2014年9月19日金曜日

ブラッドリー『論理学』73

 §49.我々が判断しなければ、真も偽も存在しない。この作業は、その限りで「主観的」だと言える。それはすべて我々自身が頭のなかで外とは関わりなくすることである。実在は我々が適用する属性によって性質づけられていない。しかし、我々が判断するやいなや、真か偽が生まれ、実在が問題に関わってくる。ここでは、「もし」とその結果である「そのとき」との、条件と実験結果との関わりが主張されている事実であり、それが実在そのものの真か偽なのである。

 しかし、問題はどのようにしてかである。仮定した観念内容を主張しているわけではないし、その結果の存在を主張しているのでもない。また、つながりの存在を主張することもできない、というのも、いかなる事実も関わっていないときに、どうしてあるつながりが事実であり得ようか。「黙ってさえいれば、きみは哲学者で通るだろう。」しかし、あなたが黙っていなかったから、哲学者とは思われなかったし、人は別の結果であることはないし、それは可能でもない。実在が二つのものの関わりで性質づけられなければならないとすると、性質づけられることなど全くないように思える。条件も、結果も、関係も実在に帰することはできない。だが、我々は判断のためにはなにかを実在に帰さねばならない。しかし、なにが可能だろうか。

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