小説家の夫と編集者である妻とが伊豆の海に面したリゾートホテルに一週間のあいだ逗留する。編集者である妻の担当の作家の家が近くにあり、原稿を受け取る仕事のついでに、夫婦してゆったりとした時間を過ごそうというのだ。夫婦は幾分ぎくしゃくした関係にある。夫は新人賞をとり、数作を発表してから書くことができない状態に陥っており、小説家をやめて普通の企業に勤めようとしている。その夫が少女を伴った奇妙な初老の男性と知り合いになり、創作への衝動を取り戻す。
風変わりな映画である。伊豆のリゾートホテルは、海の手前にプールを備え、無国籍な建築であり、小説を書こうとしている夫のテーブルの上にはパソコンだけしかなく、要するに80年代から90年代前半のドラマのようで、全く日常的な生活感がない。少女は初老の男にとって友人の子どもらしく、毎晩その眠る姿をビデオに撮影している。眠っている少女のうなじの際の産毛をカミソリで剃りあげる場面には明らかに性的なものが見て取れるが、実際に二人がどんな関係にあるのか最後までわからない。男は少女を毎晩撮影し、よく撮れたもの以外は上書きしていくこと、さらには彼女が死ぬまでの姿をおさめなければならないのだと小説家に語るが、そうしないではいられない、あるいはそうしなければならない理由が示されることはない。
小説家は彼らのことが頭から離れなくなり、彼らの部屋を覗き、二人が不在のあいだに部屋に入り込み、撮影されたテープを盗み見るまでになるのだが、彼の執着がなにに由来するのかこれもはっきりしない。やがて、少女が行方不明になり、近辺で身元不明の少女の死体が発見されるのだが、少なくとも小説家は男と一緒だった少女だと思っているようだが、はっきりしたことはわからない。
そもそも初めから最後まで、小説家が抱いた幻想にすぎないかもしれないのだ。ここまでくると、日常的な生活感のなさがかえって有効に働き始める。小説家である西島秀俊にしろ、初老の男のビートたけしにしても、ある種の存在感はあるにしろ、複雑な内面的心理を微妙な表現でもってあらわすことなどからは程遠い俳優であって、どれほどある種の苦悶を言いつのってみても、一個人として共感を誘うことはない。むしろ能の舞台にも似た抽象的で象徴的な空間が広がっている。有機的なものとして最も感覚に訴えてくるのは、少女の寝姿ではなく、虫の音や風や雨の出す自然音である。30年以上前に、一度見ただけなので断言はできないが、樋口可南子と高瀬春奈が盛大に脱ぎまくっているにもかかわらず、官能性の全くなかった横山博人の『卍』のことを思い出した。
それにしても、妙におかしいのは、この映画が電通が出資した映画であり、ハビエル・マリウスの同名の原作はPARCO出版から刊行されており、リゾートホテルは撮影協力から見ると、伊豆今井浜にある東急ホテルであり、きわめつけはこの一種の恋愛映画が、松竹でも東宝でもなく、まして昨今ありがちな「〜をつくる会」によるものでもなく、よりによって東映が配給していることにある。
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