§45.「すべて」の使用は、既に見たように(§6)、最も誤りやすく危険である。それは普遍を集合という意味に理解させがちであり、多くの間違った結論を導きだす。我々は至る所で、この量についての法外な教えが行なわれ、伝統的な論理学が嬉々としているありさまを見ることになろう。後に推論を扱う際には、すべてということについての公式見解が不合理で無能なことを見ることになろう。いまはこれ以上「すべて」を集合として捉える試みを批判する必要はない。もしその使用が正当化されたとしても、見当違いなものとなろう。というのも、「すべて」が実際の事例の集合を意味する判断は、我々が既に扱ったクラスに属するものだからである。もし「すべて」が無数の個的事実を意味するなら、判断は実際にある個別的なものに関わる。そうであれば、それは明らかに単称判断の一形式でしかない。「すべてのAはBである」はこのAはBであり、あのAはBであり、他のAはBであり、とすべて言い尽くされるまで並べていくのを省略したものであろう。そうした判断は明らかに単称判断に分類される。
しかし、このクラスが前に述べたカテゴリーのなかに消え去ってしまうなら、なにか普遍的判断と言えるものが我々に残されているだろうか。それは疑い得ない。というのも、個別的な事例の存在を主張しているのではない判断が存在するからである。我々はすぐに形容詞的な要素をつなげ、現象の系列についてはなにも言わない判断に行き当たる。そうした抽象的普遍は常に仮言的で決して定言的ではない。
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