2014年9月30日火曜日

ブラッドリー『論理学』78

 §54.我々が注意深く実在との接点に留意しているのは、すべての主張で曖昧であるわけではないし、疑わしいとも言えないことだろう。「彼が殺人を犯したのなら、絞首刑になるだろう」というのは、恐らく殺人と絞首刑との一般的な関連以外のことを主張しているわけではなく、「彼」は無関係である。しかし、「もし神が公正なら、不正は罰せられるだろう」では、多分、罪がなんらかの正義によってもたらされると言っているのではなく、全能という性質をもった正義によってもたらされるのだと言っている。他方、「この男がこの薬を飲むと、等々」と言うときには、この薬は誰にとっても毒であるから、あるいは彼のような人間には毒であるから、あるいはまたいまのような特殊な状況では彼のような人間には毒になるから速やかな死が訪れるだろうと言っているのではない。他の例もすべて同じような曖昧さで我々を混乱させる。仮定は明らかになっておらず、反省してみて確信されるのは、我々は判断の主語を知っていると仮定はしていても、いずれにしろその知識をあらわにはしていないことである。

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