2015年11月30日月曜日

『ミッション』、ブレヒト、母

ローランド・ジョフィ『ミッション』(1986年)を見る。予備知識をまったく持たないで見たので、冒頭の流れから、デ・ニーロが宣教師なのか(ジェズイット派だから、十八世紀くらいの話なのだろうと見当をつけ)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『グッドフェローズ』とマフィアものを続けてみていたので、なんかあまり似合わないな、と思いながら見ていたら、奴隷商人として颯爽と登場し、おおこれはヘルツォークの『コブラ・ヴェルデ』のような映画なのかと期待をしたら、ヘルツォークのような妙な監督がそういるはずもなく、愛人を寝取られたデ・ニーロが実の弟を殺してしまい、罪の意識から宣教使に転身し、南米の奥地に住む住人たちをポルトガルの侵略から守ろうとする映画に転身してしまった。弟を殺してしまったことに罪の意識をおぼえるのを疑うものではないが、それをきっかけに回心する、というのはちょっと邪なものを感じる。実際そうした人物がいたときに、というより映画として邪というか、ジャングルのなかに教会を建てることもまた帝国主義に荷担しているという批判がなさ過ぎる。

ブレヒトの『母』を久しぶりに再読。ゴーリキーの作品がもとになっているが、ブレヒトにとっては母というのは特異な位置を占めている。もともと政治には無関心で、息子が面倒なことに関わるのをいやがっており、息子の政治活動に特に影響を受けたようでもないのだが、ほんの少し背中を押されたほどのきっかけによって、みるみるラディカルになっていく姿は、愛情によってすべてを包みこみ、すべてを消化してしまう母性の力とは対照的に、肺腑をどこまでも切り分けて、なんのために働いているのか突き詰めないではいられないような批判的な力において際だっている。

2015年11月29日日曜日

『超高速!参勤交代』と北野武の企画

本木克英『超高速!参勤交代』(2014年)をみる。冒頭の殿様と家来たちや農民たちの会話を聞くだけで、うんざりしてしまうのはもうすでに私のセンスが古いのかもしれない。時代劇を見る楽しみの一つは、現在の我々とはまったく異なる生活様式を感じることにあるのだが、もはやそんなことを気にするものはいないのだろうし、家来が、会社の上司と部下ではあるまいし、主人に向かってあんなにざっかけない言葉をかけるのは、あり得ないはなしだと思うが、サイトなどで評価が高いのを見ると、やはり気にする方がどうかしているのかとも思うが、『るろうに剣心』ほどでたらめだと却って気にならないのだから、もっとも『るろうに剣心』はアクションが中心だし、時代も明治に変わり、大きく価値観が様々なところで変わった時期だから、ルーズでも気にならないのかもしれない。話は、藩の金山を狙う老中が、参勤交代で地元に帰ったばかりの藩に四日で再び江戸にのぼることを命じ、殿様を中心に藩のものが一体となって武士の意地を見せるというものだ。

この話で思い出すのが、相当むかし、ビートたけしが、『ソナチネ』以後くらいのことだろうか、テレビとかラジオで、次回作の企画として、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたという知らせを聞いた、豊臣秀吉のいわゆる「中国大返し」、走りながらそれこそ武器も防具も脱ぎ捨てていく疾走感をさながら映画のように面白く語っていたことを思い出して、あの企画はどうなったのかと、妙な記憶がだ繰り出されて、よほどそちらの方が気が引かれる。

2015年11月28日土曜日

『キッズ・リターン』と群像劇

北野武の『キッズ・リターン』(1996年)を見る。高校の仲のよい同級生の二人が、といっても、ダブっているのか、金子賢の方が先輩らしい、一方がヤクザの世界に、一報がボクシングの世界に入り、それぞれ頭角をあらわすのだが、ヤクザに入った金子賢の方は兄貴分に裏切られ、というか殺された親分(石橋凌)と兄貴分(寺島薦)との微妙な関係をよく理解しておらず、うまく立ち回るだけの悪賢さももっていなかったのだが、ボクシングで力を付けた安藤政信の方は、いかにも小悪魔的なモロ師岡演じる先輩に、アルコール、食事などを勧められ、節制できずに、試合に敗れてしまうのだが、もともとこの人物は、『3-4X10月』の柳ユーレイのように、自分の確固たる意志があるのかどうかわからないような存在なのだ。今回見直して気づいたのは、それまでの映画が破滅的なものばかりだったので、はじめて北野武が未来に開かれた映画をつくったというようなことは公開当時も言われたと思うが、『アウトレイジ』で試みたように、あるいはそれ以上にうまく群像劇に仕上がっていることだった。喫茶店の娘を思って通い続ける同級生とか、関係的には二人ほど濃くはない不良仲間たちや、『アウトレイジ』だとあり方はそれぞれだがいずれも死へ向かっていることだけは変わらないようなところがあったが、この映画では様々な未来が示されており、しかもそのどれもがなんの結果ももたらしていないという意味で、まさしく苦しくもあり、恐怖も感じれば歓喜が待ち受けているかもしれない未来というものの手触りを示している。


2015年11月27日金曜日

失われたたしなみ

『トランスポータ』の2と3を見る。2は1と同じくルイ・レテリエ監督で、やや大味になっており、子供とかその母親との淡い愛情とか、子供にウィルスが注射され、その解毒剤が必要だとか、余計で、話を停滞させるような要素が多い。もっとも、それも監督が変わった3に較べれば随分とましな方で、3はとにかくアクション場面のカット割りが多くていらいらする。ダンスが始まるや、演出を止め、ほとんどカメラが固定になるアステア=ロジャースの映画を見て、ちょっとはたしなみというものを知りなさい、と思うが、ジェイソン・ステイサムがそんな無演出に絶えられるだけのアクション俳優かといわれると、というかジャッキー・チェン以後にそんな俳優がいるのかと言われると自信がなくなるのだが。

2015年11月26日木曜日

原節子と加藤治子

原節子が亡くなった。95歳だというから大往生だといっていいだろう。とにかく立派な顔の女優さんという印象で、嫌いではなかったが、小津安二郎の映画はあまり得意ではなく、黒澤映画の文芸ものもなあ、という感じなので、映画として大好きなものはない。「永遠の処女」などといわれているが、およそ性的なもの、母性的なものを感じたことが一切ない。「処女」というのは通常性的なものに触れる寸前の感受性の微妙な震えのようなものを感じさせるものだから、「処女」性を感じたこともまったくない。小津映画などで、子供を相手にするときに、柳田国男の「妹の力」を借りて林達夫が提示した「姉の力」を感じないではなかった。とにかく、五十年以上も鎌倉に住んでいることはわかっていながら、一切マスコミの前に姿をあらわすことがなかったのだから、よほど自らを律する力が強かったのだろう。それがあの立派な顔にあらわれていて、気軽に好きとはいえない強靱さをもっているが、嫌いではない。

先頃亡くなって、原節子よりもより多く眼にする機会があったのが加藤治子で、もちろん会ったことも直接眼にしたこともないが好きだった(なにしろ原節子は私が生まれる前に引退していたのだからしょうがない)。テレビのインタビューで(はっきりしないが、「徹子の部屋」だったか)、一人暮らしの近況を聞かれて、「一人で生きて、一人で死んでいくの」と答えていたのだが、その答え方が、女優的な自意識がまったく感じられず、事実をありのままに述べただけ、という姿勢で、ますます好きになった。ただ、残念なのは主戦場である、舞台での演技を結局見られなかったことで、テレビはともかく、映画で印象に残っているものもない。フィルモグラフィーを見ると、私の好きな映画では鈴木清順の『カポネ大いに泣く』に出演しているのだが、これまた残念なことに印象に残っていない。

2015年11月25日水曜日

追憶と記憶の襞をつなげても映りだすのはモンタージュのない壁

マーティン・スコセッシの『グッドフェローズ』(1990年)を見る。どうもおかしな話なのだが、『グッドフェローズ』を去年だったか、おととしだったか、見直したいと思って見たところ、おぼえていた感じよりも平坦で、狂騒的なリズムがなく、ちょっとがっかりしたのだが、いま思い返してみると、その映画にはデ・ニーロが出演していなかったような気がする。私はよくも悪くも作家主義の影響を受けているので、監督を間違えるわけはないような気がする。しかしレイ・リオッタは出ていたような気がする。なによりストーリーは今回見ておぼえていたとおりのものだった。しかしまた、あれほど強烈な存在感を出しているジョー・ペシの印象もあまりなかったような気がする。

というのも、今回見直した映画の印象はまさに初めて見たときの印象そのもので、面白かっただけに、その去年だかおとどしだかに見た映画がなんだったのか、割り切れぬ思いが残る。



2015年11月24日火曜日

『サブウェイ』はどんな内容の映画であったかすでに不確かだが・・・

ルイ・レテリエ『トランスポーター』(2002年)を見る。リュック・ベッソンは『サブウェイ』(1984年)や『フィフス・エレメント』(1997年)の監督としての意識の方が大きく、特に『サブウェイ』は当時好きだったイザベル・アジャーニが出ていたし、かなり気に入っていたと思うのだが、何しろ当時一回見ただけなので、あまり自分の評価基準に自信が持てない。ただ次にみた『グラン・ブルー』にがっかりしたことはおぼえているので、少なくとも嫌いなジャンルの映画ではなかったと思われる。

そんなわけで、精力的に製作を始めたリュック・ベッソンについては、特に関心を持つこともなく、アクション映画といえば、アメリカか香港に限ると思っていた。そんなわけで、この映画もアマゾン・プライムで無料で見られるので、たまたま見たに過ぎないのだが、コリー・ユンの力も大きいのだろうが、ジャッキー・チェン的なアクションの精神がしっかりと継承されている。周囲にあるものをとりあえず小道具として使う、というのはアメリカの大味はアクションには見られないもので、アクションのたびに何らかの工夫が凝らされているのは感心した。特に油だらけのアクションから、しっかりした安定を得るくだりなどは秀逸で、ジェイソン・ステイサムと警部とのバディ感もアメリカにはないもので、楽しかった。



2015年11月23日月曜日

北野武、ヤクザ、刑事

北野武の『ソナチネ』(1993年)を見る。6,7度目くらい。北野武とヤクザの親和性が明らかになった作品だといえるだろう。『3ー4X10月』でも鮮烈なヤクザ役で登場していたが、やはりこの映画の主人公は柳ユーレイで、魅力的な脇役でしかなかった。ヤクザと同じく刑事役も印象的だが、ヤクザも刑事も大して変わらないことは、深作欣二の『県警対組織暴力』を見ればわかる。

だが、北野武的な死への願望を満足させるためには、刑事だと何らかの要素がつけ加えられねばならない。ヤクザなら、少なくとも映画的にいって、任侠もの以来常に死への回路が開かれていて、そこにいたる過程こそ実録ものがで大きく変わったとはいえ、基本的にヤクザの行為というのは死を前提にしたものだった(少なくとも映画の世界では)。そうした意味では、生産とは自ら関わることのない武士の末裔といえるかもしれない。

ところが、刑事となると役人であり、組織の一員である以上、破滅願望だけでは事が運ばない。体よく止めさせられるのが落ちだ。また、死への願望が自殺願望とも異なることがやっかいである。自殺というのは任意に映画を終わらせてしまうという意味で、非映画的な行為であるからだ(自殺志望者が街中をさまよい歩くだけの映画、ドリュ・ラ・ロシェルが原作のルイ・マルの唯一秀作だと思う『鬼火』のような映画もあるが)。したがって、『その男、凶暴につき』では妹との、『HANAーBI』では妻との愛情が死へと方向付ける要素となっている。

死への願望とは最短距離で点と点をつなごうとする映画的な意志でもある。浜辺で遊んでいるだけの場面にも過不足がないのが(『菊次郎の夏』ではちょっと長く感じる)素晴らしい。

2015年11月22日日曜日

屠殺場とブレヒト

ブレヒトの『屠殺場の聖なるヨハンナ』を読む。ヨハンナはキリスト教系の組織の一員として、貧しいものや労働者を助けようと活動するが、ダンテの地獄巡りのように、労働者や家畜を飼育するもの、仲買人、企業のボスなどのところなどをまわるが、その善意は疑えないものの、言い換えれば善意しかないので、次々に裏切られ、絶望のうちに命を落す。残った同志たちは、既に資本家と協力する体制ができており、死んだヨハンナを聖人に祭り上げることによって、いわば彼女を骨までしゃぶり尽くす。それが皮肉でも風刺でもないのは、現実の姿を描いているからである。それにしても、いい題名だな、とはかねがね思っていた。

2015年11月21日土曜日

『デス・ルーム』と日本発信

『デス・ルーム』(2006年)を見る。数人の男女がある部屋に閉じ込められる、というとすっかり陳腐なものになってしまったシチュエーション・スリラーかと思うが、もっと伝統的な『デカメロン』や百物語の系譜をひいたオムニバス映画である。一応ホラーとエロが共通している。
ケン・ラッセルのものは(『クライム・オブ・パッション』とか好きだったなあ、見返すのがちょっと怖いけど)、豊胸手術を受けた女性の胸が独自の生命をもつ、いわば身体なき器官もの。
ショーン・S・カニンガムのは日本が舞台で、地獄に引き込まれた奥さんを旦那が引き戻しに行く。杉本彩がなぜかちょい役で女性警官として出演している。
モンテ・ヘルマンのは、若いころに親しく映画に共通の夢を持っていた友人が恋人を残して去った真相を知る。
ジョン・ゲイターのは、寄生虫とともに受胎し、一体化して生まれた女性の話。

三人の制作者のうち細谷佳史、吉川優子と二人が日本人で、この監督の顔ぶれはなにか妙に日本発信が納得されるものだ。おそらく、二人とも年代的にも私と近いのではないかと思う。内容は、まあ、飛び抜けて印象に残るようなものはないが、別につまらないわけではない。

2015年11月20日金曜日

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』とイーストウッド

セルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)を見る。確か、公開時かそのちょっと後に名画座で見て、ずっと再見したいと思っていたのがようやく見られた。例によって記憶があやふやで、アヘンを吸って、ベッドに横たわったデ・ニーロからはじまり、少年時代にさかのぼって、再びベッドの上に行きついて終わったと思っていたが、全然違っていて、少年時代はほぼ時間順に進むが、その後は初老時と青年期を行ったり来たりする。一応マフィア映画といえるだろうが(『ゴッドファーザー』よりも前の時代が舞台になっている)、抗争やのし上がっていく過程はほとんど描かれることはない。少年期からずっと行動を共にしていた者の友情と呵責の念がオペラのように演じられていく。『続夕日のガンマン』ではオルゴール付きの懐中時計が、最後の決闘で、止まりそうで止まらない緊張感の持続を見事につくりだしていたが、この映画の冒頭の電話の音も、いまの監督だったらとても絶えられないような持続感で、うっとりするような効果を上げている。

クリント・イーストウッドがなにかのインタビューで、『アメリカ』の話は最初に自分のところにきたといっていた。スケジュールが合わずに、結局デ・ニーロになったのだが(もちろん、デ・ニーロでもなんの問題もないが)、イーストウッドが演じていたらどんな映画になったのか、想像するとわくわくする。イーストウッドは妙な役者で、ガンマン、刑事を除くと、自分を律する力が強いのか、ホワイト・トラッシュまではいかないが、どちらかといえば下層に属する人物ばかり演じてきた。もちろん、映画監督役、スパイ役といった例外はあるものの、中流の普通の家庭人やWASPなどを演じることはなかった。マフィアも演じたことはないはずで、ある種のパラレル映画として、想像してみるとひどく楽しい。



2015年11月19日木曜日

稲垣足穂とラブレー

稲垣足穂がラブレーのことを、「いかにも坊主上りの医者らしい、悪達者なポルノグラフィーの作者で、ほとんど卑猥文学である。」(「卑猥文学」にスカトロジーとルビが振ってある)とこき下ろしているのを読んで、ちょっと意外な感じもしたが、よく考えると至極もっともでもある。ラブレーには「君寵、師弟、腕股を裂く盟約」といった先鋭化した「優美さ」がない。足穂はあれほどA感覚やうんこのことを書きながら、排泄物そのものには関心をいだかなかった。いわばそれを上回ることが要求されるがゆえに、優美さも先鋭化されざるを得なかったのだ。よく言えばカーニヴァル的な、悪くいえば開ききった肛門などは関心の他のものでしかなかった。



2015年11月18日水曜日

稲垣足穂とA感覚

山口義高の『アルカナ』(2013年)を見る。大量殺人の現場に少女がいて、世界には分身があらわれるという現象が続々と起っており、警察にはお宮係という部署があり、本体を殺して自分たちの世界を造りあげようとしている分身たちがいるようであり、主人公の刑事はその少女にすぐに過剰な思い入れをするようであり、あまりにいろいろなことが詰め込まれすぎている。ここ数十年の日本映画の悪弊だが、主人公がやけにヒロイックになるのも馬鹿馬鹿しい。生を賭けるというのはただでさえ難しい演技、役者の生身がむき出しになることなのだから、若い俳優にそんなことを要求すること自体が間違っている。

同じように最初から最後までお化けのたぐいが出てくるのが稲垣足穂の『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』(名字はサンモトと読む)だが、大傑作。いってしまえばキングの『スタンド・バイ・ミー』のような話ではあるのだが、通過儀礼ととってはまったく面白くない。一月にわたる物語でありながら、それはある種の双曲線が互いに近づいてくる持続の時間であるに過ぎず、その二つの曲線がもっとも近づいたときに、少年が最後に発する一言が特権的な瞬間となっている。

稲垣足穂のA感覚に関する文章は、読むと納得するのだが、いまでも不思議なのはどの程度実践的なものなのかということである。アナルの感覚は、無底で、原初的で、根源的なものであり、宇宙へとひらかれている。ペニスやヴァギナはアナルの派生物でしかなく、ちっとも本質的なものを含まない。と、理屈はわかるのだが・・・こうした疑問は足穂文学の愛好者にも共通したものであるらしく、三島由紀夫が澁澤龍彦と対談したときにも、そうした疑問が話題に上がっていたし、野坂昭如が足穂と対談したときにも、しつこく実践面はどうなっているのか聞いていたように記憶している。実際、性的嗜好については驚くほど平凡な自分には、エネマグラでも使って開発にでも努めれば、新しい世界が広がるのかどうかいつまでも疑問なままなのだ。


2015年11月17日火曜日

埴谷雄高と存在

埴谷雄高の『虚空』『闇のなかの黒い馬』を読む。寺田透が「僕にはどうも埴谷さんのいう『存在』がよく分からない。」といったのに対し、澁澤龍彦が、埴谷雄高のこういった言葉というのは詩的イメージとして捉えるべきで、厳密な概念規定をしていったら、その作品は空気を抜かれたようにぺちゃんこになってしまうだろう、といった意味のことをいっていたが、私もまったくそう思う。

たとえば、『闇のなかの黒い馬』のなかの一篇、「神の白い顔」には次のような一節がある。

眼を開ければつねに眼前にあるところの日頃見慣れたさまざまな存在のかたちではなく、まぎれもない存在そのものを、いわば誰からも忘れられた無気味な薄暗い無人の小部屋でも覗くように、たとえ一瞬の数千分の一の僅かな時間にせよ、背後から窺い眺めたいとひそかに思いつづけていたのであった。

いかにも埴谷雄高風の文章だが、西欧の形而上学者にとって存在はあくまで存在であり、存在と無のことは考えたとしても、存在の背後に回るなど思いもよらないことだろう。そして概念規定をしたとしても、存在の背後にはやはり存在があるだけなのだ。

戦後文学の代表者のように考えられているが、『死霊』や短編を読んでいると、埴谷雄高は存在や闇をテーマとしたマイナー・ポエットと考えるといちばんふさわしい。もちろん、マイナー・ポエットといっても貶下的な意味はなく、ハックスリーがかつて詩人のダウスンについていったように、守備範囲こそ狭いが、純度は高いという意味である。

また、金魚、蛇、尺取り虫といったような小動物に対する言及も特徴的である。ジュネのように退化した存在と同化することによって、忘我的な陶酔を得るというのではなく、といってカフカのようにこの上なく無意味なわけでもなく、小動物の意識に夢想が広がっていくのがまた埴谷雄行的で、その存在と密着した意識のあり方を通して、幾度でも存在という主題を経巡る。



2015年11月16日月曜日

北野武と涙

北野武『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)を見る。何度見ても最後で泣いてしまう。叙情的なものは嫌いではないが、センチメンタルなものは大嫌いで(もっとも、もっとも好きな音楽家のひとりであるセロニアス・モンクのレパートリーのなかで、いちばん好きなのは本人の作曲ではないI'm getting sentimental over youなのだが)、北野武というと暴力描写を連想してしまうが、叙情性が背中合せに隣り合っていることを忘れてはいけないと思う。

ところで、泣いてしまった映画を一生懸命思いだそうとしてみたのだが、一本も思いだせなかった。もっとも、蓮実重彦やライムスターの宇太丸のように、映画的教養はないから、映画的無意識が呼応してさめざめと泣くようなことはないのだが、それにしても、泣いたことがないはずはない。『攻殻機動隊』のテレビ・シリーズで、タチコマが『僕らはみんな生きている』を合唱しながら、自らを犠牲にするところではいつも泣いてしまうが、そういえば、ジブリでいちばん好きな『千と千尋の神隠し』ではほろりときたが、泣くまでいったかどうか。まったく思いだせないところを見ると、割とつまらぬ映画で泣いているのかもしれないが、自慢にもならないが号泣した記憶はまったくない。



2015年11月15日日曜日

『セレブと種』とメッセージ

スパイク・リー『セレブの種』(2004年)を見る。主人公のジャックは、バイオ・テクノロジーの企業で、エイズの新薬を担当しているが、新薬の開発に携わり、親しい間柄でもあった博士の自殺によって、不正が行われていることを知り、それを告発したために仕事を失うことになる。収入源をなくした彼は、元恋人であり、結婚まで考えていた彼女(彼女はバイセクシャルであり、女性と浮気しているところを発見して別れた)のすすめにより、レスビアン相手に精子を提供する仕事をするようになる。ただ、精子バンクと違うのは、実際に彼女たちとベットをともにし、セックスして受胎させることにあった。もちろんそうなると、好きなときに好みのタイプだけを相手にするわけにはいかないわけで・・・まあ、一種の艶笑コメディーで、最後に申し訳のように、ウォーターゲート事件が関係してくるのだが、うまく機能しているかというと、そうでもない。やはり、スパイク・リーはメッセージを声高に主張することには向いていないように思うのだが。

2015年11月14日土曜日

アメリカ版『ザ・キリング』第3シリーズと女性刑事

アメリカ版『ザ・キリング』の第3シリーズを見る。前にも描いたが、アメリカ版は、デンマークのドラマのリメークなのだが、デンマークの元の方は1シーズンごとに一応完結していたのだが、アメリカ版ではデンマークで第1シーズンにあたる内容が2シーズンにまで引き延ばされている。デンマークのものを見てから1年はたっていないと思うのだが、内容をほとんど忘れてしまっていて2.3シーズンがそれぞれどんな内容だか思い出せない。ただアメリカ版では早くも1シーズンの半ばから事件と政治との関係がなくなってしまうが、デンマークのではシリーズが深まるにつれて政治ととの関わりが深まっていく。デンマークの『ザ・キリング』の制作者は、女性の政治家がちょっとしたきっかけから首相となり、一時代を築く、という『ボルゲン』という政治ドラマもつくっているので(デンマーク版『ホワイト・ハウス』といえないこともないが、ずっとダークで渋い)、政治に対する関心も高いのだろう。アメリカで政治が絡むと陰謀と手段を選ばない非情さのようなことがある種ルーチンになっていて、犯罪から社会から政治まですべてひっくるめた『WIRE』のような傑作もあるが、むしろ陳腐になることを恐れたのかもしれない。

しかし、デンマーク版の女刑事を演じたソフィー・グローベールにしろ、アメリカ版のミレイユ・イーノスにしろ、知性があってタフで、魅力的な演者がちゃんとそろっているなあ。日本でリメイクするとしたら、と思うと、選ばれるだろう女優の面々が浮かんできて、げっそりする。 



2015年11月13日金曜日

『3-4X10月』と小沼勝

北野武の『3-4X10月』(1990年)を見る。草野球のチームをつくっているような街の兄ちゃんの一人(柳ユーレイ、この映画では小野昌彦という名前でクレジットされる)が、やくざとちょっとしたいさかいを起こしてしまい、以前その組におり、いまはスナックのマスターをしている男(ガタルカナル・タカ、この映画では本名の井口薫仁の名でクレジットされている)が取りなしてくれようとするのだが、逆に袋叩きにあう。街の兄ちゃんとその仲間の一人(ダンカン、飯塚実という本名でクレジットされている)は拳銃を手に入れようと沖縄に渡るが、そこには組の厄介者として屑扱いされているビートたけしと渡嘉敷勝男の兄弟分がいて・・・柳ユーレイが、ぼーっとしているように見えるが、実は短気でなにをするかわからない人物を好演していて、また、途中で姿を消してしまうがガダルカナル・タカがなんともいえぬ色気があり、沖縄ではデビューしたての豊川悦司が組長を演じ、砂浜での野球は、『ソナチネ』での無為で幸福な時間を準備しているのだから、冒頭と結末をつなぎ合わせて夢落ちと解釈してしまうのはかえってつまらぬことで、便所に屈んであれだけ鮮明なことを見られるのなら、見者だとする方がよほど正確だろう。

朝テレビを見ていたら、柄本佑が出ていて、小沼勝がロマンポルノ以外の映画を撮っていたことをはじめて知った。機会があれば見てみたいが、近くにレンタル店はなし、そもそもレンタルに出ているかどうか。『NAGISA』だったろうか、アマゾンの中古でやけに高い値段が付いているが。

2015年11月12日木曜日

『クロッカーズ』と和泉式部

スパイク・リー『クロッカーズ』(1995年)を見る。クロッカーはちょろまかす者くらいの意味だろうか。麻薬の売人が殺されるが、自首してきたのは、誰に聞いても評判のいい人物だった。ハーヴェイ・カイテル演じる刑事は疑問をいだき・・・内容はシリアスだが、冒頭と最後に流れるメロウな音楽といい、決定的な場面のスパイク・リー的な演出といい、寓話的な雰囲気であり、よくも悪くもむき出しなリアルな感じはしない。

「物思へば沢の蛍も我身よりあくがれ出づる玉かとぞみる」は和泉式部の和歌で、ろくに短歌など知らない私でさえ知っている(空では言えないけれど)。しかし、「奥山にたぎりて落つる瀧つ瀬の玉ちるばかり物な思ひそ」というきふねの明神の返しがあったという物語になっていたことは知らなかった。『古今著門集』などに出ているらしい。
思いついたので一首、
親王のおわさぬ御代で吐く玉は朱色に染まる海岸線に満ち
親王は高丘親王のこと。澁澤龍彦の『高丘親王航海記』から取りなしたわけです。



2015年11月11日水曜日

映画を見た回数とカカオ

北野武『その男、凶暴につき』(1989年)を見る。8度目か9度目だと思うのだが、はっきりしない。蓮実重彦がよく、もう200回以上は見た~、とか書いていたように思うが、修辞的な文なのか、実際に数えているのかよくわからない。自分のことに関しては、ジャッキー・チェンの初期の映画だとか『ターミネーター』とか、などは、テレビでごちゃごちゃと何回も見ているので、はっきりしない。どちらかといえば、見ていない映画の方がはっきりしていて、スタローンの『ロッキー』は一本も見ていない。ボクシングは好きな方なのに、そういえば『ランボー』も最新のやつは見たがそれ以前のものは見ていないので、スタローンを、別に嫌いではないので、無意識のうちに敬遠していたのかもしれない。自覚的に最も多く見た映画は、鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』、フリードキンの『エクソシスト』、ロメロの『ゾンビ』、ダリオ・アルジェント『サスペリア』がそれでも2,30回で、50回は超えないと思う。そういえば、山城新伍はジョン・フォードの『荒野の決闘』を毎日見ていたと言っていたと思うから、そう考えると、数十回など簡単なことだろう。

数年前に買ったカカオが出てきて、粋がってカカオだけで食べられるのじゃないかと思って買ったのだが、甘いココアかミルクでもあればともかく、さすがに食べて食べられないことはないがそれだけではおやつにもならず、放って置いたのが出てきたので、でてきたといっても冷蔵庫からで、そこにあることに久しぶりに気づいたに過ぎないのだが、安い板チョコを買ってきて、湯煎して7:3位に混ぜ合わせるとまあおいしいが、湯煎に使ったボウルは食器洗剤でもなかなか落ちず、さすがにチョコというのは油っこいもので、いかにもカロリーが高そうだ。

2015年11月10日火曜日

スパイク・リーと千原ジュニア

スパイク・リーの『インサイド・マン』(2006年)を見る。2度目。内容はまったく違うし、政治的主張もおそらく全然異なるのだろうが、スパイク・リーのスタイルはウディ・アレンを思い起こさせる。ほとんど、あるコミュニティから出ないの映画が多いことも共通しているし、これは私に限ってのことなのかもしれないが、どれもある程度は面白いのだが、興奮するようなできの映画はどちらの監督からも見ていない。この映画も、デンゼル・ワシントンの刑事と白昼から立てこもる銀行強盗との頭脳戦で、ついでにジョディ・フォスターまで出ているのだから、もうちょっとわくわくさせてくれてもよさそうなものだが、基本的に、これもアレンと同様、あまり活劇の人ではないのだな。

いかにもいかがわしい四、五人の者たちが、千原ジュニアをボーカルにして下北沢で、ジャズ・クラブをするのだと相談している夢を見る。抜けたいのだがなぜか言い出せない。せめて他にもボーカルを増やすことを提案するが、すぐに却下される。せめて昼間は喫茶店として開店しようというのだが、彼らはジュニアのボーカルだけで勝負するのだといって聞かない。

2015年11月9日月曜日

『クライモリデッド・パーティー』と相模川

デクラン・オブライエン之『クライモリ デッド・パーティ』(2012年)を見る。シリーズ5作目。五作目にいたって、とうとう一作目のいいところがすべてなくなり、セックスをする馬鹿が死ぬというパターンが繰り返され、頭を使って怪物たちと張りあおうとするものはいなくなり、ただくだらないスラッシャー映画となった。

『学海日録』によれば、「馬入川、古名相模川」とあり、泳げるような所があるのかどうかは知らないが、水遊びの経験はある相模川が古名であるところを知る。

2015年11月8日日曜日

『ザ・キリング』第2シリーズと『死霊』

デクラン・オブライエン『クライモリ デッド・ビギニング』(2011年)を見る。シリーズ第4作。もはや森などはでていないが、原題はWrong Turnで、そもそも森と関係がないのだから仕方がない。4作のなかで一番の駄作。ミュータントたちが集められたサナトリウムで牢を破って自由になった怪物たちが迷い込んできた学生たちと対決するというものだが、対決が始まるまでに40分以上かかるというもっさりさと、戦闘シーンの工夫ならともかく、必要もない間延びしたサスペンスや、妙なヒューマニズムが振り回されるのも噴飯物で、最終的に殺されてしまうとしても、気が利かない。病院はともかく、雪原などはよほど演出の手腕を必要とされるから、舞台選びからして失敗している。

『ザ・キリング』アメリカ版の第2シリーズを見終わる。一つの事件で2シーズンはさすがに長すぎる。これだけ長いと誰が犯人であっても、驚けない。最も最後に流される犠牲者のプライベート・フィルムには少しほろりとしたが。

なんと三十年以上の時間を隔てて埴谷雄高の『死霊』を読み返した。もっとも、河出書房新社版の著作集で読んだので、3章までである。未定稿まで含めると9章まであるようだから、半分も読んでいないことになるが(三十年以上前、確か5章までは一冊の本、次に6章が薄い本で出版されてそこまでは読んだような気がする)、普通に面白かった。一部で影響を与えたとされている小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』などよりはずっと読みやすい文章で、エンターテイメントとして楽しめる。運河が張り巡らされたあの陰鬱な町は、どこかに実際的なモデルとなった街があるのだろうか。続けて『不合理ゆえに吾信ず』という断章形式の本も読み返すが、こちらは一節も胸に響くところがなかった。とりあえず残りの『死霊』とその他の文章も読んでみなければ、そういえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』くらいは読み返しておこうと思うのも、こちらも20年以上前に読んだきりで、しかも何一つ内容を覚えていないからで、文庫本で3巻もあって、読むのにかかった時間を考えれば、多少はなにか覚えていてもいいはずだが、きれいさっぱり晴天に曇りがない如く、何一つ覚えていない。



2015年11月7日土曜日

『クライモリ デッド・リターン』と可楽の句

デクラン・オブライエン『クライモリ デッド・リターン』(2009年)を見る。シリーズ第3弾。2作目の後退からはやや持ち直したが、1作目には届かない。収監された凶悪犯たちが、搬送中に襲われて、といったシチュエーションはよいが、囚人同士で争い合ったり、途中で金が見つかりそれをどう運ぶかといったようなことがすべてなくてもがな、である。何作目になってもある程度の水準を保っている『呪怨』などが例外的なのか。

安藤鶴夫が紹介している七代目可楽の句に
山寺は雀も浴びる甘茶哉
片耳は蟋蟀に貸す枕かな
がある。特に「山寺」の句はいい句だなあ。『鬣』という同人誌で俳句を百句以上はつくったが、ついぞこうした句を得ることはできなかった。そこで一句、
やるせなや甍にかかる雲の裾
お粗末。

2015年11月6日金曜日

『クライモリ デッドエンド』と七代目可楽

ジョー・リンチ『クライモリ デッドエンド』(2007年)、シリーズの2作目を見る。第1作目が快作だったのに引き替え、クレバーな者たちが怪物たちと戦うというフォーマットがデフォルトになっておらず、セックス・シーンからの殺しや怪物たちの家庭団欒の様子まででてきて、まったく無駄なシーンが多い。サバイバル・ショーの演出からフリークスたちが紛れ込み、という展開もまだるっこしく、見る価値のない駄作とまではいわないが、前作のロブ・シュミットの才能がよくわかった。

私は落梧は音だけで十分だと思っており、DVDとCDがあったらCDを聞く方を断然選ぶが、安藤鶴夫の「七代目・可楽」(『寄席の人びと』所収)での可楽が『妾馬』を演じるところを読むと、無性に可楽の高座姿が見たくなった。この文章はとにかく愛情にあふれていて、不遇でもあれば幸せでもあった可楽の姿がとにかく泣かせる。可楽を聞いたのは立川談志が選んだ『夢の寄席』でだけなので、こんなに可楽に愛情を注いだ安藤鶴夫の悪口ばかり言うもんじゃないじゃないか、と思うが、ボタンの掛け違い、今更なにを・・・ということもあろうから、二人とも死んでしまった現在なにを言うこともないことだが。



2015年11月5日木曜日

『クライモリ』と『ザ・キリング』

ロブ・シュミットの『クライモリ』(2003年)は、いまは亡きウェス・クレイヴンの『ヒルズ・ハブ・アイズ』のようなミュータントものスラッシャー映画だが、なかなか面白かった。なにより、登場人物がはじめからクレバーで、馬鹿な男女がペッティングの途中で殺されるといった余計な部分がないところもよかった。最後まで生き残る人間も、『スクリーム』以後ということを感じさせる。

アメリカのテレビ・シリーズ『ザ・キリング』を第2シーズンの途中まで見る。もともとの原作となったデンマークのシリーズも見ているが、そちらが1シリーズごとに一応一つの事件が完結するのとは異なり、アメリカのは最初に起きる少女の殺人を第2シリーズまで引き延ばしている。主人公役の女刑事はアメリカのも悪くないが(デンマークのはちょっと吹石一恵に似ていて、アメリカの第1シーズンの終わりころにゲスト出演した)、売春宿を兼ねたカジノなどが出てきて、ちょっと『ツインピークス』のようになっている。



2015年11月4日水曜日

安藤鶴夫と談志

五代目柳家小さんの『出来心』『千早振る』『御慶』、ジョン・バルビローリ指揮、フィルハーモニック交響楽団のマーラー『交響曲第六番』

安藤鶴夫の『落語の魅力』『わたしの寄席』を読む。立川談志や川戸貞吉から目の敵のように書かれていたので、なんとなく敬遠していた。もっとも、『落梧鑑賞』はそれよりずっと前に読んでいたが、CDはおろか、テープさえ使えないような状況で、こうした労作の持つ意味が十分わかっていなかった。実を言うと、ボードレールやリラダンの翻訳で知られる齋藤磯雄と大学時代からの親しい友人だと知って、これは又聞きの評価だけで判断してすますだけの人物のはずがないと思ったのだ。

『わたしの寄席』では、小ゑんといっていた頃の談志がまっとうに評価されている。

 四月の第二回に“蜘蛛かご”をやった柳家小ゑんには舌を巻いた。小さんの弟子である。小さんという学校もいいが、素質がよくって素晴らしい才能がある。本人に歳を聞いたら「いつも二十三といってんですがね」という、ほんとうは二十だそうだ。ほんとの歳をいうと馬鹿にされるから嘘をつくという。十六で小さんに弟子入りをした日に、小三治という名をくれといった。小さんの前名の、真打の名である。小さんもこれにはちょっとどぎもを抜かれたそうだが、そんなふてぶてしいところがある。

落語を江戸の風を感じさせることにある、といった晩年の談志ならば、意見がかみ合わないこともないと思うのだが。



2015年11月3日火曜日

『三人旅』と『汚れた血』

柳家小さん(立川談志の師匠であった方の)『三人旅』をCDで聞き、『万金丹』の途中でうとうとする。名人の話を聞いていると、とろとろとよいここちになるというからそういうことにしておく。

レオス・カラックスの『汚れた血』(1986年)を見る。初公開のときには劇場で見た。AIDSを連想させる愛のないセックスによって蔓延するウィルスの支配する近未来が舞台で、その特効薬を盗み出そうという話なのだが、こうした舞台設定は物語の本筋とほとんど関係がない。初めて見たときにも感じたことだが、非常にすぐれた監督であることはわかるが、その恋愛至上主義には鼻白む。エリック・ロメールのように意地の悪い感じが出ているとまた違うのだが、ここまでひたむきだと辟易する。せっかくの設定なのだから、ロメロの『クレージーズ』のようになってくれないと、といってはほとんど言いがかりのようなものだが。