もともと全六冊の本なので、河出文庫のものは抄録だろう。小島政二郎が食べ物についてエッセイを書く多くの作家たちと異なるのは、酒を飲まないことにある。従って甘いものの話が多い。また内田百閒に通じるような変なところがあって、十年以上にわたり(年数ははっきりおぼえていないが)、家にいる限り、昼食はスパゲッティに決まっていた。立川談志が「先生」と呼ぶ数少ない人物たちの一人であったこともぜひ付け加えておきたい。
1.東京の菓子――越後屋。空也の最中や生菓子は食べたことがあるが、そのほかは見当もつかない。現存するか確かめようとするほどの食への執着もないのだな、これが。
食べ物は、東京より上方の方がうまい。菓子も然り。しかし、大地震前までは――大負けに負けて戦争前までは、東京にもうまい菓子屋があった。例えば、本所一つ目の越後屋、日本橋の三橋堂、上野山下の空也、お成街道のうさぎや。
越後屋については、こんな話がある。徳田秋声の親戚に岡栄一郎という金沢生まれの戯曲家志望の青年がいた。帝大出で、芥川、菊地、久米などと友達だった。この岡が、自慢で金沢の森八の菓子を土産に持って漱石先生を訪れた。
その後、漱石先生の批評が聞きたくってまた尋ねたところが、この間の菓子はうまかったともまずかったとも言わない。で、岡が恐る/\伺いを立てたところ、大して称美したらしくもない口振りだった。岡が、では東京ではどこの菓子がうまいのかと聞いたところ、漱石は、「越後屋だろうね」
と言ったというのだ。私など、まだ小説を一つか二つしか書いていなかった頃の話である。
2.横光利一伝授の雑煮。何となくうまそうな感じはするが、後の処理が面倒なので、揚げ物は自宅では一切しないのだな、これが。
横光伝授の食べ物のうち、未だにわが家で愛用している一つに、正月の横光雑煮がある。それは、まずお餅をそのままゴマの油でちょいと揚げて、それを雑煮汁の中で少し煮て食べるのだが、これはしつッこくって、酒を嗜まない私には、お雑煮中第一の美味である。
3.芥川龍之介と砕氷機。砕氷機は氷を砕く機械なのだから、ちっともおかしいことはないと私も思う。
いつかなど、本郷の切通しを歩いていると、「砕氷機」という大きな看板が目に付いた。すると、芥川さんが、
「砕氷機というのはおかしい」
と言い出した。
「おかしいことはありませんよ」
と私が言うと、
「おかしいさ。だって君、氷を砕いたら、何になるんだ?」
「大きな氷を小さく砕くんだから、ちっともおかしいことはない」
「氷を砕いたって氷じゃないか。氷以外のものになるのでなければ、おかしいよ」
そんなことを言い合って、いつまでも歩いていた。
4.菊正宗。「純粋の菊正」というのは混ぜものをしていないということか。
さて、菊正宗だが、酒飲みは異口同音に菊正がいゝと言う。私の知っているだけでも、鈴木三重吉、水上滝太郎、室生犀星などは菊正党で、戦争前まで、銀座の鉢巻岡田、日本橋の灘屋の二軒は、純粋の菊正を飲ませると言うので、菊正党に愛されていた。外に、読売新聞の隣に、菊正のビルディングがあって、そこの何階かで菊正を飲ませた。室尾犀星はそこの定連で、そこからの眺めを書き出しにした小説がある。
5.原稿を書く速さ遅さ。忘れる速度に手が追いつかないときはあるが、発想に手が追いつかないなどということは経験したこともないので一晩に六十枚など夢のような話だ。
芥川さんが一ト晩苦吟してやっと二枚、鈴木三重吉の「桑の実」の中に、梅雨になる頃の描写があるが、ホンの五六行の文章を書くのに、書いては消し、書いては消し、同じところの書きよごしを私は二十三枚持っている。
久保田万太郎は、毎日/\「中央公論」の記者が通って、一日に一枚ずつ渡されて帰った。〆切の日までに十八枚、しかも未完だったという記録が残っている。谷崎さんも、一日に二枚組だと聞いている。
早い方で、佐藤春夫、室生犀星、三上於菟吉。佐藤さんが「売笑婦マリ」を書いた時には、一ト晩に六十枚書いたそうだ。これは当時「改造」の記者で、佐藤さんのところへ居催促に行っていた和木清三郎から直接聞いた話だから間違いはあるまい。
6.典山の芸。講談は興味があるものの、あまり販売もされていないし、NHKでときどき中継されるのを聞くとげんなりする。
この人の芸には何か威厳があって、私など、どうしてもあぐらをかいては聞けなかった。こんなうまい人は到底二度と現れないだろう。人には癖があるもので、この人が高座へ上がる、或いは一服して後席を話し始める時、
「昨夜申し上げました通り、鼠小僧が――」
という風に話し出す時には、どういうものか、出来がよくなかった。何にもそんなことを言わずに、
「稲葉小僧新助が――」
と、ぶッつけに本題にはいる時には、いつの時でも出来がよかった。だから、私などは、キセルをしまって軽くお辞儀をして、彼が第一の口を利くところに千金の期待を賭けていたものだった。いつだったか、真夏の晩、神田の小柳亭で典山の独演会があって、「伊達騒動」を立て続けに二席読んで聞かせてくれた時の面白さは、彼の一生の傑作の一つだったろう。
7.泉鏡花が推奨する講釈師吉瓶。上に同じ。
神田伯龍という講釈師と私が親交のあるのを泉さんは誰かから聞いて知っていて、伯龍のことを話題にしてくれたことがあった。泉さんは伯龍の「薮原検校」を一席聞かれたことがあるらしく、私の耳を教育して下さるおつもりだったのだろうと思うが、ニヤ/\笑う笑い方で、ある程度伯龍を認めてはいるが、未だしという御自分の感想を上手に私に伝えながら、
「あなたなどは聞いておいででないでしょうか、吉瓶という講釈師――」
残念ながら、私の頃は死んでいなかった。芥川さんは一度だけ聞いたと言っていられた。紺屋の職人上がりで、どうかすると、印半纏のまゝ高座に上がったこともあったという語り草を残している。印半纏というザッカケない姿で、シト/\とした口調で静御前吉野落ちなどを語らせると、水も滴るような色気があって、得も言えなかったそうだ。あのめったに人をよく言わなかった典山さえ、吉瓶のことというと、読み口の真似までして推奨していたところを見ると、余程の名人だったに違いない。
8.修善寺の旅館新井と虚子、斎藤茂吉、小津安二郎『お茶漬けの味』。修善寺には行ったことがない。『お茶漬けの味』は見たが、このシーンは思い出せない。そもそも小津作品はどれもこれもごちゃごちゃになって、どの場面がどの映画だったのかはっきりしない。
新井は虚子の定宿でもあった。長編小説「お丁と」が「国民新聞」に連載される時、虚子は私たちのように毎日一回ずつ書かずに、全部この宿屋で書き上げたと聞いた。大正二三年ごろの話である。
虚子の部屋は、――大体この新井という宿の大ざッぱな略図を書くと、一番奥に大きな池があって、その池の右側に上下部屋がある。その池の水が一度そこで深く淀んで、それから細い流れになって流れ下って行く。その上に長い屋根のある廊下があり、流れの左右に幾つか部屋がある。池にも、流れにも、大きな緋鯉が遊弋していた。茂吉五十歳の「春日五種」の中にある
しげみよりわきかへりくる山水の浪に入りゆきしあかき鯉くろき鯉
は、おそらくこの宿での詠であろう。この水の上に屋を重ねている新井の眺めの美しさを心行くまで描写したのは、小津安二郎の「お茶漬けの味」に及ぶものはあるまい。あの美しい女友達ばかり三四人で酒盛りをする部屋、女主人公が或る思いを込めて見おろす池の鯉、おそらくあれは虚子がその昔「お丁と」を書いた部屋あたりだろうと思う。
9.東京の鰻屋。ウナギは大好きで、竹葉亭には何度も行ったが、銀座に出ることもなくなり、スーパーで買うようなものでもないと思っているので、もう何年も食べていない。
ウナギの好きな人は相当多い。ウナギが好きだという人に逢うと、私は口癖のように、
「どこのウナギがお好きですか」
そう言って聞く。すると、十人が十人、竹葉だとか、飯倉の野田岩だとか言う。私は五十人ぐらいの人に同じ質問をして、
「小満津が一番――」
と答えた人にはたった一人にしかぶつからなかった。其の人は、工学博士の川上高帆さんである。
戦争前までは、小満津の外にも、麻布芋洗坂の大和田、麹町三丁目の丹波屋、飯倉の野田岩の三件がズバ抜けてうまかった。やや下って、日本橋通三丁目の和田安、小舟町の高島屋、小網町の喜代川、神田お台所町の神田川、深川の宮川、霊岸島の大黒家、千住の尾花家、駒形の前川、麹町の秋本、まあ、この辺だったろう。安くってうまいのが千住の松のウナギ。
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