アポロニアのディオゲネスは、無批判的に師の説を採用したことで、自分の時代を形成しなかったが、アナクシメネスの正統な後継者である。かくして、テンネマンは彼をピタゴラスの後に置いた。ヘーゲルは、奇妙な見逃しによって、ディオゲネスについては名前以外に何も知らないといっている。
ディオゲネスはクレタのアポロニアに生まれた。それ以上確かなことはいうことはできない。しかし、アナクサゴラスの同時代人だといわれているので、80回オリンピア(紀元前460年)の頃に全盛を迎えたと推定できる。彼の作品『自然について』はシンプリキウスの時代(六世紀)には存在していて、いくつかの文章が書き抜かれている。
ディオゲネスは事物の起源が空気であるというアナクシメネスの説を採用している。しかし、彼は魂との類推により惹かれ、より大きく深い意味を与えている。*この類推の力によって、彼は究極的なところまで結論を推し進めた。空気を事物の起源たらしめているのは何であろうか、と彼は自問した。明らかにその生命力である。空気は魂である。それゆえ、それは生きており、知性を持っている。しかし、この力、あるいは知性は空気よりも高次の存在であり、空気を通じて自らの姿を現す。結果的に時間の点に先行したものでなければならない。それは哲学者が探していた実体であるはずである。宇宙は自発的に進化し、生命力によって変容する生きた存在である。
*魂によって、我々は現代的な意味における精神よりも、むしろもっとも一般的な意味における生命と理解するべきである。かくして、アリストテレスの魂についての論考は、精神を含んだ生命原理に関するものであり、心理学的論考ではない。
この考えにおいて、二つの顕著な点があり、どちらも考察の大きな進歩を示している。第一に、αρχη第一実体が与える知性という属性である。アナクシメネスは第一実体を生気のある実体だと考えた。彼の体系では、空気は生命であるが、生命は必然的に知性を含むわけではない。ディオゲネスは生命は力であるのみならず、知性だとみた。彼のなかにかき立てられた空気は刺激するだけではなく、教え導くものでもある。あらゆる事物の起源である空気は必然的に永久で、破壊し得ない実体である。そして、魂として、必然的に意識も備わっている。「それは多くを知っており」、この知識が第一実体であることのもう一つの証拠である。「というのも、理性なしには」と彼はいう、「すべてを適切に、均衡をもって配列することが不可能である。そして我々がどんな対象を考えようと、最良に、最も美しいやり方で配列され秩序づけられているのが見いだされるだろう。」秩序は知性から生じうる。それゆえ、魂が第一にある。この考えは間違いなく偉大なものである。しかし、読者はその重要性を過大評価し、ディオゲネスの残りの教えも同じように、正当で深遠なものだと思わないように、また、歴史的真理を守るためにも、この考えの適用の仕方にも言及しなければならない。つまり、
生命ある統一体である世界は他の個体のように、生命力を全体から引き出さねばならない。それゆえ、彼は世界に呼吸器官に当たるものを与え、それを星々にも発見したと空想した。あらゆる創造と物質的運動は呼吸の作用でしかない。水分が太陽に引かれ、鉄が磁石に引かれるように、呼吸の過程を同じように見た。人間が獣より知性において優れているのは、地面に顔を垂れている獣よりも人間のほうがより純粋な空気を吸っているからである。
現象を説明しようとするこうした素朴な試みを見れば、ディオゲネスが大きい一歩を踏み出してはいたが、旅を達成するにはほど遠いことがわかるだろう。
彼の体系の第二の顕著な点は、タレスが開いた探求の道を閉じたそのやり方にある。四要素のひとつが世界の起源であるという確信から出発したタレスは、水をその要素だとし、アナクシメネスはそれに続き、空気が水よりもより普遍的な要素であるばかりか、それは生命でもあり、普遍的な生命に違いないとした。それに続いたディオゲネスは、空気は生命であるばかりではなく知性でもあり、知性が事物の最初であるに違いないとした。
それゆえ我々はリッターとともに、物理学的な方法を用いた哲学者としてはディオゲネスが最後だとすることに一致する。彼の体系において、この方法はその達成を見た。かくして、思索の大きな流れをたどってきた我々は、同時期に別の方向に進化を遂げたものたちに目を向けねばならない。
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