきたとき、過剰な親切さという悪徳をもっていたキリギリスは、即座に巨額の小切手を書き、利害に関心を抱くことを拒んでしまった。アリは借りた金を二つに分けた。一方で金融に関わるジャーナリストを買収して市場に恐慌を起こした。他方で、充分パニックに襲われたキリギリスが売りにだした株を急落した値段で買い付けた。そしてその過程で、価格は再び上昇し、アリは再び非常に豊かになり、キリギリスは比較的貧しくなった。
このことの道徳は明らかである。授けられたものは常に善に対する防御壁でなければならず、善は彼らの本来的な敵であり、その美徳と才能のあいだには終わることのない戦いがあり、これからも続くだろう。
II.蛙とその王様
指導者のない蛙たちはジュピターに王を願った。ジュピターは彼らの祈りを聞き、彼らの池に丸太を投げ込んだ。水しぶきは蛙たちのあいだに警戒を呼び起こした。しかし漣が収まると、隠れた場所から出てきて、新たな支配者に敬意を表した。親しむにつれて彼らの尊敬は軽蔑に変わり、数日後には、蛙たちはなんの反応も示さない王によじ登り、跳躍台や日向ぼっこの場所に使うようになった。
時が過ぎた。丸太王の穏やかな治世のもと、蛙たちは増えて数倍になった。愛国的両生類の満足がいくように、蛙の数は跳ね上がった。「わが偉大なる成長する国」と蛙のジャーナリストは書いた、「増加する数は我が国の偉大さと道徳的進展の間違いのないしるしである」等々。
しかし、数年が過ぎると、池は密集して快適さを失っていった。虫や浮き草、蚊の卵やナメクジ、カゲロウなど生活に必要なものの価格は恐怖を感じさせるほど高騰した。スイレンのなかの最適な区画は借りることが禁止された。池の中央にある工業地帯は怖ろしく混み合っていた。ヤナギの根にあるスラムは——筆舌に尽くしがたいほどひどかった。思慮深い蛙たちは、出生率が最も高いところがもっとの最悪の地帯だと苦しげに観察した。バトラチアの、余暇をもち専門職にある者たちの階級では、著しく出生率が低かった。彼らのあいだでは避妊の実践が広まっていたのだ。過去には六千から七千の卵を産んでいた女性蛙たちは、いまでは六、七百しか産まなかった。
反対に、スラムの住人たちは、無謀に卵を産み続けた。もっとも表面的な観察者でも、数多くの変形した、くる病や、白痴や、なかば狂ったオタマジャクシが池で泳いでいるのに衝撃を受けた。同じ割合で進んでいけば、数年後にはバトラチアの在庫が完全に取り返しのつかないほど減ってしまうことは明らかだった。質の低下は人口量の増加と運命的に結びついており、バトラチアの最優秀な統計学者によれば、池の資源が住人の数に対して不十分になることは遠くなかった。
代表団は王を待ったが、丸太は問題を扱うために踏みだそうとはしなかった。ベンサムやジョン・スチュワート・ミルの自由放任学派によって育てられたに違いなかった。最終的に、バトラチアの聖職者がジュピターに対して荘厳な訴えかけをした。「主たるジュピターよ、」と彼らはゲロゲロといった、「あなたの王は我々の役に立ちません。彼は行動せず、政治的観念は時代遅れで、現代生活の問題を扱うことができません。」
ジュピターは蛙たちの忘恩と変わりやすさに驚いた。「よろしい、」と彼は答えた、「新しい王が望みなら、得るであろう」非常に大きなコウノトリが送られ、宗教的儀式の真ん中に降り立つと、自制できないままに枢機卿とバトラチアの指導的聖職者の半分を飲み込んだ。残りは睡蓮の葉から飛び降り、深い安全なところまで泳いでいった。新たな王の食欲は底なしだったので、あっという間に池の人口は半分以下になった。
ジュピターのユーモアのセンスは粗雑で、悪ふざけ以外のジョークを理解できなかったので、池の様子をまごうことなき満足な様子で見つめていた。「新しい王は気に入ったか」と彼は少したったのちにもっとも賢い蛙に尋ねた。嫌悪をもちながらも、年老いた蛙は、自分も友人たちも情け深い王に非常に満足していると答えた。
「満足?」とジュピターは繰り返した、別の不満を聞くことを予期しており、そのときには蛙たちに気まぐれについてのよい説教をしてやろうとしていたのだ。「満足している?しかし彼はおぬしらの半分を食ったではないか。」
「それこそまさに我々が王に感謝していることです」と賢者蛙は答えた。「より強く、より知的なものだけがなんなく王のくちばしから逃れることができます。犠牲になるのは精神や身体が脆弱なものだけです。確かに王は民衆の半分を食べました。しかしよりよい半分が残ったのです。不適合者を皆殺しすることによって、彼は我々の種族の退化を防ぎ、政治的問題を解決し、我々の社会的悪――スラム――の叫びを消し去ったのです。彼は価値の下落と人口の増大の原因となった餓えの解消を保証してくれたのです。彼の支配は、一言で言えば、長い目で見れば慈善なのです。王をどれほど高く評価してもしすぎることはありませんし、このような立派な王を与えてくれた、主たるジュピターよ、あなたにもどれほど感謝しても足りるものではありません。」
「そうか、なんてことだ」とジュピターはいった。
III.狐と烏
ある烏が木の枝にとまっていた。たまたま一匹の狐がその下を通りかかった。狐は空腹だった(狐は慢性的に空腹なのである)。烏はくちばしに一片のチーズを挟んでいた。とても大きいわけでもなく、特によいものでもなかった。しかし、狐はおごった口をもってはおらず、どんな小さなつまらないものを拾い上げても尊厳が下がるとは思ってもいなかった。そこに彼の成功の秘密があった。
「こんにちは、お嬢さん」と彼は烏を見上げていった、「一目見ただけであなたがとても感受性に豊かで、芸術的な魂をもっていることがわかりましたよ、無理解な者たちと同じ趣味をもたない者たちのあいだでは、あなたの本来の才能を伸ばすことはできないでしょう。」
烏はまんざらでもなさそうで、より注意深く聞くために頭を立てた。
「自己紹介をさせてください」と狐は続けた、「私の名は狐で、仲間を助けることを使命としています。特に私が力を注いでいるのは、人格の発達、正当な幸福の実現、成功の達成で、私はそれらをほんのわずかの料金で教えていますが、成功しなかった場合には返金することになっています。あなたの場合には、お助けできることがわかります。誤解された魂というのは私の専門の一つですから。どうか自己表現の手助けをさせてください、自己表現とともに成功、幸福、富が訪れるのです。」
「喜んで」と烏は不明瞭に答えた。というのも、くちばしを開くことなく話し、言葉はチーズによってこもってしまったからだ。すべての女性同様、彼女も自分の魂について語られることを好んでいた。自分が誤解されており、誤解されやすい性格をしているといわれて、得意になった。
「ではお話ください」と狐はいった、「あなたの特殊な才能はどんなもので、私的な野心はなんです。銀幕であなた自身を表現することをお望みですか。それとも、短編小説や広告の書き手として富と名声を得るのが夢ですか。」
烏は頭を振った。
「多分ミケランジェロやダナ・ギブソンの例に霊感をうけて彼らに続こうというのでしょう」と狐は続けた、「もしそうなら、あなたを六週間で、巨匠にすることを保証しますよ。書くことができるものなら、描くこともできるものです。テーブルクロスに染みをつけるものならば絵を描くこともででます。よい趣味と芸術についての私の通信教育は、十分満足のいくものだろうし、科学的でもあります・・・」
しかし、再び鴉は頭を振った。
狐は落胆はしなかった。「もし最高のセールスレディになることをお望みでしたら、」と彼は続けた、「あるいは歯医者になる、有能な助産婦になるという薔薇のような夢を見ていらしているなら・・・」
「いいえ、いいえ、」と鴉は注意深く、チーズの隙間からほとんど聞えないような声で語った「私はミュージカルが好きですの」
「みゅーじかる!」狐は叫んだ、「そうだと気づくべきでした。芸術のなかでももっとも神聖な音楽!私のハリトキシック的体系によるピアノ教育では、練習の退屈な必要は完全になくなります。」
「でも私は歌い手です」と鴉は言った。
「なおさらよろしい」と狐は答えた。「私の声形成獲得学習過程を取ることです。学生は学んでいるあいだにミュージカル・コメディーやグランド・オペラの役を取りました。」
「本当なの」と烏は大いに興味を見せた。
「本当ですとも」と狐は実績のあるものの確信をもって答えた。「でも教科にはいる前に、あなたの歌を聴かねばなりません。すぐに歌ってもらえますか」
既にカルメンかマルガリーテ二成りきった烏は、頭をそらすと高いCの音を出した。チーズは嘴から落ち、狐は落ちてきたものを受け取ると、すぐにのみ込み、口を舐め、急いで去って行った。その間、鴉は恍惚として歌っており、音楽のこと以外頭になかった。そのカーカーなく声が調度そのとき後ろを飛んでいたわたりガラスの耳に入った。隣の枝に止まると、わたりガラスは注意深く歌を聴いた。彼女が歌い終わると「ブラボー!」と叫んで、黒人のキャバレーの経営者であるかのように、場所を空けた。烏は喜んで申し出を受け、短い時間ではあったが、この国でもっとも称讃された有色の演者だった。
愚かさが幸運と結びついて狡知に至ることをこのことは示している。
しかし、その大半は一時的なものである。烏が狐にチーズを与え、教科課程に入ったのであるから、その料金を払う必要があることを根拠に、狐は最初の日のもうけの十パーセントを支払うべきであることを証明した。いうまでもなく、彼の言い分は通った。
2017年11月24日金曜日
青木玉『幸田文の箪笥の引き出し』(抜き書き)
1.露伴の愛用品。まったく個人的な興味。好きな故人がどんなものを使っていたかというのは、エピソードのたぐいのなかでも私には特に好ましいものである。サドが獄中から夫人に当てて、枕を送ってくれと書いて送ったことは、ロラン・バルトが言及し、澁澤龍彦が、エクリチュールだなんだというのはよくわからないが、常に具体的なものに執着するバルトは面白いと書いていた。石摺りの着物は是非着てみたいものだが、旅館の浴衣しか着たことがない私には分不相応である。
懐中物の財布は菖蒲革、小銭入れはいわゆるがま口がま口した口金のパチン
となるもので茶の裏皮、煙草入れと煙管入れは対の山椒粒大の相良繍で模様が
一面に刺してある。これ等総て不用意に懐から滑り落ちることのないように選
ばれた素材だ。一度水を通した手拭を八ツに畳んだ中に挟んで懐中すれば、い
い加減なゴマの灰如きにしてやられる鈍智は踏まぬ、茶色好みの露伴先生は用
心のいいところもあった。
私の思い出す普段着の祖父は、いつも石摺りの着物で居たように思う。母は
ちゃんと垢づかない、時期に合った着物を用意していた筈だのに、他の着物の
祖父は思い出せない。木村伊兵衛、土門拳の両氏が撮った写真の着物もやはり
これだ。それほど好んで着ていたと言える。
何度も何度も洗い張りし、内側には継ぎも当てられている。所どころ手当て
しても目立つ傷もある。石摺りというこの布は、絹とは思えない丈夫な布で厚
く織られ、染めた後に石で摺って布を柔らかくし、色もまた、摺れたところ
が、多少白くなって、染め上げた色目より濃淡がついて面白味が出るという。
一見古ぼけ色の目立たない布だが、多分着れば暖かくしっかり身を包んで、見
てくれのぺらぺらものより、どれほど安心感のある信頼のおける着物になるこ
とか。裏をみればこれまた普通の胴裏の布とはちがう太めの糸の地布である。
石に摺られる布は、普通の裏地にすると、表布に喰われて摺り切れてしまうの
ではないか、己れも摺られ相手も摺る、何か恐ろしく、また切なさもある布
だ。
2.幸田文と久保田万太郎。もみとは辞書によれば、紅絹と書き、字の通り、紅色に染めた絹織物のこと。もみに江戸の女を見る連想の回路がいまでも残っているのか、見当もつかない。
座は賑やかに沸いていた、向いの席に久保田万太郎さんがいらっしゃって、
「あれ、幸田さんもう帰るの、もう少しいいでしょう」
と声をかけて下さったのにお辞儀をして、出口の方へ行こうと、ぐるっと体
を廻して立ち上がった、と大向こうから声がかけられたように、
「ああいい取り合わせだ、如何にも江戸の女だね。振りの赤がきれいじゃな
いか」人の目が“振り”に集まった。びっくり仰天、脱兎の如く逃げ帰って来
た。
「芝居を書く方は怖いね。こんなお婆さんで取るところも無いものを着て出
て行ったのに、ぎゅっと袂先おさえられたって気がした。もみを付けていたことも忘れていたのに」
2017年11月23日木曜日
A・J・エイヤー『言語・真理・論理』(抜き書き)
1.意味のある文章。詩も小説もない論理だけのこうした世界にはいまではまったく興味がない。かつては、一つには意味と無意味の相違に興味があったのと、もうひとつは、どちらにしろ無意味は産出されるのだから、論理だけの世界にどうやって無意味がしみだしてくるのかに興味があって、エイヤーなどにまで手を出した。しかし、ラッセルなどはまだ、怠惰についてのエッセイや、神秘主義を論じるなど、狂気につながるような論理の追求があって面白いが、その追随者は概してつまらない。
我々は、次のような場合、そしてただこの場合にのみ、文章は、任意の人間に
対し、実際に意味を持ちうるものとする。その場合というのは、その人間が、
その文章の表現しようとしている命題を検証する方法を知っている場合、いい
かえれば、一定の条件の下において、どんな観察をしたら、その命題を真なり
としてうけいれることが、あるいは、逆に偽なりとしてしりぞけることが出来
るか、を彼が知っている場合である。もし反対に、想定されている命題が真で
あると仮定してもあるいは偽であると仮定してもそのいずれの仮定も、彼の未
来の経験の性質についての如何なる仮定とも両立するものであるようなものな
らば、それは、彼に関する限り、同語反復でなければ、単にまがいものの命題
であるにすぎない。このまがいものの命題を表現する文章は、彼にとって、情
緒的には意味があるかも知れないが、字義上からは無意味である。
2017年11月22日水曜日
猪野謙二『明治文学史 上』(抜き書き)
1.紅葉、露伴と西鶴。紅葉と露伴は、西鶴の影響を受けて文学的出発をなしたと言われる。文学史では必ず言及され、古典文学全集などのたぐいには必ず収録されるいまから考えると不思議なことだが、西鶴は明治十八年頃には、ほとんど忘れられた存在だった。もっとも露伴は、明治二十三年に書かれた「井原西鶴」という短い文章のなかで、先頃初めて会った坪内逍遙が自分のことを西鶴崇拝者と見なしていることにちょっとカチンときたらしく、明治の聖代に生まれて誰が枯れ果てた骨の余香に生命を託するものか、真の血と涙を筆からしたたらせて書くものにとって西鶴などは「馬前の一塵」に過ぎないと、見得を切っている。
紅葉、露伴がはじめて西鶴を読みはじめたのは、これよりさき、当時文壇の
隠れたる一奇人淡島寒月が早くから蒐集していたその原本によってであった。
明治になってからのその複刻としてはかれらの雑誌「文庫」(二二年)に載っ
た「好色一代女」「好色五人女」の一部がもっとも早いが、勝本清一郎は紅葉
自身の「書留帳」などにもとづいて、かれがはじめて西鶴本に接したのはすで
に早く明治一八年頃からであったと推定している。
2017年11月21日火曜日
トーマス・アルティザー『神の創世』(抜き書き)
トーマス・アルティザーは、マーク・C・テイラーなどと同じく、現代思想と神学とを接続しようとした人で、ニーチェに従い、神の死を認めた。しかし、キリストに具現化したその死によって、精神が世界に蔓延することになる。いまではさほど興味がないので簡単に。
1.ヘーゲル、マルクス、キルケゴール。
マルクスとキルケゴールはヘーゲル体系の真の継承者であろう。マルクスは純
粋理性を純粋に物質的な土壌の暗黒の神秘に移し換えることによってそれを転
倒し、キルケゴールは純粋理性を絶対的に超越的な神という、これも暗黒の神
秘に移し換えることで転倒する。彼らそれぞれのヘーゲル的思考の転倒はヘー
ゲル的方法と純粋否定の運動の絶対的な転倒であり、たとえそうした転倒がヘ
ーゲル的土壌と離れては成り立たないものであり、この土壌から離れるならば
消滅がまぬがれないにしても、それにもかかわらずこの転倒はその土壌を無効
にするのであり、それは、彼らの転倒は我々の時代においてそれ自身の解体に
まで達するからである。この経緯は、純粋な思考の終わりであるのかもしれ
ず、もしこの終わりが黙示であるなら、それ自体、初源の黙示が転倒を約束さ
れていたという究極的な神秘であり、その究極的な神秘は同時に創世の究極的
な神秘である。
2.ナルシシズムとユートピア的「私」。 神と罪との関係
アウグスティヌスは神の「我」が一つの純粋な或いは単一の「我」であり、そ
こでは意志と存在の、あるいは行動と意志との合一があることを知っていただ
ろう。それは我々の二分化された「私」とはまったく異なるものであり、とい
うのも、神の意志が彼の存在と一つであるのに、我々の意志は我々の存在、我
々の真の本質的な存在に向けられているのであり、それは我々が自らの個的存
在の唯一の源泉であり、著者であろうとするからである。それは原罪の源にあ
る自負であるが、そのような自己-中心的な意志は「存在」はせず、むしろそ
れは現実の実体化された無なのである。この実体化された無は我々にとって内
的な現実であり、自己意識の最も十全な瞬間、自ら意志する瞬間、つまり、我
々が内的な深みの力に気づく瞬間に我々にとって最も現実的なものになる。し
かしそれらの深みは究極的には空虚な深みであり、それがある現実的無の、罪
の現実性である現実的な無の実体化であるがゆえに空虚なのである。ネオプラ
トニストとして、アウグスティヌスは悪が幻影であることを知っていただろ
う。しかし、パウロ的なキリスト教徒として、彼は罪が全く堕落した意志であ
ること、たとえその意志が形而上学的に存在の喪失、或いは不在であるにして
も、内的には、それは完全な現前、罪の完全な現前であることを知っていた。
3.自己意識と死。
アウグスティヌス的な自己意識は神の現前と切り離すことはできないが、真に
近代的な自己意識は究極的には自律的な意識であり、それが最初に十全に具体
化されたのはミルトンの悪魔である。ゲーテとニーチェがファウスト的意識と
して知っていたものは、事実、真に近代的な自己意識、深く、ただただそれ自
身である自己意識、それゆえ、死の意識である意識であった。それゆえ、我々はかつてないような具合に死を知っている。というのも、我々の自我は決して知られることのなかった自我、意識が、以前にはそれ自身であるのみの主体として自らを理解することがなかったゆえに決して知ることがなかった自我であるからである。
4.不死の観念と近代
それは[不死の観念に結びついた永遠の生命]は近代の到来によって最も直接
的に危機におちいった信念であり、その危機は既に初期近代の最も純粋に形而
上学的であり宗教的な思想家スピノザにとって身近なものだった。この危機は
フランス革命が起こるまでは公的、歴史的に明らかなものとはならなかった
が、明らかになるや抗することのできない最終的なものとして生じ、ロベスピ
エールをしてこの革命のカオス的結果を止めるべく最終的運命的な試みをする
よう駆り立てさえした。不死性と至高の存在の公的な宗教を確立して結果を得
ようとしたロベスピエールの失敗は、フランス革命における脱キリスト教の失
敗のしるしではなく、むしろ、客観性と主観性との近代に新たに生じ、独特な
二律背反、新たな内的で単一な主観性の客観的実現化の可能性を閉め出す二律
背反のしるしなのである。客観的同一性と主観的同一性との絶対的な対立、マ
ルクスとキルケゴールが深く知っていた対立が存在し、この対立は西洋の意識
と社会の最も深い土壌を形成していた永遠性の象徴そのものの欠如或いは転倒
の最終的な帰結である対立なのである。
2017年11月20日月曜日
青木正児『酒中趣』(抜き書き)
『酒中趣』からの抜き書きなので、この文庫に収められているかどうかわからない。
1.大酒の会などばかばかしい催しが江戸時代には盛んだったようで、落語の枕でもさんざん聞いたおぼえがある、なかには醤油一升飲んで死んだ馬鹿なやつがいたもんで。辞世の歌がくだらなくていい。
江戸初期慶安の頃江戸に大酒戦が行はれた。一方の大将は地黄坊樽次とて大塚(後の鶏声が窪であると云ふ)に住み、一方の大将は大蛇丸底深とて川崎の大師河原に住んでゐた。慶安元年秋の頃樽次は門下の酒徒を引連れて大師河原に乗込み、底深の一門と飲競べして底深を屈服せしめた。此の顛末を戦記物語風に戯作したのが「水鳥記」(三水に酉の意)三巻で、樽次の自作だと云われてゐる。京伝の「近世奇跡考」巻五などによると、樽次は本名を伊原城(一に茨城に作る)春朔とて酒井候に仕へた儒医で、寛文十一年四月七日に卒し、駒込千駄木妙林寺に葬られ、法名を信善院日宗と号した。然るに没後其の門下の酒徒であつた小石川戸崎町祥雲寺の住持が寺内に彼の為に碑を立て、法名を酒徳院酔翁樽枕居士と題して其の辞世二首を刻した。其の一に曰ふ、
南無三宝あまたの樽を飲みほして、身は空き樽に帰る古里
と。
2.羊と石。『列仙伝』だったか、道術を厳しい修行の末に体得し、皇帝に披露を命じられ、石になった仙人がいたと思う、なんの役に立つのやら。
黄初平が金華山中で白石を叱して羊と為したと云ふ故事。(・・・)
羊成石、石成羊 (羊ハ石ト成リ、石ハ羊ト成ル。
即此可以喩滄桑 即チ此レ 以テ滄桑ニ喩フ可シ
今朝有酒須盡觴 今朝 酒有リ 須ク觴ヲ盡ス可シ。)
飲満座 (満座ニ飲マシム。)
2017年11月18日土曜日
飯沢匡『刺青小説集』(抜き書き)
刺青を題材とした短編集。解説を花田清輝が書いている。全体的に、団鬼六のエッセイと似た雰囲気を感じる。
「東大と刺青」
同級生だった秀才の友人は、全身に彫物をしていたらしい。彼の話。大工に性の手ほどきと刺青の教育を同時に受ける。
彼は男根に墨を入れ、さらには黒曜石のように墨一色の個体となる。刺青にはあこがれを感じるが、さすがに模様なしの一色は理解しがたいなあ。
かつて彼の局部が、まるで石炭か黒曜石のように光沢のある墨一色の個体であるのを見たのだったが、今度は彼の体全体がそれになっているのだった。
彼は、今までの色とりどりの図柄の文様の上から墨を入れて、総てのものを墨の下に隠してしまったのである。墨は皮膚に入って藍色になり、彼は黒ん坊でなく藍ん坊になっていた。まるで藍がめに首まで漬かり、そのまま上がったといったらよい姿であった。あの滲んでぼけた線も、褪せて薄鼠色の霧になっていたぼかしも、総て新鮮な、ぴかぴか光る深い深い藍をたたえた一色の皮膚に変っていた。
「サムライと刺青」
三島由紀夫の切腹を巡るエッセイ。
サディズムとマゾヒズム。サディズムとマゾヒズムを生物学的本能に結びつけた、よくあるといえばよくあるインチキくさい説だが、マゾヒズムを雄の、サディズムを雌の性的感情だとしているのは面白い。
動物の繁殖の時に、雄は優秀な雌を得んがために狂奔する。そして雄同士は死闘を展開する。W・ディズニーは、その動物映画の中でこういう場面をいくつか私たちに見せてくれた。たとえばカナダ山中の大鹿は、鋭利な角の先で相手を攻撃して傷つける。こうして昼となく夜となく争闘して競争者を斥けたのちに、勝ち残った強い雄が目指す雌のもとに駆けつけて夢の交合を遂げるのだ。つまり、それまでは血と死の場面の連続である。雄はこの争闘でもちろんのこと傷つく。そして血を流すのだ。気の弱い雄は出血したら逃げ出してしまうことだろう。つまり争闘の放棄である。神というか自然はそんな弱い雄の種は保存する必要はないと認定して、たとえ出血しても、それにひるまず次の争闘に勇敢に立向う雄に、適者生存の法則を適用する。つまり血を見れば血を見るほど、たけり狂うくらいな奴の種こそ保存すべきと自然は考える。そこで血を見ると、性が昂進するような傾向を与えたのだ。人はこれをマゾヒズムといって、十九世紀のマゾッホ博士が発見者みたいにいい、特殊な例のようにいうが、実は生物の種の保存上の重要な要素であって、生物たるものは多かれ少なかれこの傾向を持っているのだ。
マゾヒズムの逆のものにサディズムがあるが、これも同様に説明がつくのであって、その血まみれになって雌のもとに駆けつけて交合を挑むような雄にこそ、雌たるものは愛を感じないと自然が求めているような優秀な種の保存はなし得ない。そこで自然は血まみれの度が物凄い雄の姿に愛着を感じるように、雌にサディズムの傾向を与えたのである。
だから私にいわせるとマゾヒズムは雄の性的感情で、サディズムは雌的傾向と断ずるのである。
弁天は私にとっては『うる星やつら』でもお気に入りの登場人物であるのだが、そういえば、高橋留美子なぜセクシャリティの逆転にこだわっているのだろうか。立腹は確かに儀式化したサムライの作法からはほど遠い。
あの芝居は私にいわせると徳川末期の町人趣味が最も色濃く現われているもので、そもそも女装した男子が、刺青の肌ぬぎになってゆすりかたりをやるというのだ。観客は女形という約束で、男性俳優でも女性と思い込んでいると急に、あられもない姿になるのでセックスの混乱を起す。一体男としての美を感ずるべきか女性としてのか。あれこそ性倒錯の走りというべきであろうが、じつに巧妙な悪戯で、私のような悪戯好きの人間にはまことに興味のある演劇だ。三島がそれを演じたのも多分、例の若年にして洩らしている「鬼面人を驚かす」という考えに基づくものであろう。「青砥稿花紅彩画」というこの芝居では大詰になって弁天小僧は寺の屋根の上で多勢の捕手にとり囲まれて立腹を切って、まことに派手に打ち果てるのである。この立腹ということはサムライよりもむしろ町人たちの憧れの的であっただろう。つまり、サムライは儀式が好きだから従容として正座して腹を切るが、立腹というのは起立したまま腹を切るので、あまりサムライ的とはいえない。しかし講談の世界などではこれがよく出て来て、サムライの勇壮さをいやが上にも増大させているのだ。つまり、これは非常に切腹としては難しいもので、よっぽど豪毅な人間、意志力、体力のある人間でないと不可能だ。切腹して出血すれば人間は当然貧血する。血圧が急速に低下して脳が貧血するのでフラフラと重心を失う。その時立っているので、重心は高いところにあり、非常に不安定である。うっかりしたら、それだけで倒れてしまう。倒れたら無ざまこの上ないので立腹を切るやつは、よっぽど自信がないと出来ないのである。倒れずに立派に最後まで腹をかき切ってその上で自ら頚動脈を切り、そこで始めて倒れるという次第だ。これが最も男らしい死というわけで芝居作者は弁天小僧にこの立腹を切らしているのだ。
2017年11月17日金曜日
気味の悪い指南所――古今亭志ん生『あくび指南』
志ん生の息子である先代の金原亭馬生には『あくび指南』の二つの録音のヴァージョンが残っている。一方は他方のほぼ二倍の長さである(十五分と二十七分)。
ひとつにはマクラが長くなっている。まず名人と言われた圓喬の講座姿が語られる。また、江戸には妙な商売があってという流れで、噺家の多くが取り入れている釣り指南(座敷で糸の引き具合によってなにが釣れたかを教える)の前に、耳かき屋、猫の蚤取り屋が加えられている。耳かき屋には上、中、下があってそれぞれ金、竹、釘の耳かきが使われる。猫の蚤取り屋は狼の毛皮でしばらく猫を覆っていると、狼の毛皮の方が上等であるために、蚤がそちらに移るらしいのだ。
マクラ以外にも本編でも珍しい付けたしがされている。『あくび指南』は友人を連れてあくび指南所を訪れた男がなかなか教え通りにうまくできず、見ていた連れが「くだらねえものを稽古しやがって、待っている俺の身にもなってみろ、退屈で退屈でならねえや」と大あくび、「お連れさんはご器用だ」と終わる。
馬生の長いヴァージョンには男が最初に習う朝湯での湯屋のあくびが付け加わっている。湯船に浸かっているときのあくびで、うなり、都々逸、あくび、念仏と続くというのだが、まったくうまくいかず、指南役も早々に諦めてもっと簡単な涼み舟のあくびに替えるのである。涼み舟のあくびは四季のあくびのうちで最も簡単な夏のあくびに当るという。
柳家小さんは四季のあくびのそれぞれを紹介している。春のあくびは、一人旅の田舎の田圃道、花は咲き乱れ、山は霞がかかって雲のなかでは雲雀がさえずり、陽炎も立ちのぼっているなかでのあくびである。秋のあくびは秋の夜長人を待っているがなかなか来ない、お銚子の燗もぬるくなってしまったときに出るあくび。冬のあくびはこたつに入って草双紙を読むのにも眼が疲れてしまったところにこたつから猫が出てきて、のびとともにあくびをするのを見てこちらもうつってしてしまうあくびである。そして、夏のあくびは一日がかりの舟遊びにも飽きて退屈してするあくびということになる。
この話のおかしみは、誰でも自然にしているあくびをわざわざ教わることの滑稽さにあることは確かである。だが、なかば不随意であるあくびまでをも生活の様式化のなかに組み込もうとしているのだとみると、三百年の江戸文明の安逸も侮りがたいこととなろう。四季のあくびのなかでもっともやさしい夏のあくびはあたかも芝居の一情景のようであり、指南もまた芝居の型を伝えるように進む。それゆえ、ある程度以上の文明を感じさせるが、他のあくびはより日常生活に喰いこんだ、より不随意なあくびであり、そうした日常の場面まで様式化されるということは文明の爛熟と言っていいのかデカダンスと言っていいのかわからないが、のど元に合口を突きつけられたようなひやりとした感触を味わうこととなる。
2017年11月16日木曜日
マイケル・エイヤーズ『ロック』(抜き書き)
1.経験論から概念―経験論への移行。概念ー経験論というのは耳慣れない言葉だが、経験というのはむきだしの対象と向き合うのではなく、経験は概念と混然している。
ロックの認識論が早くに発展を遂げているなら、それはエピキュロスに帰せ
られ、十七世紀には早くにピエール・ガッサンディによって説かれた経験論か
ら、概念―経験論といういくつかの点で経験論に対立する理論を組み合わせた
ものに移行したと言える。我々に伝わり、ガッサンディが提示し、発展させた
エピクロスの認識論では、我々の言葉に意味を与える概念を感覚を通じて得る
ことと、理知と科学の出発点となる定義や公準を形作る命題的な知識を得るこ
ととがはっきり区別されていないように思われる。どちらも、個別的なものを
繰り返し経験することで得られると思われる。それゆえ、ガッサンディは我々
の知識はすべて知覚的な知識に依り、「普遍的な命題からくる明証や確実性は
すべて個別的な例からの帰納によっている」と主張することができた。他方、
ロックは、その後期の思想に至り、観念の獲得と知識や信念の獲得との相違、
帰納と普遍的、あるいは抽象的観念との相違により重きを置くようになって、
知覚的な知識とは異なり、それとは独立したアプリオリな普遍的知識のことを
考えることができるようになった。かくして、彼は、必然的な真理の直感的な
理解を確実な知識の範例とするデカルトや、デカルトとガッサンディ双方の友
人であるマラン・メルセンヌのような哲学者に同意することができた。もちろ
ん、ガッサンディのように、彼は、デカルトはよりもずっと感覚に重要な役割
を、すべての観念の源泉、知識の「材料」であり、「直接的な対象」であるば
かりでなく、いかなる推論からも独立した個物の存在の「感覚的知識」の源泉
としての役割を与え続けた。だが、ガッサンディとは異なり、またメルセンヌ
に同じく、彼は「感覚による知識」が最高度の「明証」よりも低いことを認め
たのである。
2.実体は複雑観念。ギリシャ以来の伝統では、日常的な慣例と同様、人間や馬などを実体と見なし、それらをもって基本的な観念が構成されるとした。しかし、ロックにおいては、こうした実体は、単純観念ではなく、色、形、重さといった観念が集まった複雑観念だとされた。
伝統的なカテゴリーの教義では実体と他のカテゴリーとの間に根本的な相違が
あるが、ロックにおいては単純観念とその他の相違が最も重要である(「単純
様相」は特別扱い、限られた意味でのみ単純である)。伝統的論理学は「人
間」や「馬」といった実体を「単純名辞」の範例とする。複雑性の範例は、実
体がそれを形容するものと、偶然的なものと結びついたときにあらわれる。他
方、ロックはその認識論において、我々のもつ実体の観念は複雑観念だと主張
した。
3.因果関係と力能。因果関係を認めることは慣習に過ぎないとしたのはヒュームであり、カントからポパーに至るまで大きな影響を与えた。しかし、不思議なことに、ロックにおいては、さほど論じられていない。
後の懐疑論に照らせば、また、生得観念の教義に反対していることを見れ
ば、特に驚くべきことに思われるが、ロックの力能と原因結果の観念の扱いは
別のもので、議論の最後の方にあらわれ、さほど強調されてもいない。力能に
ついての章のほとんどは人間の行動と自由に関するもので、原因結果について
の簡単な議論は関係観念の章のほとんど補遺のような場所に押し込められてい
る。どちらの議論も、ある観念の経験からの発生ということについては不満足
なもので、循環論法だという非難を招くもののように思える。というのも、我
々は、基本的、永続的で、因果的作用を及ぼす構造のしるしとして、不連続的
ではあるが、「定期的な」観察される振る舞いを論理的にいって取らざるを得
ないという示唆は、受け入れることのできるものに思えるが、それは因果性の
概念ばかりでなく、ある因果的秩序が存在することを仮定しているように思え
る。それは、出来事というのは単に起こることではなく、出来事の経験は、あ
る法則が支配する世界についての、またその内部での経験だということを仮定
している。しかし、ロックは因果性の観念を力能の観念に先行するものとは見
ておらず、因果性を力能と全く同じ用語で説明している。
およそ私たちの感官は事物の絶えまない変転を覚知するが、そのさい私たちは、個々のいろいろな性質や実体がそのどちらも存在し始めること、ならびに、それら[性質や実体]のこうした存在を他のある存有者の適正な適用・作用から受けとることを、観察せずにはいられない。この観察から私たちは、原因結果についての私たちの観念をえる。・・・たとえば、私たちが蝋と呼ぶ実体のうちに流体性という、前には蝋になかった単純観念が、一定程度の熱の適用[ないし熱を当てること]によっていつもきまって産みだされるのを見いだすと、私たちは熱の単純観念を、蝋の流体性との関係で流体性の原因と呼び、流体性を結果と呼ぶ。 第2巻第26章1
繰り返して言えば、「絶え間ない変転」の経験がある種の仮定を確かなもの
として受け入れるのを余儀ないものとするのは、観察される規則性が観念の発
生を促すときである。だが、原因は通常「感覚できないような仕方で働いて」
結果を産み出すので、観念はその指示対象を観察できないものにおいているこ
とになる。ロックは、知られてはいないが、論理的に仮定される原因と結果を
結びつけるメカニズムを「modus operandi」あるいは「作用のしかた」と呼んだ。
しかし、単に「原因結果の観念をもつには、ある単純観念ないし実体が他のある単純観念ないし実体の作用によって、その作用し方はわからずに存在し始めると考えれば、じゅうぶんなのである」と言う。かくして、原因結果の観念は力能の観念と同じように説明され、その関係そのものを知ることはできない
が、にもかかわらず、思考に表象されるのである。同じことは、特殊な因果、
寒気のような「活動」の観念についても言える。というのも、「ある活動を表
現するように見える多くのことばは、活動ないし作用様相についてどんな事物
もまったく意味表示せず、働きかけられる主体あるいは作用する原因の諸事情
を伴った結果だけを意味表示する」からである。こうした議論はすべて循環論
法だという非難を招くように思える。我々が経験する比較的規則的な連鎖があ
るだけの世界の基に、完全に法則に支配された過程やメカニズムが存在するこ
とを経験がどうして保証してくれようか。批評家は、真の問題は、どうもロッ
クが考えたらしいように、そうしたメカニズムがどのように思考に表象される
かではなく、いかにして我々は表象されるべきものとしてその概念を知るよう
に、あるいはそこに至るのかにあるのだと感じているらしい。たとえ、あらゆ
るものには原因があるというのを必然的な真理として受け入れるにしても、精
神が、因果関係を得る前に、普遍的な因果関係の原理に訴えることは想像でき
ることではない。そのうえ、因果関係の発生において恒常的な結合の観察に帰
せられる役割と、ある特殊な場合において、因果関係が直接的な覚知としてあ
るという感覚による知識についての教義の間には矛盾が存在するように思え
る。
こうした批判は、明らかに限定された目的をもち、明らかに仮定的であるロ
ックの力能と原因の観念形成についての考察から正当な結論を導き出せば、釣
り合いの取れた見方に置き直すことができる。というのも、彼がこの手早い言
及によって、我々がいかにその最も一般的な意味において、因果的な用語で考
えるようになったかの説明を提供するつもりでいると仮定することはとても考
えられないからである。結局、彼の「史的」認識論と表象理論のすべては、我
々の世界についての知識はまだその第一歩をも踏み出せていないこと、多分我
々は、我々自身と他の事物との因果関係についてのなんらかの覚知なしには、
真の意味において考えることはできないのだということを納得させようとして
いる。この点において、彼の表象理論に反対する批判がどんなものであろう
と、ロックは間違いなく正しい。我々は彼の因果関係についての考察を額面ど
おりに読む必要がある。即ち、我々はいかに思考においてある種の偽装品、あ
るいは変数を用い、それによって非常に特殊な方法で考えることが、またそれ
自身経験の範囲からはみ出す限られた知識をもつことが可能になる、そのこと
の説明としてである。こうした標識は、経験に対する精神の対応から生じたも
ので、単純観念をその原因の記号として用いるのと同じほど自然で合理的であ
る。「なぜなら、どんな変化が観察されても、心は、事物自身が変化を受ける
可能性ばかりでなく、どこかにその変化をさせることのできるある力能を推断
しなければならないからである。」ロックからみれば、この対応は、自然は法
則に支配されているという明示的に表わされた、あるいは(彼にとっては意味
のないことであるが)暗黙の考えによるのだと仮定する必要はない。というの
も、既に見てきたように、デカルト派その他が生得原理、生得概念として説明
したものを、ロックはその特徴通り、我々の心的能力の単純な修練として説明
したからである。従って、その原因の自然な記号として単純観念を用いること
は、彼にとっては、普遍的な因果性の原理を採った推論の結果でもないし、同
じ条件で同じ結果ならば同じ原因をもつという法則に訴えているのでもない。
ただ最も単純で最も基本的なレベルでの思考と経験に過ぎないのである。
4.感覚経験と力能の世界。我々の知覚する世界がそれ自体空間的だという明証をロックは与えてくれない。それ故に、我々は常に生きているこの世界が夢ではないかと疑うことができる。また、バークレー流の観念論への道も開いた。
彼の議論は、感覚経験を通じて直接に知られる世界は、完全に力能の世界であ
るということが含意されている。まさしくこの説によって、バークレーは、力
能が属する実在、即ち、非空間的で精神的な実在についての敵対する論点へ進
むよう導かれるよう感じたのだった。我々の知覚する世界がそれ自体空間的だ
という直接的な我々の知識を正当化するためには、ロックが我々に与えてくれ
なかったなにかが必要である。事物の存在が空間的であり、空間的に知覚さ
れ、それらの知覚的知識の可能性そのものであることを含意するような議論で
ある。
2017年11月15日水曜日
ジョシア・ロイス『現代哲学の精神』(冒頭)
ロイスは19世紀後半から、20世紀前半にかけて活動したアメリカの哲学者で、ドイツ観念論の影響を受け、絶対的精神や永遠なるものが、諸個人間の矛盾を解消するために必要だと考えた。ウィリアム・ジェイムズの論敵としてなじみのある方もあろうかと思う。
第一講義 一般的序論
これからの講義で、私は一般学生に適ったような仕方で、現代哲学の歴史のなかで、限られてはいるが、もっとも代表的で、私にとってもっとも興味深く思われる人物、問題、事柄について述べようと思う。この仕事をするには時間と力の限界について鋭い感覚を持つことが必要である。私としては、哲学の大きな問題に学生の何人かでも関心を持ってくれたらと望んでいるだけなのだと弁解しておく。
I.
講義が基づいている仮定について始めに述べておこう。哲学は、その適正な言葉の意味においては、世界の神秘をなんらかの超人間的な洞察や法外な巧妙さによって説明し、推測しようとする努力ではなく、生のより重要な事柄について、自らの個人的な姿勢に理に適った説明を与えようとすることにその起源と価値がある。あなた方が、世界で実際にしたことを批判的に反省するときに哲学をしている。最初にすることは、もちろん、第一に生きることである。生には情熱、信仰、疑い、勇気が含まれる。それらがなにを意味し、含んでいるかについて批判的に探求するのが哲学である。我々は生きる上で信仰をもっている。この信仰を反省的に批判しようとする。我々は法と意義のある世界にいると感じる。だが、なぜ我々は現実には過程にあるかのような感じを覚えるのか、この世界に価値を感じるのかは批評の問題である。そうした生の批評を洗練させ、徹底的に行うのが哲学である。
もし私の想定が十分納得のいくものなら、健全に哲学すること、徹底的に自己批評することは、まさしく人間的な、自然な仕事であり、頻繁に携わることはなくとも、誰もが時に応じてすることで、最初からある種の共感をいだくことだろう。意志しているかどうかはともかくとして、我々はすべて哲学をしている。専門的な哲学を愛する気質といわゆる形而上学になんら関心をいだくことができなものとの間の相違は、種類ではなく程度の差である。道徳的秩序、生における悪、良識の権威、神の意図、それらについて、また、思慮に富んだ批判的懐疑論について滅多に本を開かない人々からどれだけ頻繁に聞いたことだろう。哲学を専門にする学生は、他の人々が時折することをいつもの仕事にしている。非形而上学的な生活を送っている人たちにとっては、運命や生のもっとも深い真理について反省することは、音楽を楽しみ、アマチュアとして気晴らしをする程度のことでしかない。哲学の学生であることは、単に反省的に考える専門的な音楽家であるに過ぎない。彼は毎日のように、音階を練習するように、「論理を切り刻む」と馬鹿にされることに従事する。端的に彼は技術的な巧妙さに喜びを覚えるが、その熱意は生の分析に従事していないものにとっては理解不可能なものである。しかし、思弁への愛情は、幾分特殊化された自然な好みに過ぎない。彼はある種の吝嗇であり、他の人たちが社交の場の装飾品や、会話により重みをもたらすために使うものを財宝としてしまっている。専門的な哲学者ではなく、瞬間的な反省に限定するならば、友人との重々しい話や、無数の世界と気まぐれな心のままに、偉大で深遠な宇宙を夢見るようなまなざしで驚嘆し、束の間の瞑想に耽ることにとどまるだろう。そうした偶然の心の探究、束の間の普遍的なものとのふれあい、反省にまでは育っていない芽生えのようなものは、他の状況にあったら、哲学体系にまで発達したかもしれない。もし気を留めることがなかったなら、すぐに忘れてしまい、形而上学にちょっとした興味があったと空想することになるかもしれない。しかし、にもかかわらず、知的な人々はすべて、形而上学を嫌悪するものも含めて、自らに反してしばしば形而上学者なのである。・・・
第一講義 一般的序論
これからの講義で、私は一般学生に適ったような仕方で、現代哲学の歴史のなかで、限られてはいるが、もっとも代表的で、私にとってもっとも興味深く思われる人物、問題、事柄について述べようと思う。この仕事をするには時間と力の限界について鋭い感覚を持つことが必要である。私としては、哲学の大きな問題に学生の何人かでも関心を持ってくれたらと望んでいるだけなのだと弁解しておく。
I.
講義が基づいている仮定について始めに述べておこう。哲学は、その適正な言葉の意味においては、世界の神秘をなんらかの超人間的な洞察や法外な巧妙さによって説明し、推測しようとする努力ではなく、生のより重要な事柄について、自らの個人的な姿勢に理に適った説明を与えようとすることにその起源と価値がある。あなた方が、世界で実際にしたことを批判的に反省するときに哲学をしている。最初にすることは、もちろん、第一に生きることである。生には情熱、信仰、疑い、勇気が含まれる。それらがなにを意味し、含んでいるかについて批判的に探求するのが哲学である。我々は生きる上で信仰をもっている。この信仰を反省的に批判しようとする。我々は法と意義のある世界にいると感じる。だが、なぜ我々は現実には過程にあるかのような感じを覚えるのか、この世界に価値を感じるのかは批評の問題である。そうした生の批評を洗練させ、徹底的に行うのが哲学である。
もし私の想定が十分納得のいくものなら、健全に哲学すること、徹底的に自己批評することは、まさしく人間的な、自然な仕事であり、頻繁に携わることはなくとも、誰もが時に応じてすることで、最初からある種の共感をいだくことだろう。意志しているかどうかはともかくとして、我々はすべて哲学をしている。専門的な哲学を愛する気質といわゆる形而上学になんら関心をいだくことができなものとの間の相違は、種類ではなく程度の差である。道徳的秩序、生における悪、良識の権威、神の意図、それらについて、また、思慮に富んだ批判的懐疑論について滅多に本を開かない人々からどれだけ頻繁に聞いたことだろう。哲学を専門にする学生は、他の人々が時折することをいつもの仕事にしている。非形而上学的な生活を送っている人たちにとっては、運命や生のもっとも深い真理について反省することは、音楽を楽しみ、アマチュアとして気晴らしをする程度のことでしかない。哲学の学生であることは、単に反省的に考える専門的な音楽家であるに過ぎない。彼は毎日のように、音階を練習するように、「論理を切り刻む」と馬鹿にされることに従事する。端的に彼は技術的な巧妙さに喜びを覚えるが、その熱意は生の分析に従事していないものにとっては理解不可能なものである。しかし、思弁への愛情は、幾分特殊化された自然な好みに過ぎない。彼はある種の吝嗇であり、他の人たちが社交の場の装飾品や、会話により重みをもたらすために使うものを財宝としてしまっている。専門的な哲学者ではなく、瞬間的な反省に限定するならば、友人との重々しい話や、無数の世界と気まぐれな心のままに、偉大で深遠な宇宙を夢見るようなまなざしで驚嘆し、束の間の瞑想に耽ることにとどまるだろう。そうした偶然の心の探究、束の間の普遍的なものとのふれあい、反省にまでは育っていない芽生えのようなものは、他の状況にあったら、哲学体系にまで発達したかもしれない。もし気を留めることがなかったなら、すぐに忘れてしまい、形而上学にちょっとした興味があったと空想することになるかもしれない。しかし、にもかかわらず、知的な人々はすべて、形而上学を嫌悪するものも含めて、自らに反してしばしば形而上学者なのである。・・・
2017年11月14日火曜日
バーナード・ボサンクエット『美学の歴史』(冒頭)
ボサンクエットは19世紀末期から二十世紀初頭にかけて活動したイギリスの哲学者。絶対的観念論の旗手だった。絶対的観念論とは、個々の経験は各人の視点、欲望によって必ず矛盾を含む、そうした矛盾を解消するのはただ「絶対的なもの」があるだけであり、そうした絶対性を目指して漸進的に進んでいくしかない、と荒っぽく要約できる。彼らはまたイギリスにおいて、ヘーゲルの影響を受けた者たちであり、ヘーゲルという偉大な先例にならったものか、『美学の歴史』のような著作もある。
第一章 ある提案とその美との関係
美学の歴史と美術の歴史
1.「美学」という言葉が、理論的な探究の一部分として、美についての哲学を示す意味として採用されたのは、さして昔のことではなく、十八世紀の後半である。しかし、名前の前に現物は存在していた。美や芸術についての考察は、ある意味においてはそれ以前の哲学者にはなかったが、少なくともソクラテスの時代にはギリシャの思想家のなかに見られるからである。
「美学」が美の哲学を意味するなら、美学の歴史は美についての哲学の歴史を意味しなければならない。そしてそれは直截的な主題として、美に関する事実を説明したり、結びつけようと試みた哲学者たちの体系的理論の連続を受けいれねばならない。
しかし、それがすべてではない。具体的な生との絶え間のない関係をもたらす歴史的、また論理的、哲学一般にわたる扱いも必要とされ、それは形式的概念の底流を流れるものとして見過ごしにされてきた。あらゆる時代において、考察は、一方において、過去を形式的に教えることになるが、他方において、現実の世界は現在の意識において主張する。論理学や哲学一般の歴史が科学や文明の歴史と完全に切り離すことはできないように、倫理学や美学の観念の歴史は必然的に道徳や芸術の歴史との関わりを扱うことになる。
しかし、この類推のなかには著しい相違がある。たとえば、論理学の理論の発展との関わりで、帰納科学の歴史を読むとき、我々が研究している時期の人間精神の発達を理解する助けとならない限り、過去の知識の特殊な分野についてほとんど関心をもたないでいることができる。古代の化学や天文学は、我々にとっては、人類学の生徒が水上生活や石斧に関して抱くほどの好奇心しかもたらさない。政治形態や社会慣習の詳細、言葉の機微、宗教的教義の細かな点についてなど、その他多くの文明の要素についても同じである。過去を解読することが現在を理解するのにいかに大きな助けになろうと、生のすべての局面は、科学的調査や歴史的実情が期待される場面では、過去のものは過去のものとして遇されがちである。実際には過去において力をもっていた道徳的、宗教的観念は、一般的に我々の現在の関心を喚起する力をもっている。すべてのあらわれにおいて、人間の道徳的本性の同一性は実に根深いものがある。しかし、この点において、壮大な文学を含めて、芸術の創造の水準に達しているものはない。芸術だけが時代が進むにつれて重要性を減じるよりも増している。かくして、我々がその発達の段階を通じて美的意識の跡をたどろうとするとき、我々の前にあるのは考古学的興味を引くものではなく、我々の現在の生活に大いに価値があるような具体的な存在である。芸術の歴史は具体的な状況としての実際の美的意識の歴史である。美学の理論とはこの意識の哲学的分析であり、その歴史についての知識が本質的な条件となる。また、美学理論の歴史とは美学理論の知的形式にある美的意識の跡をたどることであり、解明されるべき中心的な事柄とは人間の生に対する美の価値であり、それは実践の内に含意されていることもあれば、反省において明らかに認められることもある。我々が享受する最も美しいものに分析的に干渉することへの自然な反感にもかかわらず、この種の哲学の歴史は、過去と過ぎ去ったものについての理論的解釈だけではなく、少なくとも、世界がもつもののなかでもっとも消滅しがたいと思われる実在を正しく評価する助けとなるという利点があることを考慮しなければならない。
自然美と芸術の美の関係
2.前の節で、芸術は美の世界の唯一の代表とは言わないが、理論的目的のために受け入れることができると想定した。この想定が正当化しうると思われる観点を説明するのが必要である。
あらゆる美は知覚か想像力のなかにある。我々が美の領域として芸術と自然とを区別すると、重力や固性のような互いに反応しあうもののように、事物が人間の知覚とは独立した美をもっていると想定しているわけではない。それゆえ、我々は暗黙のうちに美的評価の通常の、平均的な能力のなかに自然美を含めなければならない。しかし、もしそうなら、この関係において「自然」は「芸術」とは程度が異なり、どちらも人間の知覚や想像力を媒介とするが、一方は通常の精神につかの間のあいだ、普通にあらわれる物や観念であり、他方は、記録や解釈のできる天才の固定したもの、あるいは高められた直観になる。
さて、物理的な因果関係の分野を研究するとき、我々は訓練されていない観察者が日常的に目にする所謂事実だけを考えるわけにはいかない。科学から我々はいかに知覚するかを学まねばならない。我々が観察者としての資格を与えられている限り、また他者を組織的に記録する知覚である限り、我々は科学に依存しており、我々の自然の知識はそのほとんどをそこから得ている。
美学の領域における自然は、物理科学における通常の観察者の知覚に類似している。第一に、知覚者にとって外的世界に働きかける目や耳の範囲は限られており、記録されるべき、あるいは伝えられる内容をもった形式など存在しないからである。第二に、それは突然芸術の領域に移行するのではなく、連続的に変更されながら移っていくものであり、それは、自然の美を洞察し享受する力は相対的であり、美的な修練や一般的文化によって訓練され強められる。それゆえ、一般的に実在の世界について語られるときには実際には科学によって知られる世界を意味しているように、一般的に世界の美について語られることは実際には芸術によってあらわにされる美を意味している。どちらの場合でも、最良の知覚が記録されたものを、それが最上の知覚で記録されてているがゆえに、我々は頼ることになる。この習慣は、解釈したり、評価したり、またできうる限り、我々が自身の手で記録された知覚を修正することを排除するものではない。このように理解されると、芸術の美は自然の美を排除しはしない。完成された「芸術作品」が、ある場合には自然の対象をあらわしてはいないとしても、限定的なものや行動であるという事実は正当に考察されねばならず、創造的精神は芸術生産の一要素と認められねばならない。にもかかわらず、「芸術作品」が存在しないところに芸術はない、あるいは、画家が絵の仕事をしていないないときには、我々が見るのと同じ自然を見ており、それ以上ではないと想像することは大間違いである。この理由から、実践において必然的なように、芸術を哲学的研究の目的となる美を代表するものとして受け入れることは理論においても正当化されうる。『現代画家論』においてラスキンが試みたように、物理的な事実のもと自然の美を分析している場合でさえ、主要な目的としているのは、いかに偉大な芸術家たちが、自然な光景や対象を表現する優れた洞察力によって、所謂自然美と言われるものの境界線を拡大するかを示すことに向かっている。批評家が芸術家の達成を評価する基準として自然を持ちだすのは、もちろん、自分自身の芸術的感受性、そして多かれ少なかれ訓練された知覚の最後のよりどころとしてある。美学理論によって自然とは美の領域を意味し、そこではあらゆる人間が自ら芸術家である。
美の定義とその美学の歴史との関係
3.普遍的に受け入れられるといえる美の定義は存在しない。しかしながら、この本でその言葉が用いられた意味を説明しておくことは便宜上いいことだろう。そして、そうした説明において、古代の根本的な理論が、現代のもっとも内容に富んだ概念の根底にあると提示できるなら、少なくとも、結果的にその定義は美学の歴史を書くという目的に適ったものとなろう。
古代人のなかで、美についての根本的な理論はリズム、シンメトリー、部分の調和という考えに結びついていた。端的にいえば、多様性のなかの統一という一般的な公式である。現代人のなかでは、生命というものが含む意義、表現性、発言などにより重きが置かれている。つまり、一般的にいって、特徴をなすものの概念である。もしこうした二つの要素を共通の名称に還元すれば、理解可能な美の定義を示唆してくれるだろう。・・・
第一章 ある提案とその美との関係
美学の歴史と美術の歴史
1.「美学」という言葉が、理論的な探究の一部分として、美についての哲学を示す意味として採用されたのは、さして昔のことではなく、十八世紀の後半である。しかし、名前の前に現物は存在していた。美や芸術についての考察は、ある意味においてはそれ以前の哲学者にはなかったが、少なくともソクラテスの時代にはギリシャの思想家のなかに見られるからである。
「美学」が美の哲学を意味するなら、美学の歴史は美についての哲学の歴史を意味しなければならない。そしてそれは直截的な主題として、美に関する事実を説明したり、結びつけようと試みた哲学者たちの体系的理論の連続を受けいれねばならない。
しかし、それがすべてではない。具体的な生との絶え間のない関係をもたらす歴史的、また論理的、哲学一般にわたる扱いも必要とされ、それは形式的概念の底流を流れるものとして見過ごしにされてきた。あらゆる時代において、考察は、一方において、過去を形式的に教えることになるが、他方において、現実の世界は現在の意識において主張する。論理学や哲学一般の歴史が科学や文明の歴史と完全に切り離すことはできないように、倫理学や美学の観念の歴史は必然的に道徳や芸術の歴史との関わりを扱うことになる。
しかし、この類推のなかには著しい相違がある。たとえば、論理学の理論の発展との関わりで、帰納科学の歴史を読むとき、我々が研究している時期の人間精神の発達を理解する助けとならない限り、過去の知識の特殊な分野についてほとんど関心をもたないでいることができる。古代の化学や天文学は、我々にとっては、人類学の生徒が水上生活や石斧に関して抱くほどの好奇心しかもたらさない。政治形態や社会慣習の詳細、言葉の機微、宗教的教義の細かな点についてなど、その他多くの文明の要素についても同じである。過去を解読することが現在を理解するのにいかに大きな助けになろうと、生のすべての局面は、科学的調査や歴史的実情が期待される場面では、過去のものは過去のものとして遇されがちである。実際には過去において力をもっていた道徳的、宗教的観念は、一般的に我々の現在の関心を喚起する力をもっている。すべてのあらわれにおいて、人間の道徳的本性の同一性は実に根深いものがある。しかし、この点において、壮大な文学を含めて、芸術の創造の水準に達しているものはない。芸術だけが時代が進むにつれて重要性を減じるよりも増している。かくして、我々がその発達の段階を通じて美的意識の跡をたどろうとするとき、我々の前にあるのは考古学的興味を引くものではなく、我々の現在の生活に大いに価値があるような具体的な存在である。芸術の歴史は具体的な状況としての実際の美的意識の歴史である。美学の理論とはこの意識の哲学的分析であり、その歴史についての知識が本質的な条件となる。また、美学理論の歴史とは美学理論の知的形式にある美的意識の跡をたどることであり、解明されるべき中心的な事柄とは人間の生に対する美の価値であり、それは実践の内に含意されていることもあれば、反省において明らかに認められることもある。我々が享受する最も美しいものに分析的に干渉することへの自然な反感にもかかわらず、この種の哲学の歴史は、過去と過ぎ去ったものについての理論的解釈だけではなく、少なくとも、世界がもつもののなかでもっとも消滅しがたいと思われる実在を正しく評価する助けとなるという利点があることを考慮しなければならない。
自然美と芸術の美の関係
2.前の節で、芸術は美の世界の唯一の代表とは言わないが、理論的目的のために受け入れることができると想定した。この想定が正当化しうると思われる観点を説明するのが必要である。
あらゆる美は知覚か想像力のなかにある。我々が美の領域として芸術と自然とを区別すると、重力や固性のような互いに反応しあうもののように、事物が人間の知覚とは独立した美をもっていると想定しているわけではない。それゆえ、我々は暗黙のうちに美的評価の通常の、平均的な能力のなかに自然美を含めなければならない。しかし、もしそうなら、この関係において「自然」は「芸術」とは程度が異なり、どちらも人間の知覚や想像力を媒介とするが、一方は通常の精神につかの間のあいだ、普通にあらわれる物や観念であり、他方は、記録や解釈のできる天才の固定したもの、あるいは高められた直観になる。
さて、物理的な因果関係の分野を研究するとき、我々は訓練されていない観察者が日常的に目にする所謂事実だけを考えるわけにはいかない。科学から我々はいかに知覚するかを学まねばならない。我々が観察者としての資格を与えられている限り、また他者を組織的に記録する知覚である限り、我々は科学に依存しており、我々の自然の知識はそのほとんどをそこから得ている。
美学の領域における自然は、物理科学における通常の観察者の知覚に類似している。第一に、知覚者にとって外的世界に働きかける目や耳の範囲は限られており、記録されるべき、あるいは伝えられる内容をもった形式など存在しないからである。第二に、それは突然芸術の領域に移行するのではなく、連続的に変更されながら移っていくものであり、それは、自然の美を洞察し享受する力は相対的であり、美的な修練や一般的文化によって訓練され強められる。それゆえ、一般的に実在の世界について語られるときには実際には科学によって知られる世界を意味しているように、一般的に世界の美について語られることは実際には芸術によってあらわにされる美を意味している。どちらの場合でも、最良の知覚が記録されたものを、それが最上の知覚で記録されてているがゆえに、我々は頼ることになる。この習慣は、解釈したり、評価したり、またできうる限り、我々が自身の手で記録された知覚を修正することを排除するものではない。このように理解されると、芸術の美は自然の美を排除しはしない。完成された「芸術作品」が、ある場合には自然の対象をあらわしてはいないとしても、限定的なものや行動であるという事実は正当に考察されねばならず、創造的精神は芸術生産の一要素と認められねばならない。にもかかわらず、「芸術作品」が存在しないところに芸術はない、あるいは、画家が絵の仕事をしていないないときには、我々が見るのと同じ自然を見ており、それ以上ではないと想像することは大間違いである。この理由から、実践において必然的なように、芸術を哲学的研究の目的となる美を代表するものとして受け入れることは理論においても正当化されうる。『現代画家論』においてラスキンが試みたように、物理的な事実のもと自然の美を分析している場合でさえ、主要な目的としているのは、いかに偉大な芸術家たちが、自然な光景や対象を表現する優れた洞察力によって、所謂自然美と言われるものの境界線を拡大するかを示すことに向かっている。批評家が芸術家の達成を評価する基準として自然を持ちだすのは、もちろん、自分自身の芸術的感受性、そして多かれ少なかれ訓練された知覚の最後のよりどころとしてある。美学理論によって自然とは美の領域を意味し、そこではあらゆる人間が自ら芸術家である。
美の定義とその美学の歴史との関係
3.普遍的に受け入れられるといえる美の定義は存在しない。しかしながら、この本でその言葉が用いられた意味を説明しておくことは便宜上いいことだろう。そして、そうした説明において、古代の根本的な理論が、現代のもっとも内容に富んだ概念の根底にあると提示できるなら、少なくとも、結果的にその定義は美学の歴史を書くという目的に適ったものとなろう。
古代人のなかで、美についての根本的な理論はリズム、シンメトリー、部分の調和という考えに結びついていた。端的にいえば、多様性のなかの統一という一般的な公式である。現代人のなかでは、生命というものが含む意義、表現性、発言などにより重きが置かれている。つまり、一般的にいって、特徴をなすものの概念である。もしこうした二つの要素を共通の名称に還元すれば、理解可能な美の定義を示唆してくれるだろう。・・・
2017年11月13日月曜日
オルダス・ハックリレー「芸術における誠実」
『ヴァニティ・フェアー』の1926年6月号に発表された。
文学の商業的な側面について論じた本を最近出版した、文学のエージェントであるマイケル・ジョセフは、ベストセラーについて論じている。石鹸や朝食やフォードの車のように売ることを目的とした本の性質はどのようなものだろうか。それが問いであり、答えは分かりきっているように思える。その貴重な処方を手にし、最も近い文房具の店に行き、六ペンスで紙を大量に買い、魔術的な殴り書きで埋めると、それを再び六千ポンドで売るのである。紙ほど豊かに修正される原材料はない。時計のバネに変わる一ポンドの鉄はもとの価値の数百、あるいは数千倍の価値がある。しかし、大衆文学に変わる一ポンドの紙は、文字通り数百万の利益で売られるかもしれない。紙が大衆文学に変わる過程の秘密を知ってさえしたら。しかし、我々は知らない。ジョセフ氏でさえ無知である。さもなければ、本を売るといういまの職業よりずっと利益が上がる職業に就き、ベストセラーを書くであろうことは明らかである。
ジョセフ氏が言うことができるのは次のことだけである。ベストセラーは誠実でなければならない。この情報はまったく正しい——実際、明白なまで真であるので、特別に有益ではない。成功しようとすれば、あらゆる文学、あらゆる芸術は、ベストセラーであろうがそれ以下のものであれ、誠実でなければならない。故意の模倣は、チャールズ・ガーヴィスを模するにせよシェリーを模するにせよ、相当期間の間相当数の人間を得ることは決してできない。ひとは自分自身以外の何ものかになることに成功することはあり得ない。それは明らかである。ベストセラーの精神をもっている人間だけがベストセラーを書くことができる。そして、シェリーのような精神をもっているものだけが『解放されたプロメテウス』を書くことができる。繊細な贋作者は同時代を動かすことは殆どないし、後代を動かすことはまったくない。
しかしながら、文学史の年代記には、数少ないが意図的な贋作者が存在する。たとえば、エリザベス朝のグリーンは、ユーフィスを模倣し、マーロウの詩的なスタイルを捏造し、リリーの小説やマーロウの劇のように一般の称讃をもって受け入れられることを望んだ。彼自身のスタイルは、それを書いたときには、愉快で魅力的なものである。借り着の方は明らかに体型に合っておらず、誰にも印象づけることはできなかった。
贋作と捏造で相当な名声を得たもうひとりのより最近の文学者には、フランス人のカチュル・メンデスがいた。彼のひどく器用な亜流の作品を読むと、それらは多くの人間がすることを取り入れているのに驚く。彼の金は明らかにまがい物であり、宝石は明らかに真の宝玉の舞台用の複製である。こうした人間に興味を持つことは難しい。それらの作品は芸術とはほとんど、あるいはまったく関わりがなく、その非神秘的な人格は心理学的になんの好奇心や繊細な問題をもたらさない。それらはシエナ画の素朴さやチッペンデール風の椅子を利益のために贋作するものの文学版である。それですべてである。心理学者の注意をひくに値する唯一の非誠実な芸術は、故意に不誠実なのではなく、知らず知らずのうちに誠実な芸術家であろうとしているにもかかわらずそうなってしまう場合である。
日常生活のことでは、誠実さは意志の問題である。我々は誠実か非誠実か選択できる。それゆえ、著者が誠実であることを望み、努力するにもかかわらず非誠実になる芸術作品のことを語るのは逆説のように思われる。もし誠実であることを望むなら、そうできると論じられる。善良な意志の欠如以外にそれを妨げるものは何もない。しかしそれは真ではない。芸術における誠実さは単に誠実であろうと望む以外の別のことに依存している。
生活においては誠実さの完全な模範であるという事実にもかかわらず、その作品は非誠実である芸術家たちの例をあげることは容易だろう。たとえば、キーツとシェリーの友人であり、かつてなされた上で最も大きく、もっとも偽りに満ちた宗教画を描いた画家のベンジャミン・ロバート・ヘイドンの事例がある。彼の『自伝』——この種のものでは最良の本であるが、愚かな出版社は五十年ものあいだ絶版にしている——には、人間の生における誠実さ、自然発生的な熱情、真に高貴な理想論、数知れない愛すべきところがないではない失敗が存在している。しかし、彼の絵——彼が生涯をかけて情熱と努力を捧げた絵——をみたまえ。それらを——つまり、見られるものが見つけられたなら——見てみたまえ。というのも、それはほとんど画廊の壁にではなく、倉庫のなかにあるからだ。それらは舞台での輝き、情熱の冷たい因習、感情の修辞的なパロディに満ちている。それらは「非誠実」——この言葉が唇に昇るのは避けがたい——である。
同じ人柄と作品との劇的な対照は、ベルギーの画家ウィーツにも見いだされ、そのブリュッセルにあるスタジオは市の画廊よりも訪問者が多い——しかし、画家の絵が芸術作品であるからではなく、サイズの巨大さとメロドラマ的な恐怖が彼らを引きつけている。ミケランジェロ的な夢はある種の絵画によるバーナム・サーカス団として生き残っており、彼の美術館はお化け屋敷の人気をもっている。
アルフィエーリもまた、非誠実で舞台めいた芸術を生みだしながら、人柄においては誠実で大まじめな人間だった。彼の『自伝』と生気がなく、こわばった因習的な悲劇とが同じ人物の手になったと信じることは難しい。
真実のところ、芸術における誠実は意志や、正直と不正直との選択の問題ではない。主として才能の問題である。魂を傾けて誠実で、真正な本を書くことを望んでいるが、そうした才能を欠いていることもあり得る。誠実な意図にもかかわらず、非現実的で、間違っており、因習的な本であることもある。感情は劇場でのように表現され、悲劇はもったいぶったまがい物であり、劇的であることを意図されたものはあからさまなメロドラマになる。それを読むことで、批評家はぞっとし、嫌悪を催す。彼はその本を「非誠実」だと評する。書いたときの意図の純粋性を意識している著者は、彼の名誉と道徳的価値についての感覚を傷つけられるかのような形容に怒るが、現実には、知的な能力に烙印を押しているだけなのである。というのも、芸術に関しては「誠実である」とは「心理学的な理解と表現に天与の才をもっている」ことと同じ意味だからである。
あらゆる人間は同じ感情を非常に良く感じる。しかし、正確に何を感じているかを知り、他人の感情を言いあてることのできる者はほとんどいない。心理学的洞察は、数学や音楽を理解する能力と同じように、特殊な能力である。そして、そうした能力を持つ数百人のうち二、三人だけが自分の知識を芸術的な形に表現できる才能を持って生まれた。明らかな例を取ってみよう。多くの人間が、おそらくはほとんどの者が、一度や二度は激しい恋愛に陥ったことがあろう。しかし、それらの感情をどう分析すればいいかを知るものはほとんどいないし、それを表現できるものは更に少ない。離婚やロマンチックな自殺の調査の法廷で大声で読み上げられるラブレターはどれほど真剣に「わき起こった」ものであろうと、大多数の人間が経験するものであろうと、いかにも感傷的で文学的な芸術というにはそぐわない。おおげさで、因習的で、ありきたりの表現に満ちており、すり切れた無意味な修辞が多く、実生活の標準的なラブレターは、本で読んだとしたら、最終的には「非誠実」なものだと攻められることになろう。死の直前に書かれた自殺者の本当の手紙を読んだことがあるが、書評家として私はそれらの明白な「非誠実」をさらしものにすることになった。だが、結局のところ、自殺にまで追い込んだ感情の誠実さよりも高い誠実さの証拠を要求することは困難であるだろう。才能ある自殺者の書いた手紙だけが芸術的に「誠実」である。彼らが感じていることを表現できない残りの者たちは、二流の小説の陳腐で「非誠実」なレトリックに戻るしかない。
ラブレターについても同じである。我々はキーツのラブレターを情熱的な関心をもって読む。それらはもっとも新鮮でもっとも力強い言葉によって、苦悶のあらゆる詳細を意識しながら、魂の苦しみを描きだしている。その「誠実さ」(著者の才能の果実である)はラブレターをキーツの詩と同じくらい興味深く、芸術的に重要なものとしている。詩よりも重要であるとさえ私はときどき思う。同じ時期の若い薬剤師が書いたラブレターだったらと想像してみよう。キーツとファニー・ブラウンにあったのと同じように、彼は希望のない恋愛に落ちていたかもしれない。しかし、彼の手紙は価値がなく、興味を湧かすこともなく、苦痛なまでに「非誠実」であろう。我々は僅かばかり優れた対応物として、その時期の長く忘れられているセンチメンタルな小説を見いだすことだろう。
それゆえ、我々は芸術作品を「非誠実」と形容することに十分慎重であるべきだ。言葉の真の、倫理的な意味における非誠実な作品は——グリーンのものやカトゥルス・メンデスのもののように——故意の贋作や意識的な模倣作だけである。我々が「非誠実」と名づける作品のほとんどは、現実には能力がないだけであって、(芸術家として)心理学的な理解と表現に欠くべからざる才能に欠いた精神の産物なのである。
2017年11月12日日曜日
オルダス・ハックリレー「マリー・ローランサン:才能ある女性」
『ヴァニティ・フェアー』の1922年7月号に発表された。
装飾的な応用美術で、女性は多くのことを成し遂げている。昔から、男性が戦いや追撃のために海外にいるあいだ、女性は家にいて役に立つ芸術や工芸品をつくっていた。
織物や陶器のようなものはもともとそれをつくっていた女性の発想に、その美しさや優雅さの多くを間違いなく負っていた。実際、すべての応用美術には女性の影響が直接的、間接的に感じられるといっていいほどである。そのすべてにおいて、優雅さ、気品、魅力に対する貢献が見て取れる。
しかし、応用的ではない美術においては、いずれにしろその限りにおいては、女性はほとんど成し遂げたことはなかった。自由が増え、またより満足のいく教育を受けられるようになった結果、未来において女性の芸術の量が増え重要性も増すかどうかはここで論じる必要のないことである。現在にいたるまで女性の美術の現実における達成は疑問だと認めねばならない。美術の歴史において偉大な女性の人物、典型の創造者、創始者は存在せず、女性の画家のなかでも、新たな光輝や力強さは言うに及ばず、新たな優雅さ、これまでになかった気品をつくりだしたものはいなかった。ロザルバ、ビジェ・ルブラン、アンジェリカ・カフマン、ローザ・ボニュアー、バーサ・モリソーーーと過去の女性画家をあげても、多いとはいえない。
全体的にいえば、ゴンチャロバ、テレーゼ・ルソー、トゥール・ドナ、ニナ・ハムネットなど現代においては、才能のある女性に言及することができる。そしてこうした同時代人のひとりとして、過去に無益に探し求めたものーーパーソナリティ、創造者、新たで本質的に女性的である優雅さの創始者を見いだすことができる。彼女の名はマリー・ローランサンといい、ポール・ローゼンバーグの画廊で、数週間のあいだ、彼女の代表作を見ることができる。
マリー・ローランサンは便宜上のレッテルとしてはることのできるような画家ではない。彼女はどんな流派にも属さず、決定的に、エゴイスティックなまでに自分自身である。
もちろん、彼女はリアリスティックに描こうともしなければ、特別劇的な出来事を再現しようともしない限りにおいて、曖昧に「モダン」だとされている。しかし、それはラベルを貼り、分類できる限りにおいてのことである。キュビストは彼女の友人である。彼女は彼らのなかで生活し、彼らの厳格でペダンチックな芸術理論を聞いていたーーそして寸分たりとも彼らの影響を受けることを自分自身に許さなかった。友人たちが面と線とを正確に幾何学的に配列することに専心しているあいだ、マリー・ローランサンは自身の素晴らしいヴィジョンをキャンバスに静かに記録し続けた。彼女のぼやけた近視の目の背後にある世界で見られるものは何と奇妙で鋭敏なものだったことか。どれほど独特にそれを描いたことか。何人もの女性の顔と猫たち、何匹もの猫の顔と女性たち、不安に満ちた黒くビースのような眼をしたこの上なく優雅で繊細な白い少女たちと馬や鳥や猿たち、想像上の犬と花ーーそれらは彼女の宇宙におけるファウナとフローラである。彼女の絵はプロットがわからないなんらかの不可思議な物語の挿絵のようだ。それらは未知の繊細で不条理なテーマを主題にして描かれている。
厳格なキュビストの批評家は、あらゆる芸術、すべての質を無視し、造形力のあるものだけを認めさせようとするかもしれない。アカデミズムのあまりに文学的な評価基準に対する反動としては、この教義は、芸術には感傷と劇以外にも別のものが存在すること、芸術には道徳や場面の正確な描写をする以外にも他の働きがあることを思い起こさせるよい働きをした。
しかし、ある主張からくる他のすべての信条と同じく、芸術の純粋に美的な働きについてのこの教義は行きすぎてしまった。芸術の質として、造形以外のものを無視しようとするのは不条理である。もしそうするなら、事実を無視していることになる。ミケランジェロの立像の造形力は我々を感動させる。しかし、驚くべき情感の高まりもそうなのである。ラファエルの甘美さは、その美しく研究された構成と同様に親しみを感じさせる。レンブラントの作品に立ちこめる反省と劇的な力は、開かれた構成と新たな空間感覚と融合している。同じことがマリー・ローランサンにもいえる。彼女の絵で我々を楽しませるのは、構成、色彩、方法だけではない。女性的な魅力、おぼろげで美しい幻想でもあるのだ。彼女の作品の文学的な質はーー漠然として曖昧で、非劇的なものを「文学的」といえるならであるがーー美的な質と同様に重要である。
純粋に美的な面だけを取ってみても、彼女の絵が風変わりで興味深いのは確かである。彼女の形の世界は薄っぺらであるが、完全に平面ではなく、いわば三次元の萌芽をもっている。一般的に、二つあるいは三つの平面だけが表層に密着しており、絵画の表面と平行なものはほとんどない。深い谷間や周囲の空間に対して屹立する立像的な塊は存在しない。実際、彼女の世界は周囲に直接触れる実在にしか気づかない極度の近眼の世界のように拘束されている。この薄っぺらい宇宙では、明暗法もなければ、鋭く限定された造形的対象もない。絵は平面的で、それを壊すものもない。色彩は常に柔らかで、非常に微妙に調和されている。彼女の最上の構成には、愉快で、一般的に単純なリズム的パターンがある。
彼女の作品が我々に残す最終的な印象は、鋭敏で豊かな優雅さである。彼女の絵は装飾において最も魅力的である。そして、「装飾」という言葉で、我々の本性と価値が、芸術に対する本質的に女性的な寄与をしていることを評価していることは確かである。彼女は新しく精妙な装飾を発明したので、それは過去において日常を豊かにしたものたちに伍するものである。確かにここには芸術の最も偉大な形式はない。しかし、最も優雅なもののひとつがある。
2017年11月11日土曜日
人間性の変化――柳家小さん『青菜』
大きな家で仕事を終えた植木屋が、酒と肴を勧められる。酒は良く冷えた柳蔭である。味醂に焼酎を加えて味を調えたものでお直しとも言ったという。私には味醂が酒屋に売っていたことまではかろうじて記憶があるが、柳蔭などはだされたこともだしたこともない。柳蔭をだすことが、職人相手のざっかけない応対を示したものなのか、柳蔭というものが、特に大店などに限って、(例えば味醂を余らせてしまうような)余剰としてありがちなものなのかいささかはんぜんとしないのだ。よそからの頂き物となっているが、味醂をもらうことがどの程度の社会的位置を示しているのかどうかはいまだわからない。もっとも鯉の洗いとなれば立派な肴であって、十分な饗応がなされたといっていいだろう。
ところで、植木屋さん、菜のおしたしは好きかい、好きだという答えを得て、奥さんを呼びつけることはから話が面倒になってくる。鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官と奥さんが答えたのに対し、ああそうか、じゃ義経にしておきなさい、と妙な問答をしたと思うと、菜はなくなってしまったと告げるのだが、植木屋は菜のことよりも奇妙な応対のほうが気になってならない。問いただしてみると、なんのことはない、「菜」を「食らう」判官、既に食べてしまいましたよ、という奥さんの答えに対して、よしておきなさい「義経にしておきなさい」と語呂合わせを符丁に使っているだけなのである。
もっとも、東大落語会の『落語事典』によれば、上方の方では大尽客を義経、まわりの幇間や取り巻きたちを弁慶と呼んだこといもあったというから、単なる語呂合わせよりは多少なりとも内的な連関があったのかもしれない。いずれにしろ、これを聞いた植木屋は自分も使ってみたくてしょうがない。屋敷があるわけもなく、自分でもできるという奥さんを押し入れのなかに閉じこめて、友人を呼びよせる。菜っ葉が嫌いだという友人に無理に勧め、奥さんを呼びつけると、汗だくになった彼女は「鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官義経」とすべて言い切ってしまった。うーん、じゃあ弁慶にしておけ。
これほど実りが薄い噺も少ないかもしれない。特に人間存在についてのなんらかがテーマとなっているわけでもないので、上手に演じるか下手に演じるかしかない。むしろ人間存在そのものがテーマといえばテーマであるかもしれない。実際、下手な噺家がこの噺を演じているのを聞くと、テーマを現出するまでもなく、薄っぺらな言葉のやりとりで終わってしまう。青菜がだして欲しいなら、だして欲しいと言えばいいし、なければないといえばいいだけの噺なのだ。それをあえて義経に置きかえるいやみすれすれの風格や品格を人間存在が醸しだしうることこそがこの噺のテーマであり、実に単純でありながら根本的な人間性の変化ということこそが主眼となっている。
2017年11月10日金曜日
オルダス・ハックリレー「現代精神と家族パーティー」
雑誌『ヴァニティ・フェアー』の1922年8月号に発表された。
「文学だけにアカデミックな伝統が生き残っている。絵画、彫刻、音楽などのアカデミズムについてまじめに語ろうとなど誰も思わない。」この発言の書き手であるオズバート・シットウェル氏は、学術的なことなどまじめに受け取ろうとはしないもののひとりである。彼は「ロンドン・マーキュリー」などいたるところに巣をつくり歌っている鳥たちに石を投げつける。鳥たちがさえずっているあいだ、不作法に大きな雑音を立てる。
シットウェル氏の鳥たちを怖がらせる直近の功績は、『誰がコック・ロビンを殺したか』という小冊子のなかに記録されておりーーそのパンフレットでは、学会と自然育ちの詩人たちが愉快に、生き生きと扱われている。たとえば、ワーズワースがかつて自然についていくつかの美しい詩を書いたがために、そこから派生した膨大な量のものわびしい自然詩についての一節を読んでみるがいい。「ロンドン・マーキュリー」の「ヨタカが楽しげな音を紡いでいる」という一節を導きとして、彼は続ける。
詩は象やコンゴウインコに属するものでもなければ、ヒバリの独占物でも、ヨタカの賛美でもない。なぜならよい詩とはヒバリや緑の木を現実化する詩人が感じる情動から生じるものであるから、他の詩人がヒバリや緑の木について絶え間なくしゃぺったところでよい詩を書けるものではないからだ。ヒバリは長居を歓び移住する。ある日再び戻ってくるかもしれない。多くの若い詩人たちは被いのなかに鳥を囲っている。一羽のツバメは詩をつくりはしない。
これは見事に書かれている。『誰がコック・ロビンを殺したか』は長いあいだあらわれたなかでもっとも聡明な反アカデミズムのプロパガンダである。プロパガンダは重要で、シットウェル家はーーというのも、オズバート・シットウェルには兄弟姉妹がいるからだがーープロパガンディストとして特殊な意味合いをもっている。しかし、プロパガンダは単に理論的な教義で、木は果実によって知られ、芸術家は作品によって信条を得る。シットウェル家は反アカデミズムを宣教し、「マーキュリー」の書きぶりに、反対陣営の「ウィールズ」から強硬な抗議を行っている。彼らの詩はプロパガンダ的価値とはまったく離れた本来的な意味を持っている。いくつかの特殊な細部を検証する価値はある。というのも、多くの点で、それは現代精神のまさに典型だといえるからだ。しかし、これ以上進む前に、我々は自問しなければならない。現代的精神とは何か。
我々は社会的、道徳的に難破した世界に今日生きている。その間に、戦争と新しい心理学が、過去において我々を助けてくれた制度、伝統、信条、精神的価値を打ち壊してしまった。芸術の領域では、ダダイスムが価値の完全な崩壊をあらわしている。ダダはすべてを否定する。他のすべてがーー魂、道徳、愛国心、宗教ーー打ち倒されても我々が最後まで情熱をもって守り続けようとした最後の偶像である芸術でさえも、ダダによって攻撃され打ち壊された。
ダダは最初にあらわれたときには気分を浮き立たせる光景だった。ミュージック・ホールのコメディアンが瀬戸物をたたき壊すのを楽しむように、人はそれを楽しんだ。我々すべての心の底にある破壊への子供じみた愛情を喜ばせた。しかし、しばらくすると、この瀬戸物壊しも少々退屈になってきた。壊した破片を取り上げ、何か新しいものをつくるときがきた。ただひとつの問題は、何を?ということだった。その疑問はまだ我々に覆い被さっている。新たな芸術的総合は何になるべきなのか。決定的な答えを得られるにはまだ早すぎる。しかし、推測することはできる。シットウェルやイギリスの少数の者たちの作品、コクトー、モラン、アラゴン、マッコルランやその他フランスの作家たちがそれを推測することを助けてくれる。芸術的な全体のなかで再び集められ、戦後の世界でばらばらにされた価値からの新たな総合、芸術的統一における崩壊を反映するであろう総合はきっと喜劇的な総合となるであろう。ここ数年の社会的悲劇はあまりにも先に進みすぎ、その本性や起源は、悲劇的にあらわすにはあまりにも深く愚かである。同じことは古い伝統や価値が崩壊した心的悲劇における等しく複雑で、混乱した状況についても等しく真である。唯一可能な総合はラブレーやアリストファネスの法外な笑劇的道化ぶりでありーーこの道化ぶりは、重要なことだが、悲劇と同じように美しく、壮大であり得る。というのも、すでに言及した二人や、チョーサー、フォルスタッフのシュエイクスピア、バルザックの『風流滑稽譚』、ゴヤやドーミエなどの偉大な喜劇はほとんど奇跡的に、厖大で野卑なグロテスクと繊細で想像力に富んだ美とが結びついている。同時代人は、新たなラブレーがすべての断片をかき合わせて厖大な喜劇的全体をつくりだすものと見ていた。そのときは、未来の達成の結果である本性をすでに予示しているような先行者を見ていた。
この数世代を経た逸脱のもと、シットウェル兄弟という個別な例を検証してみよう。三人のなかで最良で最も完成された作家はエディス・シットウェル嬢であることは確かである。彼女は風変わりで不穏な完成を自身の個人的なスタイルとして進化させ、もたらした。彼女のガラスのようなきらめきと思考と情感を機知をもって美しくグロテスクに表現するあり方を誰かと比較することは考えられないだろう。有効範囲こそ小さいがーーというのも、シットウェル嬢は普遍性を射程に収めようとしていないマイナーな詩人であるからーー彼女は我々が述べた喜劇的総合を完成させた。たとえば、最近出版された『ファサード』にある驚くべきナンセンスな詩を読んでみよう。
巨大な獣が眠っている
灰色の厚い毛皮に覆われて、
耳には
不鮮明な会話が聞こえるばかり。
隠れるよりあらわあれるのが
喇叭のような水
ドン・パスキートの花嫁と
若い娘が
象ほどの灰色の
葉叢を見た
こんな熱く乾ききった日に
何を悲しむことがあろう
過酷で敵意があっても
眠たげに熟考し
いびきをかくのが
動物の世界ではないか。
兵士のように赤く
棘のある花は
なぜドン・モスキートを
かたどったように見えるのか。
ルコン・ド・リールのすべてがこのナンセンスな熱帯林にはあり、ワーズワース流の哲学が最後の四行にはたたみ込まれている。「兵士のように赤く棘のある花はなぜドン・モスキートをかたどったように見えるのか」これは次の詩句の二十世紀版である。
自然のもたらす教えは甘美で
ひねくりまわす我々の知性は
ものごとの美しい形を損なってしまう
我々は切り離すことで殺してしまう。
シットウェル嬢によって『ファサード』に書かれた詩編は、音楽の伴奏を伴ってメガフォンを通じて朗唱するためのものだった。図書館の静けさのなかで吟味することを意図された他の作品よりも結果的に洗練の度が少なく、文学的な輝きにおいても劣っている。たとえば、「ミシンとともにいる女性」を読んでみよう。
グリニッチの時間のように密接に植えられた
ほうれん草のように緑の野原を横切ったところに
小高い家が建っている。あたかも
若さの途方もなさで
細密にパターン化された
ペイズリーのショールのような春がくる。
どの部屋でも黄色い太陽が
カナリアのように飛びまわり
ルラードと水のようなトリルーー
黄色く、意味がなく、甲高い。
どんな時計とも同じくらい白い顔をして
縮れたパセリのなかで、
日がな一日座ってみている
隠された醜さのなかで
育っていく恐れの生の一針
推測される恐れの生の一針
動悸を打った濁った声が
細い一針で
私の心をかたく上手に
縫いつけてくれることを望んでいる。
そんなことをするものではない、
地上や空や海から眼を背け
心地よく暖かく眠れる
キルトに向かうのは自由であるが。
シットウェル嬢のこの作品にはまだ現代の総合されざる崩壊状態がある。感覚の記録でしかないような詩もあり、着色された光と落ちつかなさの混合のような詩もある。しかし、他にも、相当数の詩が、知的、あるいは情動的融合の過程によって、砕かれた細片がパターンをなす全体に仕上げられているーー風変わりで、グロテスク、そして美しい全体を。
サッシュベル・シットウェル氏は、潜在的には、姉よりも重要な詩人である。しかし、彼の達成はその構想にまだ遅れをとっている。彼はラブレー的な次元での桁外れな喜劇的総合に劣らぬものを目指している。少なくとも、最近出版された『ダン博士とガルガンチュア』と『死にゆく剣闘士のための美徳の行進』から推測されるのはそうである。語りと思考とのある種の散漫さは詩が完全に「完成される」ことを妨げている。彼の最も成功した成果は、マイナーな詩にある。私は彼の美しい「泉」を引用せざるを得ない。
夜は磨き抜かれた銀のように純粋かつ明晰である。
沈黙と死のケープが岡の剥きだしの肩のあたりに
重く立ちこめている。
かすかな動悸と囁きが
ある瞬間つぶやきとなり、沈澱し、
神秘と恐慌で夜を満たす。
甘いつぶやきが泉を論じ
フルートと優しい声で空気を掻き乱す。
泉をかたどった仮面が苦しみ嘆くーー
微笑みで歪んだ貧弱な口が
なかば忘れかけた歌を捉え、
永遠に笑い続けることの苦悶を忘れようとするーー
彼らの下の地の深みに反響する
秘密を聞いているあいだも笑っている。
このなかば忘れられた歌
悲しみに遮られた笑いが
引きつった仮面から湧きでる
若々しい水の噴出と衝突する
これが水の誕生である
楽しげに歌い
地上に湧きでては
止むことなく曲がりくねる
海へと続く谷には
ドラムロールのように
貝殻や小石が河床にちりばめられている。
水の際限のない議論は
数滴が重たく、大理石のうえで砕け散ることで終わる。
宝物をもったスルタンは
彼女の真珠の頸飾りの前で、
好意を得ようとするが
おびただしい嫉妬の涙を流すばかり
彼女は彼のいうことなど聞いていなかったから。
この詩やその他数編の短い詩は、サッシュベル・シットウェル氏が生みだした最も完成された芸術作品である。しかし、後の長い詩は、芸術作品として完成はされなくとも、その大半が哲学的、喜劇的総合をその企図や構想においてより重要なものとしている。シットウェル氏がその構想を完全に実現化したとき、真に重要ななにかが達成されるだろう。
オズバート・シットウェル氏は、反アカデミズムの主要なプロパガンディストで、応用詩とでも言えるものにおいて最良でありーー諷刺、折々の小片、ウィットや痛罵である。諷刺がイギリスにおいて実践されてから長いときがたつが、『キンフット婦人』や政治的小片の著者は、それがまだ失われていないことを示している。見事な「羊の歌」から数行を引用しよう。
我々はこの世界で最も偉大な羊である。
我々のような羊は存在しない。
我々は帝国に祝福されている。
我々の声は
音楽でふるえ
海の向こうの子羊に呼びかける。
我々とともに大陸に襲いかかることを。
我々は牧夫など気にかけない
「逃げだすな」
と彼らは警告するが
我々はそうせざるを得ない。
我々が牧夫を信頼することはもう決してないだろう。
そのとき黒い子羊が問う
「なぜ我々はガダラ人の子孫として振る舞わないのか」と。
怒った一群が声を上げる
「我々は手を汚さずここに来た
無心でここをでていくだろう・・・
我々は逃げだすが逃げだすことで終わりではない。
決して生まれてきそうもない子羊のために戦っているのだ」
2017年11月9日木曜日
オルダス・ハックリレー「芸術における救世主を求める叫び」
雑誌『ヴァニティ・フェアー』の1922年1月号に発表された。
私がロンドンからイタリアに発って七ヶ月になる。七ヶ月――そして戻ってきて一、二週間のあいだここにいて、心身ともにかつてのように安楽な気分に深く包まれている。すでに私はどこにも行かなかったかのような印象を持っている。イタリアでの長い楽しい月日は存在しなかったかのようだ。ロンドンとの裂け目が魔術的に縮まり、ずっとここにいたかのように感じる。
そのことはロンドンにあるすべてが——文学と文学的ジャーナリズムの、絵画と劇場のロンドン——私が三月に旅だっとときと全く同じであったことに裏打ちされた感情である。いいや、全く同じではない。というのも、私はすべてが少々腐食し、私が旅だったときにすでに始まっていた劣化の過程が僅かに早まっているように感じる。例として文学誌を取ろう。それらはかつてよりより悪く、退屈になっているのが見て取れる。古き『アテナエム』はスティーブンソンが頓呼法で「おや、なんていう論文だ」といったものだ。今日『ロンドン・マーキュリー』は同じ苦痛に満ちた叫びを呼び起こす「おや、なんていう論文だ」。それ以上いうことはない——恐らくその編集者であるJ・C・スクウェアー氏がアメリカ合衆国の住人を読者に改宗するための伝道師としての旅に出たことを除けば。光輝と深遠な退屈さの諸相をくぐり抜けてきた敬すべき雑誌『アテナエム』についていえば——ジョン・ミドルトン・マレーの編集のもとにあった1919年から1921年の最後から二番目の層、長い経歴のなかでもっとも光輝のあった瞬間があった——いまでは『ネーション』の文芸付録にまで衰退してしまった。
ロンドンはゆっくりと衰退している。少なくともそれが私の印象である。大きく単純で明らかなことをうまくするほどのものは文学でも絵画でも存在しない。軽い読み物であった『ロミオとジュリエット』の主題を傑作にしたのはシェイクスピアだった。今日のロンドンでは、愛、野心、嫉妬という軽い読み物のテーマを軽い読み物にするか、軽い読み物のテーマを充分に扱うには小さすぎると自ら知っている感受性があり才能のある芸術家たちは、文化によって与えられる少数派の、重要ではない受け売りのものや過度の内省からくるものに避難している。その溝を埋めるシェイクスピアは存在しない。ただH・G・ウェルズしかいない。・・・こうした状況に生活していると、何か新しい桁外れのものがどこからともなく突然に登場し、新たな聴いたことのない啓示の言葉を発してくれるのではないかという期待にとりつかれているのに気づく。ウィルソン大統領が断固たる意思の表示によって、我々が求めているのは彼ではないと証明したとき以来、私は長い間漠然とこうした救世主への切望を感じていた。そしていま、知的には不毛なイタリアでの六ヶ月の滞在から徐々に衰退しているかに思える文明に戻ってみると、救世主への期待がより切迫したものとしてわき上がっているのがわかる。西方の文学の空には新たな見知らぬ星のしるしはない。価値があり、尊敬すべき、知的で、感受性の鋭い若い詩人や小説家は次々と現れている。しかしそのうちの誰もが期待された救世主のまたいとこにも足りない。恐らく、若い天才というのも不可能なことではないのは確かで、最近出版されたピーター・クエネルの『パブリック・スクールの詩選』は幼児期の現象という歴史に新たな章を開いたものだろう。この才能が成熟するか、若いうちに滅んでしまうかは時間だけが示すことだろう。
幼児期の現象はそれ自体としては特に興味深いものではない。その潜在能力が問題となるものである。子供の芸術の歴史は天才に満ちている。あらゆる子供は六歳か七歳になるまで天才だと一般化し、主張するものさえいる。ごく少数が——ピーター・クエネルはそのひとりである——十四か十五になるまで天才を持ち続け、五十万人のうちの一人が三十になるまで天才として過ごす。
数多くの文学がある。劇場や造形芸術はどうだろうか。非凡なものはないと考えられる。奇妙な『コウモリ』を旗印にした小さなロシアのエンターテイナーがパリにあらわれ、劇評家は大きな称讃の声をあげた。しばらくすれば、間違いなく、バリエフ氏とその一団が大西洋を渡り、自分自身で彼らを評価する機会をもつだろう。個人的には、『コウモリ』は過剰に評価されている。その長所は装飾と配置の趣味のよさであり、尊敬すべき舞台運営、演者たちの機械のような完璧さである。しかし、すべてが言い尽くされたとき、残るのは、『コウモリ』はロシア・バレーがよりよくしたことをうまくやったということになろう。たとえば、装飾を取ってみよう。スーデイキンによってなされた『コウモリ』で設計されたロシアの場面は、確かに魅力的で、趣味がよく楽しい。しかし、芸術作品としては、『子供たちの話』をつくったゴンチャロフとラリオノフの巨大な創造物とは比較にならない。
また、『コウモリ』の歴史的再構築はしばしばすばらしい。しかし、『陽気な夫人たち』のイタリアの十八世紀や『三つどもえの帽子』にあるピカソの仰天するような挑発的なものほどすばらしい想像力はバリエフ氏の舞台にはない。
『コウモリ』の根本的な欠点は、真の感情とかけ離れているところにある。生からではなく芸術から芸術をつくっている。洗練され文学的であることは最後のもっとも希望のないものでしかない。真の感情ではなく、ほのめかしと喚起作用だけがある。具体的な例を出そう。二人の若い女性が舞台に出てきて、グリンカの感傷的な歌を歌う。素晴らしい。グリンカの感傷的な歌は真の感情をあらわしている。しかしバリエフ氏は女性たちに「庭園で扇をもつ若い女性」 の衣装を着せ、ロマンチックな背景の前に置き、いまでは笑いものにされ尊敬されることが流行になり始めているジョルジュ・サンド的ロマン主義の象徴として、黒いウエスト・コートとぴっちりしたズボンをはいた若い男が舞台の中央に調度のひとつとして加えられている。結果として、情動がこみ上げることはなく、薄っぺらい感傷で捏ね上げられた力のない文学的娯楽がある。
最上なのは、率直に言って、木製の兵士たちの行進、マリオネットによって演じられるイタリアのオペラ、カティンカの踊るポルカや三人の猟師たちなどの喜劇的要素なのは間違いない。しかし、「よい」とか「悪い」というのは『コウモリ』を批評する正しい言葉ではない。最上であればそれは「楽しく」、最悪ならそれは「退屈」なのだ。現代芸術の多くと同じように、それらが二つの軸となっている。
その他の演劇上の出来事としては、バーナード・ショーの『傷心の家』が宮中で、オスカー・アッシュの『カイロ』が御前で上演された。両者ともすでにニューヨークで演じられているだろう。
ショウの喜劇は批評家たちから大量の不評をこうむったが、彼らが下した厳しい判断には十分な正当性があり、劇は宮中で特にうまく演じられたわけではなかった。しかし、『傷心の家』は演者が破壊できるような戯曲ではない。それはよき解釈者を得る勝利を収めたーー少なくとも私にはそのように思われた。
『カイロ』について言えばーー『カイロ』についてはあなた方がみなご存じである。それは古い、古い、遠く離れたチュウ・チン・チョウのように古いーーオスカー・アッシュによる絢爛たる東洋の物語である。
美術の展覧会も再び始まっている。ネヴィンソンは、結局、レイチェスター・ギャラリーの個展で、画家としての本性をあらわした。この展覧会での彼の絵は絵画の様々なスタイルの上調子な素描でしかなかった。ネヴィンソンの芸術的質は勢いがあり、気楽で、いかに効果的にするかの知識がある。戦場のイラストレーターとして、絵による戦場記者としては尊敬に値する。
しかし、イラストではない絵画の描き手としては、彼は失敗している。彼が芸術的な報道記者でありポスターのデザインに集中してくれるよう願いながらこの展覧会をあとにすることになる。
マンサード・ギャラリーのロンドン・グループによる展覧会もまた、意気消沈させるものだった。グループのなかでも最上の画家たちーーアンレップやカートラーのようなーーは出品しておらず、展示された絵画は有能でまじめであり、意図も十分に示されているが、ほとんどが少々生気がなく、関心を引かないものだった。今日の様々な世界と同様、絵画の世界は救世主を待っている。フランスの理論家たちは、その桁外れの技術、知識、知性にもかかわらず、我々が望むものを与えてくれない。イギリスにおける後継者であるダンカン・グラント、バネッサ・ベル、ロジャー・フライはさらに劣っている。また、自分たちの根本的な才能の欠如を補うために、フランスの伝統を用いようとしない画家たちも劣っている。ロンドン・グループで最もよかったのはグラント、ベル、テレーズ・ルソールのものだった。最もよいーーしかし、それを真によい画家と比較してみたとき、ああ、彼らは少々愚かに見えてしまう。しかし、我々が比較のゲームを始めるとき、我々はみな愚かしく見えるのだ。
私がロンドンからイタリアに発って七ヶ月になる。七ヶ月――そして戻ってきて一、二週間のあいだここにいて、心身ともにかつてのように安楽な気分に深く包まれている。すでに私はどこにも行かなかったかのような印象を持っている。イタリアでの長い楽しい月日は存在しなかったかのようだ。ロンドンとの裂け目が魔術的に縮まり、ずっとここにいたかのように感じる。
そのことはロンドンにあるすべてが——文学と文学的ジャーナリズムの、絵画と劇場のロンドン——私が三月に旅だっとときと全く同じであったことに裏打ちされた感情である。いいや、全く同じではない。というのも、私はすべてが少々腐食し、私が旅だったときにすでに始まっていた劣化の過程が僅かに早まっているように感じる。例として文学誌を取ろう。それらはかつてよりより悪く、退屈になっているのが見て取れる。古き『アテナエム』はスティーブンソンが頓呼法で「おや、なんていう論文だ」といったものだ。今日『ロンドン・マーキュリー』は同じ苦痛に満ちた叫びを呼び起こす「おや、なんていう論文だ」。それ以上いうことはない——恐らくその編集者であるJ・C・スクウェアー氏がアメリカ合衆国の住人を読者に改宗するための伝道師としての旅に出たことを除けば。光輝と深遠な退屈さの諸相をくぐり抜けてきた敬すべき雑誌『アテナエム』についていえば——ジョン・ミドルトン・マレーの編集のもとにあった1919年から1921年の最後から二番目の層、長い経歴のなかでもっとも光輝のあった瞬間があった——いまでは『ネーション』の文芸付録にまで衰退してしまった。
ロンドンはゆっくりと衰退している。少なくともそれが私の印象である。大きく単純で明らかなことをうまくするほどのものは文学でも絵画でも存在しない。軽い読み物であった『ロミオとジュリエット』の主題を傑作にしたのはシェイクスピアだった。今日のロンドンでは、愛、野心、嫉妬という軽い読み物のテーマを軽い読み物にするか、軽い読み物のテーマを充分に扱うには小さすぎると自ら知っている感受性があり才能のある芸術家たちは、文化によって与えられる少数派の、重要ではない受け売りのものや過度の内省からくるものに避難している。その溝を埋めるシェイクスピアは存在しない。ただH・G・ウェルズしかいない。・・・こうした状況に生活していると、何か新しい桁外れのものがどこからともなく突然に登場し、新たな聴いたことのない啓示の言葉を発してくれるのではないかという期待にとりつかれているのに気づく。ウィルソン大統領が断固たる意思の表示によって、我々が求めているのは彼ではないと証明したとき以来、私は長い間漠然とこうした救世主への切望を感じていた。そしていま、知的には不毛なイタリアでの六ヶ月の滞在から徐々に衰退しているかに思える文明に戻ってみると、救世主への期待がより切迫したものとしてわき上がっているのがわかる。西方の文学の空には新たな見知らぬ星のしるしはない。価値があり、尊敬すべき、知的で、感受性の鋭い若い詩人や小説家は次々と現れている。しかしそのうちの誰もが期待された救世主のまたいとこにも足りない。恐らく、若い天才というのも不可能なことではないのは確かで、最近出版されたピーター・クエネルの『パブリック・スクールの詩選』は幼児期の現象という歴史に新たな章を開いたものだろう。この才能が成熟するか、若いうちに滅んでしまうかは時間だけが示すことだろう。
幼児期の現象はそれ自体としては特に興味深いものではない。その潜在能力が問題となるものである。子供の芸術の歴史は天才に満ちている。あらゆる子供は六歳か七歳になるまで天才だと一般化し、主張するものさえいる。ごく少数が——ピーター・クエネルはそのひとりである——十四か十五になるまで天才を持ち続け、五十万人のうちの一人が三十になるまで天才として過ごす。
数多くの文学がある。劇場や造形芸術はどうだろうか。非凡なものはないと考えられる。奇妙な『コウモリ』を旗印にした小さなロシアのエンターテイナーがパリにあらわれ、劇評家は大きな称讃の声をあげた。しばらくすれば、間違いなく、バリエフ氏とその一団が大西洋を渡り、自分自身で彼らを評価する機会をもつだろう。個人的には、『コウモリ』は過剰に評価されている。その長所は装飾と配置の趣味のよさであり、尊敬すべき舞台運営、演者たちの機械のような完璧さである。しかし、すべてが言い尽くされたとき、残るのは、『コウモリ』はロシア・バレーがよりよくしたことをうまくやったということになろう。たとえば、装飾を取ってみよう。スーデイキンによってなされた『コウモリ』で設計されたロシアの場面は、確かに魅力的で、趣味がよく楽しい。しかし、芸術作品としては、『子供たちの話』をつくったゴンチャロフとラリオノフの巨大な創造物とは比較にならない。
また、『コウモリ』の歴史的再構築はしばしばすばらしい。しかし、『陽気な夫人たち』のイタリアの十八世紀や『三つどもえの帽子』にあるピカソの仰天するような挑発的なものほどすばらしい想像力はバリエフ氏の舞台にはない。
『コウモリ』の根本的な欠点は、真の感情とかけ離れているところにある。生からではなく芸術から芸術をつくっている。洗練され文学的であることは最後のもっとも希望のないものでしかない。真の感情ではなく、ほのめかしと喚起作用だけがある。具体的な例を出そう。二人の若い女性が舞台に出てきて、グリンカの感傷的な歌を歌う。素晴らしい。グリンカの感傷的な歌は真の感情をあらわしている。しかしバリエフ氏は女性たちに「庭園で扇をもつ若い女性」 の衣装を着せ、ロマンチックな背景の前に置き、いまでは笑いものにされ尊敬されることが流行になり始めているジョルジュ・サンド的ロマン主義の象徴として、黒いウエスト・コートとぴっちりしたズボンをはいた若い男が舞台の中央に調度のひとつとして加えられている。結果として、情動がこみ上げることはなく、薄っぺらい感傷で捏ね上げられた力のない文学的娯楽がある。
最上なのは、率直に言って、木製の兵士たちの行進、マリオネットによって演じられるイタリアのオペラ、カティンカの踊るポルカや三人の猟師たちなどの喜劇的要素なのは間違いない。しかし、「よい」とか「悪い」というのは『コウモリ』を批評する正しい言葉ではない。最上であればそれは「楽しく」、最悪ならそれは「退屈」なのだ。現代芸術の多くと同じように、それらが二つの軸となっている。
その他の演劇上の出来事としては、バーナード・ショーの『傷心の家』が宮中で、オスカー・アッシュの『カイロ』が御前で上演された。両者ともすでにニューヨークで演じられているだろう。
ショウの喜劇は批評家たちから大量の不評をこうむったが、彼らが下した厳しい判断には十分な正当性があり、劇は宮中で特にうまく演じられたわけではなかった。しかし、『傷心の家』は演者が破壊できるような戯曲ではない。それはよき解釈者を得る勝利を収めたーー少なくとも私にはそのように思われた。
『カイロ』について言えばーー『カイロ』についてはあなた方がみなご存じである。それは古い、古い、遠く離れたチュウ・チン・チョウのように古いーーオスカー・アッシュによる絢爛たる東洋の物語である。
美術の展覧会も再び始まっている。ネヴィンソンは、結局、レイチェスター・ギャラリーの個展で、画家としての本性をあらわした。この展覧会での彼の絵は絵画の様々なスタイルの上調子な素描でしかなかった。ネヴィンソンの芸術的質は勢いがあり、気楽で、いかに効果的にするかの知識がある。戦場のイラストレーターとして、絵による戦場記者としては尊敬に値する。
しかし、イラストではない絵画の描き手としては、彼は失敗している。彼が芸術的な報道記者でありポスターのデザインに集中してくれるよう願いながらこの展覧会をあとにすることになる。
マンサード・ギャラリーのロンドン・グループによる展覧会もまた、意気消沈させるものだった。グループのなかでも最上の画家たちーーアンレップやカートラーのようなーーは出品しておらず、展示された絵画は有能でまじめであり、意図も十分に示されているが、ほとんどが少々生気がなく、関心を引かないものだった。今日の様々な世界と同様、絵画の世界は救世主を待っている。フランスの理論家たちは、その桁外れの技術、知識、知性にもかかわらず、我々が望むものを与えてくれない。イギリスにおける後継者であるダンカン・グラント、バネッサ・ベル、ロジャー・フライはさらに劣っている。また、自分たちの根本的な才能の欠如を補うために、フランスの伝統を用いようとしない画家たちも劣っている。ロンドン・グループで最もよかったのはグラント、ベル、テレーズ・ルソールのものだった。最もよいーーしかし、それを真によい画家と比較してみたとき、ああ、彼らは少々愚かに見えてしまう。しかし、我々が比較のゲームを始めるとき、我々はみな愚かしく見えるのだ。
2017年11月8日水曜日
オルダス・ハックリレー「(ベーコンのシンボリズム)」
1920年に書かれた。
すべての事物はそう信じたがっているものには深く象徴的である。人間は尻尾をもっていない。実験材料ももっていない。死人の頭は反語的に笑っているようである。天井の星々は奇妙で曖昧な意味合いをもったパターンで落ちる。大熊座は鋤でもあり、荷車でもあり、ひしゃくでもある。動物寓話では、獅子は巣のなかで三日のあいだ眠りそれから目覚め、息を鋭くまた甘くはき出すと、すべての生物が引き寄せられ、祈りを捧げることからキリストの象徴だとされる。ある動物寓話では、獅子はまた我々の宗教の土台をつくったものに象徴される。別の寓話では獅子と豹は悪を意味する。すべてが象徴学では深遠で神秘的で、数多くの師匠がおり、それぞれが同じ現象を自分なりに解釈するので、寓話とアレゴリーの技術は学びがたい。石はジェイクウィズたちがそれらについて沈思するのと同じくらい多くを説教する。流れる小川はボーディアン図書館すべてが入るほどのものを含んでいる。世界をシンボリズムによってみることは、人間性の長期にわたる弱さの一つである。物事はそれがあるようにあると信じることは多大な洗練であることに違いない——不透明な対象をそれ自体においてまたそれ自体のために興味を持ち、透明な窓から更に遠くのより意味深い現実を凝視しようとはしない。
もし人間が常に生命のないものに象徴を見いだすならば、文学をどれほ寓話化しようとするだろうか。先頃、私は解しがたい人間のひとりに対する不満を引用する機会があった。新たな流行であるヒューマニストは自分たちが讃仰する古代のテキストに、霊的なもの、寓話的なもの、神秘的解釈、象徴的意味合いをまったく理解していなかった。彼らは目の前にあるものの曖昧な文字通りの意味に満足していた。オウィディウスの『変身物語』は、話の底流にある深遠な神学的な真理を知っていたらどれほど興味深いものになるだろうか。『ソロモンの歌』は注釈者が真の意味を明らかにしたらどれほど教訓的だろうか。中世は象徴学者で満ちていた。解しがたい人間への不満にもかかわらず、象徴化する傾向がなければルネサンスもなかった。宇宙に対する象徴的な見方はまだ行き渡っており、当時の科学者の多くは、人間は宇宙の小模型の象徴でありそれと等しいと主張する過度に複雑でもあり過度に単純化もされているミクロコスモスの理論を喜んだ。ルネサンス人は過去の文学にある象徴やアレゴリーを無視することもなかった。神聖で古典的な書き物はいまだ象徴主義者の密接な探求の対象だった。もっとも啓蒙された人間でさえ、ただひとつの意味しか読み取られていなかったところに二つの意味をつくりだすことに喜んで耽溺していた——イギリスの最も偉大な啓蒙主義の使徒のなかにもフランシス・ベーコンがいる。
ベーコンの『古代の人間について』は私が常に特別に愛着している書物である。私は知恵というものに大いに弱みをもっている。賢者が世界から超越した姿勢で、判断の正当性について述べていると私は深く共感してしまう。ソロモンからアナトール・フランスまで、すべての賢者に私は親愛の感をいだいているが、ベーコン以上に親愛な人物はおらず、その『古代の人間について』の知恵の果実は、たいそう熟していて、桑の実があまりに巨大で木をたわませる程なので、自然にその精神から落ちたもののように思える。ベーコンが自分の本を『古代の知恵』と名づけたのは慎みのなせる技であった。というのも、そのなかにある知恵はすべて彼自身のものだからである。古代人が関わっているのは一連の楽しい神話で、ベーコンがそれを人間に寓話化している。ベーコンがこの本をラテン語で書くことにしたのは不運なことだった。彼は自らのエッセイで言っている、「ラテン語で書かれたものは(普遍的な言語であるので)書物が存在するかぎり存在するだろう。」と。彼の考えは間違っており、今日の普通の読者は『古代の人間について』をスペディングの賞讃すべき翻訳で研究することを好んでいる。
科学的歴史や人類学の発明以前の世界ではどこでも同じようなものだが、ベーコンは偉大な根源的文明は前史以前に存在したと信じていた――その文明の蓄積された知恵はギリシャとローマに伝わったが、アレゴリカルな寓話のヴェールに包まれていた。こうした神話の解釈者として、彼はただ古代の知恵を取り戻しただけである。しかし、彼は自分の理論の熱狂的なパルチザンではなかった。「全体として」と彼は言っている、「私はこう結論する。歴史初期の知恵は偉大でもあり幸運でもあった。彼らが自分のしていることを心得ており、意味を覆うすべを発明したのなら偉大であるし、とくに意味するつもりも意図することもなくそうした価値ある熟考をたまたましたのなら幸運だった。」アレゴリーによる解釈の危険についても彼は気づいていないわけではなかった。
寓話は好きなように描けるし、ほんのわずかの器用さと機知にあふれた語り口があるなら、決して意味していないようなことをもっともらしく当てはめることができることは私も十分承知している。実際古くから誤用された例があることを私は忘れたわけではない。古代に関する自分の教義と発明の承認と尊敬を得ようとして、寓意の意味をねじ曲げて使用した例は数多い。それは現代の虚栄心でも希少なものでもなく、古くから目立ち頻繁に使われていたもので、クリッシパスの昔、夢の解釈の方法でもっとも古い詩を解釈し、それをストア派のために用いたのだった。
もし彼が今日生きていたら、ベーコンは文学の解釈者たちのひねくれた巧妙さでさらなる例を付け加えるだろう――そのなかにはシェイクスピアをベーコンだと解釈するものもいる、と。
ベーコンの古典神話の解釈はときに道徳的政治的であり、ときに科学的である。科学的な解釈は興味深いというよりは奇妙なものである。「キューピッド、あるいは原子」や「プロテウス、あるいは物質」は時間の経過とともに奇想天外なものになっている。しかし、道徳的、政治的解釈はいまだ敬すべき賢明さを示している。より短い解釈のいくつかは、オーバーバリーからフレックノウにいたる十七世紀の作者たちが数多く生みだした「人様々」の原形になっている。たとえば、自己愛の象徴であるナルキソスの性格である。
この寓話では、自らの努力によってではなく、生来の恩寵によって美しさやその他の恩恵を受けた幸運をもった人間のいわば自分自身と恋に落ちる性向があらわされている。この種の精神状態は通常、公の場や仕事に携わっているときにはあらわれにくく、というのも仕事では多くの無視や軽蔑にさらされ、彼らの精神をくじき、混乱に陥れるからである。それゆえ、それらはひとりでの、私的な影の生活を送る。いったことを木霊のように繰り返す献身的な賞讃者だけの小さな選ばれた仲間内で、口にされるのは讃仰ばかりのところだと楽しめる。そうした習慣が次第に悪化し、自己讃仰に溺れきってしまうと、怠惰でぼんやりとし、まったく愚かになり、活力と敏活さを失ってしまう。こうした性格の標章として春の花が選ばれたのは美しい考えである。経歴の最初に咲き誇り、語られはするが、その若さが約束していた成熟において失望させるのである。
より洗練され巧妙な解釈として「ディオニソス、あるいは欲望」にも言及するべきだろう。ディオニソスは常にサチュルスを連れ立ってあらわれる。なぜか。
これらの奇妙な悪魔たちが馬車のまわりで踊るのにはユーモアがある。あらゆる情念は目のなかに、そして実際のところ、顔つきや身振りに動きを生みだし、それは不作法で、取り乱し、跳ねわるようで、不格好である。怒り、軽蔑、愛その他の情念の影響下にある人間は、自分の目には偉大で堂々としているようでも、傍目には見苦しいおかしなものである。
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