刺青を題材とした短編集。解説を花田清輝が書いている。全体的に、団鬼六のエッセイと似た雰囲気を感じる。
「東大と刺青」
同級生だった秀才の友人は、全身に彫物をしていたらしい。彼の話。大工に性の手ほどきと刺青の教育を同時に受ける。
彼は男根に墨を入れ、さらには黒曜石のように墨一色の個体となる。刺青にはあこがれを感じるが、さすがに模様なしの一色は理解しがたいなあ。
かつて彼の局部が、まるで石炭か黒曜石のように光沢のある墨一色の個体であるのを見たのだったが、今度は彼の体全体がそれになっているのだった。
彼は、今までの色とりどりの図柄の文様の上から墨を入れて、総てのものを墨の下に隠してしまったのである。墨は皮膚に入って藍色になり、彼は黒ん坊でなく藍ん坊になっていた。まるで藍がめに首まで漬かり、そのまま上がったといったらよい姿であった。あの滲んでぼけた線も、褪せて薄鼠色の霧になっていたぼかしも、総て新鮮な、ぴかぴか光る深い深い藍をたたえた一色の皮膚に変っていた。
「サムライと刺青」
三島由紀夫の切腹を巡るエッセイ。
サディズムとマゾヒズム。サディズムとマゾヒズムを生物学的本能に結びつけた、よくあるといえばよくあるインチキくさい説だが、マゾヒズムを雄の、サディズムを雌の性的感情だとしているのは面白い。
動物の繁殖の時に、雄は優秀な雌を得んがために狂奔する。そして雄同士は死闘を展開する。W・ディズニーは、その動物映画の中でこういう場面をいくつか私たちに見せてくれた。たとえばカナダ山中の大鹿は、鋭利な角の先で相手を攻撃して傷つける。こうして昼となく夜となく争闘して競争者を斥けたのちに、勝ち残った強い雄が目指す雌のもとに駆けつけて夢の交合を遂げるのだ。つまり、それまでは血と死の場面の連続である。雄はこの争闘でもちろんのこと傷つく。そして血を流すのだ。気の弱い雄は出血したら逃げ出してしまうことだろう。つまり争闘の放棄である。神というか自然はそんな弱い雄の種は保存する必要はないと認定して、たとえ出血しても、それにひるまず次の争闘に勇敢に立向う雄に、適者生存の法則を適用する。つまり血を見れば血を見るほど、たけり狂うくらいな奴の種こそ保存すべきと自然は考える。そこで血を見ると、性が昂進するような傾向を与えたのだ。人はこれをマゾヒズムといって、十九世紀のマゾッホ博士が発見者みたいにいい、特殊な例のようにいうが、実は生物の種の保存上の重要な要素であって、生物たるものは多かれ少なかれこの傾向を持っているのだ。
マゾヒズムの逆のものにサディズムがあるが、これも同様に説明がつくのであって、その血まみれになって雌のもとに駆けつけて交合を挑むような雄にこそ、雌たるものは愛を感じないと自然が求めているような優秀な種の保存はなし得ない。そこで自然は血まみれの度が物凄い雄の姿に愛着を感じるように、雌にサディズムの傾向を与えたのである。
だから私にいわせるとマゾヒズムは雄の性的感情で、サディズムは雌的傾向と断ずるのである。
弁天は私にとっては『うる星やつら』でもお気に入りの登場人物であるのだが、そういえば、高橋留美子なぜセクシャリティの逆転にこだわっているのだろうか。立腹は確かに儀式化したサムライの作法からはほど遠い。
あの芝居は私にいわせると徳川末期の町人趣味が最も色濃く現われているもので、そもそも女装した男子が、刺青の肌ぬぎになってゆすりかたりをやるというのだ。観客は女形という約束で、男性俳優でも女性と思い込んでいると急に、あられもない姿になるのでセックスの混乱を起す。一体男としての美を感ずるべきか女性としてのか。あれこそ性倒錯の走りというべきであろうが、じつに巧妙な悪戯で、私のような悪戯好きの人間にはまことに興味のある演劇だ。三島がそれを演じたのも多分、例の若年にして洩らしている「鬼面人を驚かす」という考えに基づくものであろう。「青砥稿花紅彩画」というこの芝居では大詰になって弁天小僧は寺の屋根の上で多勢の捕手にとり囲まれて立腹を切って、まことに派手に打ち果てるのである。この立腹ということはサムライよりもむしろ町人たちの憧れの的であっただろう。つまり、サムライは儀式が好きだから従容として正座して腹を切るが、立腹というのは起立したまま腹を切るので、あまりサムライ的とはいえない。しかし講談の世界などではこれがよく出て来て、サムライの勇壮さをいやが上にも増大させているのだ。つまり、これは非常に切腹としては難しいもので、よっぽど豪毅な人間、意志力、体力のある人間でないと不可能だ。切腹して出血すれば人間は当然貧血する。血圧が急速に低下して脳が貧血するのでフラフラと重心を失う。その時立っているので、重心は高いところにあり、非常に不安定である。うっかりしたら、それだけで倒れてしまう。倒れたら無ざまこの上ないので立腹を切るやつは、よっぽど自信がないと出来ないのである。倒れずに立派に最後まで腹をかき切ってその上で自ら頚動脈を切り、そこで始めて倒れるという次第だ。これが最も男らしい死というわけで芝居作者は弁天小僧にこの立腹を切らしているのだ。
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