我々はこの結論にとどまることはできないが、前提を取り消すこともできない。そこで、問題により近づき、判断に含まれているものをより限定して調べてみることにしよう。まず第一に、仮定がなんであるかを知るまでは我々は成功を期待できない。
第一に、仮定が観念であること、多分事実から分岐したものであることは知られていよう。あらゆるものが事実である(第一章参照)精神の低次の段階ではそれは存在できない。というのも、仮定されたものは観念内容として知られねばならず、加えて、判断なしに心に保持されねばならないからである。それは肯定的にであれ否定的にであれ、形容として実在を指し示すものではない。別の言葉で言えば、実在はそれを当てられることによってもそれから排除されることによっても性質づけされない。しかし、判断しないといっても、仮定は(それ自体として)欲望や情動を排除するので、知的なものである。そしてまた、注意によって銘記され同じ内容のまま保持されるべきものなので、単なる想像以上でもある(第三巻第三章§23,24を見よ)。これですべてのようにも思えるが、まだそうではない。というのも、キメラのことを考えるのはキメラを仮定するのとは同じではないからである。
仮定とはある特別な目的に向かい、特殊な方法で考えることを意味する。それは単にある意味に注意を向けることではないし、その要素を分析することでもない。それは実在の世界を参照し、何が起っているかを見ようという欲望を含んでいる。別の使用法から例を引けるだろう。「議論でのことに限って言えば」、「こう言えばあなたにもわかるだろうが」というのは、「そうであると仮定すると」と同じである。つまり、仮定というのは観念の実験である。それは実在についてある内容を当てはめることだが、それによってその帰結がどうなるかを見、実際の判断を暗黙のうちに保留にしている。仮定というのは、ある仕方で性質づけられたときに実在がどう振る舞うかを見るために、実際それがあるものとして考える。
判断を控えている間も、思考に存在の観念がつけ加えられていると言われるかもしれない。考えないというだけでは十分ではないのである。使用されているのは単なる存在の観念ではないからである。我々が使っているのは常に我々の心と直接的に接している実在であり、多様な判断において我々が既にある内容で性質づけている。我々はそれに別の観念を継ぎ足し、結果がどうなるか見ているわけである。
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