大きな家で仕事を終えた植木屋が、酒と肴を勧められる。酒は良く冷えた柳蔭である。味醂に焼酎を加えて味を調えたものでお直しとも言ったという。私には味醂が酒屋に売っていたことまではかろうじて記憶があるが、柳蔭などはだされたこともだしたこともない。柳蔭をだすことが、職人相手のざっかけない応対を示したものなのか、柳蔭というものが、特に大店などに限って、(例えば味醂を余らせてしまうような)余剰としてありがちなものなのかいささかはんぜんとしないのだ。よそからの頂き物となっているが、味醂をもらうことがどの程度の社会的位置を示しているのかどうかはいまだわからない。もっとも鯉の洗いとなれば立派な肴であって、十分な饗応がなされたといっていいだろう。
ところで、植木屋さん、菜のおしたしは好きかい、好きだという答えを得て、奥さんを呼びつけることはから話が面倒になってくる。鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官と奥さんが答えたのに対し、ああそうか、じゃ義経にしておきなさい、と妙な問答をしたと思うと、菜はなくなってしまったと告げるのだが、植木屋は菜のことよりも奇妙な応対のほうが気になってならない。問いただしてみると、なんのことはない、「菜」を「食らう」判官、既に食べてしまいましたよ、という奥さんの答えに対して、よしておきなさい「義経にしておきなさい」と語呂合わせを符丁に使っているだけなのである。
もっとも、東大落語会の『落語事典』によれば、上方の方では大尽客を義経、まわりの幇間や取り巻きたちを弁慶と呼んだこといもあったというから、単なる語呂合わせよりは多少なりとも内的な連関があったのかもしれない。いずれにしろ、これを聞いた植木屋は自分も使ってみたくてしょうがない。屋敷があるわけもなく、自分でもできるという奥さんを押し入れのなかに閉じこめて、友人を呼びよせる。菜っ葉が嫌いだという友人に無理に勧め、奥さんを呼びつけると、汗だくになった彼女は「鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官義経」とすべて言い切ってしまった。うーん、じゃあ弁慶にしておけ。
これほど実りが薄い噺も少ないかもしれない。特に人間存在についてのなんらかがテーマとなっているわけでもないので、上手に演じるか下手に演じるかしかない。むしろ人間存在そのものがテーマといえばテーマであるかもしれない。実際、下手な噺家がこの噺を演じているのを聞くと、テーマを現出するまでもなく、薄っぺらな言葉のやりとりで終わってしまう。青菜がだして欲しいなら、だして欲しいと言えばいいし、なければないといえばいいだけの噺なのだ。それをあえて義経に置きかえるいやみすれすれの風格や品格を人間存在が醸しだしうることこそがこの噺のテーマであり、実に単純でありながら根本的な人間性の変化ということこそが主眼となっている。
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