2014年10月25日土曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』3

      訓練、手段の選択、逃避

 不満足な状況があるとき、人間は自然にそれを避けようとする。複雑な社会構造のなかでは、多くの解釈と回避手段が可能である。そのいくつかは他に比べてずっと役に立つということもあろう。また、すべての手段が誰にでも平等に実行できるわけでもない。社会に不満をもつ芸術家はタヒチに移住もできるだろうが、全国民がそうはできない。「仕事で悲しみを紛らわす」ことのできる者は多くいるだろうが、失業者には不可能である。等々、思いつくままにあげた。関係の諸観念は、明らかに、こうした状況下での手段の選択に大いに関わっている。野蛮人は、火をつける過程の適切な結びつきとして、乾燥した木と摩擦を考え、それによって火を起すことができた。定位の有効性がそれほどあてにできない例としては、キリスト教の伝道師や医師が嵐のときレインコートを着ているのを見て、レインコートと雨とを結びつけ、干魃に対する魔法としてレインコートを着てくれるよう頼んだことがある。灌漑のほうがより効果的な手段ではあったろうが、ホメオパシー的魔術によって天気を左右しようという試みは厳密な意味では「逃避主義的」とは言えない。因果関係についての欠陥のある理論による欠陥のある手段の選択である。

 存在についての諸問題は、壜のラベルのように固定した変化のないものではない。数多くの解釈に開かれており――その解釈が手段の選択に影響を及ぼす。それゆえ、「訓練された無能力」は手段の選択にも見いだされる。人は過去の訓練に従ってある尺度を得る――だが、その堅実な訓練によって、間違った尺度を身につけてしまうかもしれない。人は不適切な適切さに適合することで、不適切な存在になるかもしれないのである。従って、もしニワトリが自分の定位の図式に従い、ベルの音を餌のしるしとして反応し、実験者がそのときには規則を変え、実際にはベルの音は罰の知らせだったとしても、ベルの音に応えて駆け寄ってくるニワトリの「不合理な」振る舞いを説明するのに、逃避のメカニズムという考えを導入する必要はない。ニワトリが現実に直面することを拒んだのだと言う必要もない。我々はただ――実験的に証明できることとして――過去の訓練が現在の状況を誤って判断させたのだと認めるだけでいい。訓練が無能力をつくりだしたのである。

 我々は、このように、定位をその正確な、或は欠陥のある手段の選択に従って、訓練されたものとも、無能力なものとも論じることができる。そして、ある例における手段の選択の適切性についての判断は、適正についての個々の意味にかかっている。例えば、ある本がタヒチへの逃避を描いたとき、我々はその逃避方法があまりにも限定的であり、作者はより多くの人間が使えるような逃避の手段(組織的な政治革命のような)を象徴化するべきだと感じて、それに反対するかもしれない。或は、その同じ本を、我々の制度に対する不満足な姿勢を象徴的にあらわしており、そうした姿勢を大事にすべきだと信じて称讃もできる。最初の定位に従えば、この本は誤った手段の選択の一例であり、第二の定位に従えば、適切な手段の選択されていることになる。

 逃避という概念の誤用と密接に結びついているのは、「スケープゴート・メカニズム」とそれを補助する「合理化」という考え方である。どちらの用語も、個別の間違った過程を非難して指し、そう述べる自分の立場を守るのに大いに役立つことは間違いないが、批評として擁護できるかどうかは疑わしい。最上級の分別だけが、無知な者をスケープゴートにすることなく、賢明な手段の選択を行えるだろう――また、自分の理屈と他人の理屈を分けて考えるには深い共感の力が必要とされる。あらゆる定位には連鎖の過程が認められる(ある種の連鎖には、それを正しいものとして受け入れないにしても、スケープゴートが含まれる)。また、人は言葉によって定位を完成させることがあるが、賛意を示すときには「理論」と呼び、不賛成のときには「合理化」と呼ぶことがある。かくして、これらの語も論点を避けるのに役立つ言葉である。その大きな感情的性質が、批評での有用性を危険にさらしている。従って、こうした言葉なしで定位について議論できれば、混乱はより少なくなろう。そして、それらの不必要を証明できると私は信じている。

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