「定位」(或は現実に対する一般的な観点)はどのように形づくられるか。そうした解釈の体系は、その視野の広さと徹底によって、どのように我々の修正に関わってくるか。「逃避」、「スケープゴート・メカニズム」、「快楽原則」、「合理化」などの用語はなぜ懐疑的に、不承不承用いられるべきなのか。(いまのところはこう言うことができる。こうした用語に過度に頼ることは、所与のコミュニケーション構造の内部にある肯定すべき美点を正当に評価できなくする。)ある社会の生の様式は偏頗な遠近法、或は「職業的精神病質」、また同じことであるが「訓練された無能力」を生じさせることでどのように考え方に影響を及ぼすか。現代の複雑な生活様式は、諸動機に関する用語法においてどれだけ多くの不確かな問題を生みだすか。この状況は、科学および芸術におけるコミュニケーションの性質にどのような影響を及ぼすか。魔術と宗教から発展した「科学技術的精神病質」の現在における過度の重要性。
.. 第一章 定位
あらゆる生物は批評家である
すべての有機体は自らについての数多くのしるしを解釈しているという事実を認めることから我々は始められる。鱒は、針に引っかかることもあれば、顎が裂けて幸運にも逃れ去ることもあるが、その賢さを自分の批評的評価を修正することで示すことができる。彼の経験は新たな判断を下すことを促し、それは食物と疑似餌とのより賢明な区別と言葉にすることができよう。別種の疑似餌は、「顎を裂いた食物」として区別されるような外見がなければ、鱒の裏をかくことになるかもしれない。経験によって学んだ疑似餌にたまたま似たものであるために、数多くの本当の餌を見過ごしてしまっただろう。むっつりした魚がこうしたことすべてを考えているというのではない。針に引っかかってから長かれ短かれある期間は対応を変え、新たな意味合いをもつ変更された行動を取り、より学習されたやり方でしるしを読むと言いたいだけである。この批評的段階を意識的なものと想像しようが無意識的なものと想像しようが問題ではない――必要なのは、修正された判断が外面的にあらわれていることを認めることだけである。
この垢抜けした鱒に対する我々の大きな利点は、我々が批評的過程の範囲を大幅に拡大できることにあると思われる。人間は疑似餌と餌との相違がなんであるかを決定するのに方法的であることができる。不運なことに、ソーンスタイン・ヴェブレンが指摘したように、発明は必要の母である。批評の力は、人間をして文化的構造を打ち立てることを可能にするが、それは非常に複雑なものであるので、文化的錯綜の下に隠れた食物処理と疑似餌処理とを区別するためには、より大きな批評的力が必要とされる。批評的能力は、解決の範囲だけでなく、問題の範囲に応じて増加する。定位は間違った方向に向くこともあり得る。例えば、抽象や一般化の力を通じて行われる征服のことを考えてみよう。次に、そうした抽象化が現実と食い違っているために生じる愚かな国家間の、或は人種間の戦争を考えてみよう。数千マイル離れたところにいる人間を最悪の敵として憎むのになんの批評的能力も必要とされない。批評が我々にとって大いに役立つときには、より優れた批評が必要とされる地点に我々はいるのかもしれない。あらゆる有機体が、自分に関わるしるしを解釈するという意味で批評家であるにしても、言葉によって利用可能になる実験的、思弁的な技術は人間に限られたもので、人間だけが経験の批評を越えて、批評の批評へと進む資質を持っている。我々は出来事の性格を解釈するだけではない(我々の反応にあらわれる恐れ、危惧、疑い、期待、確信という段階は、大雑把に言えば動物においては行動の形を取る)――自分の解釈を解釈することができるのである。
パヴロフの犬はベルの音に唾液を出すよう条件づけられたときに、ある意味を獲得する。別の実験が示すところによれば、こうした意味はより正確なものにすることができる。ニワトリには特定の高さの音だけが食物のしるしだと教えることができ、他の音は無視される。しかし、人間においては、こうした解釈がどれ程浅薄なものであるか、どれ程心配してもしすぎることはない。次のベルが餌を与えるためのものではなく、集めて首をはねるためのものであっても、ベルが彼らにとってもつ性質に従いニワトリは忠実に走り寄ってくるだろう。それほど教育されていないニワトリの方がより賢明に行動することになろう。かくして、我々が正確な定位に達するときの工夫が不正確な定位にある工夫とまったく同じであることもあり得るだろう。我々に言えるのは、ある客観的な出来事は、似たような或は関連した過去の出来事の経験から意味を引きだすということだけである。ベルが鳴ること自体は、我々が呼吸する空気と同じように選ばれているわけでもなければ意味もない。我々がそれを経験する文脈に応じて性格、意味、意義(夕食のベルか玄関のベルか)が生じる。そうした性格の多くは言葉によって伝えられ、ある壜には「毒薬」とラベルが貼られ、マルクス主義者はある人間の失業を資本主義に特有の財政危機のせいにする。語それ自体もその意味を過去の文脈から引きだしてくるだろう。
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