1968年。「六つの教訓話」は6本の映画から成り立っている。2本は短編で、『モード家の一夜』はシリーズ上は3本目だが、完成したのは4本目となる。
どの映画も組み立ては同じである。男が女と出会う(『愛の昼下がり』のように古い友人との再会のこともあるが)。そして彼女に魅力を感じるが、最後には妻や恋人の元に戻る(『モード家の一夜』の場合、ミサで出会った名前さえ知らない若い女性が一目惚れの相手なのだが)。
六本のうちでこの映画が特異なのは、主人公の男がカトリックの信者で、ミシュランに勤務する知識人だということにある。ロメールの多くの映画で会話は大きな役割を果たしているが、特にこの映画の場合、パスカルについての議論が2時間弱の映画のほぼ3分の2以上を占めるのだ。
他の映画では中年の男性と若い女性との会話が最も多く、会話が多いとはいっても、社交界での機知の応酬や言葉によって戦うといった性格はそれほど強くなく、より教育的な、あるいはじらすかのような前戯的色合いが強い。
その点についてもこの映画はシリーズのなかでは異色で、男性がミサで見ほれる女性こそ少女に近いが、彼女に立ち戻るまでに魅力を感じる女性、つまりモードは子供もあり知的にも生活的も自立した女性である。
たまたま出会った学生時代の男性の友人は、いまでは哲学の教師をしており、彼とのあいだにパスカルの著作に見られる蓋然性や賭についての話が始まることで議論が始まる。友人は彼を女友達のモードのもとに連れて行き議論はさらに続けられる。そして、友人はモードを彼に取り持つかのように先に帰ってしまう。
実際、サドがよく知っていたように、抽象的なものとエロティックなものには独特の回路があり、議論のあとベッドに入る二人の姿にはきわめてエロティックなものがある。しかし、男は結局モードに手を出すことなく、ミサで出会った少女に告白し、結婚する。かといって、長々しい神についての議
論が有効に働いて、男にその選択をさせたのだと考えるべきではないだろう。
というのは、神とは無限であり、「無限に一を加えても、無限は少しも増加しない。無限の長さに一ピエを加えても同様である。有限は無限の前では消失し、たんなる無にかえる。われわれの精神も神の前ではそうであり、われわれの正義も神の正義の前ではそうである。」(由木康訳)のであるし、選択といえば神の存在を選択するかどうかだけが問題だからである。
さらには、このシリーズで「モラル」と言われているのは、外側からの宗教的あるいは道徳的な規範といったものではなく、十八世紀的な意味における行動のあり方といったものだとロメール自身言っている。それゆえ、男がモードとセックスをしないのも、堅固な宗教心からではない。
しかしながら、男女間の交渉で唯一この映画で見せられるものである議論は、その完成度によって映画的な持続を支え、映画を宰領することで神などよりずっと大きな存在となって映画の選択を迫るのである。
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