『ヴァニティ・フェアー』の1922年7月号に発表された。
装飾的な応用美術で、女性は多くのことを成し遂げている。昔から、男性が戦いや追撃のために海外にいるあいだ、女性は家にいて役に立つ芸術や工芸品をつくっていた。
織物や陶器のようなものはもともとそれをつくっていた女性の発想に、その美しさや優雅さの多くを間違いなく負っていた。実際、すべての応用美術には女性の影響が直接的、間接的に感じられるといっていいほどである。そのすべてにおいて、優雅さ、気品、魅力に対する貢献が見て取れる。
しかし、応用的ではない美術においては、いずれにしろその限りにおいては、女性はほとんど成し遂げたことはなかった。自由が増え、またより満足のいく教育を受けられるようになった結果、未来において女性の芸術の量が増え重要性も増すかどうかはここで論じる必要のないことである。現在にいたるまで女性の美術の現実における達成は疑問だと認めねばならない。美術の歴史において偉大な女性の人物、典型の創造者、創始者は存在せず、女性の画家のなかでも、新たな光輝や力強さは言うに及ばず、新たな優雅さ、これまでになかった気品をつくりだしたものはいなかった。ロザルバ、ビジェ・ルブラン、アンジェリカ・カフマン、ローザ・ボニュアー、バーサ・モリソーーーと過去の女性画家をあげても、多いとはいえない。
全体的にいえば、ゴンチャロバ、テレーゼ・ルソー、トゥール・ドナ、ニナ・ハムネットなど現代においては、才能のある女性に言及することができる。そしてこうした同時代人のひとりとして、過去に無益に探し求めたものーーパーソナリティ、創造者、新たで本質的に女性的である優雅さの創始者を見いだすことができる。彼女の名はマリー・ローランサンといい、ポール・ローゼンバーグの画廊で、数週間のあいだ、彼女の代表作を見ることができる。
マリー・ローランサンは便宜上のレッテルとしてはることのできるような画家ではない。彼女はどんな流派にも属さず、決定的に、エゴイスティックなまでに自分自身である。
もちろん、彼女はリアリスティックに描こうともしなければ、特別劇的な出来事を再現しようともしない限りにおいて、曖昧に「モダン」だとされている。しかし、それはラベルを貼り、分類できる限りにおいてのことである。キュビストは彼女の友人である。彼女は彼らのなかで生活し、彼らの厳格でペダンチックな芸術理論を聞いていたーーそして寸分たりとも彼らの影響を受けることを自分自身に許さなかった。友人たちが面と線とを正確に幾何学的に配列することに専心しているあいだ、マリー・ローランサンは自身の素晴らしいヴィジョンをキャンバスに静かに記録し続けた。彼女のぼやけた近視の目の背後にある世界で見られるものは何と奇妙で鋭敏なものだったことか。どれほど独特にそれを描いたことか。何人もの女性の顔と猫たち、何匹もの猫の顔と女性たち、不安に満ちた黒くビースのような眼をしたこの上なく優雅で繊細な白い少女たちと馬や鳥や猿たち、想像上の犬と花ーーそれらは彼女の宇宙におけるファウナとフローラである。彼女の絵はプロットがわからないなんらかの不可思議な物語の挿絵のようだ。それらは未知の繊細で不条理なテーマを主題にして描かれている。
厳格なキュビストの批評家は、あらゆる芸術、すべての質を無視し、造形力のあるものだけを認めさせようとするかもしれない。アカデミズムのあまりに文学的な評価基準に対する反動としては、この教義は、芸術には感傷と劇以外にも別のものが存在すること、芸術には道徳や場面の正確な描写をする以外にも他の働きがあることを思い起こさせるよい働きをした。
しかし、ある主張からくる他のすべての信条と同じく、芸術の純粋に美的な働きについてのこの教義は行きすぎてしまった。芸術の質として、造形以外のものを無視しようとするのは不条理である。もしそうするなら、事実を無視していることになる。ミケランジェロの立像の造形力は我々を感動させる。しかし、驚くべき情感の高まりもそうなのである。ラファエルの甘美さは、その美しく研究された構成と同様に親しみを感じさせる。レンブラントの作品に立ちこめる反省と劇的な力は、開かれた構成と新たな空間感覚と融合している。同じことがマリー・ローランサンにもいえる。彼女の絵で我々を楽しませるのは、構成、色彩、方法だけではない。女性的な魅力、おぼろげで美しい幻想でもあるのだ。彼女の作品の文学的な質はーー漠然として曖昧で、非劇的なものを「文学的」といえるならであるがーー美的な質と同様に重要である。
純粋に美的な面だけを取ってみても、彼女の絵が風変わりで興味深いのは確かである。彼女の形の世界は薄っぺらであるが、完全に平面ではなく、いわば三次元の萌芽をもっている。一般的に、二つあるいは三つの平面だけが表層に密着しており、絵画の表面と平行なものはほとんどない。深い谷間や周囲の空間に対して屹立する立像的な塊は存在しない。実際、彼女の世界は周囲に直接触れる実在にしか気づかない極度の近眼の世界のように拘束されている。この薄っぺらい宇宙では、明暗法もなければ、鋭く限定された造形的対象もない。絵は平面的で、それを壊すものもない。色彩は常に柔らかで、非常に微妙に調和されている。彼女の最上の構成には、愉快で、一般的に単純なリズム的パターンがある。
彼女の作品が我々に残す最終的な印象は、鋭敏で豊かな優雅さである。彼女の絵は装飾において最も魅力的である。そして、「装飾」という言葉で、我々の本性と価値が、芸術に対する本質的に女性的な寄与をしていることを評価していることは確かである。彼女は新しく精妙な装飾を発明したので、それは過去において日常を豊かにしたものたちに伍するものである。確かにここには芸術の最も偉大な形式はない。しかし、最も優雅なもののひとつがある。
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