2017年11月13日月曜日

オルダス・ハックリレー「芸術における誠実」



『ヴァニティ・フェアー』の1926年6月号に発表された。

 文学の商業的な側面について論じた本を最近出版した、文学のエージェントであるマイケル・ジョセフは、ベストセラーについて論じている。石鹸や朝食やフォードの車のように売ることを目的とした本の性質はどのようなものだろうか。それが問いであり、答えは分かりきっているように思える。その貴重な処方を手にし、最も近い文房具の店に行き、六ペンスで紙を大量に買い、魔術的な殴り書きで埋めると、それを再び六千ポンドで売るのである。紙ほど豊かに修正される原材料はない。時計のバネに変わる一ポンドの鉄はもとの価値の数百、あるいは数千倍の価値がある。しかし、大衆文学に変わる一ポンドの紙は、文字通り数百万の利益で売られるかもしれない。紙が大衆文学に変わる過程の秘密を知ってさえしたら。しかし、我々は知らない。ジョセフ氏でさえ無知である。さもなければ、本を売るといういまの職業よりずっと利益が上がる職業に就き、ベストセラーを書くであろうことは明らかである。

 ジョセフ氏が言うことができるのは次のことだけである。ベストセラーは誠実でなければならない。この情報はまったく正しい——実際、明白なまで真であるので、特別に有益ではない。成功しようとすれば、あらゆる文学、あらゆる芸術は、ベストセラーであろうがそれ以下のものであれ、誠実でなければならない。故意の模倣は、チャールズ・ガーヴィスを模するにせよシェリーを模するにせよ、相当期間の間相当数の人間を得ることは決してできない。ひとは自分自身以外の何ものかになることに成功することはあり得ない。それは明らかである。ベストセラーの精神をもっている人間だけがベストセラーを書くことができる。そして、シェリーのような精神をもっているものだけが『解放されたプロメテウス』を書くことができる。繊細な贋作者は同時代を動かすことは殆どないし、後代を動かすことはまったくない。

 しかしながら、文学史の年代記には、数少ないが意図的な贋作者が存在する。たとえば、エリザベス朝のグリーンは、ユーフィスを模倣し、マーロウの詩的なスタイルを捏造し、リリーの小説やマーロウの劇のように一般の称讃をもって受け入れられることを望んだ。彼自身のスタイルは、それを書いたときには、愉快で魅力的なものである。借り着の方は明らかに体型に合っておらず、誰にも印象づけることはできなかった。

 贋作と捏造で相当な名声を得たもうひとりのより最近の文学者には、フランス人のカチュル・メンデスがいた。彼のひどく器用な亜流の作品を読むと、それらは多くの人間がすることを取り入れているのに驚く。彼の金は明らかにまがい物であり、宝石は明らかに真の宝玉の舞台用の複製である。こうした人間に興味を持つことは難しい。それらの作品は芸術とはほとんど、あるいはまったく関わりがなく、その非神秘的な人格は心理学的になんの好奇心や繊細な問題をもたらさない。それらはシエナ画の素朴さやチッペンデール風の椅子を利益のために贋作するものの文学版である。それですべてである。心理学者の注意をひくに値する唯一の非誠実な芸術は、故意に不誠実なのではなく、知らず知らずのうちに誠実な芸術家であろうとしているにもかかわらずそうなってしまう場合である。

 日常生活のことでは、誠実さは意志の問題である。我々は誠実か非誠実か選択できる。それゆえ、著者が誠実であることを望み、努力するにもかかわらず非誠実になる芸術作品のことを語るのは逆説のように思われる。もし誠実であることを望むなら、そうできると論じられる。善良な意志の欠如以外にそれを妨げるものは何もない。しかしそれは真ではない。芸術における誠実さは単に誠実であろうと望む以外の別のことに依存している。

 生活においては誠実さの完全な模範であるという事実にもかかわらず、その作品は非誠実である芸術家たちの例をあげることは容易だろう。たとえば、キーツとシェリーの友人であり、かつてなされた上で最も大きく、もっとも偽りに満ちた宗教画を描いた画家のベンジャミン・ロバート・ヘイドンの事例がある。彼の『自伝』——この種のものでは最良の本であるが、愚かな出版社は五十年ものあいだ絶版にしている——には、人間の生における誠実さ、自然発生的な熱情、真に高貴な理想論、数知れない愛すべきところがないではない失敗が存在している。しかし、彼の絵——彼が生涯をかけて情熱と努力を捧げた絵——をみたまえ。それらを——つまり、見られるものが見つけられたなら——見てみたまえ。というのも、それはほとんど画廊の壁にではなく、倉庫のなかにあるからだ。それらは舞台での輝き、情熱の冷たい因習、感情の修辞的なパロディに満ちている。それらは「非誠実」——この言葉が唇に昇るのは避けがたい——である。

 同じ人柄と作品との劇的な対照は、ベルギーの画家ウィーツにも見いだされ、そのブリュッセルにあるスタジオは市の画廊よりも訪問者が多い——しかし、画家の絵が芸術作品であるからではなく、サイズの巨大さとメロドラマ的な恐怖が彼らを引きつけている。ミケランジェロ的な夢はある種の絵画によるバーナム・サーカス団として生き残っており、彼の美術館はお化け屋敷の人気をもっている。

 アルフィエーリもまた、非誠実で舞台めいた芸術を生みだしながら、人柄においては誠実で大まじめな人間だった。彼の『自伝』と生気がなく、こわばった因習的な悲劇とが同じ人物の手になったと信じることは難しい。

 真実のところ、芸術における誠実は意志や、正直と不正直との選択の問題ではない。主として才能の問題である。魂を傾けて誠実で、真正な本を書くことを望んでいるが、そうした才能を欠いていることもあり得る。誠実な意図にもかかわらず、非現実的で、間違っており、因習的な本であることもある。感情は劇場でのように表現され、悲劇はもったいぶったまがい物であり、劇的であることを意図されたものはあからさまなメロドラマになる。それを読むことで、批評家はぞっとし、嫌悪を催す。彼はその本を「非誠実」だと評する。書いたときの意図の純粋性を意識している著者は、彼の名誉と道徳的価値についての感覚を傷つけられるかのような形容に怒るが、現実には、知的な能力に烙印を押しているだけなのである。というのも、芸術に関しては「誠実である」とは「心理学的な理解と表現に天与の才をもっている」ことと同じ意味だからである。

 あらゆる人間は同じ感情を非常に良く感じる。しかし、正確に何を感じているかを知り、他人の感情を言いあてることのできる者はほとんどいない。心理学的洞察は、数学や音楽を理解する能力と同じように、特殊な能力である。そして、そうした能力を持つ数百人のうち二、三人だけが自分の知識を芸術的な形に表現できる才能を持って生まれた。明らかな例を取ってみよう。多くの人間が、おそらくはほとんどの者が、一度や二度は激しい恋愛に陥ったことがあろう。しかし、それらの感情をどう分析すればいいかを知るものはほとんどいないし、それを表現できるものは更に少ない。離婚やロマンチックな自殺の調査の法廷で大声で読み上げられるラブレターはどれほど真剣に「わき起こった」ものであろうと、大多数の人間が経験するものであろうと、いかにも感傷的で文学的な芸術というにはそぐわない。おおげさで、因習的で、ありきたりの表現に満ちており、すり切れた無意味な修辞が多く、実生活の標準的なラブレターは、本で読んだとしたら、最終的には「非誠実」なものだと攻められることになろう。死の直前に書かれた自殺者の本当の手紙を読んだことがあるが、書評家として私はそれらの明白な「非誠実」をさらしものにすることになった。だが、結局のところ、自殺にまで追い込んだ感情の誠実さよりも高い誠実さの証拠を要求することは困難であるだろう。才能ある自殺者の書いた手紙だけが芸術的に「誠実」である。彼らが感じていることを表現できない残りの者たちは、二流の小説の陳腐で「非誠実」なレトリックに戻るしかない。

 ラブレターについても同じである。我々はキーツのラブレターを情熱的な関心をもって読む。それらはもっとも新鮮でもっとも力強い言葉によって、苦悶のあらゆる詳細を意識しながら、魂の苦しみを描きだしている。その「誠実さ」(著者の才能の果実である)はラブレターをキーツの詩と同じくらい興味深く、芸術的に重要なものとしている。詩よりも重要であるとさえ私はときどき思う。同じ時期の若い薬剤師が書いたラブレターだったらと想像してみよう。キーツとファニー・ブラウンにあったのと同じように、彼は希望のない恋愛に落ちていたかもしれない。しかし、彼の手紙は価値がなく、興味を湧かすこともなく、苦痛なまでに「非誠実」であろう。我々は僅かばかり優れた対応物として、その時期の長く忘れられているセンチメンタルな小説を見いだすことだろう。

 それゆえ、我々は芸術作品を「非誠実」と形容することに十分慎重であるべきだ。言葉の真の、倫理的な意味における非誠実な作品は——グリーンのものやカトゥルス・メンデスのもののように——故意の贋作や意識的な模倣作だけである。我々が「非誠実」と名づける作品のほとんどは、現実には能力がないだけであって、(芸術家として)心理学的な理解と表現に欠くべからざる才能に欠いた精神の産物なのである。

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