2017年11月23日木曜日

A・J・エイヤー『言語・真理・論理』(抜き書き)



1.意味のある文章。詩も小説もない論理だけのこうした世界にはいまではまったく興味がない。かつては、一つには意味と無意味の相違に興味があったのと、もうひとつは、どちらにしろ無意味は産出されるのだから、論理だけの世界にどうやって無意味がしみだしてくるのかに興味があって、エイヤーなどにまで手を出した。しかし、ラッセルなどはまだ、怠惰についてのエッセイや、神秘主義を論じるなど、狂気につながるような論理の追求があって面白いが、その追随者は概してつまらない。

我々は、次のような場合、そしてただこの場合にのみ、文章は、任意の人間に
対し、実際に意味を持ちうるものとする。その場合というのは、その人間が、
その文章の表現しようとしている命題を検証する方法を知っている場合、いい
かえれば、一定の条件の下において、どんな観察をしたら、その命題を真なり
としてうけいれることが、あるいは、逆に偽なりとしてしりぞけることが出来
るか、を彼が知っている場合である。もし反対に、想定されている命題が真で
あると仮定してもあるいは偽であると仮定してもそのいずれの仮定も、彼の未
来の経験の性質についての如何なる仮定とも両立するものであるようなものな
らば、それは、彼に関する限り、同語反復でなければ、単にまがいものの命題
であるにすぎない。このまがいものの命題を表現する文章は、彼にとって、情
緒的には意味があるかも知れないが、字義上からは無意味である。

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