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2015年1月28日水曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻28

けしの一重に名をこぼす禅 杜國

 前人が解したところでは、一休禅師がまだ成道していないとき、艶書に罌粟の花一輪を添えて、「本来の面目坊が立姿一目見しより恋となりけり」と詠じた面影だという。一休のこと、世に多く逸話が伝えられているが、みな浅はかな作りごとで、信じるにたるものが少ない。その作したものは詩集『狂雲集』二巻、『骸骨草紙』、『仏鬼軍』などがある。後人が選した『可笑記』、『狂歌咄』のたぐいは、基づくところがないとは言わないが、単に小説である。「一目見しより」の歌、これらの書に載っているだけで、いま自分の書棚にはないので確証はない。

 一休は高須の里の遊女、地獄となじみであったと伝えられている。その真偽は知るよしもないが、一休は寒中の枯れ木のような堅物ではなく、「今夜美人若約我、枯楊春老更正稊」の詩があり、その他、「美人の陰に水仙香の香有り」など、種々放縦の文字を『狂雲集』にとどめた人であって、かつまた、摂津の桜塚の岐翁紹偵はまさしく一休の子であるが、その紹偵が一休の像に付けた賛にも、「尺八声ゝ吹又吹、婬坊酒肆一生棲、瀟洒途轍少人𨂻、眼見東南竟北西」とあり、実に常識や凡庸さのなかった人物なので、虚実取りあわせ、「あだ人と樽をひつぎ」の前句に、「けしの一重に名をこぼす禅」と付けたのだろう。

 こぼすは流すといっているようなものである。『和漢文操』、『雲鈴行状記』などを引いて、死を予知して仏花をいけて大いに祝い、罌粟の花の散るように成仏しようと杯膳のあいだに座を占めた生死を達観した居士だ、などと『婆心録』の解するのは、必ずしも当を得ていないように思われる。前句が豪放狂逸の態なので、一休のように不羈の禅僧の面影を借りて点出したと解するのが穏やかである。

2015年1月24日土曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻27

あだ人と樽を棺に飲乾さん 重五

 あだ人は中国の俗語に、情人を冤家といい、今風の言い方でかわいい人を命取りなどというように、忘れがたい人である。『古今集』巻十五、読み人知らず、「あきと云へばよそにぞ聞きしあだ人の我をふるせる名こそありけれ」。 『源氏物語』玉葛の巻、「むかしの懸想のをかしきいどみにはあだ人といふ五文字をやすめどころに置きて言の葉つづきたるよりある心地すべかめりなど笑ひたまう。」また、貞亨四年去来の初雲雀の発句の歌仙で、嵐雪の、「つつむにあまる腹気おさへし」の句に、「仇人の為にかくまで氏を捨て」と芭蕉は付けた。これらの例でわかるだろう。

 棺、槨、柩どれもひつぎと読む習いである。ひつぎはひときであり、人を容れるものであり、酒樽を直ちに身を収めるものとしようと、痛飲して死をかえりみないこともある。『晋書』巻四十九、劉怜伝には、怜はかつて小さな車にのり、一壺酒を携え、鋤をもたせて人を従わせ、死んだらすぐに埋めるよう言ったという。この句、なすに任せたかぶった様子に似たものがある。前句とのかかりは、解さずとも明らかである。

2015年1月21日水曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻26

襟に高雄が片袖を解く 芭蕉

 高雄は名高い遊女であるが、ここではその名を借りて、優雅艶麗、盛名豪気の遊女という意味に用いられるものであり、何代目かの高雄にこうしたことがあるなどといえば、愚か者の前で夢を語ることもできないだろう。

 襟は衣服の襟であり、転じては項をもいう。「襟に片袖を解く」とは、襟巻きをつくるのに衣を解いて用いるという意味である。前句を雪に浮かれて唐渡りの笠などをしてきた風流で、意気軒昂の人と見て、高楼の屏風をどかし簾を掲げて冴え冴えとした四方の雪を賞し、酒を汲むにあたり、名妓の衣を解いて襟巻きとする豪華至極のありさまをあらわしている。

 前には津波を出して仏を食った魚に驚かされ、いまはまた唐物の笠を衒って高雄の袖で切り返される、荷兮もきっと及ばざることを歎いただろう。元来荷兮は才能はあるが、心が高ぶりたるものと思え、後には芭蕉にはしばらく背いたほどなので、その句も面白いものが多い代わりに後がつけにくいものが多い。『冬の日』の作者中では、荷兮とくつわを並べ先を争って、しかも筋のいいのは野水であり、野水の句もまた後につけにくいのが多い。ゆえに、集中で、芭蕉の付け句を得たのは二人がもっとも多く、他のものは付け悩んだのだろう。

 芭蕉の付け句を得たのは、野水は十二、荷兮は十一、重五は三、杜國は四、それからみても、重五矢杜國の句は安らかで誰にでもつけやすく、野水や荷兮の句はけわしく勇者でもよじ登りがたいものがあるために、自ずから芭蕉の補う手腕を要するものが多かったことが推察できる。特に荷兮は演劇めいた情景、物々しい句づくりを喜ぶくせがあり、「巾に木槿をはさむ琵琶打」、「櫛箱に餅すゆる閨ほのかなる」、「夏深き山橘に桜見む」などという句、みな付けにくい句で、なかでも、「巾に木槿」、「此の呉の国の笠」にいたっては、一座の者が困ったことだろう。こうした句も強いて付けようとすれば付けられないことはないが、おおざっぱに付ければ逃げ句となり、単なる情景の句となって、一句としてなりたつ詩趣がない前句の奴婢のような句となるために付けにくい。だが、蜀の道の険があってはじめて鄧艾は功績をあげ、宇治の流れがあってはじめて佐々木梶原も勇名を輝かしたわけであり、難句の後に力量のあるものが付けるときは却って佳句や奇句があらわれることが多い。櫛箱の句の後に、「鶯起きよ紙燭とぼして」の句、「呉の国の笠」の後に「高雄の片袖」の句のように、一座の興も却ってここで盛んになっているのが見られる。

2015年1月17日土曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻25

雪の狂呉の国の笠めづらしき 荷兮

 東坡の面影と解するのは間違いである。『語林』には、「王子猷は山陰にいた、大に雪が降り、夜目覚めた、部屋を開け酒を汲む、四方は白く光っている、それゆえ立って歩きまわり、左思の招陰の詩を詠じ、載安道のことを思った、そのとき載は剡渓にいたので、夜軽船に乗って載のところに行こうとした、宿に泊まって家に着いたが、門の所まで来て、そのままかえってしまった、人がその理由を聞くと、王が言うには、自分は興に乗じてここまできたが、興が尽きたのでここで帰る、どうして載に会うことがあろうか、と。」とある。このことは風流で、おもむきが深いので、詩に詠じられ、絵に描かれ、雪には先ずあげられる典故となり、後には剡渓を載谿とさえ呼ぶようになった。

 山陰、剡渓はともに呉にある。雪の狂、呉の笠というのはこのことから解くべきである。東坡の面影などというのは、この故事を無視した妄想による解釈である。さて、前句とのかかりは、この故事を踏まえて、寒い晦日に刀を売る痩せ浪人のもとへ、風流な旧友が、この大雪にどのように暮しているだろうと、訪載の古談そのまま、簑笠に紛々と降る雪をしのいで、竹の網戸に立ち寄ったさまを、「呉の国の笠めづらしき」とつくった。

 もとの文章では門で帰ってしまうが、これは旧案を翻して、日陰の友を雪に乗じて訪れたとしているが、これが誹諧であり、主人は肩寒く、客は心暖かく、主人の衣の膝頭がやつれ、客の刀の鏢が簑の端に見えるように思われて面白い。刀を酒に変えて饗応する、という旧解は行きすぎである。どちらかといえば、酒肴はむしろ、「呉の国の笠」をしたとつくられた客の方こそ、僕にもたせてきたとするべきだろう。また、互いに乱を避けた賢者などと解するのも余計なことである。いつもの荷兮の演劇めいた趣向を、物々しく句づくりしただけであるが、「めづらしき」という下五文字は、実によく働いていて、何年ぶりかであう様子が見え、鍼灸師の一針で気血を動かす妙がある。

2015年1月14日水曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻24

晦日を寒く刀売る年 重五

 浪人が貧しさに逼迫し、志はいまだ遂げられず、時機をつかみそこねて、生命力は衰え、白髪姿になり、死ももう近い病気の様子と取るのも可能である。また前句の前のこととして、逆付とするのもひとつの解釈である。

2015年1月10日土曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻23

捨てし子は柴刈る長にのびつらむ 野水

 前句を、遠いところから荘屋の家の老松を詠じて贈ったものと見て、その歌を贈った人の心のなかの思いを述べたものである。昔、落魄した身の旅路に妻を急病で失い、どうにもならなくなって、富裕な庄屋の松の木陰に、まだ東西も知らない子供を、頼み状、しるしのものなどを添えて捨てた窮士が、いまは離れた国にあって、やや安楽の生活を得たが、昔の哀しい思い出が寝覚めのごとに胸に迫って、衰えいく身には頼る杖さえないが、あああの子はどうなっただろうか、指折り数えれば十年余りの月日が経ってしまい、誠意を込めて頼んだので、養い育てて下働きにでもしてくれていようが、幸いに病気にもあわず死んでいなければ、いまは柴刈るほどの丈にも育っていようと、思うにつけても、一夜の露を防ぎ、行く末の栄にあやかりたいものだと、頼みをかけたかの松の常磐の枝の、星の下で繁り黒ずんで垂れていた様子が、眼に浮んで忘れることができず、さすがに名乗っていくこともできないので、それとなくその松を詠んで歌を贈れば、それからつきあいも生じ、よそながら我が子のことも知るよすがにもなろうか、という風情である。

 いまは捨て子などというものは非常に稀なことだが、昔はそうしたこともしばしばあった。この附け句、旧家の老松から考えだされたものであるが、ただそれのみならず、歌に深く入りこんで、一句の姿を映りよくつくってあるので、再三読み返すと、その人、そのこと、その情、目前に彷彿としてあらわれ、なんということもなくひとをして涙を催させる。拙いつくり物語の数十を読むに勝って感慨が深く、重五の花見次郎は笑わせ、野水のこの句は泣かせる。

 この句を解釈するのに、『平家物語』巻六の、平忠盛「妹が子は這ふほどにこそなりにけれ」、平河法王「たゞもり取りてやしなひにせよ」、の連歌を引き、あるいは『小町物語』の、「我せこは都にありと盬がまのまがきが浦の松ぞ恋しき」の歌を添えて、小町は捨てられたということを引いたりするのは必要がない。

2015年1月5日月曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻22

荘屋の松をよみておくりぬ 荷兮

 荘屋の称は『本朝文粋』、延喜二年の官符の文にも見られるものなので、大変古いもので、里正のことである。旧註には、矢矧の里の庄屋の庭前に大きな松があって世に知られていたが、亨保年間に焼失した、とある。旧家には老樹が多いのはよくあることなので、そうしたこともあっただろう。ただし前句を下手な狂歌の上の句と見ての附け句であるとの説は首肯しがたい。長々しい橋の高みからしばらくのあいだ老松を望み見たままを、一首の歌をつくるに至ったおもむきの付け句である。長々しい橋の高いところから見ていることを見落としては、たとえ矢矧の里正の家に老松があって有名であったにせよ、この句は甚だ味のないこととなる。

2014年12月30日火曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻21

岡崎や矢矧の橋の長きかな 杜國

 三河国、岡崎の宿、矢矧川の橋は長さ二百八間と伝えられている。前句の「馬のねむた顔」に、この句の「橋の長きかな」という句づくりの悠々迫らざるのと応じて、橋板にことことと音がする馬の緩やかな足音の響きが聞えるような心地がする。馬上の人が倦怠してうめきだした句として解しても通じる。

 前人から「や」と「哉」について論がある。しかし、多くは言うに値しない。発句に「哉」があるからといって、平句に「哉」を用いて悪いことはなく、ただ平句の体が発句の紛れるように「哉」と止めてしまうと、一巻の体裁上はばかられ、忌まれることもある。この句「哉」と止められているが、まったく平句の体で、発句の分を犯さず、「や」としたとしても同様である。『平家物語』、平忠度の歌、「さゞ波や志賀の都はあれにしを昔ながらの山さくらかな」。「や」といって「哉」と止めるこの句のつくり方、これに似ている。

2014年12月29日月曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻20

真昼の馬のねむた顔なり 野水

 この句も解するまでもなく明らかで、前句とともに面白く、東海道を春の好き日に旅するような心地がする。であるのに、旧解には、ここは嬉しげというのを飼い雲雀を放つ態と見立て、八幡祭に人も浮き立っているのに、馬が疲れて眠がるのを見て鈍感だと思うさまを付けたとある。余計な穿鑿に過ぎた解というべきである。

2014年12月23日火曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻19

嬉しげに囀る雲雀ちり/\と 芭蕉

 前句をよく味わえば、この句は解釈をするまでもなく、詩趣が現前する。ちりちりは鳴く声であり、ちよちよの誤りではない。狂言の『千鳥』に、「はまちどり友呼ぶ声はちり/\」とあるのを参考にして知るべきである。雲雀の声をよく聞くと、ちりちりといっているようである。

2014年12月19日金曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻18

五形すみれの畠六反 杜國

 五形すみれは「げんげすみれ」と読む。「五形」をげんげと読む理由は明らかではないが、当時俗にげんげに五形の字をあてたのだろう。「五形」はごぎょうと読むべきだが、春の七草のなかのごぎょうは御形の字をあてる習慣で、故にまたおぎょうとも呼び、五形の字をあてることは稀である。

 七草のなかのごぎょうは、鼠麹草つまり「ははこぐさ」、また音便で「ほうこ」と呼び、「ひきよもぎ」ともいうものである。ここの五形が御形でないことは疑いようがない。げんげを「げげばな」ともいうので、「げげ」を延ばして「げぎょう」といい、また訛って「ごぎょう」といい、五行の字を当てはめることになったのか、定かには知りがたい。

 また、げんげは「れんげ」の京畿地方の訛で、関東で蓬莱草という。すみれは菫菜、または紫花地丁であるが、ここでげんげすみれというのは、げんげとすみれではなく、げんげすみれでひとつで、蓮華草のことである。これもまた京畿の俗称で、蓮華草を略して「げんげ」とだけいい、やや正しく「げんげすみれ」という。その意味は「げんげのすみれ」ということで、他の菫菜のすみれと分けるためのことである。菫菜だけを関東ではすみれと呼ぶが、昔は蓮華草を単にすみれといい、古歌ですみれとあるのは菫菜のことではなく、蓮華草のことをいうという説さえ谷川士清などもあげている。

 げんげすみれはつまり、蓮花の形に咲くすみれという意味で、菫菜のすみれと分けるための名であるから、さして咎めるべきことではない。げんげすみれはおそらく砕米薺のことであり、紫雲英とも書かれるものだろう。

 一句の表面的な意味は、ただ紫雲英が美しく咲いた畠が五、六反ほどあるということで、前句の花見次郎の家の近くの景色である。これを解して、世に仰がれた長者もぜいたくを尽くしてその家が衰え、いまはただ六反の荒畑のみが残っている、という栄枯の観をあらわしたとするのは誤りである。また蓮花草は牛馬の飼料とするものなので、多くの牛馬までげんげの花見をすると打ち興じた、というのも行きすぎである。

 紫雲英は自生するものだが、その花が六反も咲き連なるのは、荒畑などではないことは確かで、種を撒いて育てたものであり、それを水田の肥料とし、あるいは牛馬の飼料とするのである。人糞などの汚穢を避ける神に供える稲を作る田など、または他の肥料を得にくい地の田などでは、もっともよい肥料として紫雲英を植えることが農家の習いであり、そのために紫雲英の種は夥しく売買運搬される。このことを知れば栄枯の観などということの間違いであることがわかる。また、牛馬も蓮華草の花見をするというのは、蓮華草を牛馬の飼料とのみ覚えているもののうがった見解である。田舎の大百姓の家の辺り、広々としたところに蓮華草がとても美しく咲いていて紫の毛氈を敷いたようなのを見て、あの茅葺きの棟の高い家が花見次郎のものよ、というほどの風情に解釈するべきである。前句ははなはだ曲折があったが、この句は伸びやかに投げだしたようで、変化があっていい。

2014年12月15日月曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻17

縣ふる花見次郎と仰がれて 重五

 「縣ふる」は縣に年ふるということ、田舎暮らしが長いということだと昔から解されている。しかし、「縣ふる」はおそらくは「縣徇る」であり、触れ知らすことを徇るという。その土地で花見に伊達を競うことでは三人にくだらないものを、「縣ふる花見次郎」と、面白く取りざたされているのを取り入れてつくったものである。日向国に何次郎とかいう富貴のものがあり、近国で噂されるほどの花見を催して名を知られ、そののちは花見次郎といわれるようになったという旧解があるが、讃岐の作平と同じくこの次郎も名を聞くことがなく、京の川太郎、江戸の太申のように、人の口耳に残ったものでなければ、その虚実を考えるべきではない。兵六といえば、薩摩の人は誰でも知っているドン・キホーテのような物語上の人物だが、それでも東京、西京の人は知らないものが多い。

  まして貞亨のころに、日向国や讃岐国などの田舎の普通の人々の事績を取りだして俳諧にしても、それを知り、理解して、面白いと思うものが誰がいようか。また、俳諧に面影をとって作為とすることはあるが、一句一句になんの面影を取ったとするべきものでもなく、津浪は大伴の皇子、魚は長田の作平、花見は日向の何次郎と、いちいちよく知られもしていない故事や地元の言い伝えを連ねていかなければならない理由はない。これらはみな穿鑿が過ぎた愚かな解釈というべきである。

 すべて太郎次郎というのは、人の家の太郎次郎から起き、第一のものを太郎といい、それに継ぐものを次郎という習慣である。阪東太郎、四国次郎、太郎太刀、次郎太刀、太郎貝、次郎貝、愛宕の天狗太郎坊、比良の天狗次郎坊などのようなものである。花見次郎という語は、これらになぞらえて理解するべきである。もし日向の何次郎というものがあって、その後に花見次郎があるとすれば、其角が永代島八幡宮奉納の句の「汐干なり尋ねてまゐれ次郎貝」という句も、『曾我物語』に、「伊東の次郎、貝という貝を取りだして云々」とあることから、伊東の次郎貝ということになったと解するべきなのか、その愚かさ実に笑うべきものがある。

 この句はいわゆる逆付で、前句に大魚をさばいて死体を食べたものであることを知って興ざめし、驚いた様子があることから、そのめざましいまでの大魚を持ちだした人をあらわし、一場のおかしみを見せたもので、無限の滑稽がある。「縣ふる花見次郎」と人にも言わせ、おごり高ぶった男が取り巻きたちを多く引連れ、花の木陰に酒樽を開け、誰もが目を見張るような大魚を担ぎ込ませ、さてそれを捌いて煮炊きして、豪快なさまを衒おうとしたが、図らずも魚の腹から死体を食べたしるしがあらわれて、さすがに愕然と面々が顔を見合わせたる様子の、なんともいえぬおかしさを言外にみせたのがこの句のおもしろみである。『徒然草』の、紅葉の下に割り籠を埋めて、験者めかして楽しもうとしたえせ法師が、それを盗み取られて愚かな争いにいたる話にも似ていて、その田舎っぽい愚かしさが、また一段と勝って、笑いを催させるような光景である。「ふる」といい、「花見次郎」といい、「仰がれて」という一句のつくりをよくよく読みとるべきである。日向国のことなど知らないでも、この句のでたとき、一座の人々が笑いさざめいて、おとなしい芭蕉も、演劇ぶりが好きな荷兮も、重五の奇抜な才能に手を打ったことが思いやられる。

2014年12月10日水曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻16

佛喰うたる魚ほどきけり 芭蕉

 旧解には、讃岐国の何とかいう浦に鮫があがり、その腹中から恵心僧都作の仏像を見つけだしたことがあるという。このことはなんの書にでていたのか、浦の名も時代もはっきりせず、おぼつかない説である。また、讃洲志度の浦の長田作兵というものが、恵空上人のすすめで念仏の行者となり、あるとき、志度の浦で津波のために渚に打ち寄せた鰐の腹から恵心作の弥陀仏を得た、という話を持ちだすものもある。

 過去の評者たちは多くこうした解をとり、もしこの句に難しいところがあるならば扉句であるからだろうといっている。恵空上人はどういう人なのか知らず、長田作兵もまた彌陀次郎、阿波の介などのようにひとの耳に伝えられたものではなく、なにを根拠にしているのか考えることができない。芭蕉がそうした人のよく知らないような僻地の小事を用いて面影のつけ句をするだろうか、疑わしいことである。

 これらは仏を仏像と思うことからくる苦しい解であろう。俗に死んだ人間を「ほとけ」という、仏になった人ということである。ここでの仏は死骸であることは間違いない。ほどくは解くであり、割き開くことである。鰐、鮫のたぐいはいうまでもなく、黒鯛、真鯛なども屍肉を食らうのは常のことで、その腹より爪や髪などの出るのを見て驚き、眉をひそめることも間々ある例である。前句の海嘯の名残をここにあらわしたのが、なんで扉になるだろうか。扉とは二句同意で、前の句と後の句が同じ情景と時、所を離れないで、ひとつのことを繰り返すようになることをいう。「命婦の君より米なんど越す」という句は海嘯の句と同じ意味ではなく、ただ都から米を積んだ車の片里に着いただけであり、佛喰うたる魚と海嘯とも同じ意味ではない。しかもこの句は海嘯過ぎてのちのことで、場所も津波があった浜でないことは明らかである。浜で魚を割くことは却って希だからである。屍を喰ったと解して扉となるなどというのは強引な解釈である。

2014年12月6日土曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻15

籬まで津波の水に崩れゆき 荷兮

 籬を真垣とするのは当て字であり、真の字に意味があるわけではない。「ませ」、「ませがき」などという語の「ま」とともに、「ま」は「間」、もしくは「馬」の意味でもあるだろう。「真」に美を称賛する意味があることをもって、真垣を神社の垣とする旧解はいささか行き過ぎている。齋籬、瑞籬、玉籬などとあるなら神社の垣としてもいいが、ただ「まがき」とあるのを、強いて神社の垣とするのは間違いである。

 また、『増鏡』の大伴皇子が難波の津で高潮にあわれた面影と、旧註には見えるが、『増鏡』に大伴皇子のことがあったかどうか、私の記憶ではなかったように思う。ただ、高潮は津波であって、『増鏡』第二新島もりの巻に、承久の戦に鎌倉方が戦いに勝って猛然とした様子を記して、「荒磯に高潮などのさしくるやうにて」とはある。これは比喩の言葉である。津波が『増鏡』に見えるのはここにしかない。もし大伴皇子のことが『増鏡』にあるならばその面影といえるが、大伴皇子のことを詳しく論じた『長等の山風』にも、皇子が難波で高潮にあったことは見えない、自分の記憶に欠けたところがあるのだろうか、いぶかしい。ここは大伴皇子の面影などと解釈しないでも、前句との続きは自ずから明らかであって、それ以上とやかく論じるべきではない。

2014年12月2日火曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻14

命婦の君より米なんどこす 重五

 前句の雛をつくる女を、人妻などではなく、まだ年のゆかぬ由縁ある姫君にかしずく女とみて、また一転してこの句がある。命婦は内命婦五位以上の女官、外命婦五位以下のことをいうとは『壒嚢抄』の説である。「こす」は贈ってくるである。言葉の意味は明白で、解は必要ない。この句は命婦という名称をだし、いわずの間に人柄、事柄、場所柄を思わせて、狡い技術とはいえ、非常に巧妙である。

2014年11月28日金曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻13

忍ぶ間の業とて雛を作り居る 野水

 忍ぶ間は言葉遣いが少し不確かだが、潜み忍び入る間である。雛はひな遊びの雛である。どんな理由があったのかわからないが、都を出て片里に潜み住んでいる者が、することもないので雛をつくって生業としている。前句の紅買いに出たというのを、雛をつくるために絹などを染めようと少しの紅を買うために田舎の商店に行くものが小山越の道にかかっているところと見なしての句である。これでほととぎすを聞くことにも余情の移りがあり、転じかたにも非常に興がある。

2014年11月24日月曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻12

紅花買道にほとゝとぎす聞く 荷兮

 双六を打って遊んだ人の本業が紅花買いだと前人が解したのは、解し得て妙である。ただし繭買い穀籾買いなどの風情はいささか知っているが紅花買いの様子を知らず、思うに、紅花を摘み貯めたものをそのまま買うこともあり、また、紅花を搗いて乾し、捏ねて餅のようにした紅餅を買う場合もあり、また精製した「かたべに」を買うこともあるだろうか。

 しかしここでは花または餅を買い集めるものを思うべきで、餅よりは花を、農業の片手間につくる家々から買い集めて、餅または「かたべに」に製するものに渡す商いと解したい。紅を製するのは専門家の仕事であるが、紅花を作り植えるのは誰にでもできることだからである。出羽の最上、山形、伊賀、摂津、筑後、伊予はみな紅花をだすと聞くが、それ以外の地でも、少しの紅花を作ることは所々にあるだろう。二月に種をまけば五月に花を開く。暁の露がまだ乾かないうちに花を摘むことを習慣にしているが、それは露が乾いた後に摘むと紅の色に力がなくなるからである。花は一度摘めば再び咲き、幾度も摘んで咲かなくなって終わりになる。花を摘んでから固紅を製するまでのことは、『機折彙編』、『六部耕種法』その他に出ている。

 この句は、露の降りた暁に、紅花を摘む里の農婦などを訪ね巡って、摘んだ花を買おうとする道筋でほととぎすが雲間に鳴くのを聞いている様子である。前句の朝月夜に付けたことは間違いなく、紅花を買う道としたのは作者の一働きである。

2014年11月20日木曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻11

朝月夜双六打の旅寝して 杜國

 『万葉集』巻一、「藤原宮から寧楽の宮へ遷都せられたときの歌、(上略)あをによし、奈良のみやこの、佐保川に、いゆき至りて、我が寝たる、衣の上ゆ、朝づく夜、さやかに見れば、(下略)」、同巻九、「鳴く鹿を詠んだ歌、(上略)朝づく夜、明けまくをしみ(下略)」。いずれも有明月である。

 双六打ちはそれをなりわいとしているのではなく、ただ双六を打つひとである。双六打つひとが止められずに、我が家に帰るのを忘れ、月が残る暁になってしまったのを、面白く朝づく夜といい、旅寝といったので、わざと旅寝と断ったのに滑稽があり、また前句の坊にも利かせてある。二、三里離れた友の家を訪ね、はじめは泊まる気もなかったのに、互いに好む遊びに我を忘れて、帰ろうとするとすでに夜明けが近く、思わぬ泊まりをすること、誰にもあることである。そこを巧みに句につくり、信楽の坊という街道のせわしい宿でもないところに付けたのは、実にふさわしい。長閑な坊の主人の人品もよく、また双六板なども備わっているよい家のさまが見える。

 さてここでは、前句の蕎麦さえ青しをまた新蕎麦もなくてととるべきである。双六も負け込み、好物の蕎麦もご馳走になれないのかと、気の抜けた朝の顔、目に見える心地がして面白い。双六を打つことこの頃の句に多い。なかばは小博打として、大いに世に行われたのだろう。

2014年11月16日日曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻10

蕎麦さへ青し信楽の坊 野水

 しがらきは近江国甲賀郡にある信楽谷であり、聖武天皇のとき、紫香楽(しがらき)の宮、つまり甲賀の宮をつくったところである。天平十五年信楽寺を作り、大仏鋳造を発願し、後にその志を大和の奈良に遂げられた。宮があり寺があるので、信楽野を内裡野または寺野という。黄瀬村、長野村などはみな信楽のなかである。いわゆる信楽茶を産し、また信楽焼の茶壺その他を産出するので有名である。

 貞享の頃に坊などあるとは思えないが、寺野のなかの民家であるから、坊といったのだろう。坊という語によって、自ずからただの農家ではなく、旅の宿であることは明らかである。播州有馬温泉の旅館は普通の宿と異なるところはないが、寺坊であった昔に因んでいまも何々屋とはいわず、何々坊と称するので、信楽にも当時は坊といった旅館もあるいはあったのかもしれない。

 蕎麦は七十五日で熟し、夏のものを夏蕎麦、秋のを秋蕎麦という。ここでは秋蕎麦であることはいうまでもない。ただ蕎麦といえば秋のものをいい、本来その季節のものだからである。信濃の産を上等とすることは知られているが、近江の桃井、伊吹山などの産もまたすぐれたものとして有名である。信楽も同じ近江であり山村であるので、当時は蕎麦がよいといわれたのだろうか。

 「青し」とはすべてものがまだ成熟しきっていないことをいうので、「蕎麦さへ青し」は、なにもない山奥で、せめて薫り高い新そばでもだそうと思うのだが、それさえもまだ青くて、なにもなく寒い信楽の坊だという意味と解するものもあるが、却ってそうではない。蕎麦は古いとかすかな赤みをもち香りが乏しくなるが、新しいものは香りがよく薄く、青みを帯びたようである。信楽は茶の名所であり、しかも坊などという家になれば、客をもてなす家の誇りとして、茶の美しく青くて人の心も眼も喜ばせることはいうまでもないが、蕎麦も新しい取り立て挽き立てのものであれば、それもまたよい茶のように青いと賞味した者の言葉の綾であり、前句の露と萩に対して、ここでは蕎麦と茶をあげたのである。そうでなければ、「さへ」の言葉にはなんの働きもないことになる。

 茶のことは直接触れられてはいないが、信楽の坊に茶は自ずから含まれている。すでに、江戸にも宇治の里という家があり、また郊外にしがらきという家があって、みなその初めは茶漬け飯をだすことから付けられた名で、その茶がよいことを誇りにしていた。信楽の坊に茶のことが含まれているのは疑いようがない。茶はもとより赤くはなく、蕎麦さえ青しといって、いずれもよいという所に、前句の角力ちからを選ばれずというのを軽くあしらって転じて付けたものである。

 糸所の別当の歌のなかにあるくらぶの山も甲賀郡であり、信楽はそれに連なったところにあるので付けた、という旧解はもっともではあるが、作者の腹中の考えではそうした縁もあったのだろうが、ただ山続きのためだけでは、一句の立場がない。またまっすぐ立つ蕎麦が青くては萩とは力あらそいにならぬのを、撓んだ萩がどうして打ち合いの勝負になるものかと、信楽の坊のあたりの草を見て言葉を戦わせる様子だという曲齋の説は、どういう意味であるかも理解しがたい。青くないとしてもどうして蕎麦が萩蘆と力あらそいをすることがあろうか。また、萩もそもそもなにと打ち合いの勝負をなすというのか。信楽の野辺でも谷でもなく、坊とあるのを眼に入れないための誤解である。あるいはいう、蕎麦はそばきりではなく、河漏(ところてん風に押しだした中国の蕎麦)としての解は納得できないと。蕎麦が河漏でないのはいう通りである。だが、略して河漏をそばというのも間違いではなく、また、初鰹と断らないでも鰹を夏の季とするように、新そばと断らないでも句によって秋の季とするのも間違いではない上、青しとあることから新そばであることは明白である。蕎麦をそばというのも本来は略語であり、本当は稜立(そばた)てるものゆえに「そばむぎ」という名であって、略言、俗語をとがめ立てすると俳諧は自在を失うことが多い。

2014年11月12日水曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻9

露萩の角力ちからを撰ばれず 芭蕉

 すもうは争い抗うことである。俊頼が好んで「すまふ」という言葉を用い、その『散木?[なべぶたに弁]歌集』に「かくばかりはげしき野辺の秋風に折れじとすまふ女郎花かな」また、「葉がくれはしばしもすまへ桜花つひには風の根にかへすかな」、また、「吾が心身にすまはれて故郷をいくたび出でゝ立ちかへるらむ」などの歌がある。

 文章の言葉では『源氏物語』紅葉賀の巻、「ぬがじとすまふを、とかく引きしろふほどに」などその例が少なからずある。『後拾遺集』秋上、慶暹、「秋風に折れじとすまふ女郎花いくたび野辺におきふしぬらむ」。

 ここでは露と萩とのすもうを、いずれが勝ちとも選びようがないとしている。表面上は『四十二のものあらそい』の角力より取り出し、内実は前句の故事に合わせて付けたという旧解は従いがたい。『四十二のものあらそい』はここでは関係なく、露と萩のあらそい、その冊子のなかには見られない。

 『大和物語』、兎原男、芽沼男の条のあと、絲所の別当その女になってよんだ歌、「かちまけも無くてやはてん君により思ひくらぶの山はこゆとも」。この歌を意図の下敷きにして、灯籠二つと前句の秋の季のものを面白く取り入れ、ここでも同じ季の景を打ち添えて作った、露萩の角力とは、情趣深く付けたものである。前句の灯籠二つを墓にかけたものと見なして、この句があると前人が解しているのもまたうなずける。ただしいずれにしても糸所の別当の歌の縁は無くてはならぬものである。句に愚かしいところがないのはいうまでもない。