2017年11月14日火曜日

バーナード・ボサンクエット『美学の歴史』(冒頭)

ボサンクエットは19世紀末期から二十世紀初頭にかけて活動したイギリスの哲学者。絶対的観念論の旗手だった。絶対的観念論とは、個々の経験は各人の視点、欲望によって必ず矛盾を含む、そうした矛盾を解消するのはただ「絶対的なもの」があるだけであり、そうした絶対性を目指して漸進的に進んでいくしかない、と荒っぽく要約できる。彼らはまたイギリスにおいて、ヘーゲルの影響を受けた者たちであり、ヘーゲルという偉大な先例にならったものか、『美学の歴史』のような著作もある。

   第一章 ある提案とその美との関係

美学の歴史と美術の歴史

1.「美学」という言葉が、理論的な探究の一部分として、美についての哲学を示す意味として採用されたのは、さして昔のことではなく、十八世紀の後半である。しかし、名前の前に現物は存在していた。美や芸術についての考察は、ある意味においてはそれ以前の哲学者にはなかったが、少なくともソクラテスの時代にはギリシャの思想家のなかに見られるからである。

 「美学」が美の哲学を意味するなら、美学の歴史は美についての哲学の歴史を意味しなければならない。そしてそれは直截的な主題として、美に関する事実を説明したり、結びつけようと試みた哲学者たちの体系的理論の連続を受けいれねばならない。

 しかし、それがすべてではない。具体的な生との絶え間のない関係をもたらす歴史的、また論理的、哲学一般にわたる扱いも必要とされ、それは形式的概念の底流を流れるものとして見過ごしにされてきた。あらゆる時代において、考察は、一方において、過去を形式的に教えることになるが、他方において、現実の世界は現在の意識において主張する。論理学や哲学一般の歴史が科学や文明の歴史と完全に切り離すことはできないように、倫理学や美学の観念の歴史は必然的に道徳や芸術の歴史との関わりを扱うことになる。

 しかし、この類推のなかには著しい相違がある。たとえば、論理学の理論の発展との関わりで、帰納科学の歴史を読むとき、我々が研究している時期の人間精神の発達を理解する助けとならない限り、過去の知識の特殊な分野についてほとんど関心をもたないでいることができる。古代の化学や天文学は、我々にとっては、人類学の生徒が水上生活や石斧に関して抱くほどの好奇心しかもたらさない。政治形態や社会慣習の詳細、言葉の機微、宗教的教義の細かな点についてなど、その他多くの文明の要素についても同じである。過去を解読することが現在を理解するのにいかに大きな助けになろうと、生のすべての局面は、科学的調査や歴史的実情が期待される場面では、過去のものは過去のものとして遇されがちである。実際には過去において力をもっていた道徳的、宗教的観念は、一般的に我々の現在の関心を喚起する力をもっている。すべてのあらわれにおいて、人間の道徳的本性の同一性は実に根深いものがある。しかし、この点において、壮大な文学を含めて、芸術の創造の水準に達しているものはない。芸術だけが時代が進むにつれて重要性を減じるよりも増している。かくして、我々がその発達の段階を通じて美的意識の跡をたどろうとするとき、我々の前にあるのは考古学的興味を引くものではなく、我々の現在の生活に大いに価値があるような具体的な存在である。芸術の歴史は具体的な状況としての実際の美的意識の歴史である。美学の理論とはこの意識の哲学的分析であり、その歴史についての知識が本質的な条件となる。また、美学理論の歴史とは美学理論の知的形式にある美的意識の跡をたどることであり、解明されるべき中心的な事柄とは人間の生に対する美の価値であり、それは実践の内に含意されていることもあれば、反省において明らかに認められることもある。我々が享受する最も美しいものに分析的に干渉することへの自然な反感にもかかわらず、この種の哲学の歴史は、過去と過ぎ去ったものについての理論的解釈だけではなく、少なくとも、世界がもつもののなかでもっとも消滅しがたいと思われる実在を正しく評価する助けとなるという利点があることを考慮しなければならない。


自然美と芸術の美の関係

2.前の節で、芸術は美の世界の唯一の代表とは言わないが、理論的目的のために受け入れることができると想定した。この想定が正当化しうると思われる観点を説明するのが必要である。

 あらゆる美は知覚か想像力のなかにある。我々が美の領域として芸術と自然とを区別すると、重力や固性のような互いに反応しあうもののように、事物が人間の知覚とは独立した美をもっていると想定しているわけではない。それゆえ、我々は暗黙のうちに美的評価の通常の、平均的な能力のなかに自然美を含めなければならない。しかし、もしそうなら、この関係において「自然」は「芸術」とは程度が異なり、どちらも人間の知覚や想像力を媒介とするが、一方は通常の精神につかの間のあいだ、普通にあらわれる物や観念であり、他方は、記録や解釈のできる天才の固定したもの、あるいは高められた直観になる。

 さて、物理的な因果関係の分野を研究するとき、我々は訓練されていない観察者が日常的に目にする所謂事実だけを考えるわけにはいかない。科学から我々はいかに知覚するかを学まねばならない。我々が観察者としての資格を与えられている限り、また他者を組織的に記録する知覚である限り、我々は科学に依存しており、我々の自然の知識はそのほとんどをそこから得ている。

 美学の領域における自然は、物理科学における通常の観察者の知覚に類似している。第一に、知覚者にとって外的世界に働きかける目や耳の範囲は限られており、記録されるべき、あるいは伝えられる内容をもった形式など存在しないからである。第二に、それは突然芸術の領域に移行するのではなく、連続的に変更されながら移っていくものであり、それは、自然の美を洞察し享受する力は相対的であり、美的な修練や一般的文化によって訓練され強められる。それゆえ、一般的に実在の世界について語られるときには実際には科学によって知られる世界を意味しているように、一般的に世界の美について語られることは実際には芸術によってあらわにされる美を意味している。どちらの場合でも、最良の知覚が記録されたものを、それが最上の知覚で記録されてているがゆえに、我々は頼ることになる。この習慣は、解釈したり、評価したり、またできうる限り、我々が自身の手で記録された知覚を修正することを排除するものではない。このように理解されると、芸術の美は自然の美を排除しはしない。完成された「芸術作品」が、ある場合には自然の対象をあらわしてはいないとしても、限定的なものや行動であるという事実は正当に考察されねばならず、創造的精神は芸術生産の一要素と認められねばならない。にもかかわらず、「芸術作品」が存在しないところに芸術はない、あるいは、画家が絵の仕事をしていないないときには、我々が見るのと同じ自然を見ており、それ以上ではないと想像することは大間違いである。この理由から、実践において必然的なように、芸術を哲学的研究の目的となる美を代表するものとして受け入れることは理論においても正当化されうる。『現代画家論』においてラスキンが試みたように、物理的な事実のもと自然の美を分析している場合でさえ、主要な目的としているのは、いかに偉大な芸術家たちが、自然な光景や対象を表現する優れた洞察力によって、所謂自然美と言われるものの境界線を拡大するかを示すことに向かっている。批評家が芸術家の達成を評価する基準として自然を持ちだすのは、もちろん、自分自身の芸術的感受性、そして多かれ少なかれ訓練された知覚の最後のよりどころとしてある。美学理論によって自然とは美の領域を意味し、そこではあらゆる人間が自ら芸術家である。


美の定義とその美学の歴史との関係

3.普遍的に受け入れられるといえる美の定義は存在しない。しかしながら、この本でその言葉が用いられた意味を説明しておくことは便宜上いいことだろう。そして、そうした説明において、古代の根本的な理論が、現代のもっとも内容に富んだ概念の根底にあると提示できるなら、少なくとも、結果的にその定義は美学の歴史を書くという目的に適ったものとなろう。

 古代人のなかで、美についての根本的な理論はリズム、シンメトリー、部分の調和という考えに結びついていた。端的にいえば、多様性のなかの統一という一般的な公式である。現代人のなかでは、生命というものが含む意義、表現性、発言などにより重きが置かれている。つまり、一般的にいって、特徴をなすものの概念である。もしこうした二つの要素を共通の名称に還元すれば、理解可能な美の定義を示唆してくれるだろう。・・・

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