旧註では、『平家物語』を引いて、建礼門院の小原の寂光院に法皇がお忍びで御行のとき、院の有様をご覧になって、「池水に汀の桜散りしきて波の花こそ盛りなりけれ」とおつくりになった歌を万里小路が書き留めた、と記している。しかし、万里小路が書き取ったということなど『平家物語』には見えず、註者のつくりごと、偽りであってみだりに信じてはならない。また池水の歌も、『千載集』巻二にでていて、「皇子であったとき、鳥羽殿に移られた頃、池上花という心を読まれた」と前書きが確かにあるので、鳥羽殿で詠まれたのであり、小原でのものではない。これは『平家物語』の作者の誤りまたはこじつけである。
前句で「硯をひらき山陰に」とあるのをどう解釈するかといえば、『平家物語』および『源平盛衰記』によって、御行のお供にしたがった後徳大寺左大将実定卿が、女院の哀れさに耐えきれずに、御前の席を立っておられたが、「朝に紅顔ありて世辞に誇り、夕べに白骨となりて郊原に朽ちる」という古詩を詠じられて、庵室の柱に、「いにしへは月にたとへし君なれど光うしなふ深山ベの里」と書きつけられたことを引くべきである。平家が亡びてのち、平相国の女である建礼門院は、一度は国母と仰がれていた身を寂光院で過ごされ、法皇が忍んで尋ねられていたことは『平家物語』灌頂の巻に見えて、もっとも人を感動させる部分であるが、文章が非常に長いのでここには引用しない。
本文によれば、女院に扈従した阿波の内侍の尼がまず法皇に謁し、やがて上の山より濃い墨染めの衣を着た尼二人が、岩の崖道を難儀しながら降りてくるようなのを見て、法皇があれは何ものかと尋ねると、老尼は涙を抑えて、花籠を肘にかけ、岩躑躅を取っているのが女院で、蕨をもっているのが鳥飼の中納言維実が女、五条の大納言国綱の養子、先帝の御乳母、大納言の、すけの局と言い終わるまでもなく泣いてしまった。阿波の内侍の尼は少納言入道信西の女で、当時女院に仕えたもの、典侍の局とただ二人だけで会った。
これで句のでたところは明らかだが、一人はすけの局か内侍かとつくったのは、本文と異なっていると疑いをもつものもあるかもしれない。だが、詩歌は事実を伝え記すためにつくるものではなく、句が必ずしも本文をそのまま引用することはない。この句は法皇御行の日のことを記そうとしたのではなく、ただ寂光院の面影を用いただけである。女院に仕えるののは典侍の局と阿波の内侍のみだから、女院が仏に供える花を摘みに出かけるときに、いつも典侍の局を召し連れるとも限らず、内侍を連れて行ったこともあっただろう。これはただ女院のある日のことをいっただけで、文治二年卯月二十三日の法皇御幸のその日のことを折り込んだわけではなく、つまりは女院ともう一人はすけの局か阿波の内侍かといっている。
すべて昔の面影を取ってつくる句は、のちに芭蕉が、「葉分けの風よ矢箆きりに入る」という句について、「あるいは中将などの鷹をすえて小野に入り、浮船を見つけたなどということがあったのだろうが、その故事にしたがったわけではなく、その余情がこもっているところに意味があるといえよう」といったように、故事をいうわけではなくその風情をあらわしている。そのまま故事を述べるのは詩歌の本意ではなく、そうであればその次の句もその周辺の出来事に閉じ込められて、動きがとれなくなる。句作にはこの心得があるべきであり、解釈でもそれを理解しておくべきである。
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