2014年10月24日金曜日

ブラッドリー『論理学』88

 §64.ごく一般的で、破滅的とも言える迷信は、分析は対象になんの変化ももたらさず、識別がなされるときには、分割可能な存在が扱われているのだと仮定することにある。ある事実の全体があるとき、そのある部分が残りとは関わりなく存在できると結論するのは計り知れない結果を生む推測である。心的な区別と外的な実在についてのこの素朴な確信、思考と存在との露骨な同一性についての悲壮なまでの信頼は経験の名の下に喧伝されている学派にとって価値のあるものである。ヒュームによって大胆に宣言された(第二巻第一章§5参照)間違いと錯覚についての主要な原則は、この学派によって伝統的に実践されており、あまりに深く信じられているので、議論もできないし原則として認めることすらできないのである。事実に対する忠誠に異議を申し立てることは差し出がましいことで、自己正当化された無垢と図々しさという美徳によって致命的となる公然とした攻撃から守られていた。ある意味において(私もそれを否定しはしない)思考が最終的には事物の尺度であることが正しいなら、我々が全体のなかで行なう分割が、その存在を他の存在に依存していないような要素にすべて対応しているというのは少なくとも誤りだろう。複雑なものを取り上げ、分析によって好きなだけ手を加え、そうした我々の抽象の結果を所与を形容するものとして捉えるのはまったく正当化しがたい。そうした産物は決してそうしたものとして存在するものではなく、そうであるかのようにするのは事実を欺いている。部分の総和としての全体という「経験」学派が嬉々として現象をねじ曲げる粗雑な考え方は実際の経験に常に当てはめることはできない。解剖によって得た結果を生きた身体に適用できない生理学が間違っているなら、ここでの問題は更に果てしなく悪い。我々に与えられる全体は知覚と感情の連続的な固まりである。この全体について、その一要素が残りと切り離したとしてももとのままだとするのは、非常にゆゆしき発言である。それは自明ではないと思われるし、あからさまな不合理に陥ることもなくそれを否定することも可能である。

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