総合的な噺家と分析的な噺家がいる。もちろん両方を兼ね備えていなければ一流の噺家とはいえないので、程度の問題に過ぎない。両者の相違がもっとも明瞭にあらわれるのは登場人物の扱いだろう。
分析的な噺家が各人物の性格や行動を解釈し、あとはそれぞれの行動原理の赴くところにまかせるとしたら、総合的な噺家は、各人物の性格や行動をうまく組合わせて一枚の織物となるように緊密に織りこんでいく。
古今亭志ん生や立川談志が分析的な噺家だとすると、桂文楽や古今亭志ん朝は総合的な噺家だと言える。そして総合的な噺家と親和性が高いのが、『愛宕山』や『つるつる』のような噺だろう。
幇間ものとひとくくりに言っても、『鰻の幇間』のように騙しあいが楽しいものもあれば、『富久』のようにひとりの幇間の生き方が惻々と伝わってくるものもある。『愛宕山』や『つるつる』は内容だけを読めば弱い者いじめでしかない。旦那と幇間の性格と行動をうまく織物として織りこまねば、いじめ的ないやみや弱い立場のルサンチマンなどがつい浮かびあがってしまうのである。
旦那のお供で京都の愛宕山に登ることになった幇間の一八、監視役の繁八がついて逃げようにも逃げられない。ようやく旦那たちに追いついて休憩となった。そこに土器投げの的があり、旦那は器用に的に当てる。一八も投げてみるがまったく当らない。上手い人になると軽い塩煎餅で当てるらしい、今日は逆に重たいこれで試してみようと、旦那は小判を取りだし、三十枚すべてを投げてしまった。あの小判はどうなるんです、と訊くと、それは拾った者のものさ、という答え。一八は茶店で傘を借り、広げて谷の底に飛び降りようとする。足がすくんで飛べないでいるところを、シャレに背中を押してやれよ、と旦那が言うから繁八がどんと押して、落ちていったがなんとか無事だった。三十枚みんなありましたよー、と一八、みんなやるよー、どうして上がるー、と言われた一八、そこまで考えてはいなかった。欲張りー、狼に食われて死んじまえー、と罵声を浴びて大いに慌てて、絹の羽織、着物、長襦袢を裂き始めた。それで縄をこしらえ、縄の先に石を結び、それを長い竹の先に引っかけて手許に引きよせ、撓った力を利用して、地を足でとんと蹴り、ヒラリと戻ってきた。偉い奴だな、一八、生涯贔屓にしてやるぞ、金はどうした。ああ、忘れてきた。
川戸貞吉の『落語大百科』によると、本来これは上方の噺であり、三代目の三遊亭円馬によって東京に伝えられ、その円馬から教わったのが文楽だという。「この噺には無理がある。その無理をお客に感付かれたらお終いだよ」と円馬は文楽に言ったそうだ。谷底からヒラリと舞い戻るところなどが無理な部分というわけだろう。
ところで、幸田露伴の『魔法修行者』によれば、室町後期の武将細川政元は晩年、魔法修行に凝って、終いには「空中へ飛上つたり空中へ立つたりし、喜怒も常人とは異り、分らぬことなど言ふ折りもあつた。空中へ上るのは西洋の魔法使もする事で、それだけ永い間修行したのだから、其位の事は出来たことと見て置かう」と露伴は述べている。この細川政元が幼いときから尊崇していたのがこの愛宕山であり、多少身が軽くなるくらいのことは土地の霊が許してくれるに違いない。
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