2014年9月1日月曜日

ブラッドリー『論理学』67

 §42.我々は単称判断の三つのクラスを考慮し、それがどのようにしてあらわれてくる実在に観念を当てるのかを見てきた。我々は既に存在判断を先取りしてしまったので、それについては手早く扱うことができる。ここでは肯定判断に限ることにすると、すぐに言えることは、その主語は究極的な実在で、(a)「これ」によって決定される系列のある部分にあらわれるか、あるいは、(b)現象の全系列に存在するか、である。私が「Aは存在する」、あるいは「Aは実在である」と言うとき、Aの内容が事実上の述語である。我々はそれを、いま述べた二つのどちらかの意味で、存在や実在を性質づけるために用いる。

 存在に関する命題の探求は、判断は観念によって成り立っているという考えを不条理なものにする。もし我々がAという形容的な観念をもう一つの形容的な観念である実在につけ加え、事実と関連づけることがまったくできないならば、それは判断にはまったく不十分である。しかし、それだけではない。実在の観念は、「これ」の観念のように、その存在に顧慮することなく使用される通常のシンボル的内容をもっているものではない。実在であるもの、存在するものの観念は我々が直接に出会う現実の実在、現実の存在の一要素として見いだされる。判断においてこれから取り除いたり、別の実在に移し替えたりすることはできない。我々はここで前と同じ障害に出会う(§25-7)。その観念は自身の実在をしか意味することができない。ところで、観念を得るには、それを所与のものから区別しなければならない。そこでその観念を所与でないものに当てようとすると、衝突が起き、判断は消え去ってしまう。しかし、他方、それを現実に与えられているものに当てると、そのふるまいは無益なものとなる。事実があり、観念的総合が所与の実在の分析に過ぎず、最終的に主語であるそうした実在に帰せられるのだとすると、なぜある観念を使ってその実在を肯定するのだろうか。「実在の」というのは明らかに「実在」を形容するもので、現前としてあらわれる以外の実在を我々は知らない。確かに、その観念は実在に関して真であるに違いない。しかし、もしそうなら、我々は事実の形をした主語を目の前にもっていなければならないし、もしそうでないなら、観念はすぐさま虚偽となろう。より詳細にわたる議論は、§25-27を参照。

 ヘルバルトが支持する、ある意味驚くべき見解を調べてみても得るところはないだろう(§75を見よ)。この章の探求に用意されている結論は、究極的な主語は決して観念ではなく、存在の観念は決して真の述語ではない、ということである。結局、主語は常に実在であり、それは観念的内容の形容で性質づけられるのである。

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