2017年11月21日火曜日

トーマス・アルティザー『神の創世』(抜き書き)



トーマス・アルティザーは、マーク・C・テイラーなどと同じく、現代思想と神学とを接続しようとした人で、ニーチェに従い、神の死を認めた。しかし、キリストに具現化したその死によって、精神が世界に蔓延することになる。いまではさほど興味がないので簡単に。

1.ヘーゲル、マルクス、キルケゴール。

マルクスとキルケゴールはヘーゲル体系の真の継承者であろう。マルクスは純
粋理性を純粋に物質的な土壌の暗黒の神秘に移し換えることによってそれを転
倒し、キルケゴールは純粋理性を絶対的に超越的な神という、これも暗黒の神
秘に移し換えることで転倒する。彼らそれぞれのヘーゲル的思考の転倒はヘー
ゲル的方法と純粋否定の運動の絶対的な転倒であり、たとえそうした転倒がヘ
ーゲル的土壌と離れては成り立たないものであり、この土壌から離れるならば
消滅がまぬがれないにしても、それにもかかわらずこの転倒はその土壌を無効
にするのであり、それは、彼らの転倒は我々の時代においてそれ自身の解体に
まで達するからである。この経緯は、純粋な思考の終わりであるのかもしれ
ず、もしこの終わりが黙示であるなら、それ自体、初源の黙示が転倒を約束さ
れていたという究極的な神秘であり、その究極的な神秘は同時に創世の究極的
な神秘である。

2.ナルシシズムとユートピア的「私」。 神と罪との関係

アウグスティヌスは神の「我」が一つの純粋な或いは単一の「我」であり、そ
こでは意志と存在の、あるいは行動と意志との合一があることを知っていただ
ろう。それは我々の二分化された「私」とはまったく異なるものであり、とい
うのも、神の意志が彼の存在と一つであるのに、我々の意志は我々の存在、我
々の真の本質的な存在に向けられているのであり、それは我々が自らの個的存
在の唯一の源泉であり、著者であろうとするからである。それは原罪の源にあ
る自負であるが、そのような自己-中心的な意志は「存在」はせず、むしろそ
れは現実の実体化された無なのである。この実体化された無は我々にとって内
的な現実であり、自己意識の最も十全な瞬間、自ら意志する瞬間、つまり、我
々が内的な深みの力に気づく瞬間に我々にとって最も現実的なものになる。し
かしそれらの深みは究極的には空虚な深みであり、それがある現実的無の、罪
の現実性である現実的な無の実体化であるがゆえに空虚なのである。ネオプラ
トニストとして、アウグスティヌスは悪が幻影であることを知っていただろ
う。しかし、パウロ的なキリスト教徒として、彼は罪が全く堕落した意志であ
ること、たとえその意志が形而上学的に存在の喪失、或いは不在であるにして
も、内的には、それは完全な現前、罪の完全な現前であることを知っていた。

3.自己意識と死。

アウグスティヌス的な自己意識は神の現前と切り離すことはできないが、真に
近代的な自己意識は究極的には自律的な意識であり、それが最初に十全に具体
化されたのはミルトンの悪魔である。ゲーテとニーチェがファウスト的意識と
して知っていたものは、事実、真に近代的な自己意識、深く、ただただそれ自
身である自己意識、それゆえ、死の意識である意識であった。それゆえ、我々はかつてないような具合に死を知っている。というのも、我々の自我は決して知られることのなかった自我、意識が、以前にはそれ自身であるのみの主体として自らを理解することがなかったゆえに決して知ることがなかった自我であるからである。

4.不死の観念と近代

それは[不死の観念に結びついた永遠の生命]は近代の到来によって最も直接
的に危機におちいった信念であり、その危機は既に初期近代の最も純粋に形而
上学的であり宗教的な思想家スピノザにとって身近なものだった。この危機は
フランス革命が起こるまでは公的、歴史的に明らかなものとはならなかった
が、明らかになるや抗することのできない最終的なものとして生じ、ロベスピ
エールをしてこの革命のカオス的結果を止めるべく最終的運命的な試みをする
よう駆り立てさえした。不死性と至高の存在の公的な宗教を確立して結果を得
ようとしたロベスピエールの失敗は、フランス革命における脱キリスト教の失
敗のしるしではなく、むしろ、客観性と主観性との近代に新たに生じ、独特な
二律背反、新たな内的で単一な主観性の客観的実現化の可能性を閉め出す二律
背反のしるしなのである。客観的同一性と主観的同一性との絶対的な対立、マ
ルクスとキルケゴールが深く知っていた対立が存在し、この対立は西洋の意識
と社会の最も深い土壌を形成していた永遠性の象徴そのものの欠如或いは転倒
の最終的な帰結である対立なのである。

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