前句を、初嵐の声が、蝉の鳴くような声がすると見立てて付けたと解するのは間違っている。初嵐の声がどうして蝉の鳴くようなものであろうか。前句はもともと理屈のない句であり、分別智の及ぶところではない句なので、付けるべき景も情もなく、どんな句を付けようとも、ここは必ず臨済に戻って「扉」となるべきである。
ただ前句を理があるかのように扱い、分別智のなかにたぐり込めば、そこには付けるべき景も情もあり、自分の句の位置も定まって、しかも禅臭を脱し、扉付けという難題を逃れることもできる。俳諧は本来そうした扱いを得意としたものである。たとえば、「阿弥陀は水の下にこそあれ」という前句はなんのことをいっているのかもわからないが、これに「南無といふ声のうちより身を投げて」と付ければ、前句に理を与え、情の問題に取り込んでおり、それは俳諧の扱いである。「あまり烟の立つぞ悲しき」という混沌とした前句に、「高き屋にあがりて見れば焼けにけり」と付け、「あの宮で堂この宮で堂」という無理な句に「乗りつけぬ馬に神主のけそりて」と付け、「地をくゞりても天へ登れる」に「鼴鼠[えんそ、モグラのこと]黒焼になる夕けぶり」と付け、「余り寒さに風を入れけり」に「賤の女があたりの籬を折焼きて」と付けたのなどは、みな山崎宗鑑『犬筑波集』の句で、俳諧の濫觴にはこうしたものがあった。
荒木田守武に至っても、『飛梅千句』をみると、「唐の帝や水鶏なるらん」という前句に「楊貴妃の頬ほと/\と打ちたゝき」と付け、「石榴なりけり命なりけり」というのに「鏡研小夜の中山今日越えて」と付けたたぐいがある。貞徳が出現して俳諧は進んだが、それでもこうした趣のものが少なくなかった。『冬の日』のときはすでに貞門の陳腐さはすたって、談林のでたらめさも飽きられようとしていた。しかし、「蝉の殻に声きく」などという前句に対しては、これに理を与え、情で理解できるようにしなければ次の句をだしようがなく、もしそうしないならば「障子の引手峰の松」といったとりとめのないところに形となろう。
ただ、この頃の俳諧はすでに向上していて、宗鑑守武の謎を解くような作り方をするはずもなく、理をもたせて前句を捌こうとするにしろ、ただ言葉の縁を取り綾を飾って付け流すほど幼稚ではなく、重五はここで「藤の実つたふ雫ほつちり」と付けた。一句は一句として十分に詩趣があり、物静かな情がくみ取られ、しかも前句の蝉の殻には声があり、ひからびた殻が薄紙のように松の枝について人の目を引くこともないのが、ほっちりとしたかすかな音に、その存在を知られる、静寂の境地が自ずから眼に浮かぶ。
宗鑑守武の頃の扱いに比べてどれくらい進んだか思ってみるがいい。それなのに、前句をよく見ることもなく、初嵐に蝉の声が吹きやられる体と見立てるなどというのは、病気の眼で花を見、病気の耳で泉を聞くたぐいのことである。ことに、静かさとあるのに、どこに嵐の響きがあるだろうか。また「藤の実つたふ雫ほつちり」の十四字に、風の景色があるだろうか、無風の景色が見られるだけだろう、よく味わってみるべきである。雫ははらはらと落ちるのではなくほっちりと一滴落ちる。荒々しくおおざっぱなものは詩を語るべきではない、細やかに文を論じること、とは詩聖もいっていることである。
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