2017年11月10日金曜日

オルダス・ハックリレー「現代精神と家族パーティー」



雑誌『ヴァニティ・フェアー』の1922年8月号に発表された。

 「文学だけにアカデミックな伝統が生き残っている。絵画、彫刻、音楽などのアカデミズムについてまじめに語ろうとなど誰も思わない。」この発言の書き手であるオズバート・シットウェル氏は、学術的なことなどまじめに受け取ろうとはしないもののひとりである。彼は「ロンドン・マーキュリー」などいたるところに巣をつくり歌っている鳥たちに石を投げつける。鳥たちがさえずっているあいだ、不作法に大きな雑音を立てる。

 シットウェル氏の鳥たちを怖がらせる直近の功績は、『誰がコック・ロビンを殺したか』という小冊子のなかに記録されておりーーそのパンフレットでは、学会と自然育ちの詩人たちが愉快に、生き生きと扱われている。たとえば、ワーズワースがかつて自然についていくつかの美しい詩を書いたがために、そこから派生した膨大な量のものわびしい自然詩についての一節を読んでみるがいい。「ロンドン・マーキュリー」の「ヨタカが楽しげな音を紡いでいる」という一節を導きとして、彼は続ける。

詩は象やコンゴウインコに属するものでもなければ、ヒバリの独占物でも、ヨタカの賛美でもない。なぜならよい詩とはヒバリや緑の木を現実化する詩人が感じる情動から生じるものであるから、他の詩人がヒバリや緑の木について絶え間なくしゃぺったところでよい詩を書けるものではないからだ。ヒバリは長居を歓び移住する。ある日再び戻ってくるかもしれない。多くの若い詩人たちは被いのなかに鳥を囲っている。一羽のツバメは詩をつくりはしない。

 これは見事に書かれている。『誰がコック・ロビンを殺したか』は長いあいだあらわれたなかでもっとも聡明な反アカデミズムのプロパガンダである。プロパガンダは重要で、シットウェル家はーーというのも、オズバート・シットウェルには兄弟姉妹がいるからだがーープロパガンディストとして特殊な意味合いをもっている。しかし、プロパガンダは単に理論的な教義で、木は果実によって知られ、芸術家は作品によって信条を得る。シットウェル家は反アカデミズムを宣教し、「マーキュリー」の書きぶりに、反対陣営の「ウィールズ」から強硬な抗議を行っている。彼らの詩はプロパガンダ的価値とはまったく離れた本来的な意味を持っている。いくつかの特殊な細部を検証する価値はある。というのも、多くの点で、それは現代精神のまさに典型だといえるからだ。しかし、これ以上進む前に、我々は自問しなければならない。現代的精神とは何か。

 我々は社会的、道徳的に難破した世界に今日生きている。その間に、戦争と新しい心理学が、過去において我々を助けてくれた制度、伝統、信条、精神的価値を打ち壊してしまった。芸術の領域では、ダダイスムが価値の完全な崩壊をあらわしている。ダダはすべてを否定する。他のすべてがーー魂、道徳、愛国心、宗教ーー打ち倒されても我々が最後まで情熱をもって守り続けようとした最後の偶像である芸術でさえも、ダダによって攻撃され打ち壊された。

 ダダは最初にあらわれたときには気分を浮き立たせる光景だった。ミュージック・ホールのコメディアンが瀬戸物をたたき壊すのを楽しむように、人はそれを楽しんだ。我々すべての心の底にある破壊への子供じみた愛情を喜ばせた。しかし、しばらくすると、この瀬戸物壊しも少々退屈になってきた。壊した破片を取り上げ、何か新しいものをつくるときがきた。ただひとつの問題は、何を?ということだった。その疑問はまだ我々に覆い被さっている。新たな芸術的総合は何になるべきなのか。決定的な答えを得られるにはまだ早すぎる。しかし、推測することはできる。シットウェルやイギリスの少数の者たちの作品、コクトー、モラン、アラゴン、マッコルランやその他フランスの作家たちがそれを推測することを助けてくれる。芸術的な全体のなかで再び集められ、戦後の世界でばらばらにされた価値からの新たな総合、芸術的統一における崩壊を反映するであろう総合はきっと喜劇的な総合となるであろう。ここ数年の社会的悲劇はあまりにも先に進みすぎ、その本性や起源は、悲劇的にあらわすにはあまりにも深く愚かである。同じことは古い伝統や価値が崩壊した心的悲劇における等しく複雑で、混乱した状況についても等しく真である。唯一可能な総合はラブレーやアリストファネスの法外な笑劇的道化ぶりでありーーこの道化ぶりは、重要なことだが、悲劇と同じように美しく、壮大であり得る。というのも、すでに言及した二人や、チョーサー、フォルスタッフのシュエイクスピア、バルザックの『風流滑稽譚』、ゴヤやドーミエなどの偉大な喜劇はほとんど奇跡的に、厖大で野卑なグロテスクと繊細で想像力に富んだ美とが結びついている。同時代人は、新たなラブレーがすべての断片をかき合わせて厖大な喜劇的全体をつくりだすものと見ていた。そのときは、未来の達成の結果である本性をすでに予示しているような先行者を見ていた。

 この数世代を経た逸脱のもと、シットウェル兄弟という個別な例を検証してみよう。三人のなかで最良で最も完成された作家はエディス・シットウェル嬢であることは確かである。彼女は風変わりで不穏な完成を自身の個人的なスタイルとして進化させ、もたらした。彼女のガラスのようなきらめきと思考と情感を機知をもって美しくグロテスクに表現するあり方を誰かと比較することは考えられないだろう。有効範囲こそ小さいがーーというのも、シットウェル嬢は普遍性を射程に収めようとしていないマイナーな詩人であるからーー彼女は我々が述べた喜劇的総合を完成させた。たとえば、最近出版された『ファサード』にある驚くべきナンセンスな詩を読んでみよう。

巨大な獣が眠っている
灰色の厚い毛皮に覆われて、
耳には
不鮮明な会話が聞こえるばかり。
隠れるよりあらわあれるのが
喇叭のような水
ドン・パスキートの花嫁と
若い娘が
象ほどの灰色の
葉叢を見た
こんな熱く乾ききった日に
何を悲しむことがあろう
過酷で敵意があっても
眠たげに熟考し
いびきをかくのが
動物の世界ではないか。
兵士のように赤く
棘のある花は
なぜドン・モスキートを
かたどったように見えるのか。

ルコン・ド・リールのすべてがこのナンセンスな熱帯林にはあり、ワーズワース流の哲学が最後の四行にはたたみ込まれている。「兵士のように赤く棘のある花はなぜドン・モスキートをかたどったように見えるのか」これは次の詩句の二十世紀版である。

自然のもたらす教えは甘美で
ひねくりまわす我々の知性は
ものごとの美しい形を損なってしまう
我々は切り離すことで殺してしまう。

シットウェル嬢によって『ファサード』に書かれた詩編は、音楽の伴奏を伴ってメガフォンを通じて朗唱するためのものだった。図書館の静けさのなかで吟味することを意図された他の作品よりも結果的に洗練の度が少なく、文学的な輝きにおいても劣っている。たとえば、「ミシンとともにいる女性」を読んでみよう。

グリニッチの時間のように密接に植えられた
ほうれん草のように緑の野原を横切ったところに
小高い家が建っている。あたかも
若さの途方もなさで
細密にパターン化された
ペイズリーのショールのような春がくる。
どの部屋でも黄色い太陽が
カナリアのように飛びまわり
ルラードと水のようなトリルーー
黄色く、意味がなく、甲高い。
どんな時計とも同じくらい白い顔をして
縮れたパセリのなかで、
日がな一日座ってみている
隠された醜さのなかで
育っていく恐れの生の一針
推測される恐れの生の一針
動悸を打った濁った声が
細い一針で
私の心をかたく上手に
縫いつけてくれることを望んでいる。
そんなことをするものではない、
地上や空や海から眼を背け
心地よく暖かく眠れる
キルトに向かうのは自由であるが。

 シットウェル嬢のこの作品にはまだ現代の総合されざる崩壊状態がある。感覚の記録でしかないような詩もあり、着色された光と落ちつかなさの混合のような詩もある。しかし、他にも、相当数の詩が、知的、あるいは情動的融合の過程によって、砕かれた細片がパターンをなす全体に仕上げられているーー風変わりで、グロテスク、そして美しい全体を。

 サッシュベル・シットウェル氏は、潜在的には、姉よりも重要な詩人である。しかし、彼の達成はその構想にまだ遅れをとっている。彼はラブレー的な次元での桁外れな喜劇的総合に劣らぬものを目指している。少なくとも、最近出版された『ダン博士とガルガンチュア』と『死にゆく剣闘士のための美徳の行進』から推測されるのはそうである。語りと思考とのある種の散漫さは詩が完全に「完成される」ことを妨げている。彼の最も成功した成果は、マイナーな詩にある。私は彼の美しい「泉」を引用せざるを得ない。

夜は磨き抜かれた銀のように純粋かつ明晰である。
沈黙と死のケープが岡の剥きだしの肩のあたりに
重く立ちこめている。
かすかな動悸と囁きが
ある瞬間つぶやきとなり、沈澱し、
神秘と恐慌で夜を満たす。
甘いつぶやきが泉を論じ
フルートと優しい声で空気を掻き乱す。
泉をかたどった仮面が苦しみ嘆くーー
微笑みで歪んだ貧弱な口が
なかば忘れかけた歌を捉え、
永遠に笑い続けることの苦悶を忘れようとするーー
彼らの下の地の深みに反響する
秘密を聞いているあいだも笑っている。
このなかば忘れられた歌
悲しみに遮られた笑いが
引きつった仮面から湧きでる
若々しい水の噴出と衝突する
これが水の誕生である
楽しげに歌い
地上に湧きでては
止むことなく曲がりくねる
海へと続く谷には
ドラムロールのように
貝殻や小石が河床にちりばめられている。
水の際限のない議論は
数滴が重たく、大理石のうえで砕け散ることで終わる。
宝物をもったスルタンは
彼女の真珠の頸飾りの前で、
好意を得ようとするが
おびただしい嫉妬の涙を流すばかり
彼女は彼のいうことなど聞いていなかったから。

 この詩やその他数編の短い詩は、サッシュベル・シットウェル氏が生みだした最も完成された芸術作品である。しかし、後の長い詩は、芸術作品として完成はされなくとも、その大半が哲学的、喜劇的総合をその企図や構想においてより重要なものとしている。シットウェル氏がその構想を完全に実現化したとき、真に重要ななにかが達成されるだろう。

 オズバート・シットウェル氏は、反アカデミズムの主要なプロパガンディストで、応用詩とでも言えるものにおいて最良でありーー諷刺、折々の小片、ウィットや痛罵である。諷刺がイギリスにおいて実践されてから長いときがたつが、『キンフット婦人』や政治的小片の著者は、それがまだ失われていないことを示している。見事な「羊の歌」から数行を引用しよう。

我々はこの世界で最も偉大な羊である。
我々のような羊は存在しない。
我々は帝国に祝福されている。
我々の声は
音楽でふるえ
海の向こうの子羊に呼びかける。
我々とともに大陸に襲いかかることを。
我々は牧夫など気にかけない
「逃げだすな」
と彼らは警告するが
我々はそうせざるを得ない。
我々が牧夫を信頼することはもう決してないだろう。
そのとき黒い子羊が問う
「なぜ我々はガダラ人の子孫として振る舞わないのか」と。
怒った一群が声を上げる
「我々は手を汚さずここに来た
無心でここをでていくだろう・・・
我々は逃げだすが逃げだすことで終わりではない。
決して生まれてきそうもない子羊のために戦っているのだ」

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