2014年9月23日火曜日

ブラッドリー『論理学』75

 §51.あらゆる判断において、真理は我々がつくりだすもののようには思えない。我々には多分判断する必要などはないのだろうが、もし判断をするとすべての自由を失う。実在との関係において我々は強制されているのを感じる(§4)。定言判断においては、要素そのものが我々の選択にはまかされていない。我々が考え、言うことのできるものは、存在する。しかし、仮言判断においては、要素に関する強制はない。実際、第二の要素は第一の要素に依存しているが、第一の要素は任意のものである。それは私の選択にかかっている。それを実在に適用するのもしないのも望むがままである。そして、自分でつくった仮定から身を引くことも自由である。条件が続く限り、結果も同じように続く。強制は両者のつながり以上には拡がることなく、つながりそのものにも届かない。仮言判断の要素の関係は、その関係自体が任意のものなので、実在の実際の属性ではない。実験の外では真である必要はない。実験の前に存在した事実は実験の後も真であり、実験にはなんの影響も受けず、その要素でも、要素間の関係でもない性質である。実在として真である連続性の土台となるもので、この土台には強制が働いている。

0 件のコメント:

コメントを投稿