論理に関する保留
感情と論理との区別、直感と理性との区別は、その他との関わりでどれだけ役に立つとしても、ここでは考える必要はない。鳥の一団にとって、そのうちの一羽が飛び立つときに続けて飛び立つことは本能であり――同様にまったく論理的な振る舞いである。一般的に言って、自分の身を守る助けとなるやり方で出来事に反応しているのであり――最初に飛び立った鳥が間違っていたり、ひねくれていたにしろ、それ以上に論理的な振る舞いは考えられない。
より微妙な性格を識別することを学習すれば、より正確な反応ができるかもしれない。例えば、若い鳥はより飛び立ちやすいことを知り――神経質な若鳥の行動はその近くにいる鳥によって斟酌され、そうした無反応に集団が応じることもあるかもしれない。こうした場合、しるしの読み取りはより正確にはなっているが、より論理的になっているとは言えないだろう。我々の考え方からすると、論理とは、言語化による再定位或は確認を意味していると思われる。即ちこうである。我々はある問題を特殊な形で言明し、この特殊な言明のなかで問題を探るときに論理的(ロゴス、言葉)である。鳥の振る舞いは、彼らが実際に再定位のなんらかの提案をあらわし、それを実行できたときに論理的となろう。そして、薄暗闇のなかでぼんやりと外套掛けを見て、それを泥棒だと解釈して逃げだしたとしても、なんら非合理的なところなどない。
我々の言葉の意味においてはっきり非合理的な過程だと言えそうなのは、次のような家庭での出来事である。いたずら好きの娘婿がパイプを拳銃のように握り、曾祖母に向けて「手を挙げろ」と言う。いたずらは思ったよりもうまくいった。老婦人は大いに驚き、銃を下ろすように叫んだ。いたずら者は銃ではなく、ただのパイプであったことを示す――彼女は厳格にこう答える、「ああ、私にはわかっていたよ、でも人はそうやって撃たれるもんだよ」と。
彼女の恐れは論理的であり――その憤りも論理的だが、その言語化については、どうすれば適切と言えるのか、私には定位の形を想像できない。彼女は、たとえ弾が込められていないと思われても、武器を人に向けるべきではないことの理由を述べている。彼女の考えによれば、そうした武器は結局のところ弾が入っていることをしばしば証明するのである。それ故、武器を使ったいたずらは人の命を代償とすることもある。それ故、彼女の恐れと憤りは正当化される。しかし、人はパイプで撃つことはない。彼女の反応はもともと彼女によって特徴づけられた状況に対するものであり――義理の息子によって別に特徴づけられた状況に対するものではない。それは、彼女が息子の言語化を無視した限りにおいて非合理的である。もし彼女が、銃は突然パイプに変わりうるものであり、いまは明らかにパイプであるが、自分に向けられていたときは銃であったと信じているなら、非合理的とは言えないだろう。
非合理的だとして最も責められるのはこの二番目の種類に関するもので、そこでは前提の不一致が隠されており、互いを非合理的だと責める対立者同士は、実際には学生めいた三段論法的な律儀さで前提から結論に向けて進んでいる。こうした事例は、特に、西洋の調査者が未開部族の行動に論理的欠如を発見する場合に見受けられる。実際には、未開人は部族の合理化によって確立された因果的結びつきをもとに、極めて論理的に行動している。我々は我々の検証の技術によって、合理的な枠組みを問いただす根拠を提示することはできる――しかし、自分が正しいと感じる根拠に基づいて行動している人間を非合理的とは呼べない。
それでは、老嬢は、恐れに心を奪われており、それに従えばまさしく出来事の性格は彼女が解釈したとおりだとしてみよう。娘婿が銃ではなくパイプだと示したのは、彼女の反応に根拠がないことを示すことで、状況を再定位する試みだとしよう。このことについて、彼は本質的には成功しておらず、というのも、彼は彼女が恐れるべきではない理由を彼の観点から提示したが、彼女の恐れが憤りの十分な根拠であるという事実に対して、憤るべきではなかった理由を提示することはできなかったからである。かくして、彼女の言語化は、怖がらせたことに対する憤りを正当化するという意味においては非論理的であり、本来的な恐れだけが極めて適切に言葉にあらわされている。
間違った象徴化のもと、彼女が実際になにを言っているかといえば、「私はそれが銃だと思い、銃を向けられたから憤った」ということである。しかし、無害だとわかったいたずらに対して憤りを示すことに居心地の悪さを感じた優しい老嬢は、叱りつけることで示そうとはしたものの、その言語化から憤りに関する部分を完全に除外した。それ故、すべてが終ったあとにも、銃を向けたという実際には行なわれなかった不法行為を理由に責めようとすることで、完全に間違った発言をする。
かくして、言語行為が語り手の定位のなかにおいてさえ不適切で、非合理的だと認められるとき、定位一般の論議に言葉が大きな助けとなりうるかどうか我々は疑問を感じる。定位のシステムというのは、正確さの多少はあるにしても、ある出来事を選び出し、それが有益か、中立的か、危険か判断することにある――そして、危険がわかっていて破滅的な行動を取る男は、ラベルに薬とある瓶に入った毒薬を飲んで死んだ男に対してより非論理的な振る舞いをしたわけではない。
この意味において、新たなやり方で出来事の性格づけをしようとすることは、宗教、精神療法、科学のどの名で行なわれるにしても、人を改宗させようとすることである。それは、我々の定義によれば、既に確立した結合を攻撃する限りにおいて不敬虔である。それは、合理化によって我々の反応の性質を変えようと試みる。
例えば、ユダヤ教とキリスト教の合理化のなかでは、それより以前の異教的な聖なる売春は罪として再定位化される。食事療法の理論でも、同じように新たな禁止事項や規定があって、無関係、有益、危険についての我々の考え方が再定位化される。マルクス主義では、新たな意味が、広範囲にわたる複雑な生産、配分、道徳のネットワークのなかから特殊な注意、特殊な要因を引きだす助けとなっている。こうした試みのすべては(十九世紀は、我々を変える範囲については様々であるが、無数の新たな定位を生みだした)、我々の敬虔な定位に狙いを定めており、我々が疑問に付することなく放置しておいた最後の究極的な仮定を狩り出すのである。
2015年1月30日金曜日
2015年1月26日月曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』26
やむを得ない労働と象徴的労働
単調な骨折り仕事は純然たるやむを得ない労働であり、象徴的労働は個人の最も深いところにあるパターンに従ったものだと認めるれば、やむを得ない労働と象徴的な労働とを区別できる。象徴的労働はより敬虔である。例えば、どこかに行かねばならず、目的地へ行くあいだにあるために山に登るのであれば、それは「やむを得ない労働」である。同じ行動でも、山が登り手に対してなんらかの深い意味合いをもっており、登るという行為そのものがある種の達成なら、それは象徴的であろう。登山家の経験を読んだことのある者なら、その区別がわかるだろうが、登山家の場合、登山にありがちの危険は単に堪えられるものではなく、求められるものである。非凡な達成というのは、芸術的、科学的、政治的、商業的のどんな場合であっても、恐らくはやむを得ない側面と象徴的な側面とが一人の人間において結びつくことで生まれるのだろう。
例えば、ロックフェラーは単に金儲けをしただけではなかった。彼の努力にはなんらかの形でピューリタンの道徳規範が含まれており、経済的帝国を建設しようとする彼の絶え間のない労力は功利的な必要性を遙かに超えでている。彼は単なる仕事をしていたのではない――召命に応じていたのである。同様に、レーニンのような職業的革命家の場合、変わることのない仕事への献身は、プロレタリアート独裁が彼にとって単なる手段ではなく、なんらかの形で彼の最も根本的な正当化のパターンや自尊心に深く関わっていたことを示しているだろう。それが子供時代の経験のパターンに結びついていることもあり得ることで、哀れなゴーゴリは、早い時期に、彼の風刺小説が大きな成功を収め、父親に対する忠誠を裏切ってしまったと感じてから自分の心を見失ってしまった。レーニンの場合、手がかりは恐らく兄との関係にあって、兄が殺されたあとレーニンはその重要な意見を取り入れたのである。
要約すると、どんな種類のものであっても、大いに献身が認められるところには、敬虔の領域がある。ジャーナリストの場合のように、今日多くの人間が自分の仕事に嫌悪感を表明しているが、それもある種の裏返しにされた敬虔さであろう――一般紙が純粋に実用的なスタイルで書かれているのに対し、しばしば赤新聞が労働者向けの強い個性的なスタイルを示しているのも偶然ではないと思われる。
赤新聞の作者たちがその努力のなかに道徳的要素を蔵しているのは明らかである――というのも心底において彼らは自己を軽蔑しており、こうした自己嫌悪は基本的に道徳的だからである。それ故、それに見合った不浄な献げものをする祭壇をもっているのである。下劣な社説が実際には響きをもち、大声で朗読でき、リズムと精神をもつ一方、一般紙の毎日の義務的な報告が電話帳のように素っ気ないものだと気づかない者がいようか。一般紙の実用的なスタイルは基本的に夢中になることを欠いている――作者は単なる観察者である。しかし、根本において軽蔑する新聞の仕事をするなら、書く度に常に道徳的問題を扱うことになり、その記事は雄弁の退化した形でしかないにしても、道徳的刺激のしるしを見せることになる。
同様に、心理学者は人間の仕事に潜むシンボリズムのパターンをあらわにする者として詩人の仕事に取り組むが、機械的な発明にも同じようなことがあらわれていると想像できよう。心の分裂によって苦しんでいたハート・クレーンにとって、ブルックリン橋は統一のシンボルだった――どうして心の底から強く橋をつくりたいと願っている技術者にとって、橋が同じような非功利的意味合いをもたないことがあろうか。
単調な骨折り仕事は純然たるやむを得ない労働であり、象徴的労働は個人の最も深いところにあるパターンに従ったものだと認めるれば、やむを得ない労働と象徴的な労働とを区別できる。象徴的労働はより敬虔である。例えば、どこかに行かねばならず、目的地へ行くあいだにあるために山に登るのであれば、それは「やむを得ない労働」である。同じ行動でも、山が登り手に対してなんらかの深い意味合いをもっており、登るという行為そのものがある種の達成なら、それは象徴的であろう。登山家の経験を読んだことのある者なら、その区別がわかるだろうが、登山家の場合、登山にありがちの危険は単に堪えられるものではなく、求められるものである。非凡な達成というのは、芸術的、科学的、政治的、商業的のどんな場合であっても、恐らくはやむを得ない側面と象徴的な側面とが一人の人間において結びつくことで生まれるのだろう。
例えば、ロックフェラーは単に金儲けをしただけではなかった。彼の努力にはなんらかの形でピューリタンの道徳規範が含まれており、経済的帝国を建設しようとする彼の絶え間のない労力は功利的な必要性を遙かに超えでている。彼は単なる仕事をしていたのではない――召命に応じていたのである。同様に、レーニンのような職業的革命家の場合、変わることのない仕事への献身は、プロレタリアート独裁が彼にとって単なる手段ではなく、なんらかの形で彼の最も根本的な正当化のパターンや自尊心に深く関わっていたことを示しているだろう。それが子供時代の経験のパターンに結びついていることもあり得ることで、哀れなゴーゴリは、早い時期に、彼の風刺小説が大きな成功を収め、父親に対する忠誠を裏切ってしまったと感じてから自分の心を見失ってしまった。レーニンの場合、手がかりは恐らく兄との関係にあって、兄が殺されたあとレーニンはその重要な意見を取り入れたのである。
要約すると、どんな種類のものであっても、大いに献身が認められるところには、敬虔の領域がある。ジャーナリストの場合のように、今日多くの人間が自分の仕事に嫌悪感を表明しているが、それもある種の裏返しにされた敬虔さであろう――一般紙が純粋に実用的なスタイルで書かれているのに対し、しばしば赤新聞が労働者向けの強い個性的なスタイルを示しているのも偶然ではないと思われる。
赤新聞の作者たちがその努力のなかに道徳的要素を蔵しているのは明らかである――というのも心底において彼らは自己を軽蔑しており、こうした自己嫌悪は基本的に道徳的だからである。それ故、それに見合った不浄な献げものをする祭壇をもっているのである。下劣な社説が実際には響きをもち、大声で朗読でき、リズムと精神をもつ一方、一般紙の毎日の義務的な報告が電話帳のように素っ気ないものだと気づかない者がいようか。一般紙の実用的なスタイルは基本的に夢中になることを欠いている――作者は単なる観察者である。しかし、根本において軽蔑する新聞の仕事をするなら、書く度に常に道徳的問題を扱うことになり、その記事は雄弁の退化した形でしかないにしても、道徳的刺激のしるしを見せることになる。
同様に、心理学者は人間の仕事に潜むシンボリズムのパターンをあらわにする者として詩人の仕事に取り組むが、機械的な発明にも同じようなことがあらわれていると想像できよう。心の分裂によって苦しんでいたハート・クレーンにとって、ブルックリン橋は統一のシンボルだった――どうして心の底から強く橋をつくりたいと願っている技術者にとって、橋が同じような非功利的意味合いをもたないことがあろうか。
2015年1月23日金曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』25
第二章 新しい意味
福音伝道にある不敬虔の要因
このように考えると、過去の定位を再構築する試みは、不敬虔の側面をもつことになろう。というのも、敬虔さの定義によってまず認められるのが、ガス工場の労働者が彼らなりの敬虔さをもっているということなら、逆に、新しい宗教には敬虔さとともに何かしら不敬虔さが存在していると認めざるを得ない。福音主義者は我々の定位を変えるように要求する。彼は我々に新たな意味を与えようとする。その群れに忠実なものもいれば、不敬虔なメンバー(「科学者」ででもあろうか)もいてこう尋ねるかもしれない。「この鳥は臆病すぎないか。愚かにも、君たちを狩る人間の姿を指して怖がらせようとしているが、実際のところあの男は、オードゥボン鳥類保護教会の者ではないか。或は、この気まぐれな鳥は君たちの集団には似つかわしくない歪んだ動機によって動かされていて、自分の羽ばたきで鳥なりの流儀で「狼だ」と叫んで、君たち全員を飛び立たせることに、病的なナポレオン的満足を得ているのではないか」と。
こうした疑問は、通常科学に特殊なものだと考えられている――しかし、それは、予言者よりも科学者のほうが現在では我々を新たな意味に向けようとしているからに過ぎない。科学者と予言者とは互いに違うことを知っているかもしれないが、それはここでの問題ではない。我々の敬虔さの定義によれば、科学の福音主義的な側面には、いかなる宗教の初期にもあらわれる福音主義と多くの類似性をもっていることを示すだけで十分である。
科学でも宗教的教えでも、預言や予知に大きな重要性が与えられている。どちらの領域でも、予知の重要な側面とは新たな定位、意味体系の修正、世界をどう構成するかについての概念の変更を必要とする。どちらの場合も、もし我々が新たな意味に従って行動を変えれば(古い手段を捨て、いま言い換えられた問題に対するよりよい解決のための新たな手段を選択する)、我々は自分自身そして集団をよき生へと近づけることになろう。そして、キリスト教の福音主義が(ロゴスやキリスト教の教えという形で)今日の科学を特徴づけるような主知的な疑問から出発したことを示すものもある。キリスト教から生じた公的哲学は高度に懐疑的であった。
子供の言語習慣についての研究で、ピアジェは、子供たちは口論の末、論理的証明によって信念の社会化を次第に学ぶことを観察した。最初は、「お前がした――僕はしてない」といった単純な対立を主張し合うに過ぎない。しかし、次第に、自分の主張をどう「根拠づける」かを学んでいく。この点から見ると、説得力というのは、強制の成熟した形である。かくして、軍事的或は戦いの要素、そしてそれを質的に異なるなにかに作りなおそうとする試みは、通常進歩的哲学によっては無視されるが、文明の根底にあるものである。
こうした考察によると、用語の相異こそあれ、福音主義と教育或はプロパガンダの背後には、同じ誘因が見て取れる。他人に同意を生みだすことによって、自分の立場を社会化する試みの根にあるのはなんだろうか。ある人間が自分の属する集団の承認を得ようと多大な骨折りをするのは、彼が承認を必要としている証拠ではないだろうか。そうした必要は、他人が彼を認めてくれるよう誘い込むことができないなら、苦しみを受けるという意味で、罪と密接に関連していないだろうか。リチャード・ロスチャイルドは『現実と幻影』で「『魂についての恐れ』という宗教的観念は、人間の思考のあらゆる領域に行きわたっているかもしれない」と書いているが、「人間の行動のあらゆる領域」とつけ加えることもできただろう。今日の啓蒙化されたイデオロギーにおいていかに認められることが少ないとしても、いかなる形であれ労苦の道徳性を認めることには、いまだ労働による正当化が働いている。というのも、あらゆる努力は本質的に防御的であり、防衛の構造をもっており、いかに我々の防御に関する概念が昇華されようがそうなのである。
福音伝道にある不敬虔の要因
このように考えると、過去の定位を再構築する試みは、不敬虔の側面をもつことになろう。というのも、敬虔さの定義によってまず認められるのが、ガス工場の労働者が彼らなりの敬虔さをもっているということなら、逆に、新しい宗教には敬虔さとともに何かしら不敬虔さが存在していると認めざるを得ない。福音主義者は我々の定位を変えるように要求する。彼は我々に新たな意味を与えようとする。その群れに忠実なものもいれば、不敬虔なメンバー(「科学者」ででもあろうか)もいてこう尋ねるかもしれない。「この鳥は臆病すぎないか。愚かにも、君たちを狩る人間の姿を指して怖がらせようとしているが、実際のところあの男は、オードゥボン鳥類保護教会の者ではないか。或は、この気まぐれな鳥は君たちの集団には似つかわしくない歪んだ動機によって動かされていて、自分の羽ばたきで鳥なりの流儀で「狼だ」と叫んで、君たち全員を飛び立たせることに、病的なナポレオン的満足を得ているのではないか」と。
こうした疑問は、通常科学に特殊なものだと考えられている――しかし、それは、予言者よりも科学者のほうが現在では我々を新たな意味に向けようとしているからに過ぎない。科学者と予言者とは互いに違うことを知っているかもしれないが、それはここでの問題ではない。我々の敬虔さの定義によれば、科学の福音主義的な側面には、いかなる宗教の初期にもあらわれる福音主義と多くの類似性をもっていることを示すだけで十分である。
科学でも宗教的教えでも、預言や予知に大きな重要性が与えられている。どちらの領域でも、予知の重要な側面とは新たな定位、意味体系の修正、世界をどう構成するかについての概念の変更を必要とする。どちらの場合も、もし我々が新たな意味に従って行動を変えれば(古い手段を捨て、いま言い換えられた問題に対するよりよい解決のための新たな手段を選択する)、我々は自分自身そして集団をよき生へと近づけることになろう。そして、キリスト教の福音主義が(ロゴスやキリスト教の教えという形で)今日の科学を特徴づけるような主知的な疑問から出発したことを示すものもある。キリスト教から生じた公的哲学は高度に懐疑的であった。
子供の言語習慣についての研究で、ピアジェは、子供たちは口論の末、論理的証明によって信念の社会化を次第に学ぶことを観察した。最初は、「お前がした――僕はしてない」といった単純な対立を主張し合うに過ぎない。しかし、次第に、自分の主張をどう「根拠づける」かを学んでいく。この点から見ると、説得力というのは、強制の成熟した形である。かくして、軍事的或は戦いの要素、そしてそれを質的に異なるなにかに作りなおそうとする試みは、通常進歩的哲学によっては無視されるが、文明の根底にあるものである。
こうした考察によると、用語の相異こそあれ、福音主義と教育或はプロパガンダの背後には、同じ誘因が見て取れる。他人に同意を生みだすことによって、自分の立場を社会化する試みの根にあるのはなんだろうか。ある人間が自分の属する集団の承認を得ようと多大な骨折りをするのは、彼が承認を必要としている証拠ではないだろうか。そうした必要は、他人が彼を認めてくれるよう誘い込むことができないなら、苦しみを受けるという意味で、罪と密接に関連していないだろうか。リチャード・ロスチャイルドは『現実と幻影』で「『魂についての恐れ』という宗教的観念は、人間の思考のあらゆる領域に行きわたっているかもしれない」と書いているが、「人間の行動のあらゆる領域」とつけ加えることもできただろう。今日の啓蒙化されたイデオロギーにおいていかに認められることが少ないとしても、いかなる形であれ労苦の道徳性を認めることには、いまだ労働による正当化が働いている。というのも、あらゆる努力は本質的に防御的であり、防衛の構造をもっており、いかに我々の防御に関する概念が昇華されようがそうなのである。
2015年1月19日月曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』24
システム構築としての敬虔さ
更に、敬虔さはシステム構築でもあり、物事を完成させようとする欲望、経験を統一した全体に適合させようとすることでもある。敬虔さは、なにとなにが共にあるのが正しいのかについての感覚である。そしてそれは次のようなやり方で組織化される。祭壇があるとき、敬虔な人間は清潔な手でその祭壇に近づき、なんらかの儀式を行なう。ある種の象徴的な清潔さが祭壇にはあり、象徴的な清潔さを得るための技術が清潔さには伴い、準備や通過儀礼が洗い清めることには伴い、洗い清める必要はタブーの感覚に基づいている――等々と続き、敬虔さによる連合が日々の意味深い細部を結び合わせ、複雑な解釈のネットワークによる全体的統一へと関連づける。
敬虔さが、適正についての感覚を体現するものであるとしても、敬虔さには一概にそうとは言えない別の側面があるに違いない。愛の敬虔さ以外にも(貴婦人に対して鳥や花となる――或は、名誉や現在を楽しめというテーマから若い女性の美という観念を引きだすエリザベス朝人の機敏さ)、それほど敬虔ではない芸術の適正さが存在するだろう。三文芝居の悪党は巻き舌で話す。交響曲の英雄的瞬間には金管楽器が鳴り響く。夜のことを書く詩人は、夜特有の思いつきと、夜にまつわる様々なこと、パリの部屋にいるのなら、外に聞こえる通りを掃く物寂しい音などの要素を一緒くたにする。
私はこの敬虔さという概念を、我々の生活のあらゆる側面にあらわれる反応として確立しようとしているが、我々には完全に宗教が欠け、しかも「敬虔に至る過程」が教会に限定されると考えているために、敬虔さは我々から隠されていると言える。ベンサムは、詩(貧弱な種類の詩)が我々の話すことのうちに含まれていることを発見した。というのも、我々の言葉は、奥底にある感情の井戸からくみ出すことによって我々や聞き手に影響を与えるからである。我々はローマ時代の雄弁家の修辞的技巧を用いることなしに母国語を話すことはできない。そして、ベンサムは、科学の中立的な語彙に、会話から無意識の敬虔さを除去する試みを見た。(それに続けて、この中立的な語彙に対する欲望は、本質的で広い範囲にわたる去勢シンボルによる贖罪と解釈されるものであり、かくも貪欲に中立的な観念を公式化した偏屈な老独身者、その後継者たちよりもずっとメシア的な気質が認められるベンサムの場合には、特にそう考えられはしないかと自問することはなかった。)つまり、我々がみな詩人であり、すべての詩人が敬虔なら、我々は敬虔を、非常に大きな範囲において、野球の試合にさえ見いだすことができよう。実際、紙に書く者もいれば、喉を振り絞る者もいるが、生のすべてが詩を書くことに似ている。
私は敬虔さをなにとなにが伴うかについての感覚だと言ったとき、不条理な還元への道を開いてしまった。鳥の一群がいて、そのうちの一羽が正しいにせよ間違っているにせよ、飛ぶことを怖がったとしよう。残りの鳥たちにも恐れが生じた。別の言葉で言えば、集団の飛翔は一羽の飛翔にかかっている。我々の定義によれば、この集団の従順さは敬虔と言えるだろう。
敬虔さは、経験を一つにまとめることを含むので、定位の枠組みである。定位は正しいことも間違っていることもあり得る。正しい導きになることも間違った導きになることもあり得る。ある鳥が実際に危険を見たなら、集団がそれに反応することは正しい。危険が実在しないなら、集団は間違っている。どちらの場合にも、敬虔さは存在する。
更に用法を拡大しよう。長い間不幸で、不幸を抱えて孤独に生活している者がおり(死ぬために群れを離れる傷を負った動物のように)、毎日ある時間に隣から聞こえてくるドアベルの音をうるさく感じたとすると、自分の苦悩とドアベルとを結びつけて考えるようになるかもしれない。自分の悲惨さとこの癇にさわる音とを結びつけることとなる――数年の後、悲惨さから立ち直り、再び気丈さを取り戻したある日、隣から聞こえてくるあの特有のベルの音を聞いて、言いようのない重苦しさがのしかかってくることがあるかもしれない。この結合において、手に負えない充当はまさに「プルースト的な」ものであり、彼は敬虔さに関わっていることになる。それは狂気と混じり合った、気分における敬虔さである。
さて、これで限界にまで行く準備ができた。マシュー・アーノルド流の洗練された批評家が、繊細な趣味というのは「上流」階級に限られたものであり、彼らの名前は決して「ug」で終らないと仮定したとしよう。だが、このマシュー・アーノルドがガス工場の労働者めいたかっこうで街にたむろしていると想定すると、我々は彼が自分をうまく差別化できていないことを即座に理解する。彼に関するあらゆること、彼が言ったこともその言い方も不適切である。ありのままの彼を、その悪罵や、通りすがりの女性の品定めや、唾を吐く作法について見てみよう。この下品さのうちにこそ、道徳性が、彼が乱暴にも断ち切った仲間との深い感情的結びつきと、適切さの感覚に従う敬虔さがあらわれていないだろうか。なにに対して本気なのか、ガス工場のマシュー・アーノルドが日々いかなるときも、同じ集団の一員として何に献身しているか観察しよう。不作法な言動も敬虔さのあらわれである。
こうした考察は、法律の専門家やソーシャルワーカーが、腐敗、堕落、不統合などと見なす事柄について再解釈するよう我々を強いる。もしもある犯罪者が、犯罪性を自分の性格の一部をなすものだとし、他のあらゆる特徴や習慣に自分の犯罪性が伴っていると敬虔さをもって感じたとしたら、別の視点に立つ道徳家が彼のうちに発見する犯罪による堕落は、敬虔さの検証に関してまったく正反対の方向を示すことになる。犯罪者の意見は適切さに関する実直な感覚に導かれた統合であり、我々の個人的な判断の立場を捨てれば、大いに良心を示しているようにも思われる。
同様に、病院で薬と呼ばれていれば、「麻薬常習者」はなんら評判を傷つけることなくモルヒネを手に入れることができる。しかし、いかがわしい遊蕩のパーティーで注射するなら、彼の性格は次第にその顕著な「祭壇」を中心に形成されていくだろう――そして、この場合、その祭壇は一般的に不浄だとされているから、それに見合った不浄な手で向かわねばならず、最終的に落伍者となるのである。我々の学生時代には、常に健全な成長の例であったホームズのオウムガイのように、次々に貝殻を大きくし、規範から外れた完全なる邪悪さを完成させる。彼は自分に対する社会の扱い方と一体化し、彼の所謂堕落は、キーツの詩でと同じように、その周到さと機敏な選択でしるしづけられたものとなる。
もちろん、ここには更なる要素、相互関係の問題が含まれている。ある種の選択はそれ自体創造的である。それらは型にはまり、その型が今度は敬虔さを補強することになる。例えば、一度崖を飛び越えられた者は、その出来事を大事にし、崖を飛び越えたことのある者として性格を維持し、強化し続けることで自信を保つことができる。言い換えると、犯罪やドラッグに関与した者が、違反によってもたらされた危険や苦痛で自信をなくすなら、彼は更正への強い誘因を感じていることになる。犯罪や麻薬中毒という祭壇はあまりにも苛酷であり、自分の性格を特徴づける原理としては、より面倒の少ない祭壇との結びつきを望むのである。
だが、彼は既に、他の人間が同じ方向へ進むのを助けてしまうほどの場所に来ているかもしれない。具体的な外的関係が既に確立し、自分のつくりあげた詩の織物のなかで催眠にかかったかのようにからみ取られている。もはや引き返すことはできない――そこで、違法行為に従事する自分の性格を中断してくれるような些細な失敗を用意しておくことになる。弱気と疑いが生じ、自らを持するのに確信が足りないようなときには、自分のつくりだした修道院の壁のなかで規律に従うこととなる(つまり、彼の経験がまとった型に閉じ籠もる)。
更に、敬虔さはシステム構築でもあり、物事を完成させようとする欲望、経験を統一した全体に適合させようとすることでもある。敬虔さは、なにとなにが共にあるのが正しいのかについての感覚である。そしてそれは次のようなやり方で組織化される。祭壇があるとき、敬虔な人間は清潔な手でその祭壇に近づき、なんらかの儀式を行なう。ある種の象徴的な清潔さが祭壇にはあり、象徴的な清潔さを得るための技術が清潔さには伴い、準備や通過儀礼が洗い清めることには伴い、洗い清める必要はタブーの感覚に基づいている――等々と続き、敬虔さによる連合が日々の意味深い細部を結び合わせ、複雑な解釈のネットワークによる全体的統一へと関連づける。
敬虔さが、適正についての感覚を体現するものであるとしても、敬虔さには一概にそうとは言えない別の側面があるに違いない。愛の敬虔さ以外にも(貴婦人に対して鳥や花となる――或は、名誉や現在を楽しめというテーマから若い女性の美という観念を引きだすエリザベス朝人の機敏さ)、それほど敬虔ではない芸術の適正さが存在するだろう。三文芝居の悪党は巻き舌で話す。交響曲の英雄的瞬間には金管楽器が鳴り響く。夜のことを書く詩人は、夜特有の思いつきと、夜にまつわる様々なこと、パリの部屋にいるのなら、外に聞こえる通りを掃く物寂しい音などの要素を一緒くたにする。
私はこの敬虔さという概念を、我々の生活のあらゆる側面にあらわれる反応として確立しようとしているが、我々には完全に宗教が欠け、しかも「敬虔に至る過程」が教会に限定されると考えているために、敬虔さは我々から隠されていると言える。ベンサムは、詩(貧弱な種類の詩)が我々の話すことのうちに含まれていることを発見した。というのも、我々の言葉は、奥底にある感情の井戸からくみ出すことによって我々や聞き手に影響を与えるからである。我々はローマ時代の雄弁家の修辞的技巧を用いることなしに母国語を話すことはできない。そして、ベンサムは、科学の中立的な語彙に、会話から無意識の敬虔さを除去する試みを見た。(それに続けて、この中立的な語彙に対する欲望は、本質的で広い範囲にわたる去勢シンボルによる贖罪と解釈されるものであり、かくも貪欲に中立的な観念を公式化した偏屈な老独身者、その後継者たちよりもずっとメシア的な気質が認められるベンサムの場合には、特にそう考えられはしないかと自問することはなかった。)つまり、我々がみな詩人であり、すべての詩人が敬虔なら、我々は敬虔を、非常に大きな範囲において、野球の試合にさえ見いだすことができよう。実際、紙に書く者もいれば、喉を振り絞る者もいるが、生のすべてが詩を書くことに似ている。
私は敬虔さをなにとなにが伴うかについての感覚だと言ったとき、不条理な還元への道を開いてしまった。鳥の一群がいて、そのうちの一羽が正しいにせよ間違っているにせよ、飛ぶことを怖がったとしよう。残りの鳥たちにも恐れが生じた。別の言葉で言えば、集団の飛翔は一羽の飛翔にかかっている。我々の定義によれば、この集団の従順さは敬虔と言えるだろう。
敬虔さは、経験を一つにまとめることを含むので、定位の枠組みである。定位は正しいことも間違っていることもあり得る。正しい導きになることも間違った導きになることもあり得る。ある鳥が実際に危険を見たなら、集団がそれに反応することは正しい。危険が実在しないなら、集団は間違っている。どちらの場合にも、敬虔さは存在する。
更に用法を拡大しよう。長い間不幸で、不幸を抱えて孤独に生活している者がおり(死ぬために群れを離れる傷を負った動物のように)、毎日ある時間に隣から聞こえてくるドアベルの音をうるさく感じたとすると、自分の苦悩とドアベルとを結びつけて考えるようになるかもしれない。自分の悲惨さとこの癇にさわる音とを結びつけることとなる――数年の後、悲惨さから立ち直り、再び気丈さを取り戻したある日、隣から聞こえてくるあの特有のベルの音を聞いて、言いようのない重苦しさがのしかかってくることがあるかもしれない。この結合において、手に負えない充当はまさに「プルースト的な」ものであり、彼は敬虔さに関わっていることになる。それは狂気と混じり合った、気分における敬虔さである。
さて、これで限界にまで行く準備ができた。マシュー・アーノルド流の洗練された批評家が、繊細な趣味というのは「上流」階級に限られたものであり、彼らの名前は決して「ug」で終らないと仮定したとしよう。だが、このマシュー・アーノルドがガス工場の労働者めいたかっこうで街にたむろしていると想定すると、我々は彼が自分をうまく差別化できていないことを即座に理解する。彼に関するあらゆること、彼が言ったこともその言い方も不適切である。ありのままの彼を、その悪罵や、通りすがりの女性の品定めや、唾を吐く作法について見てみよう。この下品さのうちにこそ、道徳性が、彼が乱暴にも断ち切った仲間との深い感情的結びつきと、適切さの感覚に従う敬虔さがあらわれていないだろうか。なにに対して本気なのか、ガス工場のマシュー・アーノルドが日々いかなるときも、同じ集団の一員として何に献身しているか観察しよう。不作法な言動も敬虔さのあらわれである。
こうした考察は、法律の専門家やソーシャルワーカーが、腐敗、堕落、不統合などと見なす事柄について再解釈するよう我々を強いる。もしもある犯罪者が、犯罪性を自分の性格の一部をなすものだとし、他のあらゆる特徴や習慣に自分の犯罪性が伴っていると敬虔さをもって感じたとしたら、別の視点に立つ道徳家が彼のうちに発見する犯罪による堕落は、敬虔さの検証に関してまったく正反対の方向を示すことになる。犯罪者の意見は適切さに関する実直な感覚に導かれた統合であり、我々の個人的な判断の立場を捨てれば、大いに良心を示しているようにも思われる。
同様に、病院で薬と呼ばれていれば、「麻薬常習者」はなんら評判を傷つけることなくモルヒネを手に入れることができる。しかし、いかがわしい遊蕩のパーティーで注射するなら、彼の性格は次第にその顕著な「祭壇」を中心に形成されていくだろう――そして、この場合、その祭壇は一般的に不浄だとされているから、それに見合った不浄な手で向かわねばならず、最終的に落伍者となるのである。我々の学生時代には、常に健全な成長の例であったホームズのオウムガイのように、次々に貝殻を大きくし、規範から外れた完全なる邪悪さを完成させる。彼は自分に対する社会の扱い方と一体化し、彼の所謂堕落は、キーツの詩でと同じように、その周到さと機敏な選択でしるしづけられたものとなる。
もちろん、ここには更なる要素、相互関係の問題が含まれている。ある種の選択はそれ自体創造的である。それらは型にはまり、その型が今度は敬虔さを補強することになる。例えば、一度崖を飛び越えられた者は、その出来事を大事にし、崖を飛び越えたことのある者として性格を維持し、強化し続けることで自信を保つことができる。言い換えると、犯罪やドラッグに関与した者が、違反によってもたらされた危険や苦痛で自信をなくすなら、彼は更正への強い誘因を感じていることになる。犯罪や麻薬中毒という祭壇はあまりにも苛酷であり、自分の性格を特徴づける原理としては、より面倒の少ない祭壇との結びつきを望むのである。
だが、彼は既に、他の人間が同じ方向へ進むのを助けてしまうほどの場所に来ているかもしれない。具体的な外的関係が既に確立し、自分のつくりあげた詩の織物のなかで催眠にかかったかのようにからみ取られている。もはや引き返すことはできない――そこで、違法行為に従事する自分の性格を中断してくれるような些細な失敗を用意しておくことになる。弱気と疑いが生じ、自らを持するのに確信が足りないようなときには、自分のつくりだした修道院の壁のなかで規律に従うこととなる(つまり、彼の経験がまとった型に閉じ籠もる)。
2015年1月16日金曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』23
第一章 敬虔の有効範囲
魔術的意味と功利的意味
敬虔の問題に行き当たらずに、芸術の分野において意味の問題を十分に論じることはできない。サンタヤナは、どこかで、敬虔を存在の源への忠誠と定義している。こうした考え方は、敬虔が厳密に宗教的な領域に限られないことを示唆するだろう。陶工が粘土を自分の感覚通りに、あるべき形に完全に満足できるように形づくったときにもあらわれるものだろう。子供時代に我々の最初の判断パターンが発達し、成長してからの経験はその子供時代のパターンの修正であり敷衍であるから、敬虔と子供時代との関係は明らかであると思える。例えば、成人はその考えを父親から父親である政府に転じる。だが、後半生にいたっても、斧をもって大きな木を倒すようなとき、庇護してくれる気高い象徴が打ち倒されたかのような奇妙な心許なさを感じたとしても驚くにはあたらない。というのも、その行為がいかに中立的なものであり、木は暖を取るという単純な功利的な必要のために切り倒されたのだとしても、そこにはある種の象徴的な父親殺しが潜んでいるかもしれないからである。暖を取るための木ばかりでなく、親の象徴が粉々にされたのかもしれない。
現代社会での詩人たちの多大な不安は、純粋に功利的な行動の哲学が我々に要求する数多くの象徴的不法行為のせいである可能性もある。功利的な行為が比較的少なく、集団全体のための行為が普通であった原始時代では、特定の贖罪の儀式がそうした象徴的な不法行為を帳消しにするように思われた。魔術的な定位においては(詩と密接に関連しているが)、もし木を切り倒すことが象徴的な父親殺しの意味合いをもつなら、集団は恐らくそれに対応するような象徴的な贖罪の儀式を発達させるだろう。違反者は、かくして、自分が犯した罪を洗い清める技術を持つことになろう。
しかしながら、こうした行為に対する純粋に功利的な姿勢は、ことのほか不敬虔なしるしを導き入れることになる。まったく象徴的含みの働かないような意味は可能ではない。木が倒れ、奇妙な居心地の悪さを感じたなら、その妙な良心の呵責を断ち切って、気短に「ナンセンス!ただの木じゃないか、必要だったんだ、他にもまだ沢山あるじゃないか」と自ら言い聞かせることになるに違いない。行為の非功利的な性質は切り捨てられ――行為は「新たな人間」としてなされねばならない――巨大な樫の木が倒れたとき、詩人だけが当惑し悲しみを感じ、単に薪を得るだけではないより深い問題がここには存在するのだと感じることが許される。(現代の「懐疑的な」傾向を考えると、「木こり、この木を助ける者・・・」と、想像力豊かにそのスタイルを森に響く斧の音と定義する現代詩人の見解とがよい対照となるかもしれない。)
こうした考察はしばしば美学にも認められ、芸術と実践との直接的な対立を強調する傾向の根本にあるものかもしれない。というのも、もし我々の考察が正しいなら、純粋に功利的な姿勢は、真面目な詩人が断固として自分を表現しようとする象徴的な含みを抑圧することによってのみ取れるからである。そして、なぜその本質において深く詩人的であるニーチェのような作家において、純粋に合理主義的で功利主義的な理想が、異なった種族、激しく残酷な行為を取る超人を必要としたのかを理解させてくれる。
合理的で、科学的なカテゴリーが情的なカテゴリーと衝突する例として、ライオンの分類があろう。もし、ごく普通の精神分析的な象徴化の理論が正しいなら、ライオンは一際優れた男性或は父親の象徴である。だがライオンは科学的には猫の仲間であり、猫は情的には女性的なものである。偉大な詩や一般的な用法において、それは女性的な属性と結びついている。合理的なカテゴリーは、情的なカテゴリーとまったく行き違う連想をもっているわけである。情的に妥当な連携は合理的には不適切である。
合理的な象徴の秩序が情的な象徴の秩序とまったく異質な不調和を形成するこうした場合、激しい葛藤が生じ、合理的なカテゴリーに達しようとする徹底的な試みの後にも不安や居心地の悪さが残ることもあり得るのではないか。ダーウィンの激しい眩暈はまさしくこうした葛藤の証拠ではないだろうか。というのも、ダーウィンは情的なカテゴリーにおいて形成されたカテゴリーとは矛盾する合理的カテゴリーを打ち立てた最上の例だからである。感情的な結びつきとは異質な移動が生物学的分類の全域にわたって行なわれたが、一般の反発を見ればわかるように、彼が人間を神のカテゴリーから猿のカテゴリーへの移したことはその最も明白な例である。彼の結論を最初に聞いたとき、気絶した女性たちがいたとさえ記録されている(恐らく、自分たちは猿と寝ているのだという当惑の感情のせいもあろうが)。私自身に関して言えば、子供時代、純粋かつ単純に最も大きな犬だと思っていたライオンが猫の仲間だと学んだときの大きな憤りを忘れることはないだろう。
合理的な分類が全盛となったまさしくその時期に、詩において激しく突発的に、純粋に非合理的な象徴主義の連想があらわれたことは驚くにあたらない。その論理を経験に根づかせる詩人たちが、完全に合理的な考察の産物である正反対の論理に直面したとき、その当惑は相当のものだった。肥料会社の人間は、死んだ犬に対して、その犬をペットとして飼っていた子供とはまったく異なった態度を取る。化学反応のことしか気にしない功利的な連想とは対照的に、子供の連想は詩的、或は魔術的と呼べるだろう。
切り倒した木が薪であると同時に親の象徴であるようなとき、贖罪の必要を十分に考慮に入れ、大人としての行動に子供時代の意味合いをすべて受け入れるのが敬虔な人間と言えよう。そして、現代生活での罪の多くは、心理学的には、隠された違法行為を帳消しにする決定的で、一般に認められた技術が喪失しているためだと説明されるかもしれない。成功による正当化が、より深い魔術的な正当化に取って代わっているに違いない――そして、そうした成功は、通常、象徴的な侮辱を含む行為の技巧や力を強めていくものなので、成功を認めることは悪人としての役割に慣れていくことに違いない。こうした可能性のもと、我々は実際的精神をもつ者のなかにも、敬虔な贖罪を見いだすことができる。
いずれにしろ、敬虔さが我々が述べてきたような反応なら、次のような顕著な特徴をもつだろう。(1)それは子供時代の経験との著しい親和性を示しており、それによって、とりわけ、大きな変化の時代を生きる詩人たちがなぜしばしば子供っぽい姿勢を示すのかが説明される。それは、敬虔さと「過去の想起」との深い結びつきを示唆しているだろう。(2)なぜ敬虔さが苦痛に満ち、純然たる功利的行動にさえ含まれる象徴的な不法行為を中和するための象徴的な贖罪(殉教や強い功名心)を必要とするかを示唆するだろう。
魔術的意味と功利的意味
敬虔の問題に行き当たらずに、芸術の分野において意味の問題を十分に論じることはできない。サンタヤナは、どこかで、敬虔を存在の源への忠誠と定義している。こうした考え方は、敬虔が厳密に宗教的な領域に限られないことを示唆するだろう。陶工が粘土を自分の感覚通りに、あるべき形に完全に満足できるように形づくったときにもあらわれるものだろう。子供時代に我々の最初の判断パターンが発達し、成長してからの経験はその子供時代のパターンの修正であり敷衍であるから、敬虔と子供時代との関係は明らかであると思える。例えば、成人はその考えを父親から父親である政府に転じる。だが、後半生にいたっても、斧をもって大きな木を倒すようなとき、庇護してくれる気高い象徴が打ち倒されたかのような奇妙な心許なさを感じたとしても驚くにはあたらない。というのも、その行為がいかに中立的なものであり、木は暖を取るという単純な功利的な必要のために切り倒されたのだとしても、そこにはある種の象徴的な父親殺しが潜んでいるかもしれないからである。暖を取るための木ばかりでなく、親の象徴が粉々にされたのかもしれない。
現代社会での詩人たちの多大な不安は、純粋に功利的な行動の哲学が我々に要求する数多くの象徴的不法行為のせいである可能性もある。功利的な行為が比較的少なく、集団全体のための行為が普通であった原始時代では、特定の贖罪の儀式がそうした象徴的な不法行為を帳消しにするように思われた。魔術的な定位においては(詩と密接に関連しているが)、もし木を切り倒すことが象徴的な父親殺しの意味合いをもつなら、集団は恐らくそれに対応するような象徴的な贖罪の儀式を発達させるだろう。違反者は、かくして、自分が犯した罪を洗い清める技術を持つことになろう。
しかしながら、こうした行為に対する純粋に功利的な姿勢は、ことのほか不敬虔なしるしを導き入れることになる。まったく象徴的含みの働かないような意味は可能ではない。木が倒れ、奇妙な居心地の悪さを感じたなら、その妙な良心の呵責を断ち切って、気短に「ナンセンス!ただの木じゃないか、必要だったんだ、他にもまだ沢山あるじゃないか」と自ら言い聞かせることになるに違いない。行為の非功利的な性質は切り捨てられ――行為は「新たな人間」としてなされねばならない――巨大な樫の木が倒れたとき、詩人だけが当惑し悲しみを感じ、単に薪を得るだけではないより深い問題がここには存在するのだと感じることが許される。(現代の「懐疑的な」傾向を考えると、「木こり、この木を助ける者・・・」と、想像力豊かにそのスタイルを森に響く斧の音と定義する現代詩人の見解とがよい対照となるかもしれない。)
こうした考察はしばしば美学にも認められ、芸術と実践との直接的な対立を強調する傾向の根本にあるものかもしれない。というのも、もし我々の考察が正しいなら、純粋に功利的な姿勢は、真面目な詩人が断固として自分を表現しようとする象徴的な含みを抑圧することによってのみ取れるからである。そして、なぜその本質において深く詩人的であるニーチェのような作家において、純粋に合理主義的で功利主義的な理想が、異なった種族、激しく残酷な行為を取る超人を必要としたのかを理解させてくれる。
合理的で、科学的なカテゴリーが情的なカテゴリーと衝突する例として、ライオンの分類があろう。もし、ごく普通の精神分析的な象徴化の理論が正しいなら、ライオンは一際優れた男性或は父親の象徴である。だがライオンは科学的には猫の仲間であり、猫は情的には女性的なものである。偉大な詩や一般的な用法において、それは女性的な属性と結びついている。合理的なカテゴリーは、情的なカテゴリーとまったく行き違う連想をもっているわけである。情的に妥当な連携は合理的には不適切である。
合理的な象徴の秩序が情的な象徴の秩序とまったく異質な不調和を形成するこうした場合、激しい葛藤が生じ、合理的なカテゴリーに達しようとする徹底的な試みの後にも不安や居心地の悪さが残ることもあり得るのではないか。ダーウィンの激しい眩暈はまさしくこうした葛藤の証拠ではないだろうか。というのも、ダーウィンは情的なカテゴリーにおいて形成されたカテゴリーとは矛盾する合理的カテゴリーを打ち立てた最上の例だからである。感情的な結びつきとは異質な移動が生物学的分類の全域にわたって行なわれたが、一般の反発を見ればわかるように、彼が人間を神のカテゴリーから猿のカテゴリーへの移したことはその最も明白な例である。彼の結論を最初に聞いたとき、気絶した女性たちがいたとさえ記録されている(恐らく、自分たちは猿と寝ているのだという当惑の感情のせいもあろうが)。私自身に関して言えば、子供時代、純粋かつ単純に最も大きな犬だと思っていたライオンが猫の仲間だと学んだときの大きな憤りを忘れることはないだろう。
合理的な分類が全盛となったまさしくその時期に、詩において激しく突発的に、純粋に非合理的な象徴主義の連想があらわれたことは驚くにあたらない。その論理を経験に根づかせる詩人たちが、完全に合理的な考察の産物である正反対の論理に直面したとき、その当惑は相当のものだった。肥料会社の人間は、死んだ犬に対して、その犬をペットとして飼っていた子供とはまったく異なった態度を取る。化学反応のことしか気にしない功利的な連想とは対照的に、子供の連想は詩的、或は魔術的と呼べるだろう。
切り倒した木が薪であると同時に親の象徴であるようなとき、贖罪の必要を十分に考慮に入れ、大人としての行動に子供時代の意味合いをすべて受け入れるのが敬虔な人間と言えよう。そして、現代生活での罪の多くは、心理学的には、隠された違法行為を帳消しにする決定的で、一般に認められた技術が喪失しているためだと説明されるかもしれない。成功による正当化が、より深い魔術的な正当化に取って代わっているに違いない――そして、そうした成功は、通常、象徴的な侮辱を含む行為の技巧や力を強めていくものなので、成功を認めることは悪人としての役割に慣れていくことに違いない。こうした可能性のもと、我々は実際的精神をもつ者のなかにも、敬虔な贖罪を見いだすことができる。
いずれにしろ、敬虔さが我々が述べてきたような反応なら、次のような顕著な特徴をもつだろう。(1)それは子供時代の経験との著しい親和性を示しており、それによって、とりわけ、大きな変化の時代を生きる詩人たちがなぜしばしば子供っぽい姿勢を示すのかが説明される。それは、敬虔さと「過去の想起」との深い結びつきを示唆しているだろう。(2)なぜ敬虔さが苦痛に満ち、純然たる功利的行動にさえ含まれる象徴的な不法行為を中和するための象徴的な贖罪(殉教や強い功名心)を必要とするかを示唆するだろう。
2015年1月12日月曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』22
第二部 不調和による遠近法
第一部は「定位」一般を論じた。第三部は「新しい」定位の原理を論じるつもりである。中間の第二部は、移行そのもののあり方を扱うこととなろう。こうした変容の諸条件には単なる知的問題ばかりでなく、深い感情的問題が関わっているので、分析は「敬虔」と「不敬虔」についての議論に集中する。敬虔は、「存在の源」に従おうとする熱望であり、通常考えられているよりずっと幅広い動機をあらわしている。逆に、その最も良心的なものでさえも、新しい教説には必然的に、不敬虔の要素とそれに対応する罪の感覚が含まれている(その教説が後に、妥当性、非妥当性についての一般的に受け入れられた規範として正統になるにしても)。中間段階は、悲劇の祭儀における「かきむしり泣き叫ぶ」(生贄の八つ裂き)段階に類似した破壊や断片化を含んでいる。(ヘーゲル弁証法で相当する部分は、「ロゴノミカルな贖罪」と呼ばれる。)ここで、理性は「不調和による遠近法」と呼ばれ提示される(ヘルメス的、メルクリウス的スタイルが特に強調され、それらは互いに排除し合うと感じられていたカテゴリーを混ぜ合わせることで得られる)。これは「ガーゴイル」の領域である。特に、精神分析が不調和の遠近法によって見られる。というのも、その治療は不適当、或は「計画的な不調和」、或は「方法的な誤称」の原理に導かれているからである(悪魔払い師が、憑かれている者が言うのとは合致しない名前を呼んで悪魔を追い出すように)。しかし、新たな意味の探求には深い感情的なものが認められる一方(身体に聖痕となってさえあらわれる感情)、純粋に合理的、「知的な」要素の重要性もまた強調される。キリストと聖パウロが新たな意味を提示する異なったタイプとして比較される。
第一部は「定位」一般を論じた。第三部は「新しい」定位の原理を論じるつもりである。中間の第二部は、移行そのもののあり方を扱うこととなろう。こうした変容の諸条件には単なる知的問題ばかりでなく、深い感情的問題が関わっているので、分析は「敬虔」と「不敬虔」についての議論に集中する。敬虔は、「存在の源」に従おうとする熱望であり、通常考えられているよりずっと幅広い動機をあらわしている。逆に、その最も良心的なものでさえも、新しい教説には必然的に、不敬虔の要素とそれに対応する罪の感覚が含まれている(その教説が後に、妥当性、非妥当性についての一般的に受け入れられた規範として正統になるにしても)。中間段階は、悲劇の祭儀における「かきむしり泣き叫ぶ」(生贄の八つ裂き)段階に類似した破壊や断片化を含んでいる。(ヘーゲル弁証法で相当する部分は、「ロゴノミカルな贖罪」と呼ばれる。)ここで、理性は「不調和による遠近法」と呼ばれ提示される(ヘルメス的、メルクリウス的スタイルが特に強調され、それらは互いに排除し合うと感じられていたカテゴリーを混ぜ合わせることで得られる)。これは「ガーゴイル」の領域である。特に、精神分析が不調和の遠近法によって見られる。というのも、その治療は不適当、或は「計画的な不調和」、或は「方法的な誤称」の原理に導かれているからである(悪魔払い師が、憑かれている者が言うのとは合致しない名前を呼んで悪魔を追い出すように)。しかし、新たな意味の探求には深い感情的なものが認められる一方(身体に聖痕となってさえあらわれる感情)、純粋に合理的、「知的な」要素の重要性もまた強調される。キリストと聖パウロが新たな意味を提示する異なったタイプとして比較される。
2015年1月8日木曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』21
ヒューマニズム的な、或は詩的な合理化
誘いかけよりも支配に力点を置く科学的基準という文化の側面が排除され、縮小される傾向にあるなら、修正された合理化は擬人的、ヒューマニズム的、或は詩的な方向に向かうに違いない。宗教ではなく詩があげられるのは、多くの理由から必然的であるように思える。恐らくその筆頭にあげられるのは、詩が決して制度化されたことがなく、教会のように壊れた窓と散らかった戸口の巨大な廃墟の様相を呈していないという事実にある。また、「先祖返り」や「逆戻り」といった非難は、宗教に特殊なもので、詩に対して容易に向けられるものではない。(ちなみに、気味の悪い実験によって魔術的な合理化の威信と科学としての刷新とを結びつけた錬金術師に対して、底知れぬ暗闇へと先祖返りするものだと非難が起きたことは覚えておく価値がある。)
結局のところ、詩という手段は、人間の自発的な性質と密接に関連している。詩的な基準によって修正の哲学を枠組みすることで、我々は今度は「生物学的に」基礎づけられた参照点をもつことになろう。この点において、詩は、実用的な要求に基づいており啓示に頼らない科学的な精神病質からもたらされる権威を享受できる。いかなる新たな合理化も、できる限り、また必然的にそれが置き換わることになる威信を享受している合理化の「妥当性」のなかで議論を組み立てなければならないゆえに、これは重要な事実である。
他方において、詩的な参照点は、詩的コミュニケーションの媒体が弱まることによって弱まる。道具立てそのものが十分に安定し、集団のなかで広がりと恒久性をもつまでは、権威の中心は、詩本体よりも詩の哲学や心理学に位置づけられねばならない。もし我々が生産と配分のパターンに合うように我々の欲望を変えるのではなく、我々の健全な欲望に合うように生産と配分のパターンを変えるなら、人間の欲望の「集中する点」が見いだされるのは詩の領域に違いない。科学的合理化の修正は、必然的に芸術の根本理由となるように思われる――しかしながら、少数の者が生みだし、多数の者が見守るだけの達人や専門家の芸術ではなく、最も広い意味における芸術、生の芸術である。
誘いかけよりも支配に力点を置く科学的基準という文化の側面が排除され、縮小される傾向にあるなら、修正された合理化は擬人的、ヒューマニズム的、或は詩的な方向に向かうに違いない。宗教ではなく詩があげられるのは、多くの理由から必然的であるように思える。恐らくその筆頭にあげられるのは、詩が決して制度化されたことがなく、教会のように壊れた窓と散らかった戸口の巨大な廃墟の様相を呈していないという事実にある。また、「先祖返り」や「逆戻り」といった非難は、宗教に特殊なもので、詩に対して容易に向けられるものではない。(ちなみに、気味の悪い実験によって魔術的な合理化の威信と科学としての刷新とを結びつけた錬金術師に対して、底知れぬ暗闇へと先祖返りするものだと非難が起きたことは覚えておく価値がある。)
結局のところ、詩という手段は、人間の自発的な性質と密接に関連している。詩的な基準によって修正の哲学を枠組みすることで、我々は今度は「生物学的に」基礎づけられた参照点をもつことになろう。この点において、詩は、実用的な要求に基づいており啓示に頼らない科学的な精神病質からもたらされる権威を享受できる。いかなる新たな合理化も、できる限り、また必然的にそれが置き換わることになる威信を享受している合理化の「妥当性」のなかで議論を組み立てなければならないゆえに、これは重要な事実である。
他方において、詩的な参照点は、詩的コミュニケーションの媒体が弱まることによって弱まる。道具立てそのものが十分に安定し、集団のなかで広がりと恒久性をもつまでは、権威の中心は、詩本体よりも詩の哲学や心理学に位置づけられねばならない。もし我々が生産と配分のパターンに合うように我々の欲望を変えるのではなく、我々の健全な欲望に合うように生産と配分のパターンを変えるなら、人間の欲望の「集中する点」が見いだされるのは詩の領域に違いない。科学的合理化の修正は、必然的に芸術の根本理由となるように思われる――しかしながら、少数の者が生みだし、多数の者が見守るだけの達人や専門家の芸術ではなく、最も広い意味における芸術、生の芸術である。
2015年1月3日土曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』20
.. 第五章 魔術、宗教、科学
合理化の三種の体制
我々は定位に関する章を三種の合理化の体制、魔術、宗教、科学についてもっとしっかり考察することで終われたかもしれない。魔術は主として自然の力の支配を強調し、宗教は人間の力の支配を、科学は第三生産体制であるテクノロジーの支配を強調する。
『金枝篇』で、ジェイムズ・フレイザー卿は、これら三種の合理化の相似と相異について興味深い区別を施した。彼が言うには、魔術と実証科学は、自然過程の斉一性や規則性を仮定しており、適切な公式を発見することによってこの過程を利用しようとする。魔術と科学では、実行者が正確な手順を遵守すれば、望んだ結果が必然的に生じるだろう。うまくいかなかった場合、なすべき手順が間違っていたのか、不可測な要因が加わったのだと仮定されよう。
フレイザーによれば、科学や魔術の枠組みでは、実行者の力は自然の作用力についての知識の限界によってのみ制限される。「物事の原因を知り、世界の広大で入り組んだメカニズムを作動させる秘密の源に触れることのできる両者の前には、限りがないかのような可能性の眺望が拡がっている。」魔術や実証科学の仮定によれば、自然は不変の法則によって働いている。自然には偶然も気まぐれもない。正確な技術さえ手に入れれば、世界の変わることのない因果性を意のままにすることができる。判断の誤りは危険な結果を招きうるが、正確な判断による報酬は無限である。
こうした姿勢とは対照的に、フレイザーは宗教的な合理化として、和解的な要素を強調する。宗教的な実践者は、「自然と人間の生を導き、支配すると信じられている人間より優れた力を懐柔」しようとしている。宇宙の法則は不変なものではない。自由裁量の原理が導入される。知識と力(支配の技術ではなく)ではなく、謙遜、従順、迎合(誘いかけの様々な方法)が最重要となる。もし罪を犯してしまったら、因果法則をどんなに操作しても逃れる道はない――しかし、もし恩顧を得ることができ、超越的な力が望みさえすれば、自然法則でさえ変えうるだろう。
或は、主として人間の生産力を支配することを目的とする合理化が、人間の意識に最も特徴的なもの、選択の原理、決定というのはそのすべてがあらかじめ定められているのではなく、倫理的、創造的な新たなものだという感覚を天上世界の原理として導入したとも言えるかもしれない。人間を特徴づける自由の幻想は、自由意志を神に帰していることに反映していた。呪文や実験室での支配ではなく、祈りによる嘆願が必要とされた。というのも、「事物は支配しなければならないが、人間は誘い導かねばならない」からである。
かくして、魔術的科学的合理化は、正確な公式によって操作できる普遍的な法則性があるという仮定によって宗教と区別され、宗教は強制することはできず、なだめなければならない専横な原理が強調される。
フレイザーは、魔術の効力についての信念は、その誤りが発見されることで崩壊したと考えているようである。だが、彼の描きだした合理化は全体として首尾一貫しており、「実際的成功」によって充分確証されているので、反証によって信望を失うことになるかどうか私にはわからない。季節を規則正しく進行させたり、豊作を保証したり、子供の妊娠を助けたりする魔術師の能力は、驚くほどの成功を見せている。もし疫病や干魃がしばらくの間彼に抵抗するとしても、対抗する呪文が働いているのであり、合理化そのものは攻撃されないままに止まる。現代の科学者が、因果法則の操作をうまくできなかったときに、我々にはまだ十分な知識がないと謙虚に認めることができるようなものである。
こうした自律的な体系は、ただ外部からのみ攻撃できるものだと思われる。そして、攻撃は新たな観点が生じてきたときに生じるのだと私は思う。この観点は、自然の力の支配ではなく、人間の共同作業を強調する。我々はこの観点を、成功のためには生贄の苦しみに無関心な魔術に対する哲学的な修正と呼べる。修正の哲学によって変わった魔術は、我々に和解の魔術を与える。部族の儀式は専横な力を喜ばすことを目的とし、生贄はより人道的になることで象徴的な犠牲に取って代わられる。
この修正の哲学が次第に新たな合理化、宗教へと変容を遂げる。共同作業の技術がより複雑になり、神に好意をもたれたグループが確立すると、精神病質は自然になだめることに集中することとなろう。魔術的法則の権威は異なった精神病質、異なった関心のあり方が生じることによって破壊されるだろう。そして、人々が「自らの自由意志」によって選ぶよう誘導される和解のパターンは、宇宙の本質として読み取られることになった。喜ばせたり、不快にさせたりすることができる人格的で専横な神が存在した。
かくして、宗教的合理化は、魔術的枠組みの調和の取れた性質は欠けている。いまや、自然の運用には不整合性の余地があり、それはいつでも言っていることとやっていることが別な人間と関わる際に出会う事柄なのである。
恐らくは、宗教的な定位には専横な要素があり、そこから合理化という言葉の二重の使用法が生じた。一貫性の知覚という意味での合理化と、自己矛盾の正当化という意味での合理化である。しかし、世界観の根底に非合理的な原理を据えることは、無規制の正当化、迷信、インチキを許すゆえに満足のいくことではない。宗教的な合理化を哲学的に修正することは、通常、まさしく哲学そのものだと言われている。
意味深いことに、哲学的な観点は機械的発明にある関心によってその姿を明らかにした。様々な変転、失墜、再生の後に、それが育ててきた生産工場の本性を後ろ盾にして、全体的で首尾一貫した体制として最終的に祭り上げられた。それは長い間宇宙の本性と書かれてきた。最終的に、国家の基本的な型と書かれるに違いない。
しかし、殆ど完成され実現された状況に臨む観点は、当然ながらそれをより明確にし、次に必要となる修正案を求めることになる。科学を人間の合理化の最終的な達成と見なす者は、人間の反応にある重要な側面を無視している可能性がある。完全で安定した条件といえども、しばらくの間続くと、最初に始まったときと同じ意味はもっていない。
科学がその究極的な政治的等価物を得て、完全に聖堂に祭られることになれば、我々は科学的な理想になにが欠けているかを正確に認め、それに応じた修正哲学の枠組みをとることができる。現在のところ、事態はいまだ問題が多く、テクノロジー的な生産方法が、長い間、必要とする政治的手段によって補われているところなどないという事実によって問題はより複雑になっている。それ故、純粋で単純な科学を推し進めようとする精神病質的傾向は、科学的合理化の完成という限られた社会的必要によっていまだに駆り立てられている。
恐らくは、こうした理由によって、科学的な方法を、科学の主要な仮定そのものが崩れ始めるところまで研究を進める哲学的科学者たちは、最も重要な文化的おくれ(不適切な政治構造であり、その諸手段はより以前の定位の残存である)は改善すべきことを決して忘れない者たちからは、神秘家や反動家としてあざ笑われる。
科学に対する修正哲学へのこうした攻撃は、注意深く精密な推論に基づいていることは滅多になく、一般的に、科学的な合理化そのものの権威への訴えかけによって正当化される。「神秘家」は実証科学によって確立された規範に止まることができないといって非難されるが、それは、科学がこれまでいかなるどんな確立された規範に対しても、慎重でたゆむことなく疑問を投げかけていったのを忘れたかのようである。科学をめぐる戦いにもある種のクイーンズバリー公爵夫人ルールが存在し始めたようであって、科学的合理化の既得権益に対して懐疑的な者は、中世の人間の考え方に強くあこがれ、戻りたがっていると疑われる。
科学的な合理化に対する哲学的修正は、ほぼ必然的に、宗教的合理化とのなんらかの表面的な類似性を示さなければならない。というのも、いかに熱心に機械のパターンに従って、心理学的なパターンを作り直そうとしても、人間は本質的に人間的であり――人間の力(精神と身体そのものの有機的な生産力)を支配する目的をもつのが宗教的合理化だからである。十九世紀を通じ、修正哲学が確立しうる礎として探求されたものは、ごく自然に強い動物的な要素を帯びていた(ニーチェの言葉による)。合理的なものと科学的進歩の増大によって特徴づけられた時代はまた、生、本能、無意識、衝動、原始的なものの栄光が補完的に強調された世紀でもあった。詩人たちは、生産工場を稼働し続けることだけを目的とし、人々の眼から覆い隠されていた人間の性質を際だたせようとした。
教会は満足な解決策を提示することがなかった。厳格で正統的な立場から現代の潮流に攻撃を加える者たちの間には、もちろん、最初から非難の声が響き渡っていた。多くの有能で立派な人物たちが、より弱い戦略的立場である主観主義(「私は個人的には好きではない」)、メランコリー(「ああ、昔はなんてよかったのだろう」)、皮肉(「よろしい、好きなようにやりたまえ」)へと変わることを余儀なくされるなか、「非個人的な」理由という厳めしい後ろ盾をもって「力強く」訴える者もいた。だが、全体的に言って、それは負け試合だった。第一、宗教の真に説得的な本質は、非難にあるのではなく、迎合や誘いかけの戦術にあるからである。一にして永遠な真実の擁護者は、際限なく自分の恨みを満足させるわがまま者として非難されねばならない。バートランド・ラッセルは、現代の信仰の擁護者の殆どに悪意の要素を認めている。更に、教会の厳格な教義は、歴史の転換によって見当違いとなったり、完全に危険なものとなった定位の上部構造を化石化した状態で保持していたのである。そして、最後に、真の教会は当節の瘴気溢れる沼のカバ飼育場ほどにも制度化されていないものだが、悲劇と献身の深く宗教的な心理学は地下墓地へと退く一方、「無秩序」で、「腐敗した」、「無神論的な」詩人たちの哀悼に満ちた敬虔さだけが残されたのである。
教会人は、最も脆弱で、最も中心から離れた科学者に過ぎず、古くからの合理化を新しいものに見せようとして、数限りない無益な道化芝居に従事している。彼らは科学によって理想化された合理性や一貫性の基準によって宗教的構造を作り直そうとした。彼らはまた、宗教的合理化が進歩以外のなにものをも求めないかのように、進歩を支持した。それはいまある共同のシステムを安定化しようとするものだった。内々では、進歩は変化を含むために、進歩とは反対の側に立っていた。しかし、進歩の威信が巨大になると、教会人でさえ、いかなる合理化も、それなりのものであれば、現状の維持を目的として発展されることが信じがたくなった。
しかしながら、進歩の威信は必然的に減じていくに違いない。進歩が現実のものとなり、安定への欲望が生まれ、進歩というスローガンの魔術的な魅力が消え去るまでは、観点のなかには進歩が含まれることだろう。
合理化の三種の体制
我々は定位に関する章を三種の合理化の体制、魔術、宗教、科学についてもっとしっかり考察することで終われたかもしれない。魔術は主として自然の力の支配を強調し、宗教は人間の力の支配を、科学は第三生産体制であるテクノロジーの支配を強調する。
『金枝篇』で、ジェイムズ・フレイザー卿は、これら三種の合理化の相似と相異について興味深い区別を施した。彼が言うには、魔術と実証科学は、自然過程の斉一性や規則性を仮定しており、適切な公式を発見することによってこの過程を利用しようとする。魔術と科学では、実行者が正確な手順を遵守すれば、望んだ結果が必然的に生じるだろう。うまくいかなかった場合、なすべき手順が間違っていたのか、不可測な要因が加わったのだと仮定されよう。
フレイザーによれば、科学や魔術の枠組みでは、実行者の力は自然の作用力についての知識の限界によってのみ制限される。「物事の原因を知り、世界の広大で入り組んだメカニズムを作動させる秘密の源に触れることのできる両者の前には、限りがないかのような可能性の眺望が拡がっている。」魔術や実証科学の仮定によれば、自然は不変の法則によって働いている。自然には偶然も気まぐれもない。正確な技術さえ手に入れれば、世界の変わることのない因果性を意のままにすることができる。判断の誤りは危険な結果を招きうるが、正確な判断による報酬は無限である。
こうした姿勢とは対照的に、フレイザーは宗教的な合理化として、和解的な要素を強調する。宗教的な実践者は、「自然と人間の生を導き、支配すると信じられている人間より優れた力を懐柔」しようとしている。宇宙の法則は不変なものではない。自由裁量の原理が導入される。知識と力(支配の技術ではなく)ではなく、謙遜、従順、迎合(誘いかけの様々な方法)が最重要となる。もし罪を犯してしまったら、因果法則をどんなに操作しても逃れる道はない――しかし、もし恩顧を得ることができ、超越的な力が望みさえすれば、自然法則でさえ変えうるだろう。
或は、主として人間の生産力を支配することを目的とする合理化が、人間の意識に最も特徴的なもの、選択の原理、決定というのはそのすべてがあらかじめ定められているのではなく、倫理的、創造的な新たなものだという感覚を天上世界の原理として導入したとも言えるかもしれない。人間を特徴づける自由の幻想は、自由意志を神に帰していることに反映していた。呪文や実験室での支配ではなく、祈りによる嘆願が必要とされた。というのも、「事物は支配しなければならないが、人間は誘い導かねばならない」からである。
かくして、魔術的科学的合理化は、正確な公式によって操作できる普遍的な法則性があるという仮定によって宗教と区別され、宗教は強制することはできず、なだめなければならない専横な原理が強調される。
フレイザーは、魔術の効力についての信念は、その誤りが発見されることで崩壊したと考えているようである。だが、彼の描きだした合理化は全体として首尾一貫しており、「実際的成功」によって充分確証されているので、反証によって信望を失うことになるかどうか私にはわからない。季節を規則正しく進行させたり、豊作を保証したり、子供の妊娠を助けたりする魔術師の能力は、驚くほどの成功を見せている。もし疫病や干魃がしばらくの間彼に抵抗するとしても、対抗する呪文が働いているのであり、合理化そのものは攻撃されないままに止まる。現代の科学者が、因果法則の操作をうまくできなかったときに、我々にはまだ十分な知識がないと謙虚に認めることができるようなものである。
こうした自律的な体系は、ただ外部からのみ攻撃できるものだと思われる。そして、攻撃は新たな観点が生じてきたときに生じるのだと私は思う。この観点は、自然の力の支配ではなく、人間の共同作業を強調する。我々はこの観点を、成功のためには生贄の苦しみに無関心な魔術に対する哲学的な修正と呼べる。修正の哲学によって変わった魔術は、我々に和解の魔術を与える。部族の儀式は専横な力を喜ばすことを目的とし、生贄はより人道的になることで象徴的な犠牲に取って代わられる。
この修正の哲学が次第に新たな合理化、宗教へと変容を遂げる。共同作業の技術がより複雑になり、神に好意をもたれたグループが確立すると、精神病質は自然になだめることに集中することとなろう。魔術的法則の権威は異なった精神病質、異なった関心のあり方が生じることによって破壊されるだろう。そして、人々が「自らの自由意志」によって選ぶよう誘導される和解のパターンは、宇宙の本質として読み取られることになった。喜ばせたり、不快にさせたりすることができる人格的で専横な神が存在した。
かくして、宗教的合理化は、魔術的枠組みの調和の取れた性質は欠けている。いまや、自然の運用には不整合性の余地があり、それはいつでも言っていることとやっていることが別な人間と関わる際に出会う事柄なのである。
恐らくは、宗教的な定位には専横な要素があり、そこから合理化という言葉の二重の使用法が生じた。一貫性の知覚という意味での合理化と、自己矛盾の正当化という意味での合理化である。しかし、世界観の根底に非合理的な原理を据えることは、無規制の正当化、迷信、インチキを許すゆえに満足のいくことではない。宗教的な合理化を哲学的に修正することは、通常、まさしく哲学そのものだと言われている。
意味深いことに、哲学的な観点は機械的発明にある関心によってその姿を明らかにした。様々な変転、失墜、再生の後に、それが育ててきた生産工場の本性を後ろ盾にして、全体的で首尾一貫した体制として最終的に祭り上げられた。それは長い間宇宙の本性と書かれてきた。最終的に、国家の基本的な型と書かれるに違いない。
しかし、殆ど完成され実現された状況に臨む観点は、当然ながらそれをより明確にし、次に必要となる修正案を求めることになる。科学を人間の合理化の最終的な達成と見なす者は、人間の反応にある重要な側面を無視している可能性がある。完全で安定した条件といえども、しばらくの間続くと、最初に始まったときと同じ意味はもっていない。
科学がその究極的な政治的等価物を得て、完全に聖堂に祭られることになれば、我々は科学的な理想になにが欠けているかを正確に認め、それに応じた修正哲学の枠組みをとることができる。現在のところ、事態はいまだ問題が多く、テクノロジー的な生産方法が、長い間、必要とする政治的手段によって補われているところなどないという事実によって問題はより複雑になっている。それ故、純粋で単純な科学を推し進めようとする精神病質的傾向は、科学的合理化の完成という限られた社会的必要によっていまだに駆り立てられている。
恐らくは、こうした理由によって、科学的な方法を、科学の主要な仮定そのものが崩れ始めるところまで研究を進める哲学的科学者たちは、最も重要な文化的おくれ(不適切な政治構造であり、その諸手段はより以前の定位の残存である)は改善すべきことを決して忘れない者たちからは、神秘家や反動家としてあざ笑われる。
科学に対する修正哲学へのこうした攻撃は、注意深く精密な推論に基づいていることは滅多になく、一般的に、科学的な合理化そのものの権威への訴えかけによって正当化される。「神秘家」は実証科学によって確立された規範に止まることができないといって非難されるが、それは、科学がこれまでいかなるどんな確立された規範に対しても、慎重でたゆむことなく疑問を投げかけていったのを忘れたかのようである。科学をめぐる戦いにもある種のクイーンズバリー公爵夫人ルールが存在し始めたようであって、科学的合理化の既得権益に対して懐疑的な者は、中世の人間の考え方に強くあこがれ、戻りたがっていると疑われる。
科学的な合理化に対する哲学的修正は、ほぼ必然的に、宗教的合理化とのなんらかの表面的な類似性を示さなければならない。というのも、いかに熱心に機械のパターンに従って、心理学的なパターンを作り直そうとしても、人間は本質的に人間的であり――人間の力(精神と身体そのものの有機的な生産力)を支配する目的をもつのが宗教的合理化だからである。十九世紀を通じ、修正哲学が確立しうる礎として探求されたものは、ごく自然に強い動物的な要素を帯びていた(ニーチェの言葉による)。合理的なものと科学的進歩の増大によって特徴づけられた時代はまた、生、本能、無意識、衝動、原始的なものの栄光が補完的に強調された世紀でもあった。詩人たちは、生産工場を稼働し続けることだけを目的とし、人々の眼から覆い隠されていた人間の性質を際だたせようとした。
教会は満足な解決策を提示することがなかった。厳格で正統的な立場から現代の潮流に攻撃を加える者たちの間には、もちろん、最初から非難の声が響き渡っていた。多くの有能で立派な人物たちが、より弱い戦略的立場である主観主義(「私は個人的には好きではない」)、メランコリー(「ああ、昔はなんてよかったのだろう」)、皮肉(「よろしい、好きなようにやりたまえ」)へと変わることを余儀なくされるなか、「非個人的な」理由という厳めしい後ろ盾をもって「力強く」訴える者もいた。だが、全体的に言って、それは負け試合だった。第一、宗教の真に説得的な本質は、非難にあるのではなく、迎合や誘いかけの戦術にあるからである。一にして永遠な真実の擁護者は、際限なく自分の恨みを満足させるわがまま者として非難されねばならない。バートランド・ラッセルは、現代の信仰の擁護者の殆どに悪意の要素を認めている。更に、教会の厳格な教義は、歴史の転換によって見当違いとなったり、完全に危険なものとなった定位の上部構造を化石化した状態で保持していたのである。そして、最後に、真の教会は当節の瘴気溢れる沼のカバ飼育場ほどにも制度化されていないものだが、悲劇と献身の深く宗教的な心理学は地下墓地へと退く一方、「無秩序」で、「腐敗した」、「無神論的な」詩人たちの哀悼に満ちた敬虔さだけが残されたのである。
教会人は、最も脆弱で、最も中心から離れた科学者に過ぎず、古くからの合理化を新しいものに見せようとして、数限りない無益な道化芝居に従事している。彼らは科学によって理想化された合理性や一貫性の基準によって宗教的構造を作り直そうとした。彼らはまた、宗教的合理化が進歩以外のなにものをも求めないかのように、進歩を支持した。それはいまある共同のシステムを安定化しようとするものだった。内々では、進歩は変化を含むために、進歩とは反対の側に立っていた。しかし、進歩の威信が巨大になると、教会人でさえ、いかなる合理化も、それなりのものであれば、現状の維持を目的として発展されることが信じがたくなった。
しかしながら、進歩の威信は必然的に減じていくに違いない。進歩が現実のものとなり、安定への欲望が生まれ、進歩というスローガンの魔術的な魅力が消え去るまでは、観点のなかには進歩が含まれることだろう。
2014年12月25日木曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』19
定義の必要
状況は次のように譬えることができる。鳥の一群が、繁殖していって、非常に多様な生活の様式を発達させていった。彼らはいまでは異なった場所に異なった餌を探しに出かけ、それ故、被る危険の種類や程度も相当に違っている。また、彼らの餌を集める方法は、逃げる才能によって異なる。他の鳥よりより素早く餌をとって逃げられる鳥もいる。木で餌をとる鳥の危険と地面や水のなかで餌をとる鳥の危険とでは異なる。
だが、彼らが未だに自分たちを同質の一団とみなし、不調和でも共にいることに固執し、同質の文化で生活していたときと同じ定位で行動しようとしているとしよう。この文化的雑駁さは彼らにどんな影響を与えるだろうか。彼らの反応は混乱に投げ込まれないだろうか。あるメンバーの注意を促す叫びは、記号としての絶対的な価値を失ってしまうだろう。木にいるグループの落ち着きは、もはや水のなかにいる鳥たちには適切な安全のしるしとはならないかもしれない。海岸で餌をとっている鳥の危険を知らせる鳴き声は、水のなかや木にいる鳥たちには同じような危険を示すものとはならないだろう。
彼らは会話ができるとしよう。まず始めに主張されるのは、この混乱を一掃するための定義づけではないだろうか。危険、安全、餌などの言葉だけでは十分ではないだろう。正確な批評的語彙も導入されるべきだろう。どんな状況下での危険なのか、どのメンバーにとっての餌なのか、等々。羽ばたきをしたり叫びを上げたりする昔ながらの詩的な方法は威信を失うこととなろう。扇動家や愚か者だけがそうした手段に頼ることとなろう。最も知的な鳥たちは、厳密で曖昧さのない命名法の完成を主張することだろう。
中世においては、文化的に異質な地域の間にコミュニケーションのシステムを拡大することが試みられ、特有のシンボル体系をもち学者の言語である、学問上のラテン語が発達した。それには口語体の柔軟性が欠けていた。しかし、人工的な媒体から借りることによってのみもつことのできる概念的な無感情を獲得した。そのときの状況といまの状況、多くの様々に異なる学問分野、異なった生活の様式、異なった精神病質を横断するようなコミュニケーション媒体を確立しようとしているいまとは顕著な類似性がないだろうか。前世紀の美的部門主義を経験することで、我々は広範囲にわたる手旗信号のシステム、言語というよりもむしろ用語法を生みだそうとしているのではないだろうか。
現代の歴史家は、扱いにくく、当時においては一般的であった媒体を壊したということで、ダンテのような作家を好んで称揚する。彼が拒否した言語は、北スコットランドで言ったことと南イタリアで言ったこととが同じことを指すよう形づくられていた。学識ある歴史家たちは、この概念的な言葉(大衆の使うラテン語ではなく、神学者の使うラテン語)から、限られた地方の媒体を採用したといって彼を称讃する。同時に、今日において同じような段階を経て、特殊な経験を特有の言葉で書く現代の詩人たちを嫌うのである――そして、ダンテが捨て去ったとして彼らが称讃したのと同じ種類の媒体を完成させることに自らは進むのである。我々は彼らの不整合性を攻めているわけではない。状況は変わっている。ダンテの時代は、カトリックの普遍性が終わりを告げようとしていた。政治的な領域で、教皇党から皇帝党へと変化したことは、詩的な領域でラテン語からイタリア語へ転換したのと平行関係にある。この時点において、目的に対する国家的統一が形成され始め、口語への信望が高まるにつれて、詩的媒体が崩れていったのではなく、生じたのである。
我々は俗語が単なる悪しきラテン語ではなく、学者のラテン語が完璧になった俗語でもないことを留意しておかねばならない。それらは二つの異なった種類のコミュニケーションのための、二つの異なった道具である。俗語は、人工的に裁ち切られた語彙が無視したような類の効果をまさしく目的としている。というのも、我々は覚えておかなければならないが、概念的な言葉というのはそれが排除し、抽象した後に残しておくものによって主たる価値が決まる。通常我々は抽象を非常に繊細な過程だと考えているが、別の観点からすれば、非常に鈍感とも考えられる。例えば、秤という抽象を考えてみると、その目盛りは一ポンドの羽毛と一ポンドの鉛とを区別できない。重さ以外のすべてを排除して判断している。
今日の新聞の英語は、恐らくは厳密な科学的コミュニケーションを越えたところにあるテクノロジー的精神病質をあらわしている。常に情報に訴えかけることは、明らかに精神病質的な要求によって支えられており、人々は相次ぐ情報をごく低い注意のレベルでしか読んでいないので、数時間後には何を読んだのかさえ思い出すことができない。だが、情報に対する飢餓感は続き、絶え間なく与え続けられねばならない。同じ文章、同じ物語が一冊の本に何度もあらわれたらうんざりすることだろう。赤新聞やコラムニストを除けば、その散文は共通分母の上にあり、スタイルによる迎合の跡はまったく消し去られている。よりましな新聞でも、電報スタイルの真似さえ見あたらない。消去は全体に及んでいる。批評家は、マシュー・アーノルドに倣って、その作法を強調するよりもむしろ作法が欠けていると非難するのが常であるが、それでも赤新聞はある作法を得ようとしている。語の響きを愛する者は、不安を煽るような見出しの響きと調子に、ひねくれてはいるが真の喜びを得て、眼と頭だけしか使っていないような穏健な金融リポートを読もうとしても、うちとけない嫌悪感を感じるだろう。
コミュニケーション媒体の混乱はある部分ではそれを克服する試みを生むし、ある部分ではそれを避けて通る試みを生む。人は言いたいことをそのハンディキャップなど関係なく言おうとするかもしれないし、ハンディキャップのなかで言える最良のことを選んで言おうとするかもしれない。詩人(想像力を使う作家一般)は言語的な混乱とは関係なく自分の言いたいことを言い続けるグループの代表だが、二つの不満足な解決法のどちらかに進む傾向がある。限られた精神病質を深く取り込むか、一般的な精神病質を表面的に取り込むかである。科学者や技術者は、欠点を長所に変えるグループを代表する。彼らの言葉は、スコラ主義のラテン語以上に、十分に複雑な詩的媒体としての魅力ある響きや、擬態による補強や、漠然と人間の諸状況を思い起こさせるような部分に欠けている。科学者のシンボルには、本を調べることで適切に反応できる。柔軟性に欠けていることが助けとなり、柔軟性に訴えかける必要がない。第三生産体制(科学技術的な)を合理化する言葉は、擬人的内容を低く抑えることで、擬人化への誘惑を概ね乗り越えることができる。それは機械の設計である。
状況は次のように譬えることができる。鳥の一群が、繁殖していって、非常に多様な生活の様式を発達させていった。彼らはいまでは異なった場所に異なった餌を探しに出かけ、それ故、被る危険の種類や程度も相当に違っている。また、彼らの餌を集める方法は、逃げる才能によって異なる。他の鳥よりより素早く餌をとって逃げられる鳥もいる。木で餌をとる鳥の危険と地面や水のなかで餌をとる鳥の危険とでは異なる。
だが、彼らが未だに自分たちを同質の一団とみなし、不調和でも共にいることに固執し、同質の文化で生活していたときと同じ定位で行動しようとしているとしよう。この文化的雑駁さは彼らにどんな影響を与えるだろうか。彼らの反応は混乱に投げ込まれないだろうか。あるメンバーの注意を促す叫びは、記号としての絶対的な価値を失ってしまうだろう。木にいるグループの落ち着きは、もはや水のなかにいる鳥たちには適切な安全のしるしとはならないかもしれない。海岸で餌をとっている鳥の危険を知らせる鳴き声は、水のなかや木にいる鳥たちには同じような危険を示すものとはならないだろう。
彼らは会話ができるとしよう。まず始めに主張されるのは、この混乱を一掃するための定義づけではないだろうか。危険、安全、餌などの言葉だけでは十分ではないだろう。正確な批評的語彙も導入されるべきだろう。どんな状況下での危険なのか、どのメンバーにとっての餌なのか、等々。羽ばたきをしたり叫びを上げたりする昔ながらの詩的な方法は威信を失うこととなろう。扇動家や愚か者だけがそうした手段に頼ることとなろう。最も知的な鳥たちは、厳密で曖昧さのない命名法の完成を主張することだろう。
中世においては、文化的に異質な地域の間にコミュニケーションのシステムを拡大することが試みられ、特有のシンボル体系をもち学者の言語である、学問上のラテン語が発達した。それには口語体の柔軟性が欠けていた。しかし、人工的な媒体から借りることによってのみもつことのできる概念的な無感情を獲得した。そのときの状況といまの状況、多くの様々に異なる学問分野、異なった生活の様式、異なった精神病質を横断するようなコミュニケーション媒体を確立しようとしているいまとは顕著な類似性がないだろうか。前世紀の美的部門主義を経験することで、我々は広範囲にわたる手旗信号のシステム、言語というよりもむしろ用語法を生みだそうとしているのではないだろうか。
現代の歴史家は、扱いにくく、当時においては一般的であった媒体を壊したということで、ダンテのような作家を好んで称揚する。彼が拒否した言語は、北スコットランドで言ったことと南イタリアで言ったこととが同じことを指すよう形づくられていた。学識ある歴史家たちは、この概念的な言葉(大衆の使うラテン語ではなく、神学者の使うラテン語)から、限られた地方の媒体を採用したといって彼を称讃する。同時に、今日において同じような段階を経て、特殊な経験を特有の言葉で書く現代の詩人たちを嫌うのである――そして、ダンテが捨て去ったとして彼らが称讃したのと同じ種類の媒体を完成させることに自らは進むのである。我々は彼らの不整合性を攻めているわけではない。状況は変わっている。ダンテの時代は、カトリックの普遍性が終わりを告げようとしていた。政治的な領域で、教皇党から皇帝党へと変化したことは、詩的な領域でラテン語からイタリア語へ転換したのと平行関係にある。この時点において、目的に対する国家的統一が形成され始め、口語への信望が高まるにつれて、詩的媒体が崩れていったのではなく、生じたのである。
我々は俗語が単なる悪しきラテン語ではなく、学者のラテン語が完璧になった俗語でもないことを留意しておかねばならない。それらは二つの異なった種類のコミュニケーションのための、二つの異なった道具である。俗語は、人工的に裁ち切られた語彙が無視したような類の効果をまさしく目的としている。というのも、我々は覚えておかなければならないが、概念的な言葉というのはそれが排除し、抽象した後に残しておくものによって主たる価値が決まる。通常我々は抽象を非常に繊細な過程だと考えているが、別の観点からすれば、非常に鈍感とも考えられる。例えば、秤という抽象を考えてみると、その目盛りは一ポンドの羽毛と一ポンドの鉛とを区別できない。重さ以外のすべてを排除して判断している。
今日の新聞の英語は、恐らくは厳密な科学的コミュニケーションを越えたところにあるテクノロジー的精神病質をあらわしている。常に情報に訴えかけることは、明らかに精神病質的な要求によって支えられており、人々は相次ぐ情報をごく低い注意のレベルでしか読んでいないので、数時間後には何を読んだのかさえ思い出すことができない。だが、情報に対する飢餓感は続き、絶え間なく与え続けられねばならない。同じ文章、同じ物語が一冊の本に何度もあらわれたらうんざりすることだろう。赤新聞やコラムニストを除けば、その散文は共通分母の上にあり、スタイルによる迎合の跡はまったく消し去られている。よりましな新聞でも、電報スタイルの真似さえ見あたらない。消去は全体に及んでいる。批評家は、マシュー・アーノルドに倣って、その作法を強調するよりもむしろ作法が欠けていると非難するのが常であるが、それでも赤新聞はある作法を得ようとしている。語の響きを愛する者は、不安を煽るような見出しの響きと調子に、ひねくれてはいるが真の喜びを得て、眼と頭だけしか使っていないような穏健な金融リポートを読もうとしても、うちとけない嫌悪感を感じるだろう。
コミュニケーション媒体の混乱はある部分ではそれを克服する試みを生むし、ある部分ではそれを避けて通る試みを生む。人は言いたいことをそのハンディキャップなど関係なく言おうとするかもしれないし、ハンディキャップのなかで言える最良のことを選んで言おうとするかもしれない。詩人(想像力を使う作家一般)は言語的な混乱とは関係なく自分の言いたいことを言い続けるグループの代表だが、二つの不満足な解決法のどちらかに進む傾向がある。限られた精神病質を深く取り込むか、一般的な精神病質を表面的に取り込むかである。科学者や技術者は、欠点を長所に変えるグループを代表する。彼らの言葉は、スコラ主義のラテン語以上に、十分に複雑な詩的媒体としての魅力ある響きや、擬態による補強や、漠然と人間の諸状況を思い起こさせるような部分に欠けている。科学者のシンボルには、本を調べることで適切に反応できる。柔軟性に欠けていることが助けとなり、柔軟性に訴えかける必要がない。第三生産体制(科学技術的な)を合理化する言葉は、擬人的内容を低く抑えることで、擬人化への誘惑を概ね乗り越えることができる。それは機械の設計である。
2014年12月21日日曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』18
多様なロマン主義的解決
温室のなかで再び古い結びつきを観察し、問題に突き当たる詩人もいる。彼らは古代地中海の伝承を思い起こす。アナトール・フランスのように、メランコリーとイロニーが混じり合ったなかで、「本の余白に走り書きをする」。選ばれた者たち、いまの風潮を嫌い、よりよい世界を攻撃的に象徴化することで、自分たちの嫌悪感を肯定してもらいたがっている、漠然とした量のXのために書く者もいる。それらに密接に関連してるのは、自分たちの心に耳を傾け、個人の生において避けがたく生じてくる結びつきを捉え、それが他の生と重なりあうところで結びつきを確立しようと望む作家たちである。永遠なものが急ごしらえに一晩で建てられ、過去を生き抜いてきた者の観点からすると、笑われるのが落ちな安普請を諷刺する者もいる。その時々の一般の関心に素早く合わせ、偏りを見越し、戦争時には戦争劇を売り、新聞が大臣とその取り巻きたちとのスキャンダルでいっぱいなら悪徳劇を売ることで自分の芸術を社会化する者もいる。それほどご都合主義的でない者は、新しい科学的発見を用い、遺伝の問題が広く語られ話題になっているときに、梅毒やアルコール依存症の惨禍を描きだすかもしれない。
比較的テクノロジー偏重の西洋の侵害を受けていない地域で住んだり、以前には訓練されているというよりは無能だと考えられていた多様な集団――無法者、泥棒、木こり、娼婦、漁師、密輸業者、鉱夫、店員、闘牛士等々――から自然発生的に生まれてきた新道徳を明らかにし、利用することで新たな原始性を得ようとする試みもある。こうした新原始主義の別のグループは、否定し得ない普遍的な基盤として性的関心を強調する。
問題そのものから出発することで問題と取り組む者もいる。彼らの芸術は芸術の方法論となる。恐らく、最も徹底的にそれを行なったのは後期のジェイムズ・ジョイスであって、心理学の実験室での調査にでもあたるような言語媒体の容赦のない崩壊の過程を示した。細かな部分で見れば、似たような傾向はナンセンスなコメディアンが口にする洗練され複雑な冗談にも認められるが、彼らの場合は恐らくはその刺激がより間接的で、実験室というよりは、応用科学で使われる資源の多くがそうであるように、転用といったところか。
しかし、訓練された無能力という我々の概念は、この状況を逆転して見るよう我々を促す。詩のジレンマはなんらかの別なことの優位性として論じねばならない。ある種のコミュニケーションが崩壊すると、別の種類が廃墟の上で繁茂するだろう。
この状況の肯定的な側面は、擬人化の少ないテクノロジー的な取り組みかたの発達に見られる。我々が書くものの語彙の変化がその証拠である。科学的用語は概念的で、命名する目的をもつが、コミュニケーションの自然発生的なシンボルは勧告、示唆、催眠を目的としている。直感的な定位によって大いに混乱した世紀が、かつてないほど言語の概念的な使用を発達させたのは偶然とは思われない。類似したものの微妙な相異、色合いの相似による混乱が、それに反応するより名づけることを我々に強いたのである。この世紀の主要な音楽でさえ心理主義的であり、表題音楽的な性質は、ベルリオーズの直截的で擬音的特性、ライトモチーフの使用で音楽的な命名に組織的に頼ったワグナーにおいて花開いている。示唆の威信が落ちるに従って、教育の威信が高まった。スタイル、美、形式――それらはいまや戦いを挑むべきものとなっている。或はそれらが有効なところでは、疑う余地のないほど極端で病的な反応を顕在化させるために多く用いられる。説得は安っぽい政治家のもので、修辞は虚偽と同義語となり、厳密な定義が理想となった。
温室のなかで再び古い結びつきを観察し、問題に突き当たる詩人もいる。彼らは古代地中海の伝承を思い起こす。アナトール・フランスのように、メランコリーとイロニーが混じり合ったなかで、「本の余白に走り書きをする」。選ばれた者たち、いまの風潮を嫌い、よりよい世界を攻撃的に象徴化することで、自分たちの嫌悪感を肯定してもらいたがっている、漠然とした量のXのために書く者もいる。それらに密接に関連してるのは、自分たちの心に耳を傾け、個人の生において避けがたく生じてくる結びつきを捉え、それが他の生と重なりあうところで結びつきを確立しようと望む作家たちである。永遠なものが急ごしらえに一晩で建てられ、過去を生き抜いてきた者の観点からすると、笑われるのが落ちな安普請を諷刺する者もいる。その時々の一般の関心に素早く合わせ、偏りを見越し、戦争時には戦争劇を売り、新聞が大臣とその取り巻きたちとのスキャンダルでいっぱいなら悪徳劇を売ることで自分の芸術を社会化する者もいる。それほどご都合主義的でない者は、新しい科学的発見を用い、遺伝の問題が広く語られ話題になっているときに、梅毒やアルコール依存症の惨禍を描きだすかもしれない。
比較的テクノロジー偏重の西洋の侵害を受けていない地域で住んだり、以前には訓練されているというよりは無能だと考えられていた多様な集団――無法者、泥棒、木こり、娼婦、漁師、密輸業者、鉱夫、店員、闘牛士等々――から自然発生的に生まれてきた新道徳を明らかにし、利用することで新たな原始性を得ようとする試みもある。こうした新原始主義の別のグループは、否定し得ない普遍的な基盤として性的関心を強調する。
問題そのものから出発することで問題と取り組む者もいる。彼らの芸術は芸術の方法論となる。恐らく、最も徹底的にそれを行なったのは後期のジェイムズ・ジョイスであって、心理学の実験室での調査にでもあたるような言語媒体の容赦のない崩壊の過程を示した。細かな部分で見れば、似たような傾向はナンセンスなコメディアンが口にする洗練され複雑な冗談にも認められるが、彼らの場合は恐らくはその刺激がより間接的で、実験室というよりは、応用科学で使われる資源の多くがそうであるように、転用といったところか。
しかし、訓練された無能力という我々の概念は、この状況を逆転して見るよう我々を促す。詩のジレンマはなんらかの別なことの優位性として論じねばならない。ある種のコミュニケーションが崩壊すると、別の種類が廃墟の上で繁茂するだろう。
この状況の肯定的な側面は、擬人化の少ないテクノロジー的な取り組みかたの発達に見られる。我々が書くものの語彙の変化がその証拠である。科学的用語は概念的で、命名する目的をもつが、コミュニケーションの自然発生的なシンボルは勧告、示唆、催眠を目的としている。直感的な定位によって大いに混乱した世紀が、かつてないほど言語の概念的な使用を発達させたのは偶然とは思われない。類似したものの微妙な相異、色合いの相似による混乱が、それに反応するより名づけることを我々に強いたのである。この世紀の主要な音楽でさえ心理主義的であり、表題音楽的な性質は、ベルリオーズの直截的で擬音的特性、ライトモチーフの使用で音楽的な命名に組織的に頼ったワグナーにおいて花開いている。示唆の威信が落ちるに従って、教育の威信が高まった。スタイル、美、形式――それらはいまや戦いを挑むべきものとなっている。或はそれらが有効なところでは、疑う余地のないほど極端で病的な反応を顕在化させるために多く用いられる。説得は安っぽい政治家のもので、修辞は虚偽と同義語となり、厳密な定義が理想となった。
2014年12月17日水曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』17
.. 第四章 スタイル
スタイルによる訴えかけの本質
その最も単純なあらわれにおいて、スタイルは迎合行為である。「正当なことを言う」という催眠的、暗示的過程によって好意を得ようとする試みである。明らかに、正当なことについて同意がある場合に最も効果的である。遠慮なくものを言う者たちは、異なったしゃべり方をするように育ち、過度に丁寧で自分たちと違い、命令するときでも疑問の形で述べる(「これをしろ」と言うときに、「これをしていただけませんか」と言う)人間を信用しないだろう。「後ろ暗いところがある」と疑いさえするかもしれない。逆に、彼の方では、彼らが精一杯謙遜を示しているときでも、無遠慮なものの言い方が自慢めいていると考えるかもしれない。丁寧なものの言い方をする者が丁寧な聞き手に迎合したり、無遠慮な話し手が無遠慮な聞き手に迎合するやり方で自分とは異なるグループに向うと、スタイルはうまくいかないことになろう。
アルコールの経験を積んできた者たちは、暴れ回っている酔っぱらいにどうやって近づき、感傷的な友情を暗示し注意を向けるのに「丁度あった」言葉と調子でどう働きかければいいかわかっているものである。そのあからさまな結果が過程を最も明瞭にあらわしている。そこには、詩人が聴衆に自ら望んだ精神状態を生みだすときと同じスタイルや迎合行為があった。私としては、マシュー・アーノルドがこの仕事をする姿を見たくはない。彼がしたのではあまりに露骨になってしまうだろう――彼が積んできた訓練はなんの役にも立たないだろう。住居の移動が当たり前の今日のアメリカでも、隣人が出会ったときいつでも細部に至るまで正確に繰り返される地方独特の言葉のやりとり、挨拶、身振り、声の調子のパターンに行き合うことができる。確かにこれは単なる鸚鵡の繰り返しではなく、正しいことを言うことによって互いを受け入れるためのスタイルなのである。
エチケットとはフランス語ではラベルのことである。ビン、箱、包みに内容や価格を示すためにはり付けてあるもの、とラルースにはある。もちろん、そこから派生して、宮廷儀礼や礼儀の形式などを示すようになった。かくして、明らかに、社会において生き方、物事のやり方、考え方などが同質になればなるほど、ラベルも同質になり、芸術家は自分の目的のためにますますそうしたラベルを用いるようになる。
1925年から1929年の「新時代」の間に、エミリー・ポスト夫人の著作が数十万冊売れたときには、自信をもってある文学における「スタイルの問題」を見ることができる。その文学には、馬鹿げたほど不適切なラベルを使って酔っぱらいを鎮めようとする頼りないマシュー・アーノルドの姿もあるだろう。経験に対する鋭敏な感覚を示し、各状況で望んだ反応を生みだす適切なラベルを駆使する強靱なハードボイルド作品もあろう。命令によってラベルを確定しようとする皮相な試みもあろう。強いられた感情や温室育ちの優雅さ、芸術におけるプロレタリア運動を朝までには仕上げようというような性急さ。
もちろん、豊穣で詩想あふれんばかりの詩人によって、正しいことを言うという訴えかけがなされると、非常に冒険的な探求になる。シェイクスピアは順応がどれ程広範囲においてなされうるかについていくつかの例を示している。例えば、『ジュリアス・シーザー』では最も直截的なラベルによって陰謀者を陰謀者として示した。彼らは袖を引き合い、囁きを交わし、善意を装い、嵐のなか夜の暗闇の妖気が漂うなかで会合する。『リア王』では、コーデリアのような登場人物の性格がより精妙な形での取り入り方を示している。シェイクスピアは最初に、いかにひどく彼女が誤解されているかを示す。さて、観衆のなかで善意があってしかも誤解されていないような人間などいるだろうか。それ故、劇作家が必要とし目的とする如く、コーデリアに向けて心を開かない者などいるだろうか。ド・クインシーは『マクベス』を注釈して、シェイクスピアが更に深くまで行けることを示している。マクベスによる王の殺害を描き終わり、門でなる不吉なノックの音を聞かせるとき、私的で苛酷な良心を打ちのめす音が客体化され、内的出来事と外的出来事とが混じり合い、我々は単なる目撃者としてではなく、参加者として殺人に巻き込まれることにならないだろうか。ラベルが追従的に用いられるのでは全くなく、最も大胆な精神によって最上の活用がなされているが見て取れよう。
こうしたラベルの構造が損なわれると、それに応じて、コミュニケーションでの重宝さも損なわれる。問題を提示することでは催眠にはかからない――反応を誘うベルを鳴らすことで催眠にかけるのである。変化、異なる仕事、不安定な予期は、そうした連鎖の範囲、性質、持続に根本的な意味合いをもつ。地理的な移動、社会層の崩壊、文化的合併、「新たな問題」の導入――詩的媒体に逆らって働く数多くの要因がある。人々がチャーリー・チャップリンの演技を非常に喜ぶのは、彼の正確なパントマイムのスタイルが社会的な混乱を乗り越えるところにあるのだろう。彼の表現は、常にそこにある身体の確実性、精神的姿勢と身体的姿との変わることのない相互関係に基づいているために、普遍的とも言える意味合いをもっている。
スタイルによる訴えかけの本質
その最も単純なあらわれにおいて、スタイルは迎合行為である。「正当なことを言う」という催眠的、暗示的過程によって好意を得ようとする試みである。明らかに、正当なことについて同意がある場合に最も効果的である。遠慮なくものを言う者たちは、異なったしゃべり方をするように育ち、過度に丁寧で自分たちと違い、命令するときでも疑問の形で述べる(「これをしろ」と言うときに、「これをしていただけませんか」と言う)人間を信用しないだろう。「後ろ暗いところがある」と疑いさえするかもしれない。逆に、彼の方では、彼らが精一杯謙遜を示しているときでも、無遠慮なものの言い方が自慢めいていると考えるかもしれない。丁寧なものの言い方をする者が丁寧な聞き手に迎合したり、無遠慮な話し手が無遠慮な聞き手に迎合するやり方で自分とは異なるグループに向うと、スタイルはうまくいかないことになろう。
アルコールの経験を積んできた者たちは、暴れ回っている酔っぱらいにどうやって近づき、感傷的な友情を暗示し注意を向けるのに「丁度あった」言葉と調子でどう働きかければいいかわかっているものである。そのあからさまな結果が過程を最も明瞭にあらわしている。そこには、詩人が聴衆に自ら望んだ精神状態を生みだすときと同じスタイルや迎合行為があった。私としては、マシュー・アーノルドがこの仕事をする姿を見たくはない。彼がしたのではあまりに露骨になってしまうだろう――彼が積んできた訓練はなんの役にも立たないだろう。住居の移動が当たり前の今日のアメリカでも、隣人が出会ったときいつでも細部に至るまで正確に繰り返される地方独特の言葉のやりとり、挨拶、身振り、声の調子のパターンに行き合うことができる。確かにこれは単なる鸚鵡の繰り返しではなく、正しいことを言うことによって互いを受け入れるためのスタイルなのである。
エチケットとはフランス語ではラベルのことである。ビン、箱、包みに内容や価格を示すためにはり付けてあるもの、とラルースにはある。もちろん、そこから派生して、宮廷儀礼や礼儀の形式などを示すようになった。かくして、明らかに、社会において生き方、物事のやり方、考え方などが同質になればなるほど、ラベルも同質になり、芸術家は自分の目的のためにますますそうしたラベルを用いるようになる。
1925年から1929年の「新時代」の間に、エミリー・ポスト夫人の著作が数十万冊売れたときには、自信をもってある文学における「スタイルの問題」を見ることができる。その文学には、馬鹿げたほど不適切なラベルを使って酔っぱらいを鎮めようとする頼りないマシュー・アーノルドの姿もあるだろう。経験に対する鋭敏な感覚を示し、各状況で望んだ反応を生みだす適切なラベルを駆使する強靱なハードボイルド作品もあろう。命令によってラベルを確定しようとする皮相な試みもあろう。強いられた感情や温室育ちの優雅さ、芸術におけるプロレタリア運動を朝までには仕上げようというような性急さ。
もちろん、豊穣で詩想あふれんばかりの詩人によって、正しいことを言うという訴えかけがなされると、非常に冒険的な探求になる。シェイクスピアは順応がどれ程広範囲においてなされうるかについていくつかの例を示している。例えば、『ジュリアス・シーザー』では最も直截的なラベルによって陰謀者を陰謀者として示した。彼らは袖を引き合い、囁きを交わし、善意を装い、嵐のなか夜の暗闇の妖気が漂うなかで会合する。『リア王』では、コーデリアのような登場人物の性格がより精妙な形での取り入り方を示している。シェイクスピアは最初に、いかにひどく彼女が誤解されているかを示す。さて、観衆のなかで善意があってしかも誤解されていないような人間などいるだろうか。それ故、劇作家が必要とし目的とする如く、コーデリアに向けて心を開かない者などいるだろうか。ド・クインシーは『マクベス』を注釈して、シェイクスピアが更に深くまで行けることを示している。マクベスによる王の殺害を描き終わり、門でなる不吉なノックの音を聞かせるとき、私的で苛酷な良心を打ちのめす音が客体化され、内的出来事と外的出来事とが混じり合い、我々は単なる目撃者としてではなく、参加者として殺人に巻き込まれることにならないだろうか。ラベルが追従的に用いられるのでは全くなく、最も大胆な精神によって最上の活用がなされているが見て取れよう。
こうしたラベルの構造が損なわれると、それに応じて、コミュニケーションでの重宝さも損なわれる。問題を提示することでは催眠にはかからない――反応を誘うベルを鳴らすことで催眠にかけるのである。変化、異なる仕事、不安定な予期は、そうした連鎖の範囲、性質、持続に根本的な意味合いをもつ。地理的な移動、社会層の崩壊、文化的合併、「新たな問題」の導入――詩的媒体に逆らって働く数多くの要因がある。人々がチャーリー・チャップリンの演技を非常に喜ぶのは、彼の正確なパントマイムのスタイルが社会的な混乱を乗り越えるところにあるのだろう。彼の表現は、常にそこにある身体の確実性、精神的姿勢と身体的姿との変わることのない相互関係に基づいているために、普遍的とも言える意味合いをもっている。
2014年12月13日土曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』16
訓練された無能力としての職業的精神病質
読者は、ヴェブレンの訓練された無能力という概念がデューイの職業的精神病質と全く同じように扱えることに気づかれたかもしれない。ヴェブレンの用語と入れ替えることで、より明瞭に職業パターンの両義的な性質を見て取ることになろう。実際、デューイは最初は、民俗学者の間で、野蛮人の思考が西洋的思考パターンをとることに「失敗」した例として論じられる傾向に反対する目的でこの用語を提案したのだった。デューイは強調点が逆にされるべきだと考えた。調査者は、その思考パターンを自分の仕事で野蛮人たちと協力するために発達させた実際的な道具と考えるべきである。この観点から見ると、西欧人が野蛮人のように考えることに失敗しているとも言える。デューイの概念は、ヴェブレンがあからさまにした両義性を暗黙のうちに含んでいる。
いかなる行為も、それが達成したことと失敗したことのどちらからも議論できる。わかりのよさは表面的だと言えるし、徹底は限定として、寛容は不確実さと論じうる――魚の歩行者としての貧弱な能力は、泳ぎ手としての優秀性によって説明される。ある見方はそれ以外を見ないための方法でもある――Aという対象に焦点を当てることは、Bという対象を無視することを含んでいる。この理由から、デューイとヴェブレンの用語は交換可能だと考えられる。しかしながら、我々の次の論題には、ヴェブレンのあからさまに両義的な概念の方がより役立つだろう。というのも、我々はコミュニケーション媒体を論じ(「主導的精神病質」であるテクノロジー的精神病質に影響を受ける)――その善と悪は同じコインの裏表だと考えたいからである。別の言葉でいえば、コミュニケーションの媒体を考えるに際し、その性質の欠陥と欠陥の性質を同時に示してくれるような用語を望んでいる。
テクノロジー的精神病質において前面にある理想的な解説や情報提供を思い返すと、この理想がコミュニケーションを目的とする装置としてのスタイルにいかに影響を与えているかを考えることとなろう。
読者は、ヴェブレンの訓練された無能力という概念がデューイの職業的精神病質と全く同じように扱えることに気づかれたかもしれない。ヴェブレンの用語と入れ替えることで、より明瞭に職業パターンの両義的な性質を見て取ることになろう。実際、デューイは最初は、民俗学者の間で、野蛮人の思考が西洋的思考パターンをとることに「失敗」した例として論じられる傾向に反対する目的でこの用語を提案したのだった。デューイは強調点が逆にされるべきだと考えた。調査者は、その思考パターンを自分の仕事で野蛮人たちと協力するために発達させた実際的な道具と考えるべきである。この観点から見ると、西欧人が野蛮人のように考えることに失敗しているとも言える。デューイの概念は、ヴェブレンがあからさまにした両義性を暗黙のうちに含んでいる。
いかなる行為も、それが達成したことと失敗したことのどちらからも議論できる。わかりのよさは表面的だと言えるし、徹底は限定として、寛容は不確実さと論じうる――魚の歩行者としての貧弱な能力は、泳ぎ手としての優秀性によって説明される。ある見方はそれ以外を見ないための方法でもある――Aという対象に焦点を当てることは、Bという対象を無視することを含んでいる。この理由から、デューイとヴェブレンの用語は交換可能だと考えられる。しかしながら、我々の次の論題には、ヴェブレンのあからさまに両義的な概念の方がより役立つだろう。というのも、我々はコミュニケーション媒体を論じ(「主導的精神病質」であるテクノロジー的精神病質に影響を受ける)――その善と悪は同じコインの裏表だと考えたいからである。別の言葉でいえば、コミュニケーションの媒体を考えるに際し、その性質の欠陥と欠陥の性質を同時に示してくれるような用語を望んでいる。
テクノロジー的精神病質において前面にある理想的な解説や情報提供を思い返すと、この理想がコミュニケーションを目的とする装置としてのスタイルにいかに影響を与えているかを考えることとなろう。
2014年12月8日月曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』15
文学への影響
こうしたことすべては、書くという職業に特有の職業的精神病質にどういった影響を与えるのだろうか。現在のところ、我々は三つのはっきり区別される解決法を認めることができる。感情、性、冒険、過剰、精神病などに取り組む芸術家がおり、というのもどんな職業も人間の身体に根づく部分が多い以上、多かれ少なかれそれらを共通のものとしているからである。他には、書くことが副次的にではなくそうしたこととともにある職業であるゆえに、フィールドワーク、歴史的心理学的調査、記録の捜索に赴き、新聞によって浮き彫りにされた問題を更に強烈にあらわす場合もある。一般的に、こうした傾向は、作家が他の精神病質に入り込むことによってより広いコミュニケーションを取るよう様々な経験を促すこととなる。他者の関心をある種バロメーターのように測ることに精通するようになる。このタイプは、ブロードウェイ・ドラマから、ハリウッドを通じ、単なるリポーターにまで及ぶ。
逆説的なことだが、他とは異なる作家の特殊な精神病質が見て取れるのは、通常詩人たちを病的な特殊性に押し込んでいる批評においてである。しかしながら、それはエッセイ的なコミュニケーションの方法が、テクノロジー的精神病質とそれに付随する現象が概念化と情報提供に高い価値を与えている限りは正当化される。事実を伝え、概念的区別をする今日のコミュニケーション媒体は、スタイルによって機嫌を取り、説得や訴えかけを目指していた詩的媒体よりもよりうまく整備されている。
デューイの職業的精神病質という概念は、想像的な上部構造が生産パターンからどのように生じるのか見事に示してはくれるが、批評的識別の基礎としてうまく役立てられるとは私は信じていない。というのも、別の精神病質が容易に想像できるからである。生存方法の相違が認められるところでは、それに応じた精神病質の相違があり、それぞれの特別なやり方でなにかに関心が抱かれるのである。
こうしたことすべては、書くという職業に特有の職業的精神病質にどういった影響を与えるのだろうか。現在のところ、我々は三つのはっきり区別される解決法を認めることができる。感情、性、冒険、過剰、精神病などに取り組む芸術家がおり、というのもどんな職業も人間の身体に根づく部分が多い以上、多かれ少なかれそれらを共通のものとしているからである。他には、書くことが副次的にではなくそうしたこととともにある職業であるゆえに、フィールドワーク、歴史的心理学的調査、記録の捜索に赴き、新聞によって浮き彫りにされた問題を更に強烈にあらわす場合もある。一般的に、こうした傾向は、作家が他の精神病質に入り込むことによってより広いコミュニケーションを取るよう様々な経験を促すこととなる。他者の関心をある種バロメーターのように測ることに精通するようになる。このタイプは、ブロードウェイ・ドラマから、ハリウッドを通じ、単なるリポーターにまで及ぶ。
逆説的なことだが、他とは異なる作家の特殊な精神病質が見て取れるのは、通常詩人たちを病的な特殊性に押し込んでいる批評においてである。しかしながら、それはエッセイ的なコミュニケーションの方法が、テクノロジー的精神病質とそれに付随する現象が概念化と情報提供に高い価値を与えている限りは正当化される。事実を伝え、概念的区別をする今日のコミュニケーション媒体は、スタイルによって機嫌を取り、説得や訴えかけを目指していた詩的媒体よりもよりうまく整備されている。
デューイの職業的精神病質という概念は、想像的な上部構造が生産パターンからどのように生じるのか見事に示してはくれるが、批評的識別の基礎としてうまく役立てられるとは私は信じていない。というのも、別の精神病質が容易に想像できるからである。生存方法の相違が認められるところでは、それに応じた精神病質の相違があり、それぞれの特別なやり方でなにかに関心が抱かれるのである。
2014年12月4日木曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』14
テクノロジー的精神病質
こうしたすべてのうちにあり、関連し、それらを越えた部分にも底流にもあって、混乱の主たる責任を負うべきは、テクノロジー的精神病質である。恐らくそれは、その基本的パターンにおいて世界の新たな原理に寄与している精神病質である。我々の栄光と悩みの中心にある。
人間の歴史にはそれにふさわしい三つの異なった合理化が存在すると思える、魔術、宗教、科学である。魔術は、人間が自然の根本的な力を支配することによる合理化だった。現代の思想家たちは、魔術の因果関係に関する理論の誤りを指摘したがるが、魔術が自然の力を利益に変えるやり方を図式化することに圧倒的な助けとなったことは明らかである。
宗教は特に、人間の力を支配しようとする合理化だと思われる。文明がより複雑になると、人間の共同作業に関する高度に繊細な規範が必要となった。宗教的思想は、こうした複雑な状況のもとで、共同の慣習を秩序づける精神的領域での装置となった。
そして、我々はいま第三の偉大な合理化である科学、科学技術や機械力を我々の目的のために支配しようとする試みに関わっている。
その真髄は実験主義、実験室的方法、創造的懐疑主義、組織化された疑いと言われている。職業的道徳性をもってはいるが、現在のところ、はっきりした精神病質をあらわすというよりも、伝統的な道徳の崩壊や解除により力強く寄与しているのが見て取れる。通常、科学はコペルニクスの天文学、ガリレオの物理学、ベーコンの帰納的方法による合理化にまでさかのぼるが、その精神病質は、体系的な科学技術の発展による衝撃を真っ向から受け止めた最初の国であるイギリスの功利主義的哲学者たちの時期になって始めて完全に花開いたと言える。判断の主要な要因を効用に定めたこの説は、価値の問題を考える際に、参照地点を世俗的なものとして形式的に確立した。道徳の起源は超越的なものであり、真理は神によって、選ばれた代表者にあらわされ、聖職者の手によって伝えられていくという考えは、有用性や利害の考慮が我々の宗教的、倫理的、美的、また宇宙論的判断でさえ現に形づくっており、これからもそうであろうという考えに道を譲った。
生存競争の道具や武器として道徳的知的特性が発達したと論じたときに、ダーウィンはまさしくこうした精神病質のなかにいた。マルクスは共存道徳という概念を導入した。ジェレミー・ベンサムは『謬見の書』で、功利的目的をもった法案の提出が最も高貴な道徳的偉大さという装いのもとぼやかされてしまう議会でのやりとりについて辛抱強くかつ辛辣に検証した。彼は内部と外部での顕著な考え方の相違、それぞれの立場で道徳的真実性が異なって操作されることに注目した。
マルクスは、この分類を更に拡げ深化し、それが単に政治的な運による盛衰によって転換するのではなく、我々が内部と外部とを結晶化した階級として受け入れる限り結晶化が続くことを示した。彼はこうした、階級を互いに区別できるような類の精神病質について考察した。そして、功利主義者と同じように、現状とあるべき姿を混同する傾向があり、階級意識が避けられないと感じられるときもあれば、別の方向に導かれるべきだと感じられるときもある。ここでの難点は、恐らく、第一部の冒頭で我々が気づいたこと、つまり、人の関心をひくものと人が関心をもつものとの微妙な区別であろう。階級道徳は階級が存在する限り即座に生じるかもしれない。しかし、階級意識は階級道徳に正確に訴えることで教えられねばならないのである。
この道徳の系譜学において、ニーチェの立場は著しく複雑である。他の作家がエッセイストである場所で、彼は悲劇的詩人だった。彼は単に価値の超越を論じることには興味がなく、それを歌い上げ、この偉大な歴史的運動に予言的、儀式的アクセントを加えようとした。しかし、詩人は敬虔であり、敬虔さの訴えかけは深く疑問の余地のない結びつきの適正さにあるので、彼が関わる悲惨な苦境が見て取れる。彼はまさしく最後の価値まで、人間が文化的過去から引きだす敬虔な結びつきまで疑問視した。このニヒリスティックな関わりが彼の奉ずるところだった。従って、この祭壇に相応しい象徴的意匠でその周りを取り囲もうとした。それには、倫理的な範疇と有機的に関係していたものの力を弱め、美学的範疇との結びつきを強めることが含まれていた。芸術家としての格調の高い素養は常に彼に敬虔さへの道を開いていた。だが、彼の鋭くアフォリズム的な知性はそうした道筋を疑い続けたのである。
その結果は、恐らく、前テクノロジー的精神病質から人類がこれから永久に持ち続けるだろうテクノロジー的精神病質への移行を最も完全に、かつ自己矛盾的に象徴化している。それは「親テクノロジー的」姿勢と言えるかもしれない。ツァラトゥストラは過酷で風変わりな孤独な雪山を下り、危険な世俗的、非世俗的歓楽をほのめかし、大都市のまさしく本質であるある種の懐疑主義、反宗教的な抜け目のなさを敬虔に儀式化する。ニーチェからの負債を自覚しているトーマス・マンが『魔の山』で同じシンボルを同じ目的のために多く用いているのも不思議ではない。ニーチェは突飛な発言によってその最も鋭い洞察の幾つかを傷つけている――そして、よきヨーロッパ人である彼が一貫して軽蔑していた愛国的軍国主義の予言者だとしばしば見なされている。しかし、結局のところ、彼の作品の豊穣さは認められなければならない。
ヴェブレンは、恐らく、いま「文化的遅滞」と呼ばれている道徳的混乱を最も明るみにだしてみせた。その最も単純な形においては、彼の説は、過去の状況に適切に対応することで発達した制度は、状況が変化すると脅威になる、というものである。当然のことながら、制度が存続する限り、それを支えてきた倫理的価値もまた維持され続けるだろう。ヴェブレンの化石化した制度という考えが訓練された無能力という概念とどう関わるかは容易に見て取れる。
価値の問題に関するこうした疑問視は、明らかにテクノロジー的精神病質の一部をなしていると思われる。人類学や民俗学の資料によって実証されるまでもなく、同じテクノロジー的枠組みの一部分をなす職業の多様性によってそれは更に活発になることだろう。我々はそれぞれに異なる医者の、法律家の、科学者の、トンネル工夫の、記者の観点をもっている。こうした入り組んだ多様性は、知的寛容、情報提供、大衆化、知識の概略に対して我々の与える重要性に精神病質的にあらわれている――また、ある種の個人主義は、生産が個人主義的に運営されていたかつての精神病質に予想される類のものではないにしても、少なくとも、部門主義、小集団に集中限定される知識に観察されるものである。
こうしたすべてのうちにあり、関連し、それらを越えた部分にも底流にもあって、混乱の主たる責任を負うべきは、テクノロジー的精神病質である。恐らくそれは、その基本的パターンにおいて世界の新たな原理に寄与している精神病質である。我々の栄光と悩みの中心にある。
人間の歴史にはそれにふさわしい三つの異なった合理化が存在すると思える、魔術、宗教、科学である。魔術は、人間が自然の根本的な力を支配することによる合理化だった。現代の思想家たちは、魔術の因果関係に関する理論の誤りを指摘したがるが、魔術が自然の力を利益に変えるやり方を図式化することに圧倒的な助けとなったことは明らかである。
宗教は特に、人間の力を支配しようとする合理化だと思われる。文明がより複雑になると、人間の共同作業に関する高度に繊細な規範が必要となった。宗教的思想は、こうした複雑な状況のもとで、共同の慣習を秩序づける精神的領域での装置となった。
そして、我々はいま第三の偉大な合理化である科学、科学技術や機械力を我々の目的のために支配しようとする試みに関わっている。
その真髄は実験主義、実験室的方法、創造的懐疑主義、組織化された疑いと言われている。職業的道徳性をもってはいるが、現在のところ、はっきりした精神病質をあらわすというよりも、伝統的な道徳の崩壊や解除により力強く寄与しているのが見て取れる。通常、科学はコペルニクスの天文学、ガリレオの物理学、ベーコンの帰納的方法による合理化にまでさかのぼるが、その精神病質は、体系的な科学技術の発展による衝撃を真っ向から受け止めた最初の国であるイギリスの功利主義的哲学者たちの時期になって始めて完全に花開いたと言える。判断の主要な要因を効用に定めたこの説は、価値の問題を考える際に、参照地点を世俗的なものとして形式的に確立した。道徳の起源は超越的なものであり、真理は神によって、選ばれた代表者にあらわされ、聖職者の手によって伝えられていくという考えは、有用性や利害の考慮が我々の宗教的、倫理的、美的、また宇宙論的判断でさえ現に形づくっており、これからもそうであろうという考えに道を譲った。
生存競争の道具や武器として道徳的知的特性が発達したと論じたときに、ダーウィンはまさしくこうした精神病質のなかにいた。マルクスは共存道徳という概念を導入した。ジェレミー・ベンサムは『謬見の書』で、功利的目的をもった法案の提出が最も高貴な道徳的偉大さという装いのもとぼやかされてしまう議会でのやりとりについて辛抱強くかつ辛辣に検証した。彼は内部と外部での顕著な考え方の相違、それぞれの立場で道徳的真実性が異なって操作されることに注目した。
マルクスは、この分類を更に拡げ深化し、それが単に政治的な運による盛衰によって転換するのではなく、我々が内部と外部とを結晶化した階級として受け入れる限り結晶化が続くことを示した。彼はこうした、階級を互いに区別できるような類の精神病質について考察した。そして、功利主義者と同じように、現状とあるべき姿を混同する傾向があり、階級意識が避けられないと感じられるときもあれば、別の方向に導かれるべきだと感じられるときもある。ここでの難点は、恐らく、第一部の冒頭で我々が気づいたこと、つまり、人の関心をひくものと人が関心をもつものとの微妙な区別であろう。階級道徳は階級が存在する限り即座に生じるかもしれない。しかし、階級意識は階級道徳に正確に訴えることで教えられねばならないのである。
この道徳の系譜学において、ニーチェの立場は著しく複雑である。他の作家がエッセイストである場所で、彼は悲劇的詩人だった。彼は単に価値の超越を論じることには興味がなく、それを歌い上げ、この偉大な歴史的運動に予言的、儀式的アクセントを加えようとした。しかし、詩人は敬虔であり、敬虔さの訴えかけは深く疑問の余地のない結びつきの適正さにあるので、彼が関わる悲惨な苦境が見て取れる。彼はまさしく最後の価値まで、人間が文化的過去から引きだす敬虔な結びつきまで疑問視した。このニヒリスティックな関わりが彼の奉ずるところだった。従って、この祭壇に相応しい象徴的意匠でその周りを取り囲もうとした。それには、倫理的な範疇と有機的に関係していたものの力を弱め、美学的範疇との結びつきを強めることが含まれていた。芸術家としての格調の高い素養は常に彼に敬虔さへの道を開いていた。だが、彼の鋭くアフォリズム的な知性はそうした道筋を疑い続けたのである。
その結果は、恐らく、前テクノロジー的精神病質から人類がこれから永久に持ち続けるだろうテクノロジー的精神病質への移行を最も完全に、かつ自己矛盾的に象徴化している。それは「親テクノロジー的」姿勢と言えるかもしれない。ツァラトゥストラは過酷で風変わりな孤独な雪山を下り、危険な世俗的、非世俗的歓楽をほのめかし、大都市のまさしく本質であるある種の懐疑主義、反宗教的な抜け目のなさを敬虔に儀式化する。ニーチェからの負債を自覚しているトーマス・マンが『魔の山』で同じシンボルを同じ目的のために多く用いているのも不思議ではない。ニーチェは突飛な発言によってその最も鋭い洞察の幾つかを傷つけている――そして、よきヨーロッパ人である彼が一貫して軽蔑していた愛国的軍国主義の予言者だとしばしば見なされている。しかし、結局のところ、彼の作品の豊穣さは認められなければならない。
ヴェブレンは、恐らく、いま「文化的遅滞」と呼ばれている道徳的混乱を最も明るみにだしてみせた。その最も単純な形においては、彼の説は、過去の状況に適切に対応することで発達した制度は、状況が変化すると脅威になる、というものである。当然のことながら、制度が存続する限り、それを支えてきた倫理的価値もまた維持され続けるだろう。ヴェブレンの化石化した制度という考えが訓練された無能力という概念とどう関わるかは容易に見て取れる。
価値の問題に関するこうした疑問視は、明らかにテクノロジー的精神病質の一部をなしていると思われる。人類学や民俗学の資料によって実証されるまでもなく、同じテクノロジー的枠組みの一部分をなす職業の多様性によってそれは更に活発になることだろう。我々はそれぞれに異なる医者の、法律家の、科学者の、トンネル工夫の、記者の観点をもっている。こうした入り組んだ多様性は、知的寛容、情報提供、大衆化、知識の概略に対して我々の与える重要性に精神病質的にあらわれている――また、ある種の個人主義は、生産が個人主義的に運営されていたかつての精神病質に予想される類のものではないにしても、少なくとも、部門主義、小集団に集中限定される知識に観察されるものである。
2014年11月30日日曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』13
現在の職業的精神病質
資本主義、金融、個人主義、自由放任主義、自由市場、民間企業など様々に呼ばれる精神病質が存在し、その強い競争的な性格は、会社と独占権(カルテル化)の成長、それに対応し、公務員の昇進の基礎となる(「やり手」であることは資格にならない)縁者びいきと年功序列の増加で、次第に、気づかぬうちに崩壊し始めている。その精神病質の力は、恐らく、プロスポーツといまはなき「新時代」に咲き誇った成功の文学に最もよくあらわれている。セールスの割当制度はここで重要な役割を占めており、生産におけるベルトコンベアーに対応する分配の技法を示している――そして、「機敏さ」、「押しの強さ」、「突進力」を保ち続けることが主要な美徳である。恐らく、この精神病質が最も精妙に、最も効果的に拡大されたのは、この刺激のもと、最初の頃にあった節約と僅かな収入という物々交換的な組み合わせが、新たな浪費と高収入という消費の組み合わせの前に崩れ去ったことにあろう。ヴェブレンが指摘するように、成功の機会は失敗の機会でもあるのだが、成功だけが大きく強調された。つまらない学者を除けば、誰でもこうした信念の言い換えに気づかずにはおれないのだが、我々はこの精神病質に向う推進力を正当化するかもしれない。
大都市とは異なる農村の精神病質も存在するはずだが、今日では、人口と財政とが集中した場で決定される経済政策を黙認しなければならないことで、粗悪なものとなり、少なくとも弱まってしまった。税、利息、換金作物などが、かつては農民を特徴づけていた物々交換的心性を非実際的なものとした。彼らはいまでは消費経済のなかで、最も弱く、影響力の少ない、周縁的な存在に過ぎない。
労働者の精神病質とは区別される投資家や融資者の精神病質もあると思える。それは具体的な物理的性質、手工業的機械的操作に縛られるものではない――予測、期待、未来のようなおぼろげなもの、価値のような形而上学的混乱をもたらすものを扱い、グラフ、統計、指標、収穫高、表といった面目を新たにした占星術を得るのである。いかなる詩人も、投資家の精神病質から想像力を発する夢想家や幻視家の現実概念ほど精妙で空想に充ちたものをもたなかった。商品の移動を副次的なものと見なし、取り引きが記録された書類にのみ実質を見いだすかのように、クレジットと利率の上部構造が基本的なものと考えられる。実際の物理的資産はほとんど解釈されるべきしるしでしかない。鉄道は、その軌道、動力、車庫、修理工場、労働力によって判断されるのではなく、資本構造のデータとして受け取られる。それは何百マイル、何千マイルもの長さに伸びている――だが、現実としてではなく、見込みに則ってのことなのである。この精神病質が思い描くところでは、世界の生産、配分、消費の問題は、大都市のエレベーターで秘密の会議室に集り、信用(クレジット)の問題について頭を悩ませる五、六人によって決められているとごく自然に考えられている。ここでは、かつて盛んに用いられた深く宗教的な摂理という概念が、奇妙な空気の精であるかのようにその精神性は無傷のまま、世俗化されているように思われる。
しばしばこうした人々は物質主義者と呼ばれるが、物質主義者という非難ほど的外れなものはない。どちらも競争に巻き込まれてはいるが、資本主義国のプロレタリアートの精神病質が投資家の精神病質とできる限り明確に区別されるべきだとするなら、その相違は、まさしくプロレタリアートがその目的や快楽においてより物質主義によく当てはまるという事実に置くべきだと私は思う。というのも、彼らの想像力のパターンは経済体制の直接的な物理的側面から生じているだろうからである。彼らが産出するのは明確で使用できる物である。融資家の精神的な楽しみを欠いている彼らは、将来を見込んで買い込んだりため込み(資本財)、それらの見込みをもとに更なる見込みで買い込んだりため込んだりして満足を得ることはできない。物質主義的である彼らは、見込みということを理解できないだろう。使用できる商品によって保証された見込みにしか喜びを見いだせないだろう。
犯罪的な精神病質について言うなら、主要な四つのグループを挙げられよう。第一に、ルンペン、浮浪者、任を解かれた専門家、金を無心して回る芸術家など。現在、彼らは新たな仲間、技術革新がもたらした失業者と混じり合うことによって変化している。組織的な政治腐敗に含まれるグループもいる。最もよい状態であれば、そこでは、正直さが接ぎ木され、組織だったえこひいき、仲間同士での信頼、言葉上の約束への良心的な忠実さ(書面にすると非合法になってしまう契約も含まれる)といった幾分困惑させられる道徳性が見いだされる。それは、警察の干渉を受けないことを示す「保護」という言葉の逆説的な使われ方のもとになっている。厳格なギャングの道徳に基づく、公正で高度な共同性を発達させねばならない暴力集団が存在する。彼らの規範はその生業が命ずるところに従い明確かつ直接的に形成されているので、ある意味で、最も道徳的な市民集団だと言えるかもしれない。
第四のグループは、合法的な事業を通じて掠り取り、削り取る。大会社の重役や役員が株主、消費者、労働者を犠牲にして会社から利益を奪い取るという横暴なやり方である。もしこれらのグループを一つのものと考えることができるなら、何百万人もの人間が犯罪的な精神病質、ひそかなごまかし、社会的シニシズム、精神病質に必要な人間性の改善への憎しみに寄与しているに違いない。
資本主義、金融、個人主義、自由放任主義、自由市場、民間企業など様々に呼ばれる精神病質が存在し、その強い競争的な性格は、会社と独占権(カルテル化)の成長、それに対応し、公務員の昇進の基礎となる(「やり手」であることは資格にならない)縁者びいきと年功序列の増加で、次第に、気づかぬうちに崩壊し始めている。その精神病質の力は、恐らく、プロスポーツといまはなき「新時代」に咲き誇った成功の文学に最もよくあらわれている。セールスの割当制度はここで重要な役割を占めており、生産におけるベルトコンベアーに対応する分配の技法を示している――そして、「機敏さ」、「押しの強さ」、「突進力」を保ち続けることが主要な美徳である。恐らく、この精神病質が最も精妙に、最も効果的に拡大されたのは、この刺激のもと、最初の頃にあった節約と僅かな収入という物々交換的な組み合わせが、新たな浪費と高収入という消費の組み合わせの前に崩れ去ったことにあろう。ヴェブレンが指摘するように、成功の機会は失敗の機会でもあるのだが、成功だけが大きく強調された。つまらない学者を除けば、誰でもこうした信念の言い換えに気づかずにはおれないのだが、我々はこの精神病質に向う推進力を正当化するかもしれない。
大都市とは異なる農村の精神病質も存在するはずだが、今日では、人口と財政とが集中した場で決定される経済政策を黙認しなければならないことで、粗悪なものとなり、少なくとも弱まってしまった。税、利息、換金作物などが、かつては農民を特徴づけていた物々交換的心性を非実際的なものとした。彼らはいまでは消費経済のなかで、最も弱く、影響力の少ない、周縁的な存在に過ぎない。
労働者の精神病質とは区別される投資家や融資者の精神病質もあると思える。それは具体的な物理的性質、手工業的機械的操作に縛られるものではない――予測、期待、未来のようなおぼろげなもの、価値のような形而上学的混乱をもたらすものを扱い、グラフ、統計、指標、収穫高、表といった面目を新たにした占星術を得るのである。いかなる詩人も、投資家の精神病質から想像力を発する夢想家や幻視家の現実概念ほど精妙で空想に充ちたものをもたなかった。商品の移動を副次的なものと見なし、取り引きが記録された書類にのみ実質を見いだすかのように、クレジットと利率の上部構造が基本的なものと考えられる。実際の物理的資産はほとんど解釈されるべきしるしでしかない。鉄道は、その軌道、動力、車庫、修理工場、労働力によって判断されるのではなく、資本構造のデータとして受け取られる。それは何百マイル、何千マイルもの長さに伸びている――だが、現実としてではなく、見込みに則ってのことなのである。この精神病質が思い描くところでは、世界の生産、配分、消費の問題は、大都市のエレベーターで秘密の会議室に集り、信用(クレジット)の問題について頭を悩ませる五、六人によって決められているとごく自然に考えられている。ここでは、かつて盛んに用いられた深く宗教的な摂理という概念が、奇妙な空気の精であるかのようにその精神性は無傷のまま、世俗化されているように思われる。
しばしばこうした人々は物質主義者と呼ばれるが、物質主義者という非難ほど的外れなものはない。どちらも競争に巻き込まれてはいるが、資本主義国のプロレタリアートの精神病質が投資家の精神病質とできる限り明確に区別されるべきだとするなら、その相違は、まさしくプロレタリアートがその目的や快楽においてより物質主義によく当てはまるという事実に置くべきだと私は思う。というのも、彼らの想像力のパターンは経済体制の直接的な物理的側面から生じているだろうからである。彼らが産出するのは明確で使用できる物である。融資家の精神的な楽しみを欠いている彼らは、将来を見込んで買い込んだりため込み(資本財)、それらの見込みをもとに更なる見込みで買い込んだりため込んだりして満足を得ることはできない。物質主義的である彼らは、見込みということを理解できないだろう。使用できる商品によって保証された見込みにしか喜びを見いだせないだろう。
犯罪的な精神病質について言うなら、主要な四つのグループを挙げられよう。第一に、ルンペン、浮浪者、任を解かれた専門家、金を無心して回る芸術家など。現在、彼らは新たな仲間、技術革新がもたらした失業者と混じり合うことによって変化している。組織的な政治腐敗に含まれるグループもいる。最もよい状態であれば、そこでは、正直さが接ぎ木され、組織だったえこひいき、仲間同士での信頼、言葉上の約束への良心的な忠実さ(書面にすると非合法になってしまう契約も含まれる)といった幾分困惑させられる道徳性が見いだされる。それは、警察の干渉を受けないことを示す「保護」という言葉の逆説的な使われ方のもとになっている。厳格なギャングの道徳に基づく、公正で高度な共同性を発達させねばならない暴力集団が存在する。彼らの規範はその生業が命ずるところに従い明確かつ直接的に形成されているので、ある意味で、最も道徳的な市民集団だと言えるかもしれない。
第四のグループは、合法的な事業を通じて掠り取り、削り取る。大会社の重役や役員が株主、消費者、労働者を犠牲にして会社から利益を奪い取るという横暴なやり方である。もしこれらのグループを一つのものと考えることができるなら、何百万人もの人間が犯罪的な精神病質、ひそかなごまかし、社会的シニシズム、精神病質に必要な人間性の改善への憎しみに寄与しているに違いない。
2014年11月26日水曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』12
第三章 職業的精神病質
関心の本性
もしバッタがしゃべれるとしたら、「オーストラリアスズメのつがいの習性」について学問的かつ上手に話されるより、「バッタを食べる鳥」の話により興味を抱くだろうことは想像に難くない。関心という要素は、コミュニケーションの働きで大きな部分を占めている。例えば、もし誰かが自分にとって重大な契機となったことを非常に明快かつ端的に語ったとしても、聞き手が彼の言うことにほとんど関心を示さないなら、望んだようなコミュニケーションは取れない。哲学者が歯痛に悩まされているなら、数学的シンボリズムよりは歯科学に興味を抱くことになろう。論じられている事柄がなんらかの点で聞き手の関心を引き起こさないなら、コミュニケーションは満足したものとはなり得ない。こうした助けがなければ、訴えかけの手続きはすべて――わかりやすさ、簡潔さ、説得力、構成、柔軟性、など随意に続く――無駄になる。若い恋人同士や雇用者と被雇用者の間で交わされるこの上なく退屈な誓いの言葉であっても、長年の努力と労力の結果がこの無味乾燥な言葉にあらわれていると思えば、生き生きしたものとなるかもしれない。我々は人の関心と関わることによってその人物に関心を抱く。
しかしながら、これだけ言えば、問題は非常に微妙であることが理解されよう。南北戦争以前のアメリカの黒人は、奴隷制に非常に関心をもっていたにちがいないが、その問題が特に言及された黒人霊歌を私は一つも知らない。ゆゆしい経済的問題に取りまかれているのも関わらず、現代の労働者はプロレタリア文学よりは社交界を舞台にしたドラマや冒険小説に関心をもち、プロレタリア文学の方は時間的に自由な好意的改革家や事務員や銀行家に主として読まれている。なにかがある人間の関心であっても、将来においても関心であり続ける保証は何もない。戦争の原因を理解することは人々にとって甚だしく関心をひく事柄であるはずである――しかし、そうした問題に関心をもたせることは非常に困難である。現状に不満足な者は、その不満足の分析よりも、けばけばしい物語や事実をありのままに伝える新聞により容易に関心を抱くだろう。なぜ自分が強いのかに関心をもたない乱暴者も、懸賞試合となれば夢中になろう。一日の仕事に疲れ切り、明日までは仕事のことなど考えまいと決めたセールスマンでも、映画に行き、登場人物が自分の仕事に理想的な金、工夫、社会生活を体現しているのを愉しく見ることだろう。この意味では、自分の仕事の理想、理想的な不安、理想的な希望、ものを売るのに必要な理想的な方法を体現している人物を見ているのだから、仕事からすこしも離れていない。
ジョン・デューイの「職業的精神病質」という概念が、この関心の二次的な側面を最もよく特徴づけていると思われる。大雑把に言えば、この言葉は、歴史的な意味における社会環境は社会の生産方法と同義語であるというマルクス主義の説に対応している。デューイ教授は、ある種族の生計の手段は、特殊な思考パターンをもたらし、思考とは行動の一側面なので、そのパターンは生産と配分において部族を助けると示している。経済的パターンに答えるものとして生まれたこの特殊な強調を、彼は部族の職業的精神病質と呼ぶ。一度この精神病質が食物を得るパターン(生存の問題としてそれが主要であることは確かである)として権威によって確立されると、それは部族文化の他の側面にまで持ち込まれることになる。
例えば、狩りによって生計を立てている部族では、結婚の習慣でも狩りのパターンが見られ、男性と女性との関係は狩人と獲物との関係に顕著な類似性があることが予想される。女性は儀式的に捕えられるだろう。また、狩りの非常に問題のある部分、突然の予期せぬ出来事に常に備えていなければならないことは、新しさに文化的強調をもたらすかもしれない――彼のあげている例では、戦争をしているオーストラリアの部族では、互いに最も新しい歌を聴き合うことで恩赦が与えられる。部族の生計に役立つ思考パターンを強調することで、精神病質はある種の創造的な性格をもつようになり、他の行動や形象に向いたときにも、似たようなパターンをもつ作品を形づくることになろう。更なる補強証拠として、それとは対照的な、生産体系の基礎として周期的に回帰するもの、季節に関する伝承、天文学的な固定性などをごく自然に強調し、伝統を重んじる農耕文化の芸術や考え方を挙げることもできる。そして、今日では、一時的流行にとらわれやすく、競争的な資本主義によって生みだされた新奇なものを常に求める我々の精神病質があってこそ、経済的社会的先行きに顕著な不安定さとうまくつきあっていくことができるのだろう。
芸術家は主として、職業的精神病質を派生的な側面で扱う。それを形象の新たな領域に投影する。狩猟の精神病質が新たなものを重んじるなら、芸術家は、新しさの経験を思わせるようなあらゆる技巧を発見することで、自分の芸術を社会化するだろう。逆に、自然の周期的な運動に忠実に、生産の段取りを決める枠組みを奉じている農耕的精神病質のなかで働いている芸術家は、部族の創設に付き従った吟唱詩人の神秘的な詩句に立ち返り、常に生気を与え続けることで、自分の堅実な伝統主義を公的に印象づけることになるかもしれない。
もちろん、原始的な社会でさえ、完全な職業的同質性があるわけではない。少なくとも常に、生産パターンとの関係が部族全体とは異なる特権階級が認められる。しかし、一般的には、芸術家は職業的精神病質が浸透したパターンのなかで、外部の材料を一般的な部族の装備で扱うと言える。彼は自分の特殊な経済システムに有用で適した習慣パターンを助長するような知的想像的上部構造を打ち立て操作する。その種の作品を授かることで、人々は強調点、識別、姿勢などを発展させる。特殊な好み、嫌悪、恐れ、希望、気遣い、理想化などが前面に出てくる。それは小さな火薬樽のようなもので、芸術家は爆発させようとするものの導火線に火をつけようとする。彼は論争の種になるようなもの(つまり、職業的精神病質の関心を呼び起こすもの)を扱うときに最も幸福である――そして、集団が同じように反応を見せる限り、その作品は普遍的な訴えかけの機会をもつことになる。
現在では、精神病質の相違を探ることが正当化されるほど互いに異なった生活のあり方を含む多様な職業的分類が想像できる。こうした生存様式のパターンは互いに排除し合っている。重なりあうところでは、混合的な精神病質を生みだしている。だが、二三の顕著な職業的特徴が認められ、それらは恐らくは平行した精神病質をもっている。(ちなみに、デューイ教授は、「精神病質」を精神医学的な意味で使っているのではないことは留意しておく方がいいだろう。それは単に精神の明白な特徴を示している。)
関心の本性
もしバッタがしゃべれるとしたら、「オーストラリアスズメのつがいの習性」について学問的かつ上手に話されるより、「バッタを食べる鳥」の話により興味を抱くだろうことは想像に難くない。関心という要素は、コミュニケーションの働きで大きな部分を占めている。例えば、もし誰かが自分にとって重大な契機となったことを非常に明快かつ端的に語ったとしても、聞き手が彼の言うことにほとんど関心を示さないなら、望んだようなコミュニケーションは取れない。哲学者が歯痛に悩まされているなら、数学的シンボリズムよりは歯科学に興味を抱くことになろう。論じられている事柄がなんらかの点で聞き手の関心を引き起こさないなら、コミュニケーションは満足したものとはなり得ない。こうした助けがなければ、訴えかけの手続きはすべて――わかりやすさ、簡潔さ、説得力、構成、柔軟性、など随意に続く――無駄になる。若い恋人同士や雇用者と被雇用者の間で交わされるこの上なく退屈な誓いの言葉であっても、長年の努力と労力の結果がこの無味乾燥な言葉にあらわれていると思えば、生き生きしたものとなるかもしれない。我々は人の関心と関わることによってその人物に関心を抱く。
しかしながら、これだけ言えば、問題は非常に微妙であることが理解されよう。南北戦争以前のアメリカの黒人は、奴隷制に非常に関心をもっていたにちがいないが、その問題が特に言及された黒人霊歌を私は一つも知らない。ゆゆしい経済的問題に取りまかれているのも関わらず、現代の労働者はプロレタリア文学よりは社交界を舞台にしたドラマや冒険小説に関心をもち、プロレタリア文学の方は時間的に自由な好意的改革家や事務員や銀行家に主として読まれている。なにかがある人間の関心であっても、将来においても関心であり続ける保証は何もない。戦争の原因を理解することは人々にとって甚だしく関心をひく事柄であるはずである――しかし、そうした問題に関心をもたせることは非常に困難である。現状に不満足な者は、その不満足の分析よりも、けばけばしい物語や事実をありのままに伝える新聞により容易に関心を抱くだろう。なぜ自分が強いのかに関心をもたない乱暴者も、懸賞試合となれば夢中になろう。一日の仕事に疲れ切り、明日までは仕事のことなど考えまいと決めたセールスマンでも、映画に行き、登場人物が自分の仕事に理想的な金、工夫、社会生活を体現しているのを愉しく見ることだろう。この意味では、自分の仕事の理想、理想的な不安、理想的な希望、ものを売るのに必要な理想的な方法を体現している人物を見ているのだから、仕事からすこしも離れていない。
ジョン・デューイの「職業的精神病質」という概念が、この関心の二次的な側面を最もよく特徴づけていると思われる。大雑把に言えば、この言葉は、歴史的な意味における社会環境は社会の生産方法と同義語であるというマルクス主義の説に対応している。デューイ教授は、ある種族の生計の手段は、特殊な思考パターンをもたらし、思考とは行動の一側面なので、そのパターンは生産と配分において部族を助けると示している。経済的パターンに答えるものとして生まれたこの特殊な強調を、彼は部族の職業的精神病質と呼ぶ。一度この精神病質が食物を得るパターン(生存の問題としてそれが主要であることは確かである)として権威によって確立されると、それは部族文化の他の側面にまで持ち込まれることになる。
例えば、狩りによって生計を立てている部族では、結婚の習慣でも狩りのパターンが見られ、男性と女性との関係は狩人と獲物との関係に顕著な類似性があることが予想される。女性は儀式的に捕えられるだろう。また、狩りの非常に問題のある部分、突然の予期せぬ出来事に常に備えていなければならないことは、新しさに文化的強調をもたらすかもしれない――彼のあげている例では、戦争をしているオーストラリアの部族では、互いに最も新しい歌を聴き合うことで恩赦が与えられる。部族の生計に役立つ思考パターンを強調することで、精神病質はある種の創造的な性格をもつようになり、他の行動や形象に向いたときにも、似たようなパターンをもつ作品を形づくることになろう。更なる補強証拠として、それとは対照的な、生産体系の基礎として周期的に回帰するもの、季節に関する伝承、天文学的な固定性などをごく自然に強調し、伝統を重んじる農耕文化の芸術や考え方を挙げることもできる。そして、今日では、一時的流行にとらわれやすく、競争的な資本主義によって生みだされた新奇なものを常に求める我々の精神病質があってこそ、経済的社会的先行きに顕著な不安定さとうまくつきあっていくことができるのだろう。
芸術家は主として、職業的精神病質を派生的な側面で扱う。それを形象の新たな領域に投影する。狩猟の精神病質が新たなものを重んじるなら、芸術家は、新しさの経験を思わせるようなあらゆる技巧を発見することで、自分の芸術を社会化するだろう。逆に、自然の周期的な運動に忠実に、生産の段取りを決める枠組みを奉じている農耕的精神病質のなかで働いている芸術家は、部族の創設に付き従った吟唱詩人の神秘的な詩句に立ち返り、常に生気を与え続けることで、自分の堅実な伝統主義を公的に印象づけることになるかもしれない。
もちろん、原始的な社会でさえ、完全な職業的同質性があるわけではない。少なくとも常に、生産パターンとの関係が部族全体とは異なる特権階級が認められる。しかし、一般的には、芸術家は職業的精神病質が浸透したパターンのなかで、外部の材料を一般的な部族の装備で扱うと言える。彼は自分の特殊な経済システムに有用で適した習慣パターンを助長するような知的想像的上部構造を打ち立て操作する。その種の作品を授かることで、人々は強調点、識別、姿勢などを発展させる。特殊な好み、嫌悪、恐れ、希望、気遣い、理想化などが前面に出てくる。それは小さな火薬樽のようなもので、芸術家は爆発させようとするものの導火線に火をつけようとする。彼は論争の種になるようなもの(つまり、職業的精神病質の関心を呼び起こすもの)を扱うときに最も幸福である――そして、集団が同じように反応を見せる限り、その作品は普遍的な訴えかけの機会をもつことになる。
現在では、精神病質の相違を探ることが正当化されるほど互いに異なった生活のあり方を含む多様な職業的分類が想像できる。こうした生存様式のパターンは互いに排除し合っている。重なりあうところでは、混合的な精神病質を生みだしている。だが、二三の顕著な職業的特徴が認められ、それらは恐らくは平行した精神病質をもっている。(ちなみに、デューイ教授は、「精神病質」を精神医学的な意味で使っているのではないことは留意しておく方がいいだろう。それは単に精神の明白な特徴を示している。)
2014年11月22日土曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』11
動機は諸状況を速記したものである
連合によるつながり、刺激と反応のもと考えるとき、動機についてなにを言えるだろうか。現実の生の経験が実験室の実験のように単純ではなく、夕食のベルのような明白な場合は滅多にない非常に複雑な解釈がなされると理解されたとき、人間の動機づけに関する内観的、道徳的用語法にこの事実を示す何かが期待されないわけがあろうか。単純な条件のもとにある法則を発見することは、それ自体は高度に複雑な条件においても同じようにその法則が働いていることの証拠にはならない。しかしながら、向きを変えるか痕跡として残っているか、なんらかの形でその働きの証拠を探すことは正当化される。
さて、所謂意識現象と呼ばれるものが何であれ、それがなんらかの葛藤から生じることは一般的に同意されている。かくしてそれは、慎重な選択という単純な意識状態から、あらゆる事実とその結果を秤にかける優柔不断、何か重要な側面が軽視されていて、そこから良心が危機にさらされるのではないかと恐れる周到で念入りなものにまで及ぶ。意識の特徴は、同様に、動機についての関心、動機の選択で我々が考慮に入れねばならない感情でもある。
こうした事実はすべて、動機についての我々が内省する言葉は、相矛盾し争い合うある種典型的な刺激のパターンを大雑把に速記的に記述していることを示していないだろうか。例えば、我々が義務という動機づけのもとある行為を行なうと言うとき、一般的には、ある種の反応を求めるある種の刺激が、別の反応を求めるある種の刺激と結びついているという複雑な刺激-状況を示している。我々が愛とは矛盾する義務によって行動するのは、直接的な満足は少ないが(我々は仕事を放り出して駆け落ちはしない)、怒った両親や非難がましい隣人の好意を得ておいた方が、最終的にはより満足を得ることができると判断するためである。刺激に従順に反応し、快の性格をもつ連鎖(駆け落ちという考え)が、同じく刺激への柔順な反応だが不快な性格(「人はなんと言うだろう」)をもつ連鎖と争う――そして、最終的に止まることに決めたなら、その動機は、義務から行動したことになろう。このような場合、義務とは、刺激同士の特殊な争いのパターンを認識する以外のことではなく、そのパターンとは自分が属するグループで頻繁に繰り返された経験のパターンであり、命令に従うとはそのパターンをあらわす特有の言葉である。
或いはまた、ある男が、「怪しいから後戻りした」と告げたとする。つまり、怪しさが彼の動機だった。しかし、怪しさは全体として調和しているわけではないしるし、意味、刺激の複雑な集合を指す言葉である。混合の具合は概ね次のようになろう。危険のしるし(「こいつには何か不吉な感じがする」)。安心させようとするしるし(「しかし、ここで強盗しようとするものはいないだろう」)。社会的しるし(「何もないのに騒ぎ立てて物笑いにはなりたくないが、何か落としたふりをして道を後戻りすることはできる」)、等々。「怪しい」という言葉によって、彼は状況そのものに言い及ぶ――そして、同じような刺激のパターンがあらわれる度に、彼は変わることなく怪しさに動機づけられたと言うことだろう。ちなみに、我々は状況を一般的な意味の図式と関連づけて特徴づけるので、状況の速記法としての動機が我々の定位一般にいかに関わり割り当てられているかは明らかである。そして、なぜ『デイリー・ワーカー』が、恐ろしい動機を政治家たちに割り当て、ブルジョアジーを変わることなく憤激させ続けるかが理解される。
動機に関する言葉が、事実、状況に関する言葉であるなら、我々は犬にさえ動機づけの「言葉」を観察できる――というのも、犬のよくある身振りには、多様な状況パターンについての認識を見て取れるからである。主人に挨拶する身振り、通りすがりの見知らぬ人間に対するもの、ぶたれると脅かされたときの、小屋に戻りなさいと言われたときの、新鮮な臭いに出くわしたときの、等々である。言うなれば、犬は二十から三十の典型的な、繰り返しあらわれる状況についての語彙をもっており、それらについては我々もすぐにわかるようになる。田舎の毛づやのいい若いテリアは、唯一の冒険が店までの散歩であり、舗装された道路で育ち、太り、甘やかされ、食べ過ぎの街のプードルとは相当に異なった動機の語彙をもっている。
このように動機を考察すると、なぜ動機づけに関するかくも多くの敵対する理論がここ数世紀の間に急激に増加し、その当座専門家の集団やある階級の人間に流通するにいたったのか説明することができよう。我々は人々の行動を際限のない多様な理論で説明してきた。民俗学、地理学、社会学、生理学、歴史学、内分泌学、経済学、解剖学、神秘学、病理学、等々。なぜ人々はそうするのかを語ることに特別の関心を払った特殊な芸術形式が隆盛を極めさえしたが――心理学的、科学的小説――それは恐らくは動機づけが極度にあやふやな性格をもった問題となったからであろう。そうした芸術は人の振る舞いについて情報を与え、そのスタイルはますます詩的でも読者本意でもなくなり、ますます注解と説明に限定されている。
偉大なる劇の時代には、観客はなぜ登場人物がそう行動するのか知っていた。登場人物こそ苦境に陥っているが、観客は彼らの行動を見て、しゃべるのを聞くだけで、動機については当然のことと見なしていた。しかし、我々はこうした初期の劇の動機についてさえ混乱するようになっている――それゆえ、動機づけが特定の主題となる芸術形式が発達したのである。この事実は我々の不安定性が増していることを示していよう。高度に安定した時代には、生のおきまりのパターンも高度に安定化されており、複雑な刺激の組み合わせは標準化され、動機は固定していたからである。そうした文化的に統合された時代には、人間が自分の動機について嘘をつくことはあり得たが、自分の動機がわからないといった疑いは考えられない。
我々の解釈によれば、動機について語るのは、単に、その人間が置かれた状況にある相反する刺激の特殊なパターンや組み合わせを名づけることなので、そうした姿勢も正当化される。しかし、著しく不安定な時代、大きく変わりやすい対立のある時代には、典型的な刺激のパターンが集団全体、或いはその過半数に及ぶことさえ起こりにくい。それゆえ、刺激の組み合わせの多くは名づけられないままだろう(少なくとも、最も深い意味における命名、つまり、動機として確実なものとなり、動機を指す言葉として普遍化されることはない)。とはいえ、テクノロジーの進歩が政治的、社会的、経済的、美学的、道徳的定位を歪ませ、社会の必要が根本的に異なってしまった現在のような有為転変の時代には、動機づけに関するすべての問題が再び流動化すると予想されないだろうか。
我々の放浪生活、年ごとに逆転する経済的身分、戦時下における国家体制の大変動、好景気の平和、大不況、職業習慣の広範囲にわたる多様化、いまから五年先でさえ世界がどうなり我々がそれにどう対応しているか全くわからない予測のつかなさ、田舎ででもなければ完全になくなってしまった「この父にしてこの子あり」的な傾向――こうしたすべての要因は、比較的安定した時期には高度に社会化、普遍化されていた性格とは反対に、典型的な、或いは頻発する刺激のパターンを個人化するものである。こうした状況は、そのまま動機の問題にあらわれるだろう。
実際、この点に関しては、内省的心理学への攻撃がことにアメリカでは一般的であったことが注目に値する。アメリカとはまさしく、頭のなかをのぞき込めば、不変の、安定した、繰り返される経験の豊かな蓄積が止められておらず、見いだされるのは、さほど高度でも複雑でもない、新しい冷蔵庫を買う誘惑だとか、失業の恐れだとか、煙草の銘柄についての関心などの数少ない単純な刺激があるばかりの場所である。かくして、動機の内省的な探求は、完全な空虚さを露わにする危険がある。こうした「文化」だからこそ、教育とは豊かな可能性の蓄えから洞察を引きだしてくることではなく、経験したことを空っぽの器にくみ出すことだと理論づけた行動主義的な心理学が興り、定着できたのではなかろうか。
恐らく、最も徹底的に、諸状況としての動機を論じる傾向を体現しているのは、ウィリアム・マーストンとその同僚たちの『統合心理学』であろう。彼らは行為の根本的な衝動として、栄養、性、出産を仮定する。我々の様々な社会的行動は、直接的間接的にこれらの衝動を満足させるものと解釈される。衝動は派生物をもっている。餓えという衝動は商業的な野心に転化されうるし、性的衝動は社会の繁栄への関心として表現され、出産の衝動は芸術に変わりうる、等々。「反応単位」としてある四つの動機づけは、盲従、支配、誘い、従順である。盲従は、意志に反して、自分よりも勝っていると思われる力に従うことである。(牢獄の囚人は盲従する。)支配は、ものを思い通りにしようとする。(子供は棒から手を放させようとすると抵抗する。)誘いは、セールス、広告、宣伝、お世辞、嘆願のような甘言によって達成される。(「うまく教育すれば、幼児期の早い時期に子供は、ものは支配し、人間や動物は誘導しなければならないことを学ぶ。」)従順と誘因との関係は、盲従と支配との関係に等しい。幸せな恋人は支配に盲従するのではなく、誘いかけに従順である。顧客はセールスマンの誘いかけに従う。(「動物や人間にある自発的な、素朴な、模倣的な行動は従順さによって動機づけられているように思われる。以前の本能に関する理論は、通常、模倣を基本的本能の一つに数え上げていた。更に、全体としての行動が支配や盲従によって制御されうるとしても、模倣的行動にはすべて従順さが含まれていなければならないと思われる。」)しかし、もちろん、判断のほとんどの場合において、単純な「反応単位」があらわれることは滅多にない。衝動やその派生物や四種の典型的反応同士が衝突し合う複雑な状況に行き当たるやいなや、動機と感情に関する我々の用語は、刺激-反応の状況を、ベンサムが確立したいと願った「道徳の算術」と同じくらい複雑なものとしてしまう。この著者たちは、通常動機の名で語られている数多くの複雑な状況をためらいがちに分析している。また、刺激にある相争う性質のため、その争いへの反応から生じるものとして、意識を神経医学的に説明している。
つけ加えて私が強調するのは、刺激そのものの性格である。刺激は絶対的な意味をもってはいない。拷問による死を示すしるしであっても、安楽を愛する懐疑論者と殉教には永遠の報酬が約束されているという世界観をもつ苦行者とではその定位において全く異なった意味をもつ。いかなる状況であっても、その性格は、それを判断する解釈の枠組みから生じる。そして、客観的状況を評価する異なったやり方は、主観的には、動機の差異として表現される。
動機は紛れもなく言語的な産物なので、動機の問題はコミュニケーションの問題に向うことになる。我々は自分が生まれ落ちた文化的グループ特有の言葉によって状況のパターンを識別する。言語的産物としての精神は、ある種の関係を意味深いものとして選別する諸概念(言語的にかたどられた)によって成り立っている。他のグループは、別の関係を意味深いものとして選択するかもしれない。こうした関係は現実ではなく、現実の解釈である――従って、異なった解釈の枠組みは、現実はなにかについて異なった結論を導きだすだろう。
他にもかかわらず起きることもあれば、他のために起こることもあり、他に関係なく起きることもある。もし我々がすべてを知ったなら、恐らくにもかかわらずと関係なくは排除することとなろう――しかし、限定された解釈の図式はすべてこれら三種のカテゴリーをどう分けるかに主たる相違がある。例えば、自然主義者なら、Aはその邪悪さには関係なく事故で傷ついたというかもしれない――超自然主義者なら、Aの邪悪さのために事故は起こったと言うだろう。解釈の転換は、我々が出来事をために、にもかかわらず、関係なくにグループ分けする異なった方法から生じる。
こうした解釈の転換は、異なった関係性に注意を向けるので、それぞれ現実について全く異なった絵を描く。我々は、自分が生まれ落ちた特殊な言語的織物に従いある種の関係を選び出すことを学び、その言語的織物を使って私的に他の諸関係を定式化するかもしれない。その場合、我々は新たな用語を発明するか、古い言葉を新たなやり方で適用するかして、我々の特殊な付加や変更が古い織物と合っていることを示すために、自分たちの集団の言語的装置を操作して、自らの立場を社会化しようと試みる。我々は新たな関係を意味深いものだと指摘しようとする――状況を異なった風に解釈する。主観的な領域では、新たな動機を発明する。古い動機と新しい動機のどちらも言語的に構築されており、言語はコミュニケーションの媒体であるので、定位から始まったこの議論は、動機づけを通じ、コミュニケーションに進むこととなる。第一部の残りは、コミュニケーションを扱うこととなろう。
連合によるつながり、刺激と反応のもと考えるとき、動機についてなにを言えるだろうか。現実の生の経験が実験室の実験のように単純ではなく、夕食のベルのような明白な場合は滅多にない非常に複雑な解釈がなされると理解されたとき、人間の動機づけに関する内観的、道徳的用語法にこの事実を示す何かが期待されないわけがあろうか。単純な条件のもとにある法則を発見することは、それ自体は高度に複雑な条件においても同じようにその法則が働いていることの証拠にはならない。しかしながら、向きを変えるか痕跡として残っているか、なんらかの形でその働きの証拠を探すことは正当化される。
さて、所謂意識現象と呼ばれるものが何であれ、それがなんらかの葛藤から生じることは一般的に同意されている。かくしてそれは、慎重な選択という単純な意識状態から、あらゆる事実とその結果を秤にかける優柔不断、何か重要な側面が軽視されていて、そこから良心が危機にさらされるのではないかと恐れる周到で念入りなものにまで及ぶ。意識の特徴は、同様に、動機についての関心、動機の選択で我々が考慮に入れねばならない感情でもある。
こうした事実はすべて、動機についての我々が内省する言葉は、相矛盾し争い合うある種典型的な刺激のパターンを大雑把に速記的に記述していることを示していないだろうか。例えば、我々が義務という動機づけのもとある行為を行なうと言うとき、一般的には、ある種の反応を求めるある種の刺激が、別の反応を求めるある種の刺激と結びついているという複雑な刺激-状況を示している。我々が愛とは矛盾する義務によって行動するのは、直接的な満足は少ないが(我々は仕事を放り出して駆け落ちはしない)、怒った両親や非難がましい隣人の好意を得ておいた方が、最終的にはより満足を得ることができると判断するためである。刺激に従順に反応し、快の性格をもつ連鎖(駆け落ちという考え)が、同じく刺激への柔順な反応だが不快な性格(「人はなんと言うだろう」)をもつ連鎖と争う――そして、最終的に止まることに決めたなら、その動機は、義務から行動したことになろう。このような場合、義務とは、刺激同士の特殊な争いのパターンを認識する以外のことではなく、そのパターンとは自分が属するグループで頻繁に繰り返された経験のパターンであり、命令に従うとはそのパターンをあらわす特有の言葉である。
或いはまた、ある男が、「怪しいから後戻りした」と告げたとする。つまり、怪しさが彼の動機だった。しかし、怪しさは全体として調和しているわけではないしるし、意味、刺激の複雑な集合を指す言葉である。混合の具合は概ね次のようになろう。危険のしるし(「こいつには何か不吉な感じがする」)。安心させようとするしるし(「しかし、ここで強盗しようとするものはいないだろう」)。社会的しるし(「何もないのに騒ぎ立てて物笑いにはなりたくないが、何か落としたふりをして道を後戻りすることはできる」)、等々。「怪しい」という言葉によって、彼は状況そのものに言い及ぶ――そして、同じような刺激のパターンがあらわれる度に、彼は変わることなく怪しさに動機づけられたと言うことだろう。ちなみに、我々は状況を一般的な意味の図式と関連づけて特徴づけるので、状況の速記法としての動機が我々の定位一般にいかに関わり割り当てられているかは明らかである。そして、なぜ『デイリー・ワーカー』が、恐ろしい動機を政治家たちに割り当て、ブルジョアジーを変わることなく憤激させ続けるかが理解される。
動機に関する言葉が、事実、状況に関する言葉であるなら、我々は犬にさえ動機づけの「言葉」を観察できる――というのも、犬のよくある身振りには、多様な状況パターンについての認識を見て取れるからである。主人に挨拶する身振り、通りすがりの見知らぬ人間に対するもの、ぶたれると脅かされたときの、小屋に戻りなさいと言われたときの、新鮮な臭いに出くわしたときの、等々である。言うなれば、犬は二十から三十の典型的な、繰り返しあらわれる状況についての語彙をもっており、それらについては我々もすぐにわかるようになる。田舎の毛づやのいい若いテリアは、唯一の冒険が店までの散歩であり、舗装された道路で育ち、太り、甘やかされ、食べ過ぎの街のプードルとは相当に異なった動機の語彙をもっている。
このように動機を考察すると、なぜ動機づけに関するかくも多くの敵対する理論がここ数世紀の間に急激に増加し、その当座専門家の集団やある階級の人間に流通するにいたったのか説明することができよう。我々は人々の行動を際限のない多様な理論で説明してきた。民俗学、地理学、社会学、生理学、歴史学、内分泌学、経済学、解剖学、神秘学、病理学、等々。なぜ人々はそうするのかを語ることに特別の関心を払った特殊な芸術形式が隆盛を極めさえしたが――心理学的、科学的小説――それは恐らくは動機づけが極度にあやふやな性格をもった問題となったからであろう。そうした芸術は人の振る舞いについて情報を与え、そのスタイルはますます詩的でも読者本意でもなくなり、ますます注解と説明に限定されている。
偉大なる劇の時代には、観客はなぜ登場人物がそう行動するのか知っていた。登場人物こそ苦境に陥っているが、観客は彼らの行動を見て、しゃべるのを聞くだけで、動機については当然のことと見なしていた。しかし、我々はこうした初期の劇の動機についてさえ混乱するようになっている――それゆえ、動機づけが特定の主題となる芸術形式が発達したのである。この事実は我々の不安定性が増していることを示していよう。高度に安定した時代には、生のおきまりのパターンも高度に安定化されており、複雑な刺激の組み合わせは標準化され、動機は固定していたからである。そうした文化的に統合された時代には、人間が自分の動機について嘘をつくことはあり得たが、自分の動機がわからないといった疑いは考えられない。
我々の解釈によれば、動機について語るのは、単に、その人間が置かれた状況にある相反する刺激の特殊なパターンや組み合わせを名づけることなので、そうした姿勢も正当化される。しかし、著しく不安定な時代、大きく変わりやすい対立のある時代には、典型的な刺激のパターンが集団全体、或いはその過半数に及ぶことさえ起こりにくい。それゆえ、刺激の組み合わせの多くは名づけられないままだろう(少なくとも、最も深い意味における命名、つまり、動機として確実なものとなり、動機を指す言葉として普遍化されることはない)。とはいえ、テクノロジーの進歩が政治的、社会的、経済的、美学的、道徳的定位を歪ませ、社会の必要が根本的に異なってしまった現在のような有為転変の時代には、動機づけに関するすべての問題が再び流動化すると予想されないだろうか。
我々の放浪生活、年ごとに逆転する経済的身分、戦時下における国家体制の大変動、好景気の平和、大不況、職業習慣の広範囲にわたる多様化、いまから五年先でさえ世界がどうなり我々がそれにどう対応しているか全くわからない予測のつかなさ、田舎ででもなければ完全になくなってしまった「この父にしてこの子あり」的な傾向――こうしたすべての要因は、比較的安定した時期には高度に社会化、普遍化されていた性格とは反対に、典型的な、或いは頻発する刺激のパターンを個人化するものである。こうした状況は、そのまま動機の問題にあらわれるだろう。
実際、この点に関しては、内省的心理学への攻撃がことにアメリカでは一般的であったことが注目に値する。アメリカとはまさしく、頭のなかをのぞき込めば、不変の、安定した、繰り返される経験の豊かな蓄積が止められておらず、見いだされるのは、さほど高度でも複雑でもない、新しい冷蔵庫を買う誘惑だとか、失業の恐れだとか、煙草の銘柄についての関心などの数少ない単純な刺激があるばかりの場所である。かくして、動機の内省的な探求は、完全な空虚さを露わにする危険がある。こうした「文化」だからこそ、教育とは豊かな可能性の蓄えから洞察を引きだしてくることではなく、経験したことを空っぽの器にくみ出すことだと理論づけた行動主義的な心理学が興り、定着できたのではなかろうか。
恐らく、最も徹底的に、諸状況としての動機を論じる傾向を体現しているのは、ウィリアム・マーストンとその同僚たちの『統合心理学』であろう。彼らは行為の根本的な衝動として、栄養、性、出産を仮定する。我々の様々な社会的行動は、直接的間接的にこれらの衝動を満足させるものと解釈される。衝動は派生物をもっている。餓えという衝動は商業的な野心に転化されうるし、性的衝動は社会の繁栄への関心として表現され、出産の衝動は芸術に変わりうる、等々。「反応単位」としてある四つの動機づけは、盲従、支配、誘い、従順である。盲従は、意志に反して、自分よりも勝っていると思われる力に従うことである。(牢獄の囚人は盲従する。)支配は、ものを思い通りにしようとする。(子供は棒から手を放させようとすると抵抗する。)誘いは、セールス、広告、宣伝、お世辞、嘆願のような甘言によって達成される。(「うまく教育すれば、幼児期の早い時期に子供は、ものは支配し、人間や動物は誘導しなければならないことを学ぶ。」)従順と誘因との関係は、盲従と支配との関係に等しい。幸せな恋人は支配に盲従するのではなく、誘いかけに従順である。顧客はセールスマンの誘いかけに従う。(「動物や人間にある自発的な、素朴な、模倣的な行動は従順さによって動機づけられているように思われる。以前の本能に関する理論は、通常、模倣を基本的本能の一つに数え上げていた。更に、全体としての行動が支配や盲従によって制御されうるとしても、模倣的行動にはすべて従順さが含まれていなければならないと思われる。」)しかし、もちろん、判断のほとんどの場合において、単純な「反応単位」があらわれることは滅多にない。衝動やその派生物や四種の典型的反応同士が衝突し合う複雑な状況に行き当たるやいなや、動機と感情に関する我々の用語は、刺激-反応の状況を、ベンサムが確立したいと願った「道徳の算術」と同じくらい複雑なものとしてしまう。この著者たちは、通常動機の名で語られている数多くの複雑な状況をためらいがちに分析している。また、刺激にある相争う性質のため、その争いへの反応から生じるものとして、意識を神経医学的に説明している。
つけ加えて私が強調するのは、刺激そのものの性格である。刺激は絶対的な意味をもってはいない。拷問による死を示すしるしであっても、安楽を愛する懐疑論者と殉教には永遠の報酬が約束されているという世界観をもつ苦行者とではその定位において全く異なった意味をもつ。いかなる状況であっても、その性格は、それを判断する解釈の枠組みから生じる。そして、客観的状況を評価する異なったやり方は、主観的には、動機の差異として表現される。
動機は紛れもなく言語的な産物なので、動機の問題はコミュニケーションの問題に向うことになる。我々は自分が生まれ落ちた文化的グループ特有の言葉によって状況のパターンを識別する。言語的産物としての精神は、ある種の関係を意味深いものとして選別する諸概念(言語的にかたどられた)によって成り立っている。他のグループは、別の関係を意味深いものとして選択するかもしれない。こうした関係は現実ではなく、現実の解釈である――従って、異なった解釈の枠組みは、現実はなにかについて異なった結論を導きだすだろう。
他にもかかわらず起きることもあれば、他のために起こることもあり、他に関係なく起きることもある。もし我々がすべてを知ったなら、恐らくにもかかわらずと関係なくは排除することとなろう――しかし、限定された解釈の図式はすべてこれら三種のカテゴリーをどう分けるかに主たる相違がある。例えば、自然主義者なら、Aはその邪悪さには関係なく事故で傷ついたというかもしれない――超自然主義者なら、Aの邪悪さのために事故は起こったと言うだろう。解釈の転換は、我々が出来事をために、にもかかわらず、関係なくにグループ分けする異なった方法から生じる。
こうした解釈の転換は、異なった関係性に注意を向けるので、それぞれ現実について全く異なった絵を描く。我々は、自分が生まれ落ちた特殊な言語的織物に従いある種の関係を選び出すことを学び、その言語的織物を使って私的に他の諸関係を定式化するかもしれない。その場合、我々は新たな用語を発明するか、古い言葉を新たなやり方で適用するかして、我々の特殊な付加や変更が古い織物と合っていることを示すために、自分たちの集団の言語的装置を操作して、自らの立場を社会化しようと試みる。我々は新たな関係を意味深いものだと指摘しようとする――状況を異なった風に解釈する。主観的な領域では、新たな動機を発明する。古い動機と新しい動機のどちらも言語的に構築されており、言語はコミュニケーションの媒体であるので、定位から始まったこの議論は、動機づけを通じ、コミュニケーションに進むこととなる。第一部の残りは、コミュニケーションを扱うこととなろう。
2014年11月18日火曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』10
より大きな全体の一部である動機についての更なる考察
要約しよう。動機づけの概要が変化する限り、行動の動機とするものにも変化が予想される。動機はテーブルのように人が見に行ける固定した事物ではない。それは解釈に関わり、当然、全体としての世界観のなかに位置づけられる。精神分析が扱う合理化の過程は、彼らが考えるような場に集中しなかった。それは、人はなにをすべきか、いかに自分の価値を証明するか、どんな根拠でよい扱いが期待されるか、よい扱いとは何か、などに関する判断の全体に位置づけられた。ある人間が自分の振る舞いを説明する際にもちだす少数の動機は、このより大きな定位の断片的な部分でしかない。
かつて形而上学者はその著作を第一原理で始め、それは宇宙構造一般を扱わねばならなかった。そこから、歴史と心理学、善と美、彼ら独自の人類学の法則を引きだすことに進んだ。それに続く思想家たちは、我々の形成する宇宙の観念に及ぼす人類学的な影響に注目し、宇宙から人間へという進行を逆転した。純粋に人間的な過程の研究から始め、宇宙観を心理学的、生理学的、民俗学的、歴史的な反応として解釈したのである。宇宙から始め、人間に降りてく代わりに、人間から始め宇宙に向けて進む。
新たな方法は形而上学的議論に大きな柔軟性を与えたが、いかにある世界観が人類学的な根をもっているにしても、それに伴う内観心理学(そして、常識の言葉、自問自答や自己探求で発見されるもの)はより大きな全体の一部でしかないという事実を覆い隠す役にも立った。制度、習慣、暮らし方を含む一般的で確立された定位の体制に関する限り、動機の心理学は単なる国家内国家のようなものであろう。生のあらゆる目的が子孫の繁栄に向けられた定位や合理化では、飢えた人間がその憤りや悲しみを食物への欲望ではなく、未来の子孫が危険にさらされているという恐れに向けるのも道理のあることだろう。
我々が精神分析的な強調の仕方に反対するのは、彼らはある人間が餓えという動機を利他的な動機と診断するのを自己欺瞞的な合理化として非難しがちなのだが、どんな動機もより大きな、全体としての人間の目的に関する暗黙の、或いはあからさまな合理化の一部に過ぎないからである。例えば、本来のフロイト的動機の図式は、西欧社会に既に確立されていた強い性的-ブルジョア的定位に従属し、想像力と現実との広く行きわたった常識的区別を加えたものでしかなかった。その用語法は、時代に特有のロマン主義的、科学的姿勢に多くを負っている。
正義が世界観において中枢となる語であるとき、人は正義のために生を投げださないなどとどうして言えよう。実際、その僅か数音節のために人は向こう見ずな行動ができる。また、未来の子孫の繁栄が人間行動の基本的な動機となるような文明を仮定し想像することをとんでもないと考える読者がいたとしたら、その正反対の事例、祖先崇拝が盛んだったころの中国を考えればいいので、そこでは、行動の心理学的な動機、犠牲、努力、規律、非難、称賛の根拠は祖先の威厳を維持することに基づいていた。自分の幸福は死者たちの幸福に含まれているから、死者のために行動した。我々はそれを回りくどい因果関係の体系であり、目的と手段との関係についての疑わしい理論だと言えるかもしれないが、今日の人間が自分の行動を仕事が欲しいためだと説明しているのが、実は仕事がもたらす金銭と、金銭がもたらす物品を欲しているのと自己欺瞞の点では変わらない。
こうした誤りの偏狭さが最も明らかになるのは、現代の精神分析家の亜流が、聖アウグスティヌスのような強烈で際だった神学者の根に隠れた性的動機を解釈し始めるような場合である。アウグスティヌスが生き、書いていた時代の動機づけが、せいぜいそれら動機全体の一部分である僅かな性的衝動のために無条件に捨て去られる。
どんな権限で、性的なことが彼の動機の本質だと言えるのだろうか。非性的な関心は、性的関心を象徴化したものと解釈できる――しかし、同じく、性的関心は、非性的関心を象徴化したとも考えられる。つまり、性的な事柄が大きな重要性をもっているから、思考パターンが性的思考のパターンを顕著に示すことになる。聖アウグスティヌスの強く宗教的に定位された社会とは対照的な我々の強く性的に定位された社会以外では、どちらが真の動機で、どちらが象徴的な附加物だと言えるだろうか。
古代中国に関しても、その祖先崇拝が完全に間違った手段選択の例だとは言えない。それは物品の獲得や安定化に非常に役立つ社会的実践を活気づけ、それによって社会的に有効な姿勢をも活気づけた。その規範に順応することで有形無形の公益とともに、好意による報酬を受けた。
恐らく、違った表現でより明瞭な確証を提示することで、この観点を述べてみるべきだろう。従って、同じ一般的問題を扱っていると思われるI.A.リチャーズの『孟子の精神論』から引用する。
「我々は長いあいだそうであるかのように語ってきたゆえに、恐らくは、そのように考え、感じ、意志しており、言語と伝統が異なった心の働きを公言していたなら、我々の心は別の動き方をしただろうというのは可能な考え方である。これは居心地の悪い示唆であり、我々が常々従っている結論以上の帰結をもたらし、一般的な心理学理論を変化させるだろう。大地のみならず、心の土台をも崩れ去る危険を感じるだろう。・・・こうしたすべてが孟子に関わっており、孟子の考察は認知の理論を欠いた心理学を通じてなされる。しかし、認知、知識の概念は、「反応に基づく」心理学の最も危なっかしい部分なのである。行動主義者にとっては、明らかに、「いかにという知識」が「何かについての知識」に取って代わる。激しく行動主義者に反対する者でさえ、しばしば覚知を行動の前提条件ではなく、大半が無意識的な本能的衝動の抵抗点で生じる副次的な結果として扱う。全体的に言って、西洋の心理学は、一世代前よりも、真剣に認知を論じることなしに心を考えようとしている。異なった社会と言語が異なった心的働きを発達させると考えるのは、より容易なことのように私には思われる。・・・孟子とその後継者における理論的関心の欠如は、相違が最も明らかな部分である。しかし、そうした相違の概略を示すのにさえ、我々は共通の座標――例えば「関心」――を含む言語を使用せざるを得ない。我々が比較に用いている基本的な仮定に関しては、明らかに我々の懐疑にも限界があるにちがいない。我々のなし得る疑問は、通常すべての精神に共通だと考えられていた様態の幾つかが孟子が扱った精神には欠けているのではないか、ということに止まる。」
多分、リチャーズの大胆な考察は、いかに精神が働くかについて一般に受け入れられている考え方が、精神をそのように働かせることを可能にするのだと要約される。それは、単に合理化に含まれる動機を問うことを越えたところに問題を移すように思われる。自分の仮定を擁護するために、彼は、心理学の問題に対する古代中国の哲学者孟子の倫理的なアプローチと、現代科学者たちの臨床的なアプローチとの顕著な相違を露わにしている。私自身の論点は、彼の考える可能性の範囲に比較すると、のろのろと進んでいるようにしか思えない。私が言おうとしているのは、単に、動機の用語法ははぐらかしでも自己欺瞞でもなく、目的、方便、「よき生」などに関する一般的な定位に適合するよう形づくられるのだということにある。
要約しよう。動機づけの概要が変化する限り、行動の動機とするものにも変化が予想される。動機はテーブルのように人が見に行ける固定した事物ではない。それは解釈に関わり、当然、全体としての世界観のなかに位置づけられる。精神分析が扱う合理化の過程は、彼らが考えるような場に集中しなかった。それは、人はなにをすべきか、いかに自分の価値を証明するか、どんな根拠でよい扱いが期待されるか、よい扱いとは何か、などに関する判断の全体に位置づけられた。ある人間が自分の振る舞いを説明する際にもちだす少数の動機は、このより大きな定位の断片的な部分でしかない。
かつて形而上学者はその著作を第一原理で始め、それは宇宙構造一般を扱わねばならなかった。そこから、歴史と心理学、善と美、彼ら独自の人類学の法則を引きだすことに進んだ。それに続く思想家たちは、我々の形成する宇宙の観念に及ぼす人類学的な影響に注目し、宇宙から人間へという進行を逆転した。純粋に人間的な過程の研究から始め、宇宙観を心理学的、生理学的、民俗学的、歴史的な反応として解釈したのである。宇宙から始め、人間に降りてく代わりに、人間から始め宇宙に向けて進む。
新たな方法は形而上学的議論に大きな柔軟性を与えたが、いかにある世界観が人類学的な根をもっているにしても、それに伴う内観心理学(そして、常識の言葉、自問自答や自己探求で発見されるもの)はより大きな全体の一部でしかないという事実を覆い隠す役にも立った。制度、習慣、暮らし方を含む一般的で確立された定位の体制に関する限り、動機の心理学は単なる国家内国家のようなものであろう。生のあらゆる目的が子孫の繁栄に向けられた定位や合理化では、飢えた人間がその憤りや悲しみを食物への欲望ではなく、未来の子孫が危険にさらされているという恐れに向けるのも道理のあることだろう。
我々が精神分析的な強調の仕方に反対するのは、彼らはある人間が餓えという動機を利他的な動機と診断するのを自己欺瞞的な合理化として非難しがちなのだが、どんな動機もより大きな、全体としての人間の目的に関する暗黙の、或いはあからさまな合理化の一部に過ぎないからである。例えば、本来のフロイト的動機の図式は、西欧社会に既に確立されていた強い性的-ブルジョア的定位に従属し、想像力と現実との広く行きわたった常識的区別を加えたものでしかなかった。その用語法は、時代に特有のロマン主義的、科学的姿勢に多くを負っている。
正義が世界観において中枢となる語であるとき、人は正義のために生を投げださないなどとどうして言えよう。実際、その僅か数音節のために人は向こう見ずな行動ができる。また、未来の子孫の繁栄が人間行動の基本的な動機となるような文明を仮定し想像することをとんでもないと考える読者がいたとしたら、その正反対の事例、祖先崇拝が盛んだったころの中国を考えればいいので、そこでは、行動の心理学的な動機、犠牲、努力、規律、非難、称賛の根拠は祖先の威厳を維持することに基づいていた。自分の幸福は死者たちの幸福に含まれているから、死者のために行動した。我々はそれを回りくどい因果関係の体系であり、目的と手段との関係についての疑わしい理論だと言えるかもしれないが、今日の人間が自分の行動を仕事が欲しいためだと説明しているのが、実は仕事がもたらす金銭と、金銭がもたらす物品を欲しているのと自己欺瞞の点では変わらない。
こうした誤りの偏狭さが最も明らかになるのは、現代の精神分析家の亜流が、聖アウグスティヌスのような強烈で際だった神学者の根に隠れた性的動機を解釈し始めるような場合である。アウグスティヌスが生き、書いていた時代の動機づけが、せいぜいそれら動機全体の一部分である僅かな性的衝動のために無条件に捨て去られる。
どんな権限で、性的なことが彼の動機の本質だと言えるのだろうか。非性的な関心は、性的関心を象徴化したものと解釈できる――しかし、同じく、性的関心は、非性的関心を象徴化したとも考えられる。つまり、性的な事柄が大きな重要性をもっているから、思考パターンが性的思考のパターンを顕著に示すことになる。聖アウグスティヌスの強く宗教的に定位された社会とは対照的な我々の強く性的に定位された社会以外では、どちらが真の動機で、どちらが象徴的な附加物だと言えるだろうか。
古代中国に関しても、その祖先崇拝が完全に間違った手段選択の例だとは言えない。それは物品の獲得や安定化に非常に役立つ社会的実践を活気づけ、それによって社会的に有効な姿勢をも活気づけた。その規範に順応することで有形無形の公益とともに、好意による報酬を受けた。
恐らく、違った表現でより明瞭な確証を提示することで、この観点を述べてみるべきだろう。従って、同じ一般的問題を扱っていると思われるI.A.リチャーズの『孟子の精神論』から引用する。
「我々は長いあいだそうであるかのように語ってきたゆえに、恐らくは、そのように考え、感じ、意志しており、言語と伝統が異なった心の働きを公言していたなら、我々の心は別の動き方をしただろうというのは可能な考え方である。これは居心地の悪い示唆であり、我々が常々従っている結論以上の帰結をもたらし、一般的な心理学理論を変化させるだろう。大地のみならず、心の土台をも崩れ去る危険を感じるだろう。・・・こうしたすべてが孟子に関わっており、孟子の考察は認知の理論を欠いた心理学を通じてなされる。しかし、認知、知識の概念は、「反応に基づく」心理学の最も危なっかしい部分なのである。行動主義者にとっては、明らかに、「いかにという知識」が「何かについての知識」に取って代わる。激しく行動主義者に反対する者でさえ、しばしば覚知を行動の前提条件ではなく、大半が無意識的な本能的衝動の抵抗点で生じる副次的な結果として扱う。全体的に言って、西洋の心理学は、一世代前よりも、真剣に認知を論じることなしに心を考えようとしている。異なった社会と言語が異なった心的働きを発達させると考えるのは、より容易なことのように私には思われる。・・・孟子とその後継者における理論的関心の欠如は、相違が最も明らかな部分である。しかし、そうした相違の概略を示すのにさえ、我々は共通の座標――例えば「関心」――を含む言語を使用せざるを得ない。我々が比較に用いている基本的な仮定に関しては、明らかに我々の懐疑にも限界があるにちがいない。我々のなし得る疑問は、通常すべての精神に共通だと考えられていた様態の幾つかが孟子が扱った精神には欠けているのではないか、ということに止まる。」
多分、リチャーズの大胆な考察は、いかに精神が働くかについて一般に受け入れられている考え方が、精神をそのように働かせることを可能にするのだと要約される。それは、単に合理化に含まれる動機を問うことを越えたところに問題を移すように思われる。自分の仮定を擁護するために、彼は、心理学の問題に対する古代中国の哲学者孟子の倫理的なアプローチと、現代科学者たちの臨床的なアプローチとの顕著な相違を露わにしている。私自身の論点は、彼の考える可能性の範囲に比較すると、のろのろと進んでいるようにしか思えない。私が言おうとしているのは、単に、動機の用語法ははぐらかしでも自己欺瞞でもなく、目的、方便、「よき生」などに関する一般的な定位に適合するよう形づくられるのだということにある。
2014年11月14日金曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』9
動機の戦略
まとめるとこうなる。自分の行動をお気に入りの社会規範で説明する人間がいたとき、彼は精神分析家のあいだで生活する人間が自分の利害をリビドー、抑圧、オイディプス・コンプレックスなどだけで論じ始める場合と同じ合理化を行なっているのだと言える。これもまた、ある種の合理化、特殊な定位に属する動機群である――自分の動機をこのように謙遜して表現する率直さは、「偽善の時代」が終わる以前[終わったのか?!――1953年の追記]広く行きわたっていたうわべだけの道徳を嫌う人々の好意を得るのに役立ちさえする。
だが、野蛮な一群の事実のもとに打ち立てる仮説は合理化以外のなにものであろうか。形而上学者と馬鹿者との相違は、定位に関しては、形而上学者が合理化されるべき事実の複雑性を数多く広く探査しているだけではないだろうか。形而上学者は、風に流されるまま合理化することに満足せず、一貫した、或いは互いに適合性のある信念によって、より厳密な検証を行なおうとする。常識はそうした厳格さに対してはのんきに構えているが、両者の相違は主として圧力の問題である。形而上学者はより強く規矩にはめようとし――通常あまりに強すぎる。科学の論理的議論は、洗練された合理化に基づいており、単なる自己欺瞞を越え、紛れもない偽善に近づいているように思える。科学者が自分の観点をできる限り読者に訴えかけ、自分たちの信念を基礎づける動機選択で見せる純然たる外向的手腕に明らかである。
ジャン・ピアジェは、人が私的に自分の考えを追う場合と、それを他人に提示するときの相違について考察している。自分の観点を社会化しようとするときにつけ加える論理的調節について考えてみよう。議論を公にする仕事の席に着くまで考えもしなかった多くの点や考え方を、信念の根拠として即興的に提唱する場合を考えてみよう。自分の信念を一度他人に推奨し始めると、論議を始めるときには完全に無視していた考察が最も大きな重荷になることがよくある。動機づけは時代の一般的で科学的な世界観に属しているから、自分の論議を外在化、或いは非人称化することで、読者を承伏させる動機づけの体系に翻訳することになる。こうした策略を無意識裡に行えるなら、彼はそうした動機づけによってごく「自然に」考えることを学ぶことさえできる。
いかなる説明も社会化の試みであり、社会化は戦略である。それゆえ、内省と同じように科学においても、動機の特定は訴えかけに関わる――パリサイ人的偽善と議論の科学的動機づけとの相違は、訴えかけの戦略が枠づけられる定位の及ぶ範囲の相違に止まる。
まとめるとこうなる。自分の行動をお気に入りの社会規範で説明する人間がいたとき、彼は精神分析家のあいだで生活する人間が自分の利害をリビドー、抑圧、オイディプス・コンプレックスなどだけで論じ始める場合と同じ合理化を行なっているのだと言える。これもまた、ある種の合理化、特殊な定位に属する動機群である――自分の動機をこのように謙遜して表現する率直さは、「偽善の時代」が終わる以前[終わったのか?!――1953年の追記]広く行きわたっていたうわべだけの道徳を嫌う人々の好意を得るのに役立ちさえする。
だが、野蛮な一群の事実のもとに打ち立てる仮説は合理化以外のなにものであろうか。形而上学者と馬鹿者との相違は、定位に関しては、形而上学者が合理化されるべき事実の複雑性を数多く広く探査しているだけではないだろうか。形而上学者は、風に流されるまま合理化することに満足せず、一貫した、或いは互いに適合性のある信念によって、より厳密な検証を行なおうとする。常識はそうした厳格さに対してはのんきに構えているが、両者の相違は主として圧力の問題である。形而上学者はより強く規矩にはめようとし――通常あまりに強すぎる。科学の論理的議論は、洗練された合理化に基づいており、単なる自己欺瞞を越え、紛れもない偽善に近づいているように思える。科学者が自分の観点をできる限り読者に訴えかけ、自分たちの信念を基礎づける動機選択で見せる純然たる外向的手腕に明らかである。
ジャン・ピアジェは、人が私的に自分の考えを追う場合と、それを他人に提示するときの相違について考察している。自分の観点を社会化しようとするときにつけ加える論理的調節について考えてみよう。議論を公にする仕事の席に着くまで考えもしなかった多くの点や考え方を、信念の根拠として即興的に提唱する場合を考えてみよう。自分の信念を一度他人に推奨し始めると、論議を始めるときには完全に無視していた考察が最も大きな重荷になることがよくある。動機づけは時代の一般的で科学的な世界観に属しているから、自分の論議を外在化、或いは非人称化することで、読者を承伏させる動機づけの体系に翻訳することになる。こうした策略を無意識裡に行えるなら、彼はそうした動機づけによってごく「自然に」考えることを学ぶことさえできる。
いかなる説明も社会化の試みであり、社会化は戦略である。それゆえ、内省と同じように科学においても、動機の特定は訴えかけに関わる――パリサイ人的偽善と議論の科学的動機づけとの相違は、訴えかけの戦略が枠づけられる定位の及ぶ範囲の相違に止まる。
2014年11月10日月曜日
ケネス・バーク『恒久性と変化』8
定位における快感原則
ある意味において、あらゆる定位には快感原則が含まれているが、それは現実原則と対立するわけではない。我々は経験を主に快不快の見込みとの関わりで特徴づける。定位は有用性の枠組みである。「最善の動機」によって自分の振る舞いを説明する人間は、通常、道徳的善が有用性と結びついていると認めねばならない。「善」と「有用性」とが結びつく手の込んだ経路のすべてをここで辿る必要はない。しかしながら、ある社会の最高の美徳がすべての人に行きわたるなら(我々自身である必要はないが)、彼らは人が快適に生きられる世界を作りあげようとするだろう。
その美徳は次のようなものである。勤勉さ、才能、率直さ、親切、人の助けとなる、気前のよさ、気だてのよさ、寛大さ――つまり、「平和的な」美徳である。それらは我々にとってある種威光を放つものであり、自分の身につけたいと願う。望まれるものであり、称讃されるものである。かくして、我々はそれらを自分自身にも育てようとする。個人でそうした性質を得ることは、集団において好意を得るという点でも有用であり、ベンサムは好意を「恩恵の約束」と呼んだ。いずれにしろ、なぜ心的過程を記述する専門的な用語にごく自然に道徳的言葉が使われるのか察するに十分であろう。それは状況において傑出した位置を占める――それらを自らの行為に当てはめることで、好ましい定位の図式を用いることになる。
別の言葉で言うと、経験の記号は有用性と損害の検証(利益と危険)で定位づけられる。従って、敵を引き合いに出して自分たちの行為や考え方を称讃する場合、それは現実原則とは異なる快感原則が働いていると説明する必要はなく、現実の測定が最初から快感の検証との関わりにおいてなされているのである。現実とは、物事が我々に、或は我々のためになすことである。快適さや不快の、繁栄や危険の公算である。
包括的な快感原則のもと性格を定義したとしても、間違っているか不十分であることは確かだろう(ベルの音を餌として条件づけられたニワトリが、罰せられるために走り寄ってくるときのように)。定位の初期において、「現実は違うにもかかわらず」同じ行動を取り続けることは、現実原則と異なる快楽原則が働いているとはまず言えない。定位の図式が認めさせてくれる現実に従っているだけである。そして、ベルが鳴る度に繰り返し罰せられるなら、快感原則そのものがそのしるしの読みを変更するよう導くだろう。
もし人間が罰せられるにもかかわらず、間違った定位に鶏よりも長く固執し続けるなら、それは、問題そして価値と判断が互いに支え合う広大なネットワークが複雑になればなるほど、再定位の必要を見て取り、それに応じた手段を選択することがますます困難になるからである。初期のやり方で定着した権威が新たなやり方を採用する邪魔をしているのであるから、彼らは訓練された無能力の犠牲者である。また、ある行為が社会的に危険であっても個人には有利で、集団には多大な苦痛をもたらす一方個人は利益を得る愛国主義もあるという事実によって、この困難は増大する。
ある意味において、あらゆる定位には快感原則が含まれているが、それは現実原則と対立するわけではない。我々は経験を主に快不快の見込みとの関わりで特徴づける。定位は有用性の枠組みである。「最善の動機」によって自分の振る舞いを説明する人間は、通常、道徳的善が有用性と結びついていると認めねばならない。「善」と「有用性」とが結びつく手の込んだ経路のすべてをここで辿る必要はない。しかしながら、ある社会の最高の美徳がすべての人に行きわたるなら(我々自身である必要はないが)、彼らは人が快適に生きられる世界を作りあげようとするだろう。
その美徳は次のようなものである。勤勉さ、才能、率直さ、親切、人の助けとなる、気前のよさ、気だてのよさ、寛大さ――つまり、「平和的な」美徳である。それらは我々にとってある種威光を放つものであり、自分の身につけたいと願う。望まれるものであり、称讃されるものである。かくして、我々はそれらを自分自身にも育てようとする。個人でそうした性質を得ることは、集団において好意を得るという点でも有用であり、ベンサムは好意を「恩恵の約束」と呼んだ。いずれにしろ、なぜ心的過程を記述する専門的な用語にごく自然に道徳的言葉が使われるのか察するに十分であろう。それは状況において傑出した位置を占める――それらを自らの行為に当てはめることで、好ましい定位の図式を用いることになる。
別の言葉で言うと、経験の記号は有用性と損害の検証(利益と危険)で定位づけられる。従って、敵を引き合いに出して自分たちの行為や考え方を称讃する場合、それは現実原則とは異なる快感原則が働いていると説明する必要はなく、現実の測定が最初から快感の検証との関わりにおいてなされているのである。現実とは、物事が我々に、或は我々のためになすことである。快適さや不快の、繁栄や危険の公算である。
包括的な快感原則のもと性格を定義したとしても、間違っているか不十分であることは確かだろう(ベルの音を餌として条件づけられたニワトリが、罰せられるために走り寄ってくるときのように)。定位の初期において、「現実は違うにもかかわらず」同じ行動を取り続けることは、現実原則と異なる快楽原則が働いているとはまず言えない。定位の図式が認めさせてくれる現実に従っているだけである。そして、ベルが鳴る度に繰り返し罰せられるなら、快感原則そのものがそのしるしの読みを変更するよう導くだろう。
もし人間が罰せられるにもかかわらず、間違った定位に鶏よりも長く固執し続けるなら、それは、問題そして価値と判断が互いに支え合う広大なネットワークが複雑になればなるほど、再定位の必要を見て取り、それに応じた手段を選択することがますます困難になるからである。初期のやり方で定着した権威が新たなやり方を採用する邪魔をしているのであるから、彼らは訓練された無能力の犠牲者である。また、ある行為が社会的に危険であっても個人には有利で、集団には多大な苦痛をもたらす一方個人は利益を得る愛国主義もあるという事実によって、この困難は増大する。
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