2017年11月15日水曜日

ジョシア・ロイス『現代哲学の精神』(冒頭)

ロイスは19世紀後半から、20世紀前半にかけて活動したアメリカの哲学者で、ドイツ観念論の影響を受け、絶対的精神や永遠なるものが、諸個人間の矛盾を解消するために必要だと考えた。ウィリアム・ジェイムズの論敵としてなじみのある方もあろうかと思う。


第一講義 一般的序論

 これからの講義で、私は一般学生に適ったような仕方で、現代哲学の歴史のなかで、限られてはいるが、もっとも代表的で、私にとってもっとも興味深く思われる人物、問題、事柄について述べようと思う。この仕事をするには時間と力の限界について鋭い感覚を持つことが必要である。私としては、哲学の大きな問題に学生の何人かでも関心を持ってくれたらと望んでいるだけなのだと弁解しておく。


I.

 講義が基づいている仮定について始めに述べておこう。哲学は、その適正な言葉の意味においては、世界の神秘をなんらかの超人間的な洞察や法外な巧妙さによって説明し、推測しようとする努力ではなく、生のより重要な事柄について、自らの個人的な姿勢に理に適った説明を与えようとすることにその起源と価値がある。あなた方が、世界で実際にしたことを批判的に反省するときに哲学をしている。最初にすることは、もちろん、第一に生きることである。生には情熱、信仰、疑い、勇気が含まれる。それらがなにを意味し、含んでいるかについて批判的に探求するのが哲学である。我々は生きる上で信仰をもっている。この信仰を反省的に批判しようとする。我々は法と意義のある世界にいると感じる。だが、なぜ我々は現実には過程にあるかのような感じを覚えるのか、この世界に価値を感じるのかは批評の問題である。そうした生の批評を洗練させ、徹底的に行うのが哲学である。

 もし私の想定が十分納得のいくものなら、健全に哲学すること、徹底的に自己批評することは、まさしく人間的な、自然な仕事であり、頻繁に携わることはなくとも、誰もが時に応じてすることで、最初からある種の共感をいだくことだろう。意志しているかどうかはともかくとして、我々はすべて哲学をしている。専門的な哲学を愛する気質といわゆる形而上学になんら関心をいだくことができなものとの間の相違は、種類ではなく程度の差である。道徳的秩序、生における悪、良識の権威、神の意図、それらについて、また、思慮に富んだ批判的懐疑論について滅多に本を開かない人々からどれだけ頻繁に聞いたことだろう。哲学を専門にする学生は、他の人々が時折することをいつもの仕事にしている。非形而上学的な生活を送っている人たちにとっては、運命や生のもっとも深い真理について反省することは、音楽を楽しみ、アマチュアとして気晴らしをする程度のことでしかない。哲学の学生であることは、単に反省的に考える専門的な音楽家であるに過ぎない。彼は毎日のように、音階を練習するように、「論理を切り刻む」と馬鹿にされることに従事する。端的に彼は技術的な巧妙さに喜びを覚えるが、その熱意は生の分析に従事していないものにとっては理解不可能なものである。しかし、思弁への愛情は、幾分特殊化された自然な好みに過ぎない。彼はある種の吝嗇であり、他の人たちが社交の場の装飾品や、会話により重みをもたらすために使うものを財宝としてしまっている。専門的な哲学者ではなく、瞬間的な反省に限定するならば、友人との重々しい話や、無数の世界と気まぐれな心のままに、偉大で深遠な宇宙を夢見るようなまなざしで驚嘆し、束の間の瞑想に耽ることにとどまるだろう。そうした偶然の心の探究、束の間の普遍的なものとのふれあい、反省にまでは育っていない芽生えのようなものは、他の状況にあったら、哲学体系にまで発達したかもしれない。もし気を留めることがなかったなら、すぐに忘れてしまい、形而上学にちょっとした興味があったと空想することになるかもしれない。しかし、にもかかわらず、知的な人々はすべて、形而上学を嫌悪するものも含めて、自らに反してしばしば形而上学者なのである。・・・

0 件のコメント:

コメントを投稿