2014年9月27日土曜日

幸田露伴『評釈冬の日』初雪の巻28

窓に手づから薄葉を漉き 野水

 前句を夕まぐれまで働く様子と見て、水辺の職人を付けたと解するのはまったく違っている。「手づから」という言葉を見てみるがいい、職人でないことは明らかである。「窓に忙しく薄葉をすき」とあるなら職人であることは確かだが、「手づから」とあるので、紙などすく必要もないものが自分でしたこととわかる。句の気味合いを見て取らねばならないというのはこうしたところである。

 「薄葉」という名は、元来薄葉鳥の子という名の略で、『貞丈雑記』に、「薄葉厚葉中葉などという紙は、みな鳥の子の紙を漉いたもので、三つの品質がある」とあることからも知られ、また、鳥の子紙は、綸旨紙、宿紙、水運紙、墨流紙、水玉紙、打ぐもり紙などから、板壁、屏風などの貼り付け紙などまでを含み、なかでも薄葉は、手紙や書冊用として多く用いられ、今日残る文章に使ってあるものも非常に多い。これはみな紙であり、いま俗に薄葉という三椏の木からつくった紙の薄いものだけを薄葉と思うのは、三椏紙が歴史が下った頃から多く漉きだされたことを知らないことによる。

 平安朝の頃は、これらの紙を野々宮の東にある紙屋院で漉いたが、中古以後は漉き返しのみをするようになり、漉き返し紙を紙屋紙というようになった。漉き返しではあるがもちろん悪い紙ではなく、宿紙といい、薄墨色のためもあって薄墨紙とも水雲紙とも呼んだ。役人などはよくこれを用いて、ときには聖旨を伝える案文などもこの紙に書き、それを外記に遣わして檀紙に書かせたことから、世の人はこの草案を見て、間違って薄墨の御綸旨などという言葉もできるようになった。

 『雍洲府志』巻七、「古い禁裡には文章の反故が溜まっており、艶書や恋文などもあった。それを見ることを厭い、引き裂いて、すぐに紙師に漉き直させた。紙を漉く者は紙屋川の水を使ってこれを数回洗い、とろろ汁と合わせてこれを漉いた。(中略)水に浸すのに三日から五日かかかるので、紙屋川に住む者がこれをつくるようになった。ゆえに、俗に宿紙といわれる。」とある。宿紙の名称が生まれた理由としては肯定しがたいが、再生紙を漉くに至る事情については、すべてそうだとまではいわないまでも、そうしたこともあっただろう。

 禁裡だけではなく、普通の人の家でも、尊重されている人の反故などが多いときには、よそへやるわけにもいかず、焼き捨てることも遠慮されるので、漉き返すこともないではない。再生紙をつくることは、器具も多く必要とはされず、非常に簡単である。この句の手づから薄葉を漉くは、新しく紙をつくるのではなく、由縁のある人の、鷺の子が遊ぶほどの閑寂な別荘に池があるのを利用して古い紙を漉き返すのである。前句の景色、薄葉というもの、手づからという言葉をよくよく味わってみれば、生業などでないことは火を見るより明らかで、また紙屋紙のことを知っているものはすぐに作意がわかるはずである。

 この句、窓というところからすでに紙すき場などではないことをあらわし、十分に働きがあり、詩味が行き渡っており、前句とのかかりも面白く、情感をもたらすよい句であるのに、前人はその味がわからず、問題にならないやり句などと誹謗し、「飯に戻れと面々の親」などという野卑な句をつくって、こうすればもっとよくなるだろうといっているのは、笑うに堪えない。

 『冬の日』は詩のいっそうの高みを競う集であり、あの傲岸な許六でさえ、この集を呼吸を合わせて集中した風があり、普通の人には理解しがたいものである、といったのは、芭蕉をはじめ四俊、正平、羽笠などの粉骨砕身が並々ならぬもので、吐き気をもよおすほどの苦労をあえてして、新たな旗を天下に立てようとしたのをわかっていたからである。「飯に戻れ」といったような砕けきった俗調の卑しさを気づきもしないものの誹謗はばかげたことである。

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