2014年10月6日月曜日

ブラッドリー『論理学』81

  第二章(続き)

 §57.我々はどこにたどり着いたのだろうか。我々は判断は、もし真であるなら、実在について真であるに違いない、という仮定から出発した。他方で、あらゆる抽象的普遍的な判断は仮言的でしかないことを見いだした。条件判断がどのように、どのような拡がりにおいて事実を言明しているかを示すことによってこの相反する考え方を調停しようとした。しかし、単称判断は離れたところに立ち、自らを定言的で、事実について真であると主張した。それゆえ、所与を普遍的判断よりも上位に置くことを要求している。我々はこの要求を精査しなければならない。時間における出来事の系列を越えた個的な判断について考慮するのは先延ばしにしなければならない。現象の系列についての判断に限定して、次のように問うてみよう、つまり、それらは定言的なのだろうか。それは、事実、仮言的である普遍的判断よりも高い地位にあり、実在の世界に近いのだろうか。恐らく我々は歓迎されざる結論を迎える準備をしておいたほうがいいだろう。


 単称判断から普遍的判断に移ることで、我々は実在から遠ざかったように思える。現在の知覚とつながった現実の現象の系列の代わりに、我々があえてその存在を主張しかねるような形容物の連接だけを手にすることになる。一方では、堅固な事実と思われるものを手にしている。他方では、潜在的性質以外にはなにもなく、名前だけで我々を居心地の悪い気分にする。実在との関係をまったく失ったわけではないが、遠く離れてしまったように思える。捕らえどころがないほどの糸で、覆いがかかりぼやけた対象とつながっている具合である。

 しかし、我々がたどり着いた辺りを見まわしてみると、我々の考えは違った色合いをとることになろう。最初はいかに奇妙に思われるにしても、影に向かい事実からは遠ざかっていた我々の行程は、最後には科学の世界に行き着くのである。科学の目的は、我々みなが教えられたように、諸法則の発見である。法則とは、仮言的判断以外の何ものでもない。それは形容の総合を主張する命題である。普遍的であり抽象的である。そして、結びつける諸要素の存在を求めることはない。「これ」を含むこともあり得るが(§6)、それは本質的ではない。例えば、数学では、我々の言明の真理は主語や述語の存在とは完全に独立している。物理学や化学では、真理は現在の瞬間における諸要素やその関係の事実上の存在には依存しない。もしそうなら、法則はある一瞬には正しく、次の瞬間には間違いだということになろう。生理学者が、ストリキニーネは神経中枢にある種の影響をもたらすと語るとき、彼は、ストリキニーネが世界のどこかで使われていることが確かめられるまで、その法則の発表を差し控えるわけではない。また、その保証がなくなるやいなや、急いで発言を撤回することもない。この点にとどまってもなんら進展はないだろう。確かな結論として認められるのは、あらゆる普遍的法則は、厳密に表現すると、「もし」で始まり、「そのとき」と続かなければならない、ということである。

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