II.ピタゴラス
ピタゴラスの生涯は、ぼんやりとした荘厳な伝説に包まれていて、そこから救い出そうとする試みは希望がない。ある種の一般的証拠は間違いなく信用される。しかし、それはほとんどなく、曖昧である。
その伝記に必要とされる難点の一例として、古代の作家たちや現代の学者たちが探求の結果あげた誕生年のことをあげよう。ディオドロス・シクラスは61回オリンピアのときだと言った。クレメンス・アレックスは62回オリンピア。ユーセビウスは63あるいは64回オリンピア。スタンレーは53回オリンピア。ゲールは60回。ダンシエは47回。ベントレーは43回。ロイドは43回。ドッドウェルは52回。リッターは49回。サールウォールは51回。48年の幅で変わっている。もし選択をしなければならないなら、ベントレーに決めることになろう。素晴らしい学者にたいする敬意のためだけではなく、ピタゴラスの友人や同時代のアレクシマンドロスによって知られている誕生の日と合致しているようだからである。
ピタゴラスは通常、偉大なる数学の創設者に分類される。このことは、彼の広範囲にわたる労作、彼が主に専念していたのは広がりや重量の決定、音楽の音の比率にあったことなどを知ると納得される。彼の科学と技術は、彼の生涯とともに、無意味なまでに過大視されている。伝説によると、彼は聖人であり、奇跡の使い手であり、人間の知恵の教師以上の存在だった。生まれもまた驚くべきもので、ヘルメスの息子ともアポロの息子ともいわれている。その証拠として彼は金の腿をあらわしていたと言われる。国を荒廃させたダフネの熊を飼い慣らした。彼はメタポンタムとタウロミニアムの異なった場所で、同じ日同じ時間に講義を開いた。川を横切るときは、川の神が「これは、ピタゴラス」と挨拶をし、彼にとって天球の調和は音楽に聞こえたという。
伝説はこうした驚異を記している。しかし、伝説的な伝承として存在しうるのは、ピタゴラスの意味深い偉大性ということである。ブルワー・リットン卿に十分にいわれているように、「ピタゴラスに関するあらゆる伝統だけではなく、彼個人が後にイタリアにもたらした強い影響、彼が人類に及ぼした個人的影響、道徳的命令を必要としていた者に及ぼした熱狂、諸派閥や制度の創立者であることは、彼がいまだ名前のない芸術を有していたことを証明している。ピダゴラスの時代と教えに多くの者が服従したが、彼が入念にギリシャの古代からの宗教と政治を探求し、異邦人ではあったが、訪れたデロスの伝統を(いかに寓話によってそれを損なったとしても)拒否し得ず、デルフィーの敬虔な奉仕者から教えを受けて感動したということが信じられていた。」*彼は通常の人間ではなく、寓話によって詩的な領域においてまで賛美されていた。ロマンティックで、奇跡的な行為が帰せられているときには、英雄はそうした驚くべき栄光を担うに足るだけ偉大であることはたしかだ。
*『アテネ、その勃興と没落』ii.412。
しかるに、示された事実は、一般的に伝えられている、彼がその教えと哲学をすべて東洋から借りたという説を反駁する。こうした偉大な人物が異邦からの教師なしですますことができるだろうか。実際できたし、そうしたことはたしかである。しかし、同郷の者たちは、ごく自然な考えによって、彼の偉大さを東洋での教育の結果だと見なした。彼の国には予言者はいなかった。想像力のあるギリシャ人は遠く離れた異境の国の者にそうした性質があるとする傾向があった。彼らは自分自身のなかから知恵が湧いてでるということを信じることができなかった。東洋という広大で未知の領域から、すべての新しいもの、思考が生じるに違いないとみていた。
リッターが観察したように、古代ギリシャにとってエジプトがいかに驚異に満ちた土地であったか、後にもっと知られるようになっても、人々の性格は保留したとしても、国家的建築の途方もない構造に観察者の注意がねじ曲げられるのを見るとき、ギリシャ人が強力な東洋と偉大なピタゴラスとのあいだに何らかの関連をつけたことは容易に想像される。
しかし、我々はピタゴラスがその学説についてエジプトにさほど負うことはないことを信じるとしても、彼がエジプトを旅したことに懐疑的なわけではない。サモスはエジプトと定期的な交流があった。ピタゴラスがエジプトを旅したか、旅したものに話を聞いたかしたならば、その体系にあらわれているように、エジプトの慣習について多くの知識を持っていたことだろう。そしてそれは司祭から教えを受けるまでもないことだっただろう。輪廻の教えはエジプトでは一般的なものだった。リッターがいうように、彼はそのために教えを請うまでもなかったのである。埋葬の習慣やある種の食物を禁じることは旅行者にはよく知られたことだった。しかし、ピタゴラスがエジプトの司祭から教えを受けたことに対する根本的な反論は、司祭階級そのもののなかに認められる。もし同じ階級に属さないのならば、同郷人の最も親しい者へも教えることを惜しんだとするなら、異邦人であり、異なった宗教をもつ者にどうして教えを授けることがあろうか。
古代の作家たちはこの反論に気づいていた。それを無視するために、彼らはブルッカーが与えている物語を発明した。ポリクラテスはエジプト王であるアマシスと友好的な関係にあり、ピタゴラスを送って、司祭と接することができるように推薦したというのだ。王の権威は司祭が異邦人にその神秘を明かすことを認めるほど十分なものではない。それゆえ、彼らはピタゴラスをテーベにおいて古代に精通したものとした。テーベの司祭は王族から選任されたものとして畏敬されており、異邦人に儀式を見られることを嫌っていた。新参者を嫌いながらも、彼らは割礼を含めたいくつかの残酷な儀式に参加させた。しかし、彼をくじくことはできなかった。彼は忍耐をもって指図に従い、最終的に信頼を得た。彼はエジプトで二十二年を過ごし、あらゆる学問に精通して帰ってきた。これは悪い物語ではない。しかし、一つ反論があるとしたら――実体がないということである。
哲学者という言葉の発明は、ピタゴラスに帰せられている。ペロポンネソスにいたとき、レオニティアスに「なにがおまえの技芸なのだ」と問われた。「私には技芸はない。私は哲学者だ」というのが答えだった。レオニティアスはその言葉を聞いたことがなく、なにを意味するのか尋ねた。ピタゴラスは重々しく答えた、「それはオリンピアの競技に比較できるかもしれない。あるものは栄光と王冠を求める。買ったり売ったりすることで利益を求める者もいる。彼らより高貴な者たちは、利益も賞賛も求めず、この素晴らしい見世物を楽しみ、そこで起きるすべてのことを知ろうとする。同じように、我々は天国である国を出て、多くの収益、多くの利益を得るものの集まりである世界にきたが、そこには数こそほとんどいないが、貪欲や虚栄を軽蔑し、自然を研究するものが存在する。それらを私は哲学者と呼ぶ。というのも、個人的な関心なしでいる観客ほど高貴なものは存在せず、その生涯では、瞑想と自然の知識とが他のどんな仕事よりも名誉あるものとされているからだ。」ピタゴラスが言うところによれば、「知恵を愛するもの」という通常の哲学者の解釈は、「愛するもの」という言葉に最高度の広がりをもたせたときにだけ正確なものとなることを見ておく必要がある。知恵というのは哲学者にとって「ここにあり目的でもあるすべてであり」、単なる好みや一つの追求すべきものであってはならない。それは生命を捧げる貴婦人でなければならない。それがピタゴラスにとっての意味であった。それ以前に賢人を指していたのはσοφςという言葉だった。しかし、彼は自分を、その体系において為したのと同様に、Sophoiあるいは当時の哲学者とは区別することを望んでいた。Sophosの意味は何であろうか。間違いなく我々はそれによって哲学者とは異なる賢人を意味している。その知恵とは実践的なものであるか、実践的な目的に変わるものであった。知恵を愛するものは、それ自体を愛しているのではなく、目的のために愛していた。ピタゴラスは知恵をそれ自体において愛していた。彼にとって瞑想は人間性の最高度の修練だった。生きることの底辺にある目的のために知恵を引きずり下ろすことは冒涜だった。それゆえ、彼は自信を哲学者――知恵を愛するもの――と呼んだが、知恵をより有益な目的のために求める者とははっきりと区別した。
哲学者という言葉のこの解釈は、彼の意見のいくつかを説明することになろう。とりわけ、厳格な入会儀礼の後でなければ入ることが認められない秘密結社の設立を説明する。五年のあいだ、加入希望者は沈黙を守らねばならなかった。多くのものが絶望のうちにそこで断念した。彼らは純粋な知恵のための瞑想には値しなかった。饒舌な傾向のないものは、その期間を守り通した。様々な屈辱に耐えねばならなかった。自己否定の力を測るために様々な実験が為された。それらによってピタゴラスは彼らが世俗的かどうか、科学という聖域に入るのにふさわしい者かどうかを判断した。浄化、犠牲、通過儀礼によって魂の基本的な部分を一掃した後に、彼らは聖域に入ることが認められ、魂のより高次の部分も、非物質的で永遠な事物についての知識からなる真理に関する知識によって祓い清められるのだった。この目的のために彼は数学から始めたが、それは物質的なものと非物質的なものとを媒介し、それだけが精神を感官的な事物から切り離し、知的なものへ導くことができるからである。
我々が不思議に思うのは、彼は神として崇拝されていただろうかということである。世俗的な争い、偉人になろうとする野心も超越し、知恵のためだけに生きた彼こそが、通常の人間よりも高次の刻印を押されているのではないか。後の歴史家たちは、白いローブをまとい、黄金の王冠をかぶった、重々しく荘重で、沈着な彼の姿を描いた。人間的な喜びや悲しみなどは超越し、存在のより深い神秘について瞑想している。音楽や、ホメロス、ヘシオドス、タレスの頌歌、あるいは天上の調和に聞き入っている。活気があり、おしゃべりで、議論好き、活動的で多才なギリシャ人から、荘重で謹厳、沈黙と瞑想を旨とする人物が現れるほど驚くべき現象があろうか。
ブルワー・リットン卿の『アテネ』から、ピタゴラスの政治的経歴についての部分を引用しよう。――「キケロとアウルス・ゲリウスの証言によると、ピタゴラスはタルキニウス・スペルブスの統治下にイタリアに到着し、アカイア族のギリシャ人によって植民地化されたタレンタム湾の一都市であるクロトンに住居を定めた。もし後の弟子たちの途方もない話を部分的にでも信じ、けばけばしく飾り立てられたものから、もともとの単純な真実を引き出そうとするなら、彼は最初は若者の教師としてあらわれ、当時としては異例のことではないが、すぐに法制官の教師となった。都市の紛争は彼の対象として好まれた。議会(千人の人員があり、間違いなく異なった人種からなっていた――最初は入植者の子孫たちであったが、最後には土着の人々も加わった)は雄弁で名声のある哲学者の到着と影響を利用した。彼は貴族の強化に力を尽くし、同じく、民主主義と専制主義に反目した。しかし、彼の政策はなんら世俗的な野心を伴ったものではなかった。彼は少なくともしばらくの間は、表向きは権力や地位を拒み、時期的にいうと比較的最近であるロヨラによって創設されたような強力な秩序に似ていなくもない、組織化された畏怖される社会を創設することに満足していた。弟子たちは試験と見習い期間を経ることでこの社会に入ることを認められた。段階を経ることで彼らはより高い栄誉を受け、より深い神秘に与ることが認められた。宗教は同胞愛の基礎となり、進歩と力を得る目的のために人間を結びつけた。彼はクレトンで高貴な家族のあいだから自らの制度を形成するのに三百人を選び、彼らは自らの身分を知り、世界に命令するのに適するように育てられた。ピタゴラスが首長となったこの社会は、古代の元老院に取って代わり、行政管理を得てからさほどたっていなかった。この制度においては、ピタゴラスは他に類のない唯一の存在だった。ギリシャ哲学の創建者たちの誰も彼には似ていない。誰から聞いても、女性の重要性を認めることにおいてその時代の賢人たちとも異なっていた。彼は女性に講義をし、教えたといわれている。彼の妻自身が哲学者であり、十五人の女性の弟子たちが、彼の学派を光彩を放つものとしている。人類を魅了し欺すあらゆるものについての深い知識をもとにした制度が、一次的な権力を守ることに失敗するはずがない。彼の影響力はクロトンに限られることはなかった。他のイタリアの都市に及んだ。政治制度を修正し、転覆した。ピタゴラスがより粗野で、個人的な野心を持っていたなら、彼はおそらくは強力な君主制を築き、社会年代記を新しい実験の結果でより富ますこともできたろう。しかし、彼の野心は英雄のものではなく、賢者のものだった。彼は自分の身分を高めるよりもむしろ制度の確立を願った。彼の直接の後継者たちは、彼が創設した同朋社会から生じる結果のすべてを見ることはなかった。そして彼の華麗で、荘厳な政治的企図は、しばらくの間は成功したが、無能な友愛感情の茶番と熱心でなかばは気のきいた禁欲主義を残しただけだった。
かくも神秘的で革命的な権力が社会のいたるところに行き渡り、イタリアの相当の部分で確立されたとき、警戒と疑惑の一般的感情が賢人と宗派のものに向けられた。ポルフィリーによれば、反ピタゴラスが勃興し、後の長い世代に記憶されるほど多数で活発だった。賢人の友人たちの多くは死んだと言われ、ピタゴラス自身敵たちの怒りの犠牲になったのか、弟子たちとメタポントゥムに逃亡して死んだのか疑問をもたれている。最近までイタリア南部は騒乱によって疲弊し、ギリシャも仲裁や調停に入ったが、騒動は収まらなかった。ピタゴラスの制度は捨て去られ、アカイアの金権的な民主主義が知的であるが共感は呼ばなかった寡頭政治の残骸の上に築かれている。
ピタゴラスは、社会を革命しようと試みたときに、官吏として貴族に頼るという致命的な間違いをした。革命、特に宗教に影響されたものは、民衆の感情によらなければ決して働き得ない。この間違いから、彼は人々に反感を買うようになった。ポルフィリーに関連してネアンテスが考察し、他のすべての証言からも明らかなことだが、部分的な暴動ではなく、民衆の反撥によって彼の没落が決したことは間違いないからである。彼の死後、哲学的な派閥は残ったが、政治的規範が消え去ったことも明らかである。彼がまいた種で、大きな国家にまで育ったのは、よいことであれ悪いことであれ、それは多数のものの心に植えるのだということである。」
長い間世界を楽しませてきた、彼が音楽のコードを発見したのだという物語も除くわけにはいかない。ある日のこと、鍛冶屋で、多くの男が次々に熱した鉄を叩いているのを聞いて、彼はひとつのハンマーを除いて他のすべてが調和のとれたコードを、つまりオクターブ、五度、三度、を生みだしていると述べた。しかし、五度と三度のあいだの音は不調和だと。仕事場に入ったとき、彼は音の多様性はハンマーの重さの相違によるのだとわかった。彼は正確な重さをはかり、家に戻ると、平面に四本の弦を張り、それぞれの弦の端にハンマーと同じ重さのものをつるし、かき鳴らすと、ハンマーの音に対応した音がした。彼はそこから音楽の音階をつくりだすことに進んだ。
このことについて、バーニー博士は『音楽の歴史』のなかでこう述べている。「ハンマーと鉄床がオーストリッチのように消化力のある古代人と現代人によって飲み込まれ、検証と実験がなされたとしても、異なった大きさと重さのハンマーは同じ鉄床の上で異なった音を出すに過ぎず、それは異なった大きさの矢や鐘の舌が、同じつるや鐘でしか異なった音を出さないのと同じであろう。」
ピタゴラスの生涯を終えるにあたって読者に思い起こしてもらいたいのは、途方もない矛盾した主張を歴史や伝記から集め、「権威」として無批判に使うことである。一例としてそうした「権威」をひとつあげよう。イアムビリカスはピタゴラスの生涯を、キリスト教の勃興と戦い、キリストに異教の哲学をもって対立したという視点で書いている。ピタゴラスに帰せられている奇跡も同様に根拠がないことである。
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