2017年11月30日木曜日

小島政二郎『食いしん坊 続1』(抜き書き)



期せずして久保田万太郎のことばかりが続く。

1.万太郎と島崎藤村。万太郎と藤村という組み合わせはちょっと意外だった。とはいうものの、藤村は読まず嫌いで、『春』と詩ぐらいしか読んでいない。詩は確か小学生のときに暗記させられて、「小諸なる古城のほとり」とすらすら出てくるが、この後が出てこない。そういえば、万太郎が藤村の机をもらったか、譲り受けたかして使っているというようなエッセイを読んだような気がする。

 久保田さんは、日本の作家では藤村が好きだった。藤村はおいらんのことを言うのにも、「長いキセルを持った女が――」というような言い廻しをした。ああいう遠慮をした、しかしいや味な言い廻しが気に入る要素が久保田さんにもあった。いや、それよりも藤村の押さえに押さえたセンチメンタリズムが、彼と一脈通じるものがあったのだろう。久保田さんの大根は、センチメンタリストだった。


2.久保田万太郎の作品の魅力。雨といい、台詞回しといい、・・・の多用といい、「音」が重要なのはよくわかる。

 久保田さんの作品の魅力も、亡びて行く下町の人達の亡びて行く音だったろう。その音を出すのに、作者は骨を削る苦労を一生し続けた。彼が出そうとしている音が、あの音だなと読者に分かってしまっては作者はいやなのだ。それと分からないうちに、読者の感情を包んでしまわないと気に入らないのだ。作者の狙っているのは、常にニュアンスだったからだろう。


3.万太郎と三馬。式亭三馬好みというのはよくわからない。泉鏡花は一九の『東海道中膝栗毛』が愛読書だったらしいが、それと同じ程度にわからない。

 江戸時代の作者では、久保田さんは三馬が好きだった。いや、三馬しか認めなかった。これも、いかにも久保田さんらしい好みであり評価だったと思う。一度ならず三馬論を書いてくださいと言って勧めたが、議論嫌いなあの人はとうとう書かずじまいだった。かえすがえすも残念だったと思う。三馬に対して一家の言を持っていた。三馬のあの低い調子に対する万太郎の鑑賞は、恐らく学者からも、外の作家からも聞けないものだったろう。


4.万太郎の勘。岡本松浜のことは全然知らなかった。ウィキペディアで代表句としてあげられている「一人湯に行けば一人や秋の暮れ」は確かに万太郎に通じるところを感じる。

 しかし、久保田さんの勘は実に優れていた。何かの陰に咲いているような花の美しさを発見することに掛けては特に一家の見を持っていた。
 例えば、芭蕉をそんなに有難がらずに、人の顧みない太祗のような作者の俳句に傾倒したりーー。太祗の俳句に血の近さを感じて、そこから自分の俳句の行く道を発見したのなど、勘の非常に優れた一つの証拠になるだろう。
 恐らく人並に芭蕉に傾倒していたら、久保田さんは芭蕉からは思うようにーー芥川さんのように十分に栄養は吸収出来なかったに違いない。従って今日の久保田さんの俳句はなかったろう。
 同じ時代の俳句作者で、百人が百人虚子へ虚子へと靡いて行ったのに、久保田さん一人は、今は名を言っても恐らく誰も知らない岡本松浜に近付いて行った勘。あの勘が、久保田さんの俳句をーーいや、彼のすべての芸術を生んだ源だと思う。
 堂々と正面を切った芸術は久保さんの好みに合わなかった。小さいが純粋なもの、例えば芥川さんでなら「雛」のような作品、荷風でなら「狐」のような初期の作品をいつも懐かしがっていた。

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