2014年10月27日月曜日

ブラッドリー『論理学』89

 §65.脇道にそれることになるが、いま考えたような誤りから生じる二つの錯誤の例を挙げてみよう。「心の構成要素はなんであるか」と尋ねるとき、我々は全体を感情の要素に分解している。しかし、そうした感情の要素だけでは「構成要素」のすべてではないので、諸関係の存在を認めざるを得ない。しかし、それによって我々は動揺しはしない。間違いではあり得ないいまの考えを更に推し進め、もちろん、他の要素とは異なる要素がまだあるが、それですべてだと答えよう。しかし、異なった教育を受けて心がねじ曲がってしまった懐疑的な読者が、それが意味する観念を形成してみようとすると、途方に暮れることになる。もし要素が一緒に存在していなければならないならば、それらは互いに関係していなければならない。そして、もしそうした関係も要素であるなら、その要素は元々の要素と再び関係をもたなければならないだろう。AとBが感じであり、Cがその関係であるまた別の感じだとすると、構成要素が互いに関係することなく存在することができるのか、あるいは、CとABとの間に新たな関係が存在すると仮定しなければならない。この関係をDとすると、再びDとC-ABの間に関係を見いだし、以下無限に続く過程に着手することになる。関係が諸事実のにある事実なら、関係と事実のにはなにがあるのだろうか。本当の真実は、一方に要素があり、他方にその間の関係があるというのはまったく現実的ではないことにある。それらは単一の実在のなかで区別だてをする精神の虚構であり、それを独立した事実とみなすよくある間違った錯覚である。名高い教授‡の言葉を信じるなら、この不合理で不可能なことに対する強烈な信念は、かつては神学の特権であり、自慢の種だったが、いまでは実験室の聖なる区域以外のどこででも手にはいるようになってしまった。そうした楽観的な結論を採るのは困難ではないかと私は心配している。

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