2017年11月5日日曜日

オルダス・ハックリレー「(貴族と文学)」



1920年に書かれた。

 文学的、政治的歴史家は、常に過去の偉人がなんらかの方法で、現代の発見を陰ながら予期していたと独りよがりに思いがちである。ミルトンはダーウィン以前の進化論者であり、ロジャー・ベーコンは自動車を発明した、シェイクスピアは大英帝国を予見した、テニソンはツェッペリンの光景を予言的にもたらした。これらは我々が好んで思いにふける事実である。私は400年祭でのレオナルドについての講演を思いだす。大量の非常に上品な観衆は、かつて存在したなかでももっとも法外な知性の一人についての分析に礼儀正しく無関心をあらわしていた。レオナルドがチャーチル氏を予見して、タンクを発明したという事実を述べたとき、突然、自然発生的に聴衆のなかから大きく長く続く賞讃の声が上がった。この出来事は私には忘れがたい。どうして我々はこうした予言や予見にいつまでも心を奪われるのだろうか。確かに、子供っぽい虚栄心は満足させられる。偉人たちが予言的に考えていたことは我々に関わることである。我々は彼らの夢を充足させるのだ。我々は自分自身が彼らよりも優れていると感じる。レオナルドはぼんやりとタンクを夢見ていた。我々は実際にサウスエンドで、楽しく乗り込んでいる。アルガルの場合は、レオナルドより優れている。H・G・ウェルズ氏はシェイクスピアよりもずっと物知りだ。アルガル・・・・・・などそれ以上でもある。我々はこの上なく生長した花である。過去の賢者たちが遠くから香りをかいだものを、豪華さとして一瞥している。

 私は最近、地味ではあるが、十九世紀についてのもっとも予言的な本を読んだ、バルザックの『農民』である。十九世紀においてバルザックが重要だと感じていたものの多くは、歴史的な好奇心以上に、二十世紀の最重要の問題になっているように思える。『農民』の問題は、非常に大きな我々に関わる問題となり、バルザックがこれを書いた前世紀の三十年代か四十年代よりも百倍も複雑になっている。その物語は、農民が豊かな土地所有者を憎み、秘密裏に彼に対してゲリラ戦を展開するという古典的なタイプのものだが、この主題で階級間の葛藤を描いたものは最初にして最上である。欠点も数多くある。この種の作品では政治的議論の割合があまりに大きすぎる。腹立たしげな著者の余談や注釈があまりに多い。しかし、にもかかわらず、この本はすばらしい作品である。バルザックは問題全体のあらゆる意味を見て、普遍的な力でそれを劇化した。

 富者と貧乏人の葛藤を主題にした他のほとんどの作家と異なり、バルザックは熱心に富者の側に立っている。ゴドウィンからゴールズワージ氏まで、社会学者は常に抑圧的多者対抑圧される少者の対立の原因を多者に置いている。ケレイブ・ウィリアムズは、幾度となく転生し、殉教を遂げる。しかし、バルザックはメダルを裏返しにした。伝統的な専制者が専制され、豊かな土地所有者は農民たちに弾劾され、最後には破滅させられる。そして彼は我々は奪うものに同情し、伝統的な犠牲者であることを気づかせる。

 バルザックは民主主義者ではなかった。彼の王党派的保守主義は部分的には育ちにより、部分的には生まれつきの気取りにあった。しかし、主として彼は貴族だけが可能な、つまりは文化、文明のために古い貴族的秩序を守ろうと望んだ。モンコルネ将軍がリアージュを放棄することを強いられたとき、農民たちは財産に群がり、自分たちでそれを分けた。大邸宅は引き倒され、庭園や見事は庭は小さな庭のパッチワークとなった。偉大で光輝あるものは破壊され、みすぼらしい小さなものが取って代わった。バルザックは、文化と芸術と光輝あるもの、それに富裕な余暇がもたらす贅沢を愛していたので、民主主義を恐れ憎んだ。文化や文明の美しい心地よさは常にある種の奴隷によってあがなわれていた。バルザックは、同時代の博愛主義者を心から軽蔑していたが、対価が高すぎることはなく、低階級のものが存在し、文化がより高い階級のものと随伴して存在することを正しいことだと考えていた。1840年のゲリラ戦は、階級を超えた戦いになり、多数が、不可避的に少数に対して地歩を占めるにいたった。バルザックが予見していたように、リアージュとその住人は、その独特の文化とともに破滅に向かった。残されたのは、もしあるとすれば、新しい形の文化が、取って代わるだろう。

 貴族の最も重要な働きは一般的な民衆の意見に対して立場を守り、突飛なものに寛容で、新しい非常識な考えに親切だということにある。アメリカの富豪階級はその立場が脆弱なために貴族ではない。突飛なものに寛容であることができない。異端は非交流を意味する。しかし、ヨーロッパでは、突飛さの伝統は、余暇階級のなかに、ずっと弱くはなっているがまだ存在している。そのメンバーは非同調によって重大な罪に問われる危険はない。守られた立場で一般的民衆の意見を防御し、妨害を受けずに考え、いかようにも行動できる。もちろん、彼らの多くがそうだというのではない。しかし、少なくとも、異端に対する寛容さは主として重要なものとされる。その上、彼らは実際に自分たちの守られた立場を他の階級の奇抜で異端な人々へも及ぼす。貴族はある種のレッド・インディアン指定区であり、そこでは野蛮さも独自な仕方で生きることが許され、迫害に煩わされることもなく比較的自由である。ほんの少しの時間で、民主主義の進行はその国境を消し去り、幸福な聖域は存在しなくなるだろう。リアージュ――大邸宅、庭、公園、ゆったりとした余暇のある生活、文学者と庭園の婦人との慇懃な会話とプラトニックな情熱――は完全に消え去り、小さな土地保有者がその地を相続していくだろう。そして、奇抜さ、新たな考え、文化は――堅苦しい狂人どもが占めるこの新たな世界では入り込む余地がないだろう。見通しは憂鬱で、自由な情熱はおぼろげである。

 『イェール・レヴュー』の最新号に掲載された特徴的な記事で、H・L・メンケン氏はアメリカでは貴族的なものに接近しようとしないことを非難している。彼はアメリカ文学の欠点を「立場が守られ、知的好奇心によって生き生きとし、容易な一般化に対しては懐疑的で、大衆の感傷に超然とし、自分たちの観念の戦いに喜びを見いだす文明化された貴族性の欠如」にあるとしている。アメリカでは精神のレッド・インディアンに対する精神的な居留地は存在しない。一方において富豪階級、他方において大衆が縫い合わされて、知識人は脆弱なアナーキーか飼い慣らされた教授に追いやられる。アナキストは精神を浪費する無駄なものである。教授はそれがなんであれ正しいと容易に信用する。(ニュー・イングランドでは、とメンケン氏は言う、教授に対する憎しみは根っからのもので、「観念の屠殺場として歴史をはじめ、今日では冷凍保存された植物と容易に区別できない。」)メンケン氏は常に論争家であり、そうした意味でちょっと事例を絵画的にし、言いすぎる傾向がある。しかし彼の主要な主張は説得力がある――つまり、知的生活は常に貴族階級の存在に依存しているのである。

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