1.経験論から概念―経験論への移行。概念ー経験論というのは耳慣れない言葉だが、経験というのはむきだしの対象と向き合うのではなく、経験は概念と混然している。
ロックの認識論が早くに発展を遂げているなら、それはエピキュロスに帰せ
られ、十七世紀には早くにピエール・ガッサンディによって説かれた経験論か
ら、概念―経験論といういくつかの点で経験論に対立する理論を組み合わせた
ものに移行したと言える。我々に伝わり、ガッサンディが提示し、発展させた
エピクロスの認識論では、我々の言葉に意味を与える概念を感覚を通じて得る
ことと、理知と科学の出発点となる定義や公準を形作る命題的な知識を得るこ
ととがはっきり区別されていないように思われる。どちらも、個別的なものを
繰り返し経験することで得られると思われる。それゆえ、ガッサンディは我々
の知識はすべて知覚的な知識に依り、「普遍的な命題からくる明証や確実性は
すべて個別的な例からの帰納によっている」と主張することができた。他方、
ロックは、その後期の思想に至り、観念の獲得と知識や信念の獲得との相違、
帰納と普遍的、あるいは抽象的観念との相違により重きを置くようになって、
知覚的な知識とは異なり、それとは独立したアプリオリな普遍的知識のことを
考えることができるようになった。かくして、彼は、必然的な真理の直感的な
理解を確実な知識の範例とするデカルトや、デカルトとガッサンディ双方の友
人であるマラン・メルセンヌのような哲学者に同意することができた。もちろ
ん、ガッサンディのように、彼は、デカルトはよりもずっと感覚に重要な役割
を、すべての観念の源泉、知識の「材料」であり、「直接的な対象」であるば
かりでなく、いかなる推論からも独立した個物の存在の「感覚的知識」の源泉
としての役割を与え続けた。だが、ガッサンディとは異なり、またメルセンヌ
に同じく、彼は「感覚による知識」が最高度の「明証」よりも低いことを認め
たのである。
2.実体は複雑観念。ギリシャ以来の伝統では、日常的な慣例と同様、人間や馬などを実体と見なし、それらをもって基本的な観念が構成されるとした。しかし、ロックにおいては、こうした実体は、単純観念ではなく、色、形、重さといった観念が集まった複雑観念だとされた。
伝統的なカテゴリーの教義では実体と他のカテゴリーとの間に根本的な相違が
あるが、ロックにおいては単純観念とその他の相違が最も重要である(「単純
様相」は特別扱い、限られた意味でのみ単純である)。伝統的論理学は「人
間」や「馬」といった実体を「単純名辞」の範例とする。複雑性の範例は、実
体がそれを形容するものと、偶然的なものと結びついたときにあらわれる。他
方、ロックはその認識論において、我々のもつ実体の観念は複雑観念だと主張
した。
3.因果関係と力能。因果関係を認めることは慣習に過ぎないとしたのはヒュームであり、カントからポパーに至るまで大きな影響を与えた。しかし、不思議なことに、ロックにおいては、さほど論じられていない。
後の懐疑論に照らせば、また、生得観念の教義に反対していることを見れ
ば、特に驚くべきことに思われるが、ロックの力能と原因結果の観念の扱いは
別のもので、議論の最後の方にあらわれ、さほど強調されてもいない。力能に
ついての章のほとんどは人間の行動と自由に関するもので、原因結果について
の簡単な議論は関係観念の章のほとんど補遺のような場所に押し込められてい
る。どちらの議論も、ある観念の経験からの発生ということについては不満足
なもので、循環論法だという非難を招くもののように思える。というのも、我
々は、基本的、永続的で、因果的作用を及ぼす構造のしるしとして、不連続的
ではあるが、「定期的な」観察される振る舞いを論理的にいって取らざるを得
ないという示唆は、受け入れることのできるものに思えるが、それは因果性の
概念ばかりでなく、ある因果的秩序が存在することを仮定しているように思え
る。それは、出来事というのは単に起こることではなく、出来事の経験は、あ
る法則が支配する世界についての、またその内部での経験だということを仮定
している。しかし、ロックは因果性の観念を力能の観念に先行するものとは見
ておらず、因果性を力能と全く同じ用語で説明している。
およそ私たちの感官は事物の絶えまない変転を覚知するが、そのさい私たちは、個々のいろいろな性質や実体がそのどちらも存在し始めること、ならびに、それら[性質や実体]のこうした存在を他のある存有者の適正な適用・作用から受けとることを、観察せずにはいられない。この観察から私たちは、原因結果についての私たちの観念をえる。・・・たとえば、私たちが蝋と呼ぶ実体のうちに流体性という、前には蝋になかった単純観念が、一定程度の熱の適用[ないし熱を当てること]によっていつもきまって産みだされるのを見いだすと、私たちは熱の単純観念を、蝋の流体性との関係で流体性の原因と呼び、流体性を結果と呼ぶ。 第2巻第26章1
繰り返して言えば、「絶え間ない変転」の経験がある種の仮定を確かなもの
として受け入れるのを余儀ないものとするのは、観察される規則性が観念の発
生を促すときである。だが、原因は通常「感覚できないような仕方で働いて」
結果を産み出すので、観念はその指示対象を観察できないものにおいているこ
とになる。ロックは、知られてはいないが、論理的に仮定される原因と結果を
結びつけるメカニズムを「modus operandi」あるいは「作用のしかた」と呼んだ。
しかし、単に「原因結果の観念をもつには、ある単純観念ないし実体が他のある単純観念ないし実体の作用によって、その作用し方はわからずに存在し始めると考えれば、じゅうぶんなのである」と言う。かくして、原因結果の観念は力能の観念と同じように説明され、その関係そのものを知ることはできない
が、にもかかわらず、思考に表象されるのである。同じことは、特殊な因果、
寒気のような「活動」の観念についても言える。というのも、「ある活動を表
現するように見える多くのことばは、活動ないし作用様相についてどんな事物
もまったく意味表示せず、働きかけられる主体あるいは作用する原因の諸事情
を伴った結果だけを意味表示する」からである。こうした議論はすべて循環論
法だという非難を招くように思える。我々が経験する比較的規則的な連鎖があ
るだけの世界の基に、完全に法則に支配された過程やメカニズムが存在するこ
とを経験がどうして保証してくれようか。批評家は、真の問題は、どうもロッ
クが考えたらしいように、そうしたメカニズムがどのように思考に表象される
かではなく、いかにして我々は表象されるべきものとしてその概念を知るよう
に、あるいはそこに至るのかにあるのだと感じているらしい。たとえ、あらゆ
るものには原因があるというのを必然的な真理として受け入れるにしても、精
神が、因果関係を得る前に、普遍的な因果関係の原理に訴えることは想像でき
ることではない。そのうえ、因果関係の発生において恒常的な結合の観察に帰
せられる役割と、ある特殊な場合において、因果関係が直接的な覚知としてあ
るという感覚による知識についての教義の間には矛盾が存在するように思え
る。
こうした批判は、明らかに限定された目的をもち、明らかに仮定的であるロ
ックの力能と原因の観念形成についての考察から正当な結論を導き出せば、釣
り合いの取れた見方に置き直すことができる。というのも、彼がこの手早い言
及によって、我々がいかにその最も一般的な意味において、因果的な用語で考
えるようになったかの説明を提供するつもりでいると仮定することはとても考
えられないからである。結局、彼の「史的」認識論と表象理論のすべては、我
々の世界についての知識はまだその第一歩をも踏み出せていないこと、多分我
々は、我々自身と他の事物との因果関係についてのなんらかの覚知なしには、
真の意味において考えることはできないのだということを納得させようとして
いる。この点において、彼の表象理論に反対する批判がどんなものであろう
と、ロックは間違いなく正しい。我々は彼の因果関係についての考察を額面ど
おりに読む必要がある。即ち、我々はいかに思考においてある種の偽装品、あ
るいは変数を用い、それによって非常に特殊な方法で考えることが、またそれ
自身経験の範囲からはみ出す限られた知識をもつことが可能になる、そのこと
の説明としてである。こうした標識は、経験に対する精神の対応から生じたも
ので、単純観念をその原因の記号として用いるのと同じほど自然で合理的であ
る。「なぜなら、どんな変化が観察されても、心は、事物自身が変化を受ける
可能性ばかりでなく、どこかにその変化をさせることのできるある力能を推断
しなければならないからである。」ロックからみれば、この対応は、自然は法
則に支配されているという明示的に表わされた、あるいは(彼にとっては意味
のないことであるが)暗黙の考えによるのだと仮定する必要はない。というの
も、既に見てきたように、デカルト派その他が生得原理、生得概念として説明
したものを、ロックはその特徴通り、我々の心的能力の単純な修練として説明
したからである。従って、その原因の自然な記号として単純観念を用いること
は、彼にとっては、普遍的な因果性の原理を採った推論の結果でもないし、同
じ条件で同じ結果ならば同じ原因をもつという法則に訴えているのでもない。
ただ最も単純で最も基本的なレベルでの思考と経験に過ぎないのである。
4.感覚経験と力能の世界。我々の知覚する世界がそれ自体空間的だという明証をロックは与えてくれない。それ故に、我々は常に生きているこの世界が夢ではないかと疑うことができる。また、バークレー流の観念論への道も開いた。
彼の議論は、感覚経験を通じて直接に知られる世界は、完全に力能の世界であ
るということが含意されている。まさしくこの説によって、バークレーは、力
能が属する実在、即ち、非空間的で精神的な実在についての敵対する論点へ進
むよう導かれるよう感じたのだった。我々の知覚する世界がそれ自体空間的だ
という直接的な我々の知識を正当化するためには、ロックが我々に与えてくれ
なかったなにかが必要である。事物の存在が空間的であり、空間的に知覚さ
れ、それらの知覚的知識の可能性そのものであることを含意するような議論で
ある。
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