§1.ミレトスのアナクシマンドロス
「ここで、ギリシャ哲学の歴史においてはじめて、我々は同時代的な発展に出会うのであり、観察してみれば、哲学の最初期において、相互影響の歴史的な証拠が、どちらの系譜も完全に間違ってもいなければ、信用に値する価値がないと余計なことを考えることもないだろう。他方において、内的な証拠は非常に限定された価値しかなく、というのも、他方において進化し活用された観念がもう一方においては完全に無視されていることを理解することは不可能だからである。古い哲学者は共通の源泉から、同じ考え方の習慣に従って考えを導いているので、知悉されたことから出発する議論は広範囲にわたるものでもなければ、容易に理解することもできない。実際、これら二つの方向がとことん追求されたなら、自然と宇宙に対する正反対の見方について活発な争いの十分な証拠が見られただろう。実際には、初期の哲学者たちが自分の考えを伝える不適切な方法のことを思えば、それぞれの体系は長い間非常に狭い仲間内でしか知られていなかった。しかしながら、当時の哲学的衝動が真に国家的な欠如感の結果だと想定すると、多様な要素がほぼ同時期にイオニアに、独立して、外的な関わりなく姿をあらわしはじめたことはありそうなことである。」*
*リッター、I.265
我々が考察しようとする学派の長は、ミレトスのアレクシマンドロスで、42回オリンピア(紀元前610年)に生まれたとされる。彼はタレスの友人とも、また弟子とも言われる。前者の関係の方が好ましい。少なくとも歴史を見る限り弟子ではない。政治的、科学的知識についての評判は非常に高かった。多くの重要な発明が彼によるものであり、そのなかには日時計や地図がある。天体の大きさと距離の計測について小冊子が書かれたが、それはもっとも早い哲学的著作だとされている。彼は情熱的に数学に熱中していて、一連の幾何学的問題を心に抱いていた。彼はアポロニアの植民地のリーダーだった。また、ピタゴラスとアナクレオンが住むサモスに専制君主ポリクレトスの宮殿を建てたと伝えられている。
アナクシマンドロスの教義については、どの歴史家も一致していない。実際、相応の歴史的位置についてもほとんど同意されていない。
アナクシマンドロスは事物の起源にアルケーαρχηという語を用いたとされている。この言葉、根本原理でなにを意味していたのか、古代の作家たちによって様々に解釈されている。彼がそれを無限と呼んだことについては一致しているが、無限によって彼がなにを理解していたかについてはいまだ決定されていない。*
*リッター、i.267.
一見したところ、この教義「無限が万物の根源である」にはなんら理解できるところはない。ずっと後の一神論のようにも思えるし*、神秘主義の言葉遊びのようにも思える。我々の精神には、多かれ少なかれ、タレスの「水は万物の根源である」という説よりは理解するのが困難である。想像力によって当時に戻り、こうした意見が起きた理由を考えられないか見てみよう。
*それがあり得ないことは確かである。この種の誤解を防いでおくために、それは、制限のない力でもなければ、現代の概念に含まれているような制限のない精神でもないことを言っておこう。一世紀後に生まれたアナクサゴラスでは、τεαχειτονは巨大さでしかない。――シンプリシアス『物理学』83,b、リッターによる引用を参照。
アナクシマンドロスを、偉大な先行者であり、友人でもあるタレスの傍らに置いてみると、彼の思考の際だった抽象性に衝撃を受けざるを得ない。沈思黙考する形而上学者の代わりに、我々は幾何学者を見る。タレスは、その有名な警句「汝自身を知れ」によってもわかるように本質的に具体的であり、「無限は万物の根源である」と言い、究極的な努力によって抽象にいたったアナクシマンドロスとは対照的である。こうした傾向を認めよう。彼のうちにモラリストや物理学者よりも幾何学家を見てみよう。いかに万物が彼の精神に抽象的な形をとってあらわれるのか、いかに数学が諸科学の科学であるかを理解しようとすれば、おそらく彼の説を理解することができるだろう。
万物の起源を探したタレスは、すでに見たように、水が起源だと考えた。しかし、抽象的に物事を見ることに慣れていたアナクシマンドロスは、水のように具体的な事物を受け入れることはできなかった。分析にはより究極的ななにかが必要とされた。タレスとともに、水が宇宙の材料だと考えたとしても、それは諸条件に従うものではないだろうか。それらの諸条件とはなにか。万物がそこから成り立つ水分は、多くの場合水分であることを止めているのではないか。あらゆるものの起源が常に変化し、個別の事物において常に混乱するものだろうか。水自体は事物である。しかし、ある事物がすべての事物であることはできない。
タレスの教義に対するこうした反論が彼をしてこの説を捨てさせた、あるいは変更させた。彼は、アルケーが水ではないといった。それは制限のないすべてξο απειρουでなければならない。
この理論が曖昧で、無益なことは間違いなく明らかだろう。「すべて」という抽象は言葉の上の単なる区別であるように思える。しかし、我々は繰り返し気づくことになるが、ギリシャ哲学において、言葉の上での区別は一般的に事物についての区別と等しい。数学者が自分の科学の本性に従って、いかに抽象を実在とみるか――形式を切り離し、それだけが物体を構成しているかのように扱う――を読者が考えてみるなら、アナクシマンドロスの有限な事物と無限な全体との区別を考えることは難しいことではなかろう。
かくして、我々が彼の説を説明できるのはただひとつの方法による。この説明はアリストテレスとテオフラテスの証言によるもので、それによれば、無限とは、分離によって生じた個物の基本的な部分の多数を意味するという。「分離によって」という箇所は意味深い。それは抽象から具体への過程を意味している――そして全体は無限な事物の内に実現するのである。無限を存在の名で呼び、「存在そのものとなにかの存在がある。前者が存在で、多様な存在する事物がいつまでの流れ出る源泉である。」こうしてみれば、おそらくアナクシマンドロスの意味が理解可能なものとなるだろう。
リッターのいうところを聞こう。アナクシマンドロスは「第一実体が無限だとし、我々を取り巻く制限なく多様な事物を生み出すのに十分だと論じるものの代表である。アリストテレスはこの無限を混合物として特徴づけたが、我々は単にそれを多数の一次的要素だと考える必要はない。というのも、アレクシマンドロスにとっては、それは不死で滅することがなく――永久に生産し続けるエネルギーだからである。この個物の生産から彼は無限の永遠の運動を引きだした。」
アナクシマンドロスによれば、第一存在は疑問の余地なく統一である。それは一者であるだけでなくすべてでもある。そこにはすべての日常的なものが構成される多数の要素がある。それらの要素は自然の異なった現象としてあらわれるときに分離される必要があるに過ぎない。創造は無限の分解である。どうやってこの分解は生じるのか。無限の条件である永遠の運動によってである。「常に始まりの状態にある無限は、無限の要素が常に分泌しては凝固するものでしかない、と彼は見ている。それゆえ、全体の部分は常に変化し、全体は変化し得ないものだということができる。」
抽象が存在――あらゆる事物の起源である――にまで高められるという考えは十分な根拠がない。それはこういっているようなものである、「1,2,3,20,80,100という数がある。そしてまた抽象的な数があり、これらの個別の数はその具体的な実現化に過ぎない。数がなければ、どんな数字も存在しないだろう。」と。だが、人間精神から抽象を除き、それを抽象に過ぎないと考えることは困難であり、この欠点は哲学体系の大多数の根に存在する。現代において賞賛されているヘーゲルやその他にも、幾分言葉は異なるにしろ、同じ特徴が残っていることを学べば、アナクシマンドロスの間違いに対してある種寛容の心を抱く助けとなるかもしれない。彼らは創造は神が活動することによって起こり、その行為によって尽きることはないという。別の言葉で言えば、創造は神のごく日常的なありかたである。有限な事物は永遠な運動、全体のあらわれに過ぎない。
アナクシマンドロスは抽象に具体的なものよりもより高次の意味を与えることによってタレスと自分を区別した。この傾向において、我々はしばしば数学学派と呼ばれるピタゴラス派の起源を見る。タレスの思弁は宇宙の物質的構成を発見することに向けられていた。それらはいかに帰納が不完全なものだろうと、観察された事実からの帰納によってある程度見いだされた。アナクシマンドロスの思弁は完全に演繹的である。そして、そうしたものとして、純粋な演繹の科学である数学に向けられていた。
この数学的傾向の一例として、我々は彼の物理的考えを例に引くことができる。宇宙の起源の中心的な点は地球にある。というのも、底部と高さが1:3の円筒となっており、中心部は世界の果てまでの等しい距離によって支えられているからである。
上述の説明から、読者はアナクシマンドロスをタレスの後継者と位置づける一般的な歴史的議論の妥当性を判断できるだろう。彼が思弁的探求の偉大な系列の一つから現れ、その系列はおそらく古代を通じても最も風変わりなものだったことは明らかである。タレスにとって、万物の根源である水は実在の物理的要素として捉えられていたが、後継者たちには徐々に、まったく異なったもの(生命あるいは精神)の代表的な証票でしかなくなった。そして、代表として名を貸しているその要素は、それが標章である一次的力から派生した二次的な現象と見なされるようになった。水はタレスにとっては真の一次的要素だった。ディオゲネスでは、水は(それ以前に空気に取って代わられていたが)精神の標章に過ぎなかった。アナクシマンドロスの全体は、抽象的であるが、にもかかわらず、多くの点で物理的である。それはすべての事物である。彼の無限の概念は観念的なものではない。それは象徴の状態に移ることはなかった。それは単に存在の一次的な事実の記述であった。とりわけ、日常的な有限な事物を例外として、知性の概念を含んでいなかった。彼の先験的なものとは無限の存在であり、無限の精神ではなかった。このことの後の発展は、エレア派においてみることになろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿