バシュラールにはイメージの原型を探ろうとする著作と、科学哲学に関する著作とがある。私が読み始めたのはイメージに関するものだったが、惹かれたのは科学哲学に関する作品だった。
1.デカルトの蜜蝋。デカルトが『方法序説』でコギトを導きだした蜜蝋が問題にされている。しかし、感覚がコギトと同一視されるなら、諸感覚に散乱することのない私、蜜蝋が変化している「その瞬間」に私をまとめ上げているものはなんなのだろうか。と、問題が先送りされることになる。感覚だろうと思惟だろうと、私がそれを感覚、思惟することを感覚し、思惟する私、と無限後退に進んでしまう。
もし蜜蝋が変化するなら、私も変化するのである。私は私の感覚といっしょに変化する。そしてこの感覚は、私がそれを思惟しているその瞬間には、私の全思考にほかならない。なぜなら、感覚するとは思惟すること、コギトのデカルト的な広い意味において思惟すること、だからである。しかしデカルトは、実体としての魂の実在性にひそかな信頼をよせている。コギトの一瞬の光に眩惑されて彼は、われ思うの主語であるわれの永続性を疑ってみることはしなかった。だが、かたい蜜蝋を感覚する存在とやわらかい蜜蝋を感覚する存在とが、なぜ同一の存在であるのか?一方では、この二つの異なった経験において感覚される蜜蝋が、同一の蜜蝋ではないとされているのに。もし仮に、コギトが受身の形に言いかえられて、私によって思惟されてあるcogitatur ergo estとなっていたとしたら、能動的主語は印象の不確かさや曖昧さといっしょに霧散してしまったであろうか?
2.リズム・時間。リズムは持続的なものと著しい対照を示す。我々は、たとえば、ラモンテ・ヤングの音楽の持続音にもリズムを感じ取る。バシュラールのここでの仮想敵はベルグソンである。
リズムが構造に働きかけることをよく示している実証的な実験が、いくつかある。・・・もしフォスゲンCOCL2に、振動数がちょうど<塩素三五>の帯スペクトルに入るような紫外線をあてたとすると、このフォスゲンから<塩素三五>だけを分離してとりだすことができる。<塩素三七>のほうは、あてた紫外線のリズムに同調せず結合状態のままとり残される。この例で分かるように、輻射は物質を解きはなつのである。リズムに支配されるこれらの反応をそのあらゆる細部にいたるまで理解することが無理だとしたら、それは時間にたいするわれわれの直観がまだ相当に貧しいことによるのである。われわれは絶対的な始まりと、連続的持続についての直観をもっている程度にすぎない。この無構造の時間は、最初に見たときには、あらゆるリズムを自分に受け入れる能力をもっているように見える。しかしそう見えるのは見かけだけで、それは時間の実在性を連続的なもの、単純なものと見込んでいるからなのである。これにたいして、ミクロ物理学というこの新しい領域では、時間の驚異的な作用のすべては明らかに非連続的なものと関係している。ここでは、時間は持続によるよりも、反復によって作用することが多い。
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