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2018年8月6日月曜日

神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態ーーロラン・バルトを中心に






 『彼自身によるロラン・バルト』のなかで、バルトはそれまでの自分の著作を四つの時期に分けている。

 社会的神話研究、記号学、テクスト性、道徳性とそれらはジャンル分けされ、社会的神話研究に結びつく名前としてあげられているのが、サルトル、マルクスと並んでブレヒトである。

 この時期、というのはつまり、1950年代、著作で言えば、『零度のエクリチュール』から『神話作用』が完成されている時期に、バルトは演劇にも深く関与しており、「テアトル・ポピュレール」誌を中心に七十篇ほどの劇評を書いている。当然、そこにはブレヒト演劇に対する熱烈な讃辞もあるのだが、後に当時のことを振り返って書いた文章「演劇についての証言」(野村正人訳『ロラン・バルト著作集6』 死後刊行された『演劇論集』の巻頭に収録された)では、まさしくこのブレヒトへの熱狂こそ、自分が演劇から遠ざける結果をもたらしたのだと述べている。

 ブレヒトの演劇をするには実はお金がかかるとバルトは言う。とうのは、ブレヒトが舞台に持ちこんでいるのは、単なる思想やそれを伝えるだけのテクニックではなく、文化そのものだからである。いわゆる、政治的な、社会リアリズム的な演劇は、ブルジョア的美学を捨て去ると称しながら、実は具体的な文化のない通俗的な形式をなぞっているだけではないか、そのときブレヒトがもたらす「気品=区別」とは「芝居がそのせいで光り輝くと同時に緊張感を持つような、明快で簡潔な『コード』である。」

 つまり、異化効果というのは、決してなにかを排除することではなく、弛緩した空気に緊張感をもたらすような線を引き直すためのコードなのだ。かくして、こうした自分が夢想に思い描いていたような演劇を前にしてしまうと、他の芝居が不完全なものに思われ、結果として演劇から遠ざかることになってしまった、とバルトは書いている。

 バルトがブレヒトに惹かれたもう一つの理由は、ブレヒトが思想だか主義のために快楽をないがしろにしないことにあっただろう。バルトは金さえあればハバナ葉巻を買い、ブレヒトも吸っていたからと正当化していたという。また、非常な大食漢で、社会学者エドガール・モランの妻で、バルトとは最も長いつきあいの友人の一人である、ヴィオレット・モランは彼の食べ方を「食卓では、彼は舌を出すトカゲのようでした。ある日、面識のない十人足らずの人に囲まれて、夕食をとっていたときなど、フォークで料理を自分の皿に取り、トカゲのように素早く、二度、三度、突き刺していました・・・・・・」(L,-J.カルヴェ『ロラン・バルト伝』花輪光訳)と語っている。




 ブレヒトは、バルトにいくつもの層において刺激を与えた唯一の人物であると言える。ジッドやプルーストはバルトが文学をめぐる観念を形成するのに大きな寄与をしたし、ソシュールの記号学も、デリダやラカンのテクスト性も理論上の影響をあたえたが、そうした理論を(しばしば浅薄だという非難を浴びながら)意味の線を引き直すための道具として使っては捨てていく身振りというのは、むしろ「理論」に奉じようとはしないブレヒトの「反ヒステリー的」な所作に近しいだろう。主義や理論を越えて、バルトとブレヒトには批評的身振り、生存の様態として近しいものがあり、バルトにとってブレヒトは演劇に限られることのない倣うべき先達だったのだ。

 ブレヒトがある種演劇の範型を提示してしまったがゆえに、ブレヒト以後滅多な芝居に満足できなくなり、1965年の「演劇についての証言」では、「いまではほとんど劇場に行かない」と書いているが、バルトは別にブレヒトとともに演劇にのめり込んだわけではなかった。実際、この小文の冒頭には「ずっとわたしは演劇が大好きだった」と書かれている。

 学生時代のバルトの成績は優秀であり、友人たちとともにフランスの最高学府高等師範学校に進むつもりでいた。しかし、1934年に結核が発病、それから約十年、つまり二十代のほぼ全体をサナトリウムと小康を得てパリに帰ることの繰り返しに過ごすことになってしまった。高等師範学校への進学もあきらめざるを得なかった。35年にいったんパリに戻り、古典文学士号を取るためにソルボンヌに登録し、そこでソルボンヌ古代演劇グループを創設する。彼らはアイスキュロスの『ペルシアの人々』を公演し、38年にはグループの仲間とともにギリシャに行く。しかし、41年には結核が再発し、42年から足かけ5年の間再びサナトリウムでの生活が始まるのである。

 サン=ティレールの学生サナトリウムであったから、文化的な活動は奨励されており、劇団もあったし、学生クラブの機関誌にして季刊誌である「エグジスタンス」もあって、この雑誌にはバルトも寄稿していた。アンドレ・ジッドについて、カミュの『異邦人』について、また古代演劇クラブとギリシャに行ったときの紀行などが発表された。

 さて、実はここまで書いてきたのは、その紀行文「ギリシャにて」の一節がはじめて読んで以来頭から離れなくなってしまったからである。この文章は断章形式になっており、『テクストの快楽』以後のバルトがもうそこにいることを示してもいる。私が忘れられなくなったのは「アクラコリア」と表題のついた一節の後半部分なのだが、どのみち短いし、前半部も面白いものだから一緒に引用しよう。




 レストラン〈アレキサンドロス大王〉では、古代ギリシャの伝統がいまでも生き続けているように思われる。アクロコリアつまり臓物料理を食べること。動物の内部でわなわな震え、赤く染まり(ついで緑色になる)すべてのもの。古代ギリシャ人は、複雑で退廃的なこの肉をおおいに好んだ。彼らはロースと肉を好まず、脳髄、肝臓、胎児、胸腺、乳房等、そういった柔らかく持ちのわるい肉を好んだが、それらの肉は腐りかけたとき食欲をそそってやまなかった。反対に、ワインについては精妙な慎みがあった。一般的に、大量の水で割ったワインしか飲まなかった(ワインはたったの八分の一まで)。酔うにはそれで充分すぎるほどだった。生のワインを飲むのは、徹底的に飲んで酔っぱらうと固く決意したときだけだった。巧妙な節制の証であるが、それは美徳によって培われたものではなく、陶酔、恍惚、情念を解き放ち、より軽やかに飛翔させるためだった。ほんのわずかにワインで得られる陶酔は、大量に飲んで得られる陶酔とはまったく質を異にする。あまり金をかけないで酔うことは、ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態に導く、ある種の技巧だった。オリエントの人々――ギリシャ人に近いところではどこでも――は同じ禁欲を実践していた。それについては、ペルシャの詩人の詩が残されている。       (『ロラン・バルト著作集1』渡辺諒訳)

 「複雑で退廃的な」「柔らかく持ちのわるい肉」が、ローマ人のなかで好まれていたことはどこかで読んだおぼえはあるが、古代ギリシャ人にも好まれていたのだろうか。カルヴェの『ロラン・バルト伝』によれば、バルト自身は内臓よりは子牛のクリーム煮やソース類や生クリームなど、総じて「《なめらかなもの》」を好み、内臓を好む友人に向かって「君はギリシャの闘技者と同じようなものを食べるね」と言っていたという。しかし、いずれにしろ、こうした細かな食の好みについて言及するのはいかにもバルトらしい。

 たとえば、三島由紀夫の『アポロの杯』は、かねてからの「眷恋の地」におりたった酩酊感のなかで、美について思いめぐらすばかりで、なにを食べたかなどは一切触れられていない。ヘンリー・ミラーのギリシャ紀行『マルーシの巨像』は、たしかに頻繁に食べる記述はあるのだが、なにを食べたかや味の詮索などはなく、ミラーほど良くも悪くも排気量の極端に大きい人物にとって、食事など所詮エネルギーを取り入れるだけのものであり、そんな細かな個人的快楽は快楽のなかに入らず、友人との形而上学や小説や詩からセックスにいたる尽きることのない会話や、汎神論的に広がる性感覚、世界との一体感にいたってはじめて快楽の名に値するものとなるらしい。

 それはともかく、わたしを真に驚嘆させたのは、後半、大量の水で割ったワインが生のワインと「まったく質を異にする」陶酔をもたらし、それが「ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態に導く」という部分だった。

 たまたま岡本かの子の『生々流転』を読んでいると、商家の若旦那とそこの番頭が昼間から酒を飲む場面がでてくる。この番頭は親身あり情味ある女房をもらってしばらくは有頂天だったが、しばらくするとそのまとわりつく感じがいやになり三人子供もあったのに別れてしまったような男だが、若旦那との間に相当の応酬を重ねたのち、あるときがくるとぴたりと盃を伏せ、どんなに勧めてもそれ以上のもうとしなかった。若旦那の方は飲みだすとやめられないたちで、番頭の了見がわからないものだから、酒をどんなつもりで飲むんだとなじるように尋ねる。




 「判つてゐるぢやございませんか。酔ふためには違ひございませんが、ときには気附け薬になつたり、ときには滋養になつたり、だから飲むに時と処は選みませんが、よいだけ酔つて、これ以上、むだだと思つたらさつさと切上げます。あなたのお言葉ぢやござんせんが、以下は省いてしまひますな。そこは永年の修練です」

と番頭は答える。若旦那同様わたしも「君はまだ滅びない人種の酒呑みだよ」と感嘆するに否はないが、結局それは「むだだと思つたらさつさと切上げ」られ、そうした「修練」を積むにいたった番頭の人間性に対するある種の感嘆であって、大量の水で割ったワインが厳然たる文化であるのとはまるっきり話が違っている。

 古代ギリシャにワインを水で割る習慣があったことは確かで、アリストテレスは若者に刺激のより少ない水割りのワインを勧めている。しかし、それが生のワインとは質を異にする「特異な状態」をもたらすという確固たる認識が果たしてあったのだろうか。


 プラトンの『饗宴』は、題名からいかにも酒を呑みながらの歓談と考えてしまうのだが、実はそうではない。饗宴には手順が定められており、ご馳走を食べ終わると神に葡萄酒を捧げる灌奠などの儀式があり、神への讃歌が歌われ、それから酒ということになる。

 ところが、『饗宴』では、それらが一通りすんで酒というところで、出席者の一人であるパウサニアスが「さて、それでは諸君、どういう飲み方をすれば、いちばん楽な飲み方ができるだろうか。実際ぼくとしては、諸君にぶちまけたところ、きのう飲んだ酒でひどく気分が悪く、何か息抜きになるものが欲しいところだ。それに、大部分の諸君だって同様だろうと思う。なにぶん昨日も出席していた君らのことだからね。」(鈴木照雄訳)と提案すると、他の参加者も二日酔いであることを告白し、「まあ気の向くまま飲みたければ飲むといった調子でやろう」ということで、おそらくは酒なしで、エロースに関する考えが順に述べられていくのである。

 プラトンの『饗宴』は、参加者がみな昨日の酒が残った二日酔いの状態であることを告白することにはじまり、恋の神であるエロースについて参加者がそれぞれ自身の「言論」を発表することが続く。なかには、有名な、アリストファネスの説、人間は本来二体が合わさった球形であったが(男女、男男、女女の三種類)、驕慢で神に逆らったためにゼウスによって二つに切断され、それ以来、人間は失われた半身を求めている、という言論が含まれている。そして、それぞれがエロースについての説を発表したあと、「たいへんな酔っばらい」であるアルキビアデスが乱入し、ソクラテスを賞讃することで『饗宴』は終わる。つまり、二日酔いからはじまり、酔っぱらいの闖入で終わるわけで、ほどよい酩酊とは無縁なのである。


 同じくプラトンの『法律』では、酒は若者の弱点をあらわにするので、彼らに注意を与えるに際し有効なテスト法である。だが、いずれにしろある言い伝え、「ディオニュソスは、継母ヘラによって魂の判断力を奪われ、そのためにその復讐をしようとして、バッコスの狂乱やありとあらゆる狂気の踊りをもたらしたのであり、酒もまた、その同じ目的のために贈られたものだ」(森進一・池田美恵・加来彰俊訳)によれば酒とは狂気への道であるから、軍役に服している者はいついかなるときにも酒ではなく水を飲んで過ごさねばならない、国内にいる奴隷は、男も女も酒を飲んではならない。

 船長も裁判官も職務を遂行しているときには飲んではならない。重要な評議会に審議のために出席する者も飲んではならない。いかなる者も、身体の訓練や病気のためでなければ、昼間は決して飲んではならない。夜であっても、子供をもうけるつもりのあるときは飲んではならない、それ以外にも「正気を保ち正しい法律に従う人なら、酒を飲んでならない場合は、たくさんあげられるでしょう。」と述べ、更に「こうした原理に従えば、どんな国家も多くの葡萄園を必要とはしないでしょう。また、他の農産物やすべて日々の食料品が統制を受けますが、なかんずく酒は、あらゆるもののなかで、おそらく最も適量に、最も少なく生産されるでしょう。」といかに酒の力を封じ込めるかに力点が置かれている。

こうしてプラトンは国家全体にそれぞれの職務、階級に則った節制の徳を与えようとしているのだが、こうした節制は単に欲望に対して否定的なものなのではなく、フーコーが言うように、快楽のひとつの術ともなり得る。というのも、節制の反対である不節制は、欲求を過度に貪ることであり、欲望にいかにも忠実であるように見えて、実は、行き過ぎている。


たとえば、飢えや渇きが過度に満足させられれば、その欲望は死に、食べたり飲んだりすることの快楽の感覚は押し殺されるだろう(楽しく食べ続け、飲み続けていたことが、いつかある閾を越え、苦行に近しいものとなることは誰にでも経験があろう)。つまり、節制というのは、満足を常に控えめに抑えておくことによって、快楽を受ける余地を残しておけるよう身の備えをすることだ、ということになる。ソクラテスからプラトンへといたる快楽の教えはまさしくそのようなものだったのだろう。

節制とは快楽の一つの術、一つの実践であり、欲求に根ざす快楽を《活用する》ことで、この実践は自分に限度を設ける力をもちうるのだ。ソクラテスによれば、「ただ節制のみが、上述の欲求をわれわれをしてがまんせしめ、ただそれのみが記憶にとどめるに足る快楽を楽しませる」。しかもまさしくこのような仕方でソクラテス自身も、クセノフォンの言葉を信じると、日常生活で快楽を活用している。すなわち、「ソクラテスは食事の量を食事が楽しみである程度にとどめ、そのために、食卓に向かうと、いつでも食欲が調味料のかわりをしていた。酒は咽喉がかわかなければ飲まないから、どんな酒でもおいしかった」。(ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』 田村俶訳)

 しかし、これもまたバルトのいう「甘美なまでに特異な状態」からは遠いだろう。いつでもおいしくものを食べ酒を飲めるように、腹具合や喉の状態を少々空腹や渇きをおぼえる程度に保っておくというのは、快楽を一元化することでもある。

 つまり、バルトの場合には、生のワインを徹底的に飲んで酔っぱらうという陶酔と、それとは質の異なる水割りのワインによる「より軽やかな」陶酔があったわけだが、このソクラテス=プラトン的な節制では、適度な空腹や渇きを癒す際の快楽だけしかないのである。

プラトンから離れ、ギリシャの詩を見てみても、たっぷり飲み明かそうと訴える詩ばかりで、軽やかな特異な陶酔を描いた詩を見いだすことはなかなかできない。前三世紀初頭の詩人、アスクレーピアデースの詩を一編あげておこう。


飲めよ、さあ、アスクレーピアデース、何故この涙か、何を思ひ悩むのか。
 つれないキュプリスが捕虜にしたのは、お前ひとりではあるまい。
また、お前のためのみに、意地悪い愛神が弓や矢を
 磨ぎすましたのではあるまい、何故生きながら灰にかう塗れてゐるのか。
飲み明かさうよ、さあバッコスの生の飲料を。夜明には指一ふし。
 それとも復た閨にさそふ、灯火の影を見るまで待たうといふか。
飲み明かさうよ、さあ景気よく。いかほど時も経ぬうち
に、
 可哀や、長い夜をただひたすらに 眠るさだめの我等
ではないか。
  (『ギリシア・ローマ叙情詩選』 呉茂一訳)

 「同じ禁欲を実践していた」(バルト)というオリエントの人々のなかから、(大分年代は下るが)オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』をひもといてみても、酒に関する詩は数多くあるが、特異な陶酔は感じられない。二例だけあげておこう。


      76身の内に酒がなくては生きておれぬ、葡萄酒なくては身の重さにも堪えられぬ。酒姫がもう一杯と差し出す瞬間のわれは奴隷だ、それが忘れられぬ。      99おれは有と無の現象を知った。またかぎりない変転の本質を知った。しかもそのさかしさのすべてをさげすむ、酔いの彼方にはそれ以上の境地があった。

といったふうで、少なくともわたしには大量に飲む姿勢をあらわしているように思える。


更にいえば、酒と分かちがたく結びつくことになった葡萄の神であるディオニュソスは先に述べたように各地に狂乱を振りまいた神であった。そして、形象に止まり、彫刻や叙事詩に結実したギリシャ精神を「アポロン的」とし、非表象的で、人間の根源的な衝動の発露であり、叙事詩や音楽としてあらわれたギリシャ精神を「ディオニュソス的」と名づけたニーチェによって、酒はより決定的に、深い酩酊と結びつけられるようになったのではないだろうか。

 ディオニゾス的興奮は、自分達が内的に合致していると意識するところの、此の如き精霊群にとりまかれたる自分達自身を見ることの此芸術的能力を全群衆へ賦与し得るのである。悲劇合唱のこの作用は劇的根源現象である。自分自身の前に変形されたる自分自身を見るということ、そして今あだかも、人が実際ある別な体に、ある別な性格にはいっていたかのように行動するということは。このようなる作用は劇の発展の発端に立っている。ここにはその形象と融合しないで、むしろ画家の如く観照的な目で自分自身のそとを見るところの、あの史詩吟誦なぞとは異った何物かがある。ここには既に別な性格への没入による個性の放棄がある。そして固よりこのようなる現象は流行病的に出て来る。全群衆がかくの如く変形されて自らを感ずるのである。この故に酒神頌歌は本来はいかなる他の合唱歌とも異っている。月桂樹の枝を手にして、厳かにアポロの神殿へ練り行き乍ら、行列の歌をうたうところの処女達は、依然としてもとの儘の彼女等であり、彼女等の市民としての名前を保持している。酒神頌歌の合唱は、形を変えられた人人の合唱である。そして彼等の市民としての過去は、彼等の社会的地位は全く忘れられている。彼等はあらゆる社会的領域の外に生きているところの、時間のないところの、彼等の神の奉仕者になっている。希臘人のあらゆる他の合唱的叙情詩は、アポロ的な個人的唱歌者の巨大なる増進にすぎない。しかるに酒神頌歌に於ては、自分達をお互いの間に変形されたものと見なすところの、無意識的な俳優の一共同体が私達の前に立っているのである。
(『悲劇の出生』生田長江訳)

 こうした経験は、むしろ神秘的とも言えるものであって、飲酒による酩酊などとは質を異にしていると言うべきだろうか。確かにニーチェの描いているのは、神の祭祀に結びついた聖なる経験であり、世俗化されつくした現代の世界とは隔絶しているように思える。しかし、酒神こそいないものの、たとえば吉田健一の短編「酒宴」などはニーチェの呈示したのとさほど異なることのない経験を描いていないだろうか(同じような経験を描いた吉田健一の文章は、枚挙にいとまがない)。


 銀座の「よし田」で「円いと言ふ他ない感じの」中年男と飲み始めて別れ難くなる。東京駅の方の地下のなんの飾り気もない店で朝まで飲み、その足で男が酒の技師を務めている灘の工場まで見学しに行く。工場にはタンクが並んであり、大きな茶碗で利き酒をする。見学が終わると、神戸の「しる一」という料理屋の二階で宴会が始まる。やがて、なぜか、いま工場で見てきた四十石入りや七十石入りのタンクが献酬相手になっている。七石さんは胴の真ん中辺のふくらみ方から女であるらしい。いつの間にか場所は山の上の草原になっており、「自分」はタンクを取り巻いて神戸からその後ろの連山まで伸びる途方もなく大きな蛇になっている。


 短篇「酒宴」に見られるような、献酬の相手が酒の入ったタンクに、自分はそれらのタンクを取り巻く途方もなく大きな蛇に変身してしまう酒宴は、ディオニュソスの祭儀の陶酔に近いと言えるかもしれない。だが、ニーチェのいう「彼等の市民としての過去は、彼等の社会的地位は全く忘れられている。彼等はあらゆる社会的領域の外に生きているところの、時間のないところの、彼等の神の奉仕者になっている」という記述と吉田健一の酒宴とでは似て非なるところがある。というのも、たしかに吉田健一の様々な酒宴においても、その人間が過去になにをし、どんな仕事をしている人間なのか問題にされることはないのだが、「あらゆる社会的領域の外に生きている」とは到底言えないからだ。


 『瓦礫の中』は、敗戦直後の日本で、防空壕に住んでいる夫婦がひょっこりと新しい家を手に入れるまでの話なのだが、家を手に入れるのは瓢箪から駒がでる付けたりに過ぎず、内容といえば、吉田健一の小説の多くがそうであるように、人の組み合わせを変えながら、酒を飲むことに尽きている。だがその酒宴は、ラブレーのような、大量の臓物料理と葡萄酒と排泄物とが隣りあっているような野放図なものではない(たとえば、ガルガンチュワの母親であるガルガメルが産気づくのは酒宴の最中であり、産婆たちが赤ん坊だと思い「随分と悪臭を帯びた皮切れのようなもの」を引っぱるのだが、それは臨月だというのに臓物料理を食べ過ぎた彼女の「糞袋」が弛んで脱肛を起こしていたのだった)(『ガルガンチュワ物語』渡辺一夫訳)。

 小説の冒頭で、寅三とまり子の夫婦は、同じく家を焼かれ防空壕のなかに住んでいる隣家の伝右衛門さんを夕食に誘う。彼らは酒を飲みながら漢詩を引用しあったりするのだが、突然伝右衛門さんがこんなことを言いだす。

それはあの頃の服装を見れば解るでしょう、服装に限ったことじゃないけれど。あの十八世紀のは威張るのが目的じゃなくて自分も含めて、自分の着心地のことも考えて人を喜ばせる為のものだった。だから文明なんです、その時代の日本も同じで。あんな風に男も女も髪に白粉か鼠色の粉を振り掛けるのは可笑しいとお思いになるかも知れないけれど、あれを蝋燭の光、それも何も暗いっていうんじゃない、電気の光を何十燭っていうその何十本でも何百本でも蝋燭を付けたんですからね、ただ電気よりも光が柔くて、その光がああいう頭に映っている所を考えて御覧なさい、それがどんな具合になるか。これは日光だってそれ程じゃなくても同じ効果がある。そして文明が発達すれば夜の生活が大切になるんですからね。あの髪であんな服装をしている。それで男は首と手首の所に白いレースが出ていて男の服も繻子か天鵞絨を多く使った。どっちも髪と同じことで光を柔げるんですよ。貴方に女の服装のことを言うことはない。そういう男や女が馬車から降りて来る、或は輿から出て来る。

 続けて伝右衛門さんは、「モツァルトの音楽って人を驚かせないでしょう」と「まり子でない聞き手ならば突拍子もないと思ったかも知れないこと」を言う。しかし、吉田健一の酒宴に招じ入れられるのは、こうした言葉を「突拍子もない」と思わない者だけなのである。

 ヨーロッパ十八世紀の文明が光という物理的事象を、さまざまに工夫を凝らした服装で馴致したように、吉田健一の酒宴では、アルコールがもたらす生理的事象、酒癖の悪さ、むかつき、諍いなどが馴致されている。そうした文明の作法を知らない者は吉田健一の世界には参加できない。

 寅三は占領軍相手の仕事をしているが、仕事相手のジョーと交わすのも文明の作法をわきまえた者同士の言葉なのだ(「貴方は『大鴉』って読んだことがあるかね、」とジョーが聞いた。/「それはある。そうすると、酒を飲みながら文学の話をしてもいいんだな、貴国でも。」/「弊国ではいいさ。貴国では」/「そりゃいいさ、文人墨客がすることだよ。」)。

 吉田健一的人物とは、社会的地位や陽気でがさつな「ヤンキー」というステレオタイプからは自由だが、文明という「社会的領域」に棲息することが必須の条件となっているのである。かくして、彼らの会話には「突拍子もない」ことなどなにもなく、人間関係にまつわる葛藤もない。もちろん議論などもなく、酒を酌み交わして会話することは同じ世界に住むことを確認するだけのものなのだ。

 というわけで、ニーチェ的な暗い陶酔と吉田健一の酒宴とは異なるのだが、その分、ロラン・バルトのいう水で割ったワインを飲むことでもたらされる「ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態」に近しいものがある。「酒宴」という短篇では、吉田健一の小説では例外的といってよく、飲んでいる者が次々に酔いつぶれ、生の葡萄酒を飲む場合と同じ難点、つまりは酔いの陶酔からのあまりにも早すぎる不本意な失墜に見舞われるのだが、本来的な吉田健一の酒の時間とは、そうした失墜には無縁な「甘美なまでに特異な状態」の持続から成り立っている。

 寅三はいつも伝右衛門さんと飲んでいるともうずっと前からそこでそうやっている気になって、或は寧ろ前と後の感じがなくなってただ今だけがある状態でいるのが続き、こうしている今はその部屋の様子が益々はっきりして来るのが同時に霞むようでもあり、卓子の向うにいる伝右衛門さんと二人の間にあるウイスキーだけが心が安まる程明かに寅三が自分であることを保証してくれていた。それは独酌する時に似ていてそれであるから伝右衛門さんも無駄がなくその人になり、それから先は途方もないことを言い出して狂乱の境地に自分を忘れることも、ただ黙っていることも自分の選択次第で丁度そこの所に止って伝右衛門さんと飲みながら話を続けるのが充足というものだった。そういうことをいつまでもやっていられるものだろうか。それが上等な日本酒でなくてもウイスキーならば出来て、こういう飲みものには何か人を酔わせて置いて或る所で引き留める働きがある。

敗戦後の東京が舞台とあって、上等な日本酒が手に入るはずもなく、ここではウイスキーとともに時間が流れるのだが、吉田健一の文章においてウイスキーの位置はそう高くない。葡萄酒や日本酒とは異なり、食事とともに飲むには適さないこと、酒は上等になればなるほど味が複雑になり、味が複雑になればなるほど真水に近くなるという吉田健一独特の基準からするとそういう評価になるものと思われる。

それはともかく、バルトのいう「甘美なまでに特異な状態」が吉田健一のこうした記述と重なるものであるなら、そのユートピア的相貌がようやくあらわになってきたと言えよう。『表象の帝国』の日本が現実の日本を材料に気ままに切り取られたバルトによる幻想の日本であったように、水割りの葡萄酒を傾けるギリシャ人もまたバルトによる幻想のギリシャを形づくるものと言える。

たしかに、水割りの葡萄酒を飲む習慣はあっただろうが、それを「甘美なまでに特異な状態」に結びつけたのはバルトのユートピア志向であったろうし、友人と酒を飲んで楽しい時間を過ごすことは一般的にあるだろうが、それを「前と後の感じがなくなってただ今だけがある状態」に結びつけたのは、同じく吉田健一によるユートピア衝動だった。

 バルトの「甘美なまでに特異な状態」は一九七七年から一九七八年にわたってコレージュ・ド・フランスで行なわれた講義『〈中性〉について』のテーマであったと思われる。生の葡萄酒がもたらす酔いについて、ド・クインシーからの引用を含めて次のようにいわれている。


「危機的時間性を産みだすのは、葡萄酒である:『葡萄酒があたえるこの快楽は、つねに上昇的な進行を示し、その極限へと向かうが、そのあとではすばやく減退の方向をたどる。阿片が得させる快楽は、ひとたび姿をあらわすや、八ないし十時間はそのままとどまっている。一方は燃え上がるものであり、他方な均等で穏やかな光である。』・・・・・・したがって、葡萄酒は、臨界点をもつあらゆる酔いのモデルである。上昇、絶頂、虚脱。ド・クインシーはそうしたことを明確に理解した。」(塚本昌則訳)

「均質で穏やかな光」こそ水割りの葡萄酒がもたらすものだったろう。

〈中性〉とは、講義要約によれば、「意味の範列的構造、諸要素を対立させる構造をたくみに避けるか裏をかき、そのようにして言説の諸要素の対立を宙づりにすることを目指すようなあらゆる抑揚の変化」をいう。闘争を引きおこすような「〈断言〉、〈形容詞〉、〈怒り〉、〈傲慢さ〉」とは異なり、闘争を中断するような「〈好意〉、〈疲労〉、〈沈黙〉、〈繊細さ〉、〈眠り〉、〈揺れ動き〉、〈隠遁〉」に向かう言説である。

 トルストイ、ルソー、ベンヤミン、ボードレール、ブランショ、ジッドなど様々な文章が引かれているのだが、そんななかでももっとも多く言及されているもののひとつが老子と道教についてである。冒頭、「講義全体のために」として四つの文章が朗読されたが、ジョゼフ・ド・メストルの『スペイン異端審問に関するあるロシア人貴族への手紙、1815年』、トルストイ『戦争と平和』、ルソー『孤独な散歩者の夢想』とともに、ジャン・グルニエの『老子の精神』からの一節(アンリ・マスペロによる『老子』の翻訳を改編したものであるらしい)が取りあげられた。講義録では「老子自身による老子の肖像」という見出しがつけられている。

他の人々は、まるで饗宴に参加するか、春楼に登ってでもいるかのようにしあわせだ。わたしだけが冷静で、わたしの数々の欲望ははっきりとした姿を取らない。わたしはまだ笑ったことのない子供のようなものだ。まるで隠れ家を持たないように悲しく、打ちひしがれている。他の人々はみな無駄なものを持っている。わたしだけが、すべてを失ったように思える。わたしの心は、愚か者の心だ。なんという混沌!他の人々は知的な様子をしているのに、わたしだけは間抜けのように思える。他の人々は見識に満たされているように見える。わたしだけがぼんやりしているのだ。わたしは、まるで休息の場所を持たないかのように、流れに引きずられているように思われる。他の人々はみな自分の仕事を持っている。わたしだけが、野蛮人のように愚鈍だ。わたしだけが他の人々と異なり、〈乳母〉〔である道〕を尊敬している。

 この愚鈍さ、無為は「明らかに、生きる意欲の反対ではない。それは死のうという願いではない。生きる意欲の裏をかき、巧みに避け、方向をそらすものである」とバルトは言い、二種類の無為=選ばないことを区別している。ひとつは性格の弱さによる、優柔不断からくる選ばないことだ。もうひとつの選ばないことは、「引き受けられた、穏やかな」選ばないことである。それは「純化させる節制、禁欲、求道ではない」。裏をかき、方向をそらす選ばないことであり、道教の不可思議さがそこにあらわれている。

2018年7月30日月曜日

喜劇のために










 芸の達成は、作品の発生と同等の現象だと考えてよいのだろうか。単なる言葉の連なりがどこかで詩や小説になり、或はどこかで笑いや涙を、つまりは感動を伴った余剰の意味を生みだす作品になる、そうした変化と芸の達成は同じものなのだろうか。大根役者の芝居が名優と同じ台詞を語っていながら、なんの感動ももたらさないように、内容としては同じでありながら、感動をもたらす作品と退屈でたまらぬ作品があり得る。外国文学の翻訳のことを考えればわかりやすいはずだ。Iを「僕」と訳すか、「俺」と訳すか、或は「私」と訳すか、いずれかによって感動の質は変わるだろう。例えば、レイモンド・チャンドラーのフリップ・マーロウが自分のことを「わて」と言ったなら、『長いお別れ』はよほど変な印象をもたらす作品へと変わるだろう。

 単なる言葉の羅列と文学との相違が、我々の住まう意味の網の目に関わっていることは確かである。日常的に、ルーチンに消費される意味とは異なる何らかの新たな意味の布置があらわれたときに、我々は作品の誕生を感じ取る。そうした布置の変化が最も明瞭なのが悲劇と喜劇である。

 身体的に言えば、横隔膜の震えが笑いであるように、意味の引き攣れが笑いを生みだすと言ってもいいかもしれない。数ある落語のなかでも最も奇天烈なものの一つに「あたま山」がある。

 けちん坊がもったいないからとサクランボの種まで飲み込んでしまう。すると頭のてっぺんに桜の木が育ち、満開の桜の花が咲く。花見客が大勢訪れ、どんちゃん騒ぎやら喧嘩やらうるさくて仕方がない。そこで桜の木を引っこ抜いてしまった。ところがそこにできた穴に水がたまり、池となり魚が棲むようになる。今度は釣り客が集まり、船を出すわ網を打つわで、これまたうるさくてしょうがない。そこでこの男世をはかなんで自分の頭の池に身を投げてしまった。

 この噺のもとになったのは安永二年の『口拍子』にある次のような小咄である。

         神田にお玉が池といふ有り。誠はあたまの池なり。昔、この辺に住みける人の親父のあたまに池ができて、鮒や金魚が大ぶん住んで珍しいことゆへ、遠近より群衆をなして見に来る。息子、外聞かた/\気の毒なれば、見物の来ぬやうにしたいと思ふ折ふし「私は山の手から承り及んで、親父様のあたまの池を拝見に参りました」息子「遠方からせつかくお出なされましたが、親父様、世上の沙汰を気の毒に思はれまして、夜前、あたまの池へ身をなげられました」 (武藤禎夫編『江戸小咄辞典』)

 お玉が池というのは、かつての神田松枝町(昭和四十年代の初めまでこの町名があった)、いまの岩本町にある地名で、神田駅の東、秋葉原駅の南に位置する。江戸時代の初めには実際にお玉が池という池があったというが、三代将軍家光の寛永年間には既にその存在が不明となっているという。それ以前は桜ヶ池と呼ばれていたその池の池畔の茶屋にお玉という看板娘がいたが、二人の男に言い寄られ、どちらとも決めかねるままに池に身を投じてしまった。それからお玉が池と呼ばれるようになったという。

 つまり、この噺は、「お玉が池」と「あたまの池」というごくくだらない駄洒落の発想から生まれたのだ。

 『江戸小咄辞典』の「鑑賞」によれば、この小咄には『徒然草』第四十五段からのヒントもあるという。

 良覚という怒りっぽい僧正があった。坊の近くに大きな榎木があったので、「榎木の僧正」と呼ばれた。そのあだ名は面白くないと、榎木を切り倒してしまった。だが、切り株が残っていたので今度は「きりくひの僧正」と呼ばれる。ますます腹が立つので切り株を掘り起こして捨ててしまった。その跡に今度な大きな堀ができたので「堀池僧正」と呼ばれるようになった、という話だ。

 もっとも、この挿話は落語の「あたま山」や引用した小咄の類話としてあげられているもう一つの話の方により大きな割合で取り入れられている。

 そちらの話(同じく安永二年の『坐笑産』にある「梅の木」)では、道楽者と信心深い二人の浪人が隣り合わせに住んでおり、信心深い男の頭に見事な梅が咲き乱れる。多くの見物人が訪れ、敷物代で大いに儲かる。それを嫉んだ隣りの浪人が、夜中忍び込むと梅の木を根こぎにして盗んでしまう。盗まれた浪人はがっかりするが、やがてその穴が池となり金魚が湧きでるようになる。隣りの浪人、再び忍び入り、煙草のヤニを投じ金魚をすべて殺してしまう。浪人はいよいよがっかりして、家主のおかみさんに頭の池に身を投げることを告げる。自分の頭にどうやって身を投げられるものか、とおかみさんに言われた浪人は、「イヤその儀も工夫致しおいた。お世話ながら煙管筒を仕立てるやうに、足から引つくり返して下され」と答えた。

 『口拍子』のものとは異なり、落語の「あたま山」と「梅の木」には木を引き抜いた跡に池ができるというくだりがあり、『徒然草』とのより近しい類縁性を示している。また、自分の頭の池に身を投げる方法も説かれている。煙管筒とは、その名の通り煙管を入れる筒で、通常刻み煙草を入れるための袋と対になっている。煙管筒は木製のものが多いが、布製や革製の場合、細長く縫い合わせた袋状のものを最後にひっくり返すことになる。それを「煙管筒を仕立てるやうに」と表現したのだろう。

 川戸貞吉の『落語大百科』によれば、典型的な小咄である「あたま山」を一席の落語として演じたのは、彦六の八代目林家正蔵(いまのこぶ平の正蔵ではなく、前の木久蔵である林家木久扇がよく真似をする方の正蔵)だけだったそうだ。

 そういえば、話自体にはなじみのある「あたま山」だが、落語として聞いた覚えがわたしにはない。それはともかく、正蔵も自分の頭に身を投げる方法について次のように説明していたという。

 「そうだねェ、お前わからなけりゃァ、絵解きをして聞かしてやるがね、あのねェ女の方が紐なんぞを縫ってることがあるだろう」 「へえへえへえ」 「最初縫うときにァ、針目を上にして、ね?チクチクチクチク、いま運針というがねェ、針をこう運んでるだろう」 「へえへえへえ、へえ、そうですねェ」 「縫い上がるとどうするィ?物差しをあてがって、ひとつこう、ひっくり返すだろう、な?そうすると、細紐がこう出来上がるねェ」 「へえへえへえ」 「あれとおんなしだァな」 「どういうわけでおんなしですゥ?」 「困ったねェ、お前わからないかい?――」 「わかりませんねェ」 「だからさァ、かりにね、頭の、池だねェ、頭に池があるとする」 「へえへえへえ」 「これをお前、人間がめくれめくれていきゃァみんな入っちまう」

 人間を裏返すという発想は「梅の木」と同じである。ちなみに、アカデミー賞短編アニメーション部門にもノミネートされた山村浩二の『頭山』(2002年)では、釣り客や水遊びをする者たちの騒ぎに耐えきれなくなった男が夜のなかをさまよっていると、池に行き当たり、その池を覗き込むことが頭池を覗き込むことでもあって、合わせ鏡の間に身を置いたように、無限の反復に捕らわれるというような解釈になっていた。

 しかし、この解釈はわたしには疑問だった。「あたま山」の最後の面白さとは、トポロジーの面白さであって、無限の生みだす面白さとは自ずから性質が異なっていると思われるからである。

 喜劇というジャンルの定義は定めがたい。アリストファネス、シェイクスピアから、ワイルド、チャップリン、キートン、マルクス兄弟、モンティ・パイソン、森繁久彌の社長シリーズや『男はつらいよ』まで包含するような定義がいったい可能なのだろうか。

 アレンカ・ジュパンチッチは『仲間どうし』という喜劇論で、真の喜劇と偽物の喜劇とを区別している。ジュパンチッチには『リアルの倫理』というカントとラカンについての、またニーチェについての著作があり、おおよそカント、ヘーゲル、ニーチェ、フロイト、ラカン、ジジェクといった思想圏内にいる人物である。その喜劇論の出発点はヘーゲルの喜劇論にある。

 ヘーゲルによれば、叙事詩、悲劇、喜劇は宗教と同じく、精神の偉大な達成である。というのも、いずれにおいても、普遍的なもの、本質的なもの、絶対的なものが扱われているからである。叙事詩では、吟遊詩人たちによって神々や英雄たちの行為が物語られる。悲劇では、運命や死といった普遍的、絶対的なものが上演され、表現される。

 ジュパンチッチが言うには、ヘーゲルの喜劇論の特異な点は、ヘーゲルが、喜劇においても普遍的なもの、本質的なもの、絶対的なものとのつながりを手放さなかったことにある。

 ごく通俗的な喜劇観に従えば、喜劇こそは、普遍的なもの、本質的なもの、絶対的なものからは抜け落ちてしまう日常の細部がそうした大問題に対して反旗を翻し、それらを切り崩して勝利を収めるものだということになろう。ところが、ヘーゲルは、ちょうど悲劇の演者が必然や運命という巨大な力のごく小さな一部であるように、喜劇における日常の具体的な細部は普遍、本質、絶対を切り崩す否定という絶対的な力が顕現したものであり、この否定こそが喜劇の生みだす普遍であり、本質であり、絶対だと言うのだ。

         喜劇は普遍の土台を切り崩すものではなく、普遍(自ら)の具体への反転である。それは普遍に対する異議申し立てではなく、普遍そのものの具体的な労働或は作業なのだ。或は、これを一言で言えば、喜劇とは作業中の普遍である。この普遍は活動している存在として表象(再現)されているのではなく、まさにいま働いている。(アレンカ・ジュパンチッチ『仲間どおし』)

 これだけでは具体的にどういうことが言われているのか定かではないが、真の喜劇と偽物の喜劇との区別の仕方を見ると、朧気な視界が徐々に晴れていくことになろう。

 アレンカ・ジュパンチッチが言う偽りの喜劇とは、おかしみをすべて「人間の弱さ」に回収するものである。例えば、王様、貴族、裁判官、宗教家など象徴的な権威をもつ者たちが愚かしい姿をさらす。彼らは我々と同じように、いびきをかき、おならをし、足を滑らせて転び、欲望に負ける。喜劇にはよくあるシチュエーションである。

 偽りの喜劇は、このシチュエーションをどれだけ偉そうに振る舞い、地位や権威のある人物であっても、所詮は我々と同じ人間なのだ、と説明しようとする。それは、いかにも現実暴露的で、反権力的なラディカルな姿勢に見える。普遍的なもの、象徴的なものを具体性、人間すべてが従わねばならない物理的法則に引きずり下ろしているようだ。

 しかし、この具体性なるものは、普遍性対具体性という非常に抽象的な図式のなかでの具体性でしかない。王様など権威者の愚かさは普遍的な人間性に回収された上で笑われ、彼らの権威は無傷のままに残り、尊敬の対象であり続ける。つまり、いかに権威のある者でも我々と同じ人間に過ぎないという見方は、同じ人間であるのにどうして王様や貴族は象徴的な権威を身につけるにいたるかという反対の方向性を隠蔽してしまう。

 では、真の喜劇とはなんであろうか。

        我が儘な貴族についての真の喜劇は、実質的に次のような型に従うべきである。自分が真に、本来的に貴族だと信じている貴族が、まさしくその信念において普通の愚かな人間だということだ。別の言葉で言えば、貴族に関する真の喜劇は、この概念の普遍的な側面そのものが人間性、肉体、主体を生みだすという具合に処理されるべきである。ここでは、身体は魂の欠かすことのできない基盤ではない。それぞれの内にある確固たる信念こそが魂を可能な限り肉体的なものとする地点なのだ。人間的弱さという水たまりのなかに幾度となく落ちる貴族の具体的な身体は、単にぬかるみに横たわる経験的な身体ではなく、より以上に、貴族である自分、自らの「貴族性」への信頼である。この「貴族性」が普遍そのものの精髄として喜劇によって生みだされる真の喜劇の対象である。(『仲間はいり』)

 つまり、道徳的、倫理的規範とも成るべき存在が喜劇のなかで笑われるとき、そこで笑われているのは我々と同じ次元にまで引きずり下ろされた「人間」ではなく、人間が体現する道徳的、倫理的規範である。人間の弱さは物理法則に従わねばならぬことにではなく、道徳的倫理的規範にあらわれる。喜劇の観客は、理想となるべき存在(王、貴族などの権威者)が権威をもつことにおいて愚かなのを見て、理想との同一化と脱同一化のあいだをさまようことになる。

 ジュパンチッチのこうした議論は、チャップリンの『独裁者』やマルクス兄弟の『我輩はカモである』などを思い浮かべれば容易に理解されるだろう。独裁者は一人の人間として滑稽なのではない。一介の街の床屋が入れ替わりうるような、グルーチョのナンセンスな言葉が戦争へと通じるような独裁者という権威、役割、地位そのものが滑稽なものとして笑われているのだ。

 チャップリン、キートン、ロイド、ロスコー・アーバックルなどのサイレント映画を見れば、警官は警官である、金持ちは金持ちである、店の主人は店の主人である信念のもとに肉体化されている。その一方、人は投げられて宙を行き交い、殴られてはバネ仕掛けのように起き上がり、ハンマーに打ち据えられ銃で撃たれても動き続ける非人間的な物理的耐性を備えている。つまり、人間は所詮人間でしかない、というのが喜劇が教えてくれる知恵だという見解とは反対に、喜劇の人物は常に人間性から逸脱しようとするのだ。こうした、人間性と非人間性、普遍と個、抽象と具体が衝突して、しかもその衝突がどちらか一方に解消されないところに真の喜劇がある。

 真の喜劇がはらむこうした内在的矛盾を、ジュパンチッチはメビウスの輪に例えている。巨大なメビウスの輪に立っていると想定しよう。我々はいま立っている場所とは別次元の裏面があると思っており、実際にどの場所に立とうが裏面は存在する。人間性の裏に非人間性が、普遍の裏に個が、抽象の裏に具体があるかのように。だが、ずっと歩いていけば、最初にいた場所のまさしく裏面にたどり着くはずだ。同じように、人間性がいつの間にか非人間性に、普遍が個に、抽象が具体へ、そしてその逆の方向へと運動を続けるのが喜劇の魅力である。

 使われている言葉、対象となる作品こそまったく違うが、ジュパンチッチの喜劇論は幸田露伴の笑いについての説に近いところがある。

 明治三十年代の露伴は、明治二十年代のように矢継ぎ早に小説を発表することがなくなり、むしろ小説から徐々に遠ざかりつつあった。露伴最後の長編小説『天うつ波』は、日露戦争という国家の一大事のなか、「比較的に脂粉の気甚だ多き文字」を書き連ねることへの忸怩たる思い、兄の郡司成忠がロシア軍の捕虜になる事件、及びそれに関連した様々な風聞(郡司の生活の拠点であった占守島の人々が虐殺されたという噂もあり、郡司自身の生死も当初は不明だった)などいくつかの理由により中断し、結局その後完成することがなかった。

 『一国の首都』のような都市論や随筆など小説以外の文章が多くなり、尾崎紅葉とともに紅露と称された小説家の露伴が終わり、明治四十年代以降から始まる『頼朝』『平将門』『蒲生氏郷』といった史伝、『努力論』『修省論』などといった修養書を書くにいたる露伴が準備されていた時期だと言える。

 この時期を特徴づける要素の一つは、笑いへの関心である。『春の山』(明治三十三年)、『笑話』(明治三十八年)などで小咄を収集する一方、明治三十六年には『狂言全集』を校訂している。もともと露伴の短編には、「新学士」のように流麗な語り口で軽く落とすコント風のものから、「毒朱唇」のような哲学的諷刺、ほぼ落語の台本とも言える「貧乏」、江戸戯作の伝統を受けた「艶魔伝」にいたるまで、笑いの要素に欠けるわけではない。

 しかし、『吾輩は猫である』の夏目漱石の笑いを機知の産物とし、齋藤緑雨のパロディや文体模写を相手の肺腑を抉るアイロニーだとすると、露伴の笑いはだいぶん様相が異なり、ユーモアが主調になっていると言えようか。

 フロイトによれば、機知や滑稽とは異なる「なにかしら堂々としたところ、なにかしら魂を昂揚させるようなところ」がユーモアにはある。それは「明らかに自己愛の勝利、自我の不可侵性の貫徹ということから発している。この場合、自我は現実の側からの誘因によって傷つけられること、苦悩を押しつけられることをこばみ、外界からの傷を絶対に近づけないようにするばかりでなく、その傷も自分にとっては快楽のよすがとしかならないことを誇示するのである」(「ユーモア」高橋義孝・池田紘一訳)と言っている。

 実際、露伴の文章は、漱石や緑雨のように、思いもかけなかったもの同士を結びつけるパンチ・ラインで反射的痙攣的な直接的笑いを引き起こしはしない。むしろ高揚した堂々とした気分にさせるものだ。それは漱石にも緑雨にも感じられないことである。

 狂言全集を校訂し、笑い話を熱心に集めていたころの露伴の笑いについての考えは、明治三十六年に東京帝国大学でなされた講演を原稿にした「滑稽談」という文章にあらわされている。

 そこで露伴は『竹取物語』にまでさかのぼり、日本の滑稽の歴史を一望している。『竹取物語』に続くものとして、狂言、『鴉鷺合戦物語』、江戸時代に入り『醒酔笑』、西鶴の『名残の友』、『鹿の子餅』、『軽口御前男』といった笑い話集があり、黄表紙、落語、川柳、狂歌へと続く。

 だが、このように、日本の笑いの歴史をたどった露伴がたどり着いた結論は、「併し我が邦の滑稽の文学はまだどうも立派なものを有つて居らぬのです。日本の滑稽作者に誰を推したら好いのですか、誰も無いではありませんか」というしごく厳しいものとなる。なぜなら、駄洒落や地口や謎をもっぱらとしており、江戸文芸に明らかなように、表面的な戯れに終始しているからである。

 それでは、「立派なる滑稽の文学」とはなんだろうか。ここで、露伴特有の、機知ともアイロニーとも異なる笑いの性格が明らかになる。

         立派な涙は何であるかと云ふと、詰り感情の深い渓の美しい水です。立派な怒と云ふのは何であるかといふと、道義の念の燃え上る壮(さかん)な熱ではありませんか。さて立派な笑と云ふのはさう云ふ熱でも水でもない、さう云ふものの好い調和を得たところに咲く優麗美妙な一つの或美しい華ではありますまいか。即ち解脱の光景ではありますまいか。今日までの日本の人の間には火の働きも水の働きも弱かつたので、為に解脱の光景も立派でなかつたのではありますまいか。今後の人は中々昔の人とは違ふ、泣ッ面も怒り面も大分激しくなつてまゐらねばなりませぬ。であれば随つて笑も今までとは違つて大きな光景を現はし来らなければならぬです。それ等の事から考へますると、明治になつて既に三十何年になりますが、今までは滑稽の文学が出てまゐらないのも寧ろ当然のことであり、又幸福と云つても宜い位であるとおもひます。何故ならば若し明治以来の火や水が少い僅かな火や水であつたならば、もう疾(と)うに相調和して仕舞つて、美しい光景たる滑稽のものが出来て現はれて居る筈である。けれども未だに何等の滑稽の作も現はれて居らぬ所を見ると、是から先になつて出て来るのではないかも思ひまする。明治はまだ若いのです。まだ泣いて居るのです、怒つて居るのです。笑の文学が出るほど熟して居ないのです、是から先に段々出て来るのです。

 「好い調和」といった一見静的な言葉にだまされてはいけない。この調和は、人間のあるがままの姿に自ずとあらわれるようなものではない。「感情の深い渓」と「道義の念の燃え上る壮んな熱」が、つまりは感情という身体的で個的なものと道義の念という普遍的で公的なものとが衝突する場なのである。悲しみや怒りが大きなものであればあるほど、その衝突によって生まれる笑いはより高らかに響き渡ることとなろう。

 「解脱」という言葉は通俗的な宗教解釈によってすっかり手垢にまみれたものになってしまっているが、そもそも、人間性が非人間性に、個が普遍に、抽象が具体に通じるようなメビウスの輪に立つことを意味しているのではないだろうか。そしてそうした反転を、狂気に陥らずに、メビウスの輪のようにある意味簡単で安定した空間として捉えること、「自我の不可侵性の貫徹」をあくまで成し遂げているところに露伴の笑いの特徴がある。

2018年7月23日月曜日

羽左衛門と吉田松陰ーー河上徹太郎『羽左衛門の死と変貌についての対話』






 谷崎潤一郎の『芸談』(昭和8年)に次のような一節がある。

劇の内容や全体の統一などに頓着なく、贔屓役者の芸だけを享楽する、と云ふやうな芝居の見方は邪道かも知れないが、私はさう云ふ見方にも同情したい気持ちがある。個々の俳優の芸の巧味と云ふものは、全体の「芝居」とは又別なものだと云ふ、――「芝居の面白さ」とは別に「芸の面白さ」と云ふものが存すると云ふ、――何とかもつと適切に説明する言葉がありさうに思へて、一寸出て来ないのが歯痒いが、まあ云つて見れば、何年もかかつて丹念に磨き込んだ珠の光りのやうなもの、磨けば磨く程幽玄なつやが出て来るもの、芸人の芸を見てゐると、さう云ふものの感じがする。そしてその珠の光りが有り難くなる。由来東洋人は骨董品につや布巾をかけて、一つものを気長に何年でもキユツキユツと擦つて、自然の光沢を出し、時代のさびを附けることを喜ぶ癖があるが、芸を磨くと云ひ、芸を楽しむと云ふのも、畢竟はあれだ。気長に丹念に擦つて出て来る「つや」が芸なのだ。さう云ふ味を喜ぶ境地は西洋人にも分るであらうが、我々の方が一層極端ではないのであらうか。

 珠でなくとも、革製品でも、木製の家具でもある程度長い間使用した者にはわかることだが、色艶は徐々についていくものではない。ある期間磨くなり、常用するなり、手入れをするなりして、気がついたときには色艶がでている。まさしく色艶の出た瞬間というのは捉えがたいもので、常にまだ艶が足りないか、もう既に艶が出ているかである。

 しかし、「珠を磨く」という例えでは、単調な繰りかえしだけが艶を生じさせるという印象をもつ。実際、多くの芸談ではいままさに艶の出る瞬間のことは括弧に入れられ、厳しい稽古のことだけが語られる。谷崎潤一郎も述べているが、昔の稽古というのは幼児虐待と紙一重で、団十郎(十一代目)の師匠(養父)は、実家の人に向い「堪へ切れないで死んでしまふかも知れないが、もし生きてゐたら素晴らしい役者になるでせう」と言って、仕込みの途中で死んでしまうならそれも仕方がないという覚悟を示したという。そうした稽古の継続の結果僥倖として色艶を出せた者が名優と呼ばれるわけである。

 この神秘的な暈に包まれた芸の本質を解析しようとする試みがなかったわけではない。例えば河上徹太郎の『羽左衛門の死と変貌についての対話』(昭和5年)などはそうした試みの一つと言えるだろう。もっとも、この一篇はプラトンの対話編を擬したもので、ソクラテス、フエドロス、プロタゴラス三名による非常に抽象的な対話によって成り立っており、実在の羽左衛門とどう関わっているかについてははっきりしない。

 実在の羽左衛門について少々述べておこう。

 十五代目市村羽左衛門は明治七年に生まれ、昭和二十年に死んでいる。若い頃はその不器用さから「棒鱈役者」と呼ばれたというし、二枚目役が中心で芸域はそれほど広くなかったというから、なんでもこなす器用なタイプの役者ではなかったのだろう。

 折口信夫はその『市村羽左衛門論』(昭和22年)で、「書き進んでから、つく/″\恥を覚える。よくも知らぬが、中村加鴈治郎を中にして、前後にゐた優人たちのことなら、或は努力すれば書けるかも知れない。全く市村羽左衛門に到つては、私の観賞範囲を超えた芸格を持つた役者だつたのだ、とつく/″\思ふ。其に、此人の芸は直截明瞭な点が、すべての彼の良質を整頓する土台となつてゐたので、そこには一つは、その愛好者の情熱を牽く所があるのだ。だから彼の芸格が、私に呑みこめぬといふ訣ではない。根本からしても、彼の芸の持つ地方性が、私の観賞の他地方的な部分にどうしても這入つて来ないかと考へた」とその観賞の難しさを述懐している。

 歌舞伎についての教養のない私には、羽左衛門の東京生れの「地方性」なるものと芸域の狭さを、例えば久保田万太郎の小説や桂文楽の落語と置き換えてみれば理解しやすくなるのだが、それがどれ程の妥当性をもつかはわからない。少なくとも、折口信夫によれば、万太郎や文楽がそれぞれの分野において新たな声を産みだしたように、羽左衛門の新しさもその声にあった。

        思想から超越した歌舞妓芝居である以上、若し新歌舞妓と云ふ語に適当なものを求めれば、羽左衛門の持つた感覚による芝居などを指摘するのが、本たうでないかと思ふ。彼の時代物のよさに、古い型の上に盛りあげられて行く新しい感覚である。最歌舞妓的であつて、而も最新鮮な気分を印象するのが、彼の芸の「花」であつた。晩年殊にこの「花」が深く感じられた。実盛・景時・盛綱の、長ぜりふになると、其張りあげる声に牽かれて、吾々は朗らかで明るい寂しさを思ひ深めたものである。美しい孤独と言はうか――、さう言ふ幽艶なものに心を占められてしまふ。此はあの朗読式な、処々には清らかな隈を作る《アクセント》――その〈せりふ〉の抑揚が誘ひ出すものであることを、吾々は知つてゐた。羽左衛門亡き後になつて思へばかう言ふ気分を舞台に醸し出した役者が、一人でも、ほかにあつたか。

 また、正宗白鳥も羽左衛門には賞賛を惜しまない。三宅周太郎との「芸談義」という対談で、羽左衛門を次のように位置づけている。

 「左団次が出て、一時、昔風の歌舞伎は勢いが衰えていた。左団次が盛んな時は、歌舞伎は羽左衛門が閑却されたようだった。しかし、彼は昔のまゝでまっておったようだ。幸四郎ほども新を志していなかった。」

 左団次とは二世市川左団次(明治13~昭和15)のこと。ヨーロッパに演劇研究の旅をしたあと、小山内薫と組んで自由劇場を創立し、イプセン、ゴーリキー、メーテルリンクなど海外の作品、日本では森鷗外、吉井勇、秋田雨雀などの作品を舞台にあげた。その一方、鶴屋南北を復活させ、岡本綺堂や真山青果らと新歌舞伎をつくりあげようとした新劇と歌舞伎の垣根を越える革新的な演劇人だった。羽左衛門にはそうした改革の鋭さはなかった、というのである。

 「三木竹二さんによく聞いておったけれども、羽左衛門は、彦三郎は若いとき、竹三郎と云っていたところの、面影があるといっておりました。羽左は昔の江戸の世だったら非常に人気があった筈だ。羽左は、五代目よりもこせこせしたところがなかったし、ぼうっとしたところがあった。彦三郎の方が五代目以上の風格を持っておったそうだが、羽左は五代目に学びながら、却って、知らない彦三郎の趣きを出していたのじゃあるまいか。」

 ちなみに三木竹二は森鷗外の弟である。彦三郎というのは、羽左衛門とほぼ同時期の六世板東彦三郎(明治19~昭和13)ではなく、五世板東彦三郎(天保3~明治10)である。五代目というのは五世尾上菊五郎(弘化1~明治36)のこと。五世菊五郎は五世彦三郎の演出を継承するところが多かったという。つまり、羽左衛門は五世菊五郎に学びながら、直接には知ることのない五世彦三郎の芸を継承していたわけである。二人の意見では、羽左衛門の真面目は『近江源氏先陣館』の盛綱、『源平布引滝』の実盛など生締物(実在の人物を演じること。油で棒状に固めた生締という鬘を用いるところからこう呼ばれる)にあった。

 そして、白鳥は「実盛を見に行ったときは、年代からいっても、羽左衛門は実に歌舞伎の持つ魅力、歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力を与えていた。昔の役者のそれを彼は備えておった」と絶賛している。

 もっとも、正宗白鳥よりはやや年上で、歌舞伎役者に多く知り合いをもつ家に生まれ、二歳のときに始めて芝居を見物、十八歳からは劇評を、その後歌舞伎の脚本まで書くことになった岡本綺堂(白鳥は明治12年、綺堂は明治5年の生まれ)によれば、真の歌舞伎は羽左衛門の登場より遙か以前に滅びていた。

 五世尾上菊五郎、九世市川團十郎が相次いで死んだ明治三十六年がその時であった。「今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく云へば、真の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと云つてよい。その後のものは稍々一種の変体に属するかとも思はれる」(『明治の演劇』)と綺堂は書いている。

 岡本綺堂の「真の歌舞伎劇」とはどういったものを指すのだろうか。綺堂は菊五郎がその晩年(明治33年)勘平を演じたときのことを記している。『仮名手本忠臣蔵』四段目の裏として書かれた清元「落人」の道行の勘平である。菊五郎は五段目、六段目の勘平は数多く演じたが、道行の勘平はこのときがはじめてだった。

 楽屋の菊五郎は、「役者が五十七になつて、道行の勘平が初役といふのも可笑しいぢやありませんか。まあ、若い者の御手本に遣つて見せてゐるやうなもので、おそらく終り初物でせう」と言っていたという。そして、実際、最初で最後になったのだった。

今日でも踊の素養のある俳優は沢山ある。寧ろ菊五郎以上に踊れる俳優もあるらしい。それにもかゝはらず、どうも彼の道行の勘平のやうな柔かみのある舞台をみることが少い。ふつくらとした柔かみ――それを現代の人に求めることは、些つとむづかしい註文であるかも知れない。勿論、単に作物の価値からいへば、おかる勘平の道行のごときは、江戸の作者がお軽に箱せこなどを持たせて、宿下がりの御殿女中等をよろこばさうとした、一種の当込みものに過ぎないのであつて、竹田出雲の原作の方がすこぶる要領を得てゐるのであるから、それが舞台の上から全然消え失せたとしても、左のみ惜しいとは思はれないのであるが、前にいふやうなふつくらした柔か味のある舞台――それを再び見ることがむづかしいかと思ふと、わたしは一種愛惜の感に堪へないやうな気がする。と云つて、今のわかい俳優達のうちに、一生懸命になつて今更おかる勘平の道行を研究する人があるべき筈もないから、たとひそれが舞台にのぼせられる場合があつても、単に一種の踊のお浚ひに留まつて、わたし達が五代目菊五郎の舞台から感得したやうな云ふに云はれない柔かみと云ふやうなものを味ふことは出来まい。観る人もまたそれを要求しないかも知れない。一体に芸の柔かみと云ふやうなものは、需要供給ふたつながら近年著るしく減退したらしいから、今わたしが書いてゐるやうなことも、現在では殆ど問題にならないかも知れない。それであるから、むかしの人はそれらを非常な問題にしたものであると云ふことを、今の人たちの参考までに書いてみたのである。

 綺堂の言う菊五郎の「云ふに云はれない柔かみ」は、白鳥が昔の役者がもっており、羽左衛門にいたって再びあらわれたと言った「歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力」とさほどの変わらないようだ。どちらの役者も、各役柄に関する型の完成の上に、独特な存在の風味をもたらした。

 恐らくそれは、いま我々がテレビなどで役者の私生活の一端を知り、それを舞台上の姿に安易に結びつけることで生じるその役者の「キャラクター」とは似て非なるものに違いない。岡本綺堂が「ふつくらした柔か味のある舞台」と言い、正宗白鳥が「歌舞伎特有の、理屈を絶した魅力」と言ったことに注意しよう。そこでは、菊五郎や羽左衛門という個人ではなく、歌舞伎そのものが光り輝いていたのである。

 大して知識のない歌舞伎の、しかも一度も眼にしたことのない役者について語ることには、手袋をはめた手で靴の上から痒いところを掻くかのようなまどろっこしさを覚えないわけにはいかない・・・と思っていたが、NHKの歌舞伎の歴史を振り返るといったたぐいの番組で、羽左衛門の姿を一度見たことがあるのを思い出した。細かいことは忘れてしまったが、殿様かいずれにしろ侍の役だったが、もちろんモノクロで、劣化がひどかったので、言葉も聞き取れなかった。

 とにかく、生身の羽左衛門のことはこれまでにして河上徹太郎の『羽左衛門の死と変貌についての対話』に戻ることにしよう。

 ところで、この一篇を読むためには、羽左衛門がどんな役者であったか最小限の知識を仕入れておくとともに、この頃(昭和5年前後)、つまり初期の評論において、河上徹太郎がどんなことを問題にしていたかについても知っておく必要がある。

 この対話は、プラトンの対話篇を擬したというよりは、プラトンを擬したヴァレリーの対話篇を擬している。プラトンの対話篇にあるような日常会話から哲学的会話への緩やかな傾斜もないし、プラトンでしばしば登場するそれまでの議論を整理要約する人物もいない。対話というよりは、ソクラテス、フエドロス、プロタゴラスの三人が共通の観念を精錬していく過程を辿ったものだと言える。それゆえ、この共通の観念をわかっていないと対話はいたずらに難解なものにとどまるだろう。

 ちなみに、河上徹太郎が恐らく生涯でただ一度アクロバティックなレトリックを駆使したこの「対話」を、吉田健一が河上の代表作の筆頭に挙げていることを申し添えておこう。

 「ここで語られてゐる運動といふものの性質、その運動が氷河の流れの形を取つて放つ光芒、又心理と物質の交錯としての持続の分析、又認識の果てに人間の精神を待つてゐる眩暈、或は要するにさうした事柄がこの文章で手で確められる感触を日本語によつて得てゐることはこれが日本語の歴史の上での事件であるとともにどこのものでもなくてどこのものでもある言葉の世界に対する寄与であることに就て疑ひの余地を残さない」(『交友録』)と吉田健一は書いている。

 この作品と対になり、それを別方向からより散文的に表現しているのが同年に書かれた『自然人と純粋人』である。そこで特徴的なのは、河上徹太郎が後にも繰りかえし論じることになる西欧の作家たち、ドストエフスキー、ジッド、ヴァレリー、ヴェルレーヌなどに並んで「忠臣蔵六段目」が引かれることにある。この引用は、ドストエフスキーの手法、それを方法論にしたジッド(「手の理論をば眼の理論にした」)への言及に続くものであり、唐突な印象さえ与える。

 かう考へて来ると、発生的には自然芸術である我が歌舞伎劇の、現代の我々に及ぼす感銘も容易に論結出来るのである。殊にドストエフスキーの中で最も二義的な時空の制約を帯びた『悪霊』の如き作品と、純粋な戯曲作法の論理の最も複雑した「忠臣蔵六段目」の如き舞台を比べて見給へ。前者が時間的に行つた「色」の理論が後者にあつては空間的に行はれてゐるのである。この舞台へ現れる途方もなく一徹な人々が私の頭の中で交錯諧調して、フランクの音楽の半音階的進展の如く、あらゆる人間世界を展開するのである。殊に俳優の型、その他歌舞伎特有の種々な形式は、人物が実在的なものでなく、却つて人間の要素であることを我々に示す。今や前掲の松王に注ぐ涙は、徳川時代には自然であるが現代では純粋である。こんなこじつけともいへる比較をするのも、只私は自然が如何にしてその儘純粋になるか、及び、純粋は如何に所謂「唯心的」なものではなくして唯物的なものかが感じて欲しいのである。

 ドストエフスキーの「色」の理論とは、自然あるがままの人間から抽象された型を色とし、それを三色刷りのように画面の必要な場所に塗ることによって、最終的に一幅の絵を完成させるドストエフスキー特有のリアリズムである。だが、それと「忠臣蔵」にどんな関係があるのだろうか。

 勘平が自分が義父を撃ち殺したと思い込み、同志たちにも責められて切腹した直後、それが誤解だとわかるのが忠臣蔵六段目である。勘平の住まいという閉ざされた場所で、仇討のために身を売ったおかるに対する感謝、義父を殺したのではないかという不安と恐れ、姑の疑い、同志たちの勘平に対する怒り、切腹にまで追い詰められていく心理の傾斜、誤解とわかったときの同志たちの驚き、切腹の苦しみのなかで仇討の連判状に加えられると知ったときの勘平の喜び、同志たちや姑の判断を誤ったことに対する自責の念などが空間のなかで交錯する。

 しかし、それは写実的に、あたかも実在の人物の感情の発露であるかのように演じられるから印象的なわけではない。そうしたリアリズム演劇ではなく、旧態依然に見える歌舞伎にドストエフスキーやジッドとの類縁性を見て取っているのがここでの河上徹太郎であり、掛け離れているかに思える彼らに共通するのは「型」への執着であり信頼である。

 「型」は、役者が伝統的に受け継いできたものだけを意味するのではない。例えば、コメディのチャップリンやキートンやマルクス兄弟、西部劇のジョン・ウェイン、ミュージカルのフレッド・アステア、座頭市の勝新太郎、やくざ映画の高倉健等々、いずれも独特な「型」を産みだしている。それらが「型」である所以は、一度でもその映画を見た者にとっては、例えば、座頭市の勝新太郎といえばその立居振舞を思い描くことができ、上手い下手は別として真似できることにある。

 だとすると、「型」とは、もはや役柄にも限定されないものとなるだろう。つまり、勝新太郎が演じる盲目で凄腕の按摩、高倉健が演じる義理人情に篤いやくざと限定されることなく、俳優自体がどんな映画や演劇に出て、どんな役割を演じようと同じ存在の風味を発散させていることもある。例えば、ハンフリー・ボガード、ジェイムズ・スチュアート、クリント・イーストウッド、三船敏郎、高倉健、北野武などはどんな映画にどんな役で出ても彼ら独特の立居振舞を刻印している。

 役者や演技に限定することもなかろう。落語に出てくるような火消し、大工、隠居、与太郎、やくざ、遊び人などは多かれ少なかれ我々のなかに「型」として残っている。それゆえ、なにがしか彼らの生活を思い浮かべることができ、そうした「型」に従って生活を律する者もあるかもしれない。

 ここまできてようやく「自然人と純粋人」から、「型」について述べられたもう一箇所の部分を引用することができる。

         通行人が街頭で、警笛勇ましく火事場に向ふ消防隊を見るとき、思はず一種の美的な感動を感じる。この時消防夫は自然人の抽象であるが、見物人の頭の中では既に消防夫といふ概念は他の如何なる概念を以ても置換出来る物的材料となり、只消防夫の「型」が残る。しかもその型は消防夫一般が齎す美的概念ではなく、さつき見たあの消防夫の型の残した心象である。この時その心象は純粋現実となり、この見物人の憧れは自我の中にある純粋状態に対する憧れとなる。自然人はかくして純粋人に憧れる。

 消防夫は「純粋人」としてあらわれるが、河上徹太郎の言葉で言う「自然人」で、自分のやるべきことをしているだけであり、「型」のことなど意識していない。「純粋人」=「型」があらわれるのは「自然人」を認識する者の側だけなのだ。

 それゆえ、先の例で言えば、実際の火消し、大工、隠居等々は「自然人」であり、彼らが「型」として姿をあらわすのはただ落語家の話術のなかだけである。

 また、俳優の独特の存在感なるものは、初めは天性の「自然人」としての発露であるかもしれないが、それを「型」として認識し、洗練させていくのでなければ、スターとして何年も君臨できるものではない。

 例えば、市川雷蔵とともに白面の美男子として売り出した勝新太郎は、当初から独特の存在感をもっていたかもしれないが、それを認識し、より効果的にその存在感を表現できるものを求めた結果、座頭市や『悪名』シリーズの愛嬌のある暴れ者という「型」を手に入れた。

 ここに至って、河上徹太郎にとって市村羽左衛門という存在がもつ意味合いが見えてくる。羽左衛門は、谷崎潤一郎が「芸談」のなかで語っていたような、虐待同様の訓練を受けた末に芸を身につけ開化させる旧来の名優タイプではなく(彼らは「自然人」だと言えよう)、行為者であるとともに偉大なる認識者でもあるような新たなタイプの俳優である。

 その点で、羽左衛門の華やいだ存在感を称揚した折口信夫や正宗白鳥と河上徹太郎は一線を画している。そして、若い頃には「棒鱈役者」と呼ばれ、第一人者となってもそれほどレパートリーが多くなかった「不器用さ」にこそ羽左衛門の強みを見いだしているところに、『羽左衛門の詩と変貌についての対話』の白眉があろう。結末近くのフエドロスとソクラテスの言葉である。

        フエドロス さうだ、余り眼が明確に見え過ぎることが画家にとつて時に却つて妨害となる如く、余り四肢の運動筋を支配出来過ぎることは、俳優を錯乱させるだけでなく、彼の現在の行為を過去に押しやり、希望を習慣に変じ、表現を解析に封じ込める。不器用の必要はここにある。それは俳優と役との間を不断に隔離し、俳優の意向を常に同一角度に向け、彼の生の悦びを保証するものである。プロタゴラス君、羽左衛門の不器用を飲み給へ。然しこれが豊醇に見えるのは、これの功績の結果、彼の全存在の徳がこれに帰してゐるのであつて、決して不器用に伴ふ必然的な作用ではない。印刷のずれが時に両面を傷つけないでその立体性を示す効果がある如く、彼の不器用は常に彼自身と或る間隔を保ちつつ却つてその存在を確保する。        ソクラテス すべての衝動がすべての肉体に騎乗して遂にその窮極に達し、不器用さに臨んで夕映の空の如く歌を歌ふに至るとき、不器用さは彼自身より出でて如何なる小想念を以てもその全体を置換し得べき状態に達する。その時彼はもはや羽左衛門の不器用ではなく、与三郎の不器用となる。人が性格と呼ぶものはこれである。不器用は聖者の如く呟く。然し彼は自分が円いか四角か知らない。人が彼を無視し修飾することは容易だ。然し彼は雲の如く生まれた時を知らず死を恐れない。人が彼をその名で呼ぶとき彼は常に自分は外の名だと思つてゐる。

 そういえば、「聖者の如く呟く」「不器用さ」が河上徹太郎の作品の一貫したテーマだったと言える。忠臣蔵六段目は、まさしく各人の不器用さが角突き合わせて身動きできないような緊迫感をもたらす場面だった。ヴェルレーヌから始まり、『日本のアウトサイダー』で取り上げられた様々な人物、萩原朔太郎、中原中也、岩野泡鳴、河上肇、岡倉天心、大杉栄、内村鑑三など、河上徹太郎の取り上げる人物は「全存在の徳」をもって自らの「不器用さ」に対峙した者たちの列伝となっている。そして、その最大の例証が河上が唯一モノグラフをあらわした吉田松陰ということになろう。

 歌舞伎には伝承された「型」があり、凡庸な役者は師匠に教えられた「型」を教えられた通りに身体に覚え込ませることで満足する。彼に見えているのは運動の「型」だけだ。ところが、羽左衛門が認識するのはある人間の全存在がかかった「型」であり、演じるとは自らの全存在をそこに注ぎこむことである。

 それゆえ、大いなる認識者であるといっても、ブレヒトの俳優とは異なっている。ブレヒトの俳優はいまここで行われていることが舞台の上の出来事であることを観客に隠そうとはしない。役に対する解釈を示し、観客に作者や俳優とともに考えるように誘いかける。

 ところが、全存在を投入し、与三郎と渾然一体となった羽左衛門には、解釈を許すような役との解離は存在しない。観客は「これと共に流れることだけが許されてゐる」。

 その意味で、「羽左衛門の死と変貌についての対話」の最後、ソクラテスの言葉に見られるように、羽左衛門の「芸には後継者がない」。それもそのはずで、人の全存在など継承されるはずがないからである。もし継承されるものがあるとすれば、それは役に対して全存在を投入するという姿勢だけであって、その結果あらわれる「型」はそれぞれ異なったものとなるに違いない。

 『自然人と純粋人』からの引用でも明らかなように、「型」は舞台の上に限られるわけではない。ただ舞台が、特に能、狂言、歌舞伎といった伝統芸能が同じ演目を繰りかえし演じることによって、典型的な人物を「型」として洗練させていった結果、「型」が現実の世界より見やすくなっているに過ぎない。

 実際には、舞台の外でも、火消しに走る消防夫にも「型」はある。しかし、なにが「型」を産みだすのだろうか。消防夫の例が引かれていることが象徴的に思える。

 消防夫は江戸町火消しからの連想を伴っている。彼らは独特の生活習慣をもち、威勢のよさ、心意気、潔さなどを理想として奉じていた。火消しであることは、単に消火活動に従事することではなく、いわば全存在をある価値観に投じることだった。

 そう考えると、「型」がどんどん消滅していることは明らかだ。投機家や事業家は「型」にはまらないよう工夫することで事業を拡大する。つまり、共通の価値観の裏を掻こうとする。伝統的に続いてきた小社会、伝統芸能、宗教家、やくざなどにおいても、もはや共通の価値観に奉じるなどということは少なくなってきた。

 この意味でも、ある種の理想型として「型」を論じた河上徹太郎が、「不器用な」人物に対する愛着とも相俟って、吉田松陰にたどり着いたのは必然性のあることだった。

 というのも、「武と儒による人間像」という副題にある通り、松陰が『葉隠』や山鹿素行に発する士道と、儒教とが交叉する地点に立てたほぼ最後の世代にあたる人物だったからだ。

 確かに明治期のなってからの内村鑑三や河上肇などにも儒教的教養や武士的ピューリタニズムが認められる。しかし、既に儒教的教養は反時代的であり、武士的ピューリタニズムは、危急の際の死を常に意識しながら生活することを理念としてはもちながらも、なにかことが起きればそうした危急の事態を招かずにはいないかつての君臣関係(赤穂浪士に典型的に見られるような)が既にないために題目だけになりがちだった。

 吉田松陰は儒教と士道がいまだ生き生きとした意味をもち、「型」を提示していた時代の一典型であった。羽左衛門が「可能性としての羽左衛門」であったと同様、ここでの松陰が「可能性としての松陰」であることは、序にある「本書の題目は傍題の方の「武と儒による人間像」といふ一般論である。しかしそれでは漠然とし、抽象的であるから「吉田松陰」の名を借りて見出しにした。丁度ヴァレリーが『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法論序説』を書いた故智に倣つたものである。」という文を読めば明らかである。