旧註が様々あり、受け入れがたいものが多い。ある解では、越の独活刈は越後の弥彦山の神事で、伊夜日古の神が独活を嫌われるとする。伊夜日古の神が独活を嫌われるかどうかもはっきりせず、前句とのかかりもさらに判然としない。
鶯傘が言うには、出羽から越後に越える道の途中、吹浦続きの海辺の山林に二つの小さな神社がある。一つは白髪明社、一つは独活苅明神という。地方で言われているのは、上古の二神はなはだ仲が悪く、白髪が怒りを発するとややもすれば神同士の戦いとなって水際が穏やかでなくなり、作物がすべてだめになってしまう。白髪は独活を好んでいるので、独活苅りの神が独活を苅って献じ、感謝の念をあらわすと、白髪は喜び勇んで、平和になり、風雨も急変などしない。この例を伝えて、毎年三月三日の祭日、村民数百人、それぞれ鎌を持って独活を手にし、列をなして社前に行くと、独活苅りの神からの献物と称して、暴風雨などなく、作物が豊かに実ることを祈る。そうしなければ、暴風雨に襲われるという。いまは神徳も信じられなくなり、中古以来は小さな神社になってしまったが、独活を供えることはまだ行われている。前句が鳥いくさという穏やかでない味があるので、その鳥を神の使いだと思う心の響きから神軍と見なして付けられたものだと。
白髪明神、独活苅明神ともに疑わしい。白髪明神は近江にあり、白髪明神などという神があることを聞かないし、宇土神宮は日向にあり、独活苅明神などがあるとははなはだおぼつかない。もっとも田舎の神には、人を笑わせるような馬鹿馬鹿しいものもないではない。甲の神に乙の神がものを献ずる習慣もときに存在し、香椎の神と志賀島の神とのあいだがそうである。また、甲の神と乙の神とが争うという伝説も聞くことがあり、二荒の神と赤城の神とのようなものであある。穏やかな海から鼠が関にかけて越後に通じるあたり、荒涼とした海辺の古い村にそうした言い伝えがないとはいえないが、尾張の荷兮は田舎の隅々まで修行して歩いたとも聞かないし、一座の人々もまたどうして白髪独活苅の神事を知ってよしとしたのかがいぶかしい。いまは見なくなってしまった当時流通した俗書などのなかにそのことが載せられていたのか、見聞が少なく、まだ思い当たるものを見いだせない。また、それでは前句とのかかりも面白くないと思われる。
鳥いくさという言葉を本当の鳥の闘いと取ってということは認められるが、烏、鳶、鳩、雀、ひわ、つぐみ、椋鳥などのように群れて行動するものならば神軍といっても似つかわしいが、鸚鵡などは人が飼わないでは我が国にはまれにしか見ない鳥である。いかに響きの付けといっても、響きに頼りすぎてはいないか。
思うに、この句は、旧解の一つに、禁裡へ国々の産物を貢ぐことをいった、とするものが穏当で、前句とのかかりも無理がなく、揚句の体にもかなっている。独活はいまの人はただ食べるためとだけ思っているが、昔は人参、大黄、白芷(はなうど)、黄芩のたぐいと同類の薬であり、『延喜式』巻三十七典薬療の式の文、諸国進年料雑薬のくだりに、「越前国十八種、黄連五十七斤、独活四斤、牛漆十七斤等々」と記されている。同書に、年頭に天皇や皇后に献ずる薬品のなかにも、黄芩一両、独活一両、蛇?一両などとある。独活は『本草』にも載っており、頭痛、足や関節のしびれなどを治す効き目があり、古名では「つちたら」という。苅とは採ることをいい、蘆刈の刈と同様である。ただいまではその芽が食べられることは知っているが、その根が薬になることが忘れられているだけである。
とすれば、この句は、前句を泰平の世の有様と見て、民もまたその恩恵を喜び、毎年の例として献ずるものを白髪の老父が勇んで山野に採りにいく姿と取るべきだろう。独活は二月の季で、それはその芽が生じる時期によっている。ただ、薬剤としても野菜としても、その幹を用いる場合は、精気が外に出ていない状態を喜ぶので、芽がまだ出ず、葉がいまだ落ちないうちに採るのを通例とする。雪深く寒い越を選んだことに周到さを感じるべきである。
ただ白髪は万葉の昔から「しらが」とはいわれるが「しらかみ」といっているのを聞かない、「三」と「も」は草書体にすると形がよく似ている、「しらかみ」はあるいは「しらがも」が誤り伝えられたのかもしれない。この句についてはさらに細かい調査が必要である、武断や強引な解釈は行わないよう気をつけねばならない。
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