2017年12月7日木曜日

芭蕉の誠と西欧文学のサンセリテーー桑原武夫『伝統と近代化』



芭蕉について


1.芭蕉の誠と西欧文学のサンセリテの相違。同じく桑原武夫の「第二芸術論」からつながる論である。「第二芸術論」は、手元に本がないので、記憶だけでいうが、著名な俳人と投稿された俳句を冒頭に並べ、桑原本人も含め、幾人かにみせたところ、誰も俳人と無名の投稿者の句の区別がつかず、そこから、俳句が結局は第一芸術とはなり得ず、第二芸術にとどまるということになる。私は基本的にはこの考えに賛成である。桑原の文章は俳壇に強い反発を引き起こしたらしいが、彼に反駁する説得力のある文章を読んだことがない。私自身は俳人はむしろ、役者や芸人と同じ立場にあるものだと思う。素人がそんじょそこらの俳優よりもずっといい演技をし、芸人よりも面白い話をすることがあるのは、ままあることだが、だからといってその人物がいくつもの役を演じ分け、あるいはいくつもの番組に出たり、地方の営業に回れるかといえば、話はまったく別のことになる。当然のことだが、芸術家と役者や芸人に優劣があるとはまったく思っていない。はからずも「型」という言葉が用いられているが、「型」が焦点になるのは芸事の世界である。さらにいえば、私は「人生的倫理的態度」などはどうでもいいと思っているので、第二芸術でもなんでもいいのだが、近・現代の俳人が「日本中古の文学と唐宋詩文の伝統をつぐことを誇りとした」芭蕉が存在したことなど忘れたかのように、「表現のための誠実」を忘れ、人生的な俳句を輩出しているのを見ると、芸術にも芸にも「誠」がない二重の欺瞞をみせられる気がする。

ところが綿密な研究をつづけた学者のうちにも、同じように芭蕉を西洋風の人
生詩人に見たてようとする傾向がある。そして「誠をせむる」などという言葉
に力点がおかれすぎた。誠はフランス語でいえばサンセリテとなろう。しかし
近代文学でいうサンセリテとは、スタンダールなどの場合に最もはっきりあら
われるように、「主のたまいければ」という言葉を否定しようとする、つまり
既成倫理を反発して、自己が倫理創世の主体になろうとする個体の自覚であ
る。ところが芭蕉の誠というのは、人生的倫理的態度ではなく、恐らく表現の
ための誠実、あるいは表現における誠実ともいうべきものであったろう。誠を
せむるというのが、既得のあらゆる「型」をつき破ることであって、芭蕉は貞
門の型、談林の型をつぎつぎと破っていったというのは正しいが、しかも彼は
日本中古の文学と唐宋詩文の伝統をつぐことを誇りとしたものであった。内的
自己の革新をはかり、その新しい感動を吐露することによって「新しみ」を創
造しようとしたのだ、とは考えられない。「昨日の我にあける人」といって
も、それは自己改革などではない。俳諧が「上手になる」ための前提にすぎぬ
のである(小宮豊隆『芭蕉の研究』)。芭蕉は一つ前の型をすてはしたが、常
に大きな伝統文学の型の中で考えていた。本当の意味での型を破る誠とは、
「自分はフランス語で書くが、フランス文学では書くまい」といったスタンダ
ールの言葉に要約されるような精神であろう。

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