2014年9月29日月曜日

幸田露伴『評釈冬の日』初雪の巻29

月に立てる唐輪の髪の赤かれて 荷兮

 髪を唐輪に結んでいた娘の頃から、その髪が赤く枯れるまでと前人が解したのは、「唐輪の髪の赤かれて」というのを強引に数十年のあいだのこととしたもので、無理も甚だしい。『太平記』に、「十五六の子供が髪を唐輪にあげて」とあるのだけを知り、唐輪は若い者の髪だと思ってしまったのだろう。だからこそそうした無理な解釈をしたと見える。

 貞享四年、「江戸桜の巻」の半歌仙で、「世の中を昼に逃れたる茶の煙り」という濁子の句に、「妹がかしらの唐輪やさしき」と芭蕉が付けたものがある。試みに、この唐輪の女が何歳くらいかと問うてみよう。中国の勇士井筒女之助が女装して髪を唐輪に結い、また北国の勇将出口某の老妻が老齢の髪を唐輪に結って戦ったことをあげるまでもなく、天和貞享の頃にはなおひとの耳に入る機会のあった舞曲の「志太」には、小山の太郎が常陸下野両国の兵を率いて、志太の小太郎をかくまった忠臣浮島太郎を河内の里に攻める段で、浮島太夫大手の櫓に走りのぼって、いかにや女房、こちらへ来て、狭間を開けてくれ、戦をして見せようと言い放ったとき、女房は五十六歳、糠色になった髪を唐輪にあげ、衣をたぐり、櫓にのぼり、子供の軍はなにをぐずぐずしている、と声をあげた。この女房は剛胆なもので、夫をののしり、子供を激励し、最後には夫と刺し違えて忠死する段は「志太」のなかでももっとも壮烈な一景である。

 「箕田の源次が女に箕田夜叉とは自分のことである、年はつもって五十六、二つない命を志太の御領に奉る」と名乗って戦ったこの女房といい、出口の妻といい、女装した女之助といい、すべて甲斐甲斐しく働こうとするときに髪を唐輪にしていること、唐輪は乱れず緩まないので働くのにちょうどいい髪であることを知るべきである。

 「世の中を昼に逃れたる茶の煙り」というのに、「妹がかしらの唐輪やさしき」と付けたのも、伽羅の油のべとべとした髪では味がなく、慎ましく清浄な茶道を体現した初老以上の夫婦が、世の中を涼しく睦んで暮らす上品な相愛の間柄、妻は虚栄を忘れて、薪水の労を厭わず甲斐甲斐しく夫を助け、夫も感謝するさまをあらわしている。

 この句は前句で「手づから」といったことにより、貧しくもなく召使いもいるが、それでもよく働く老婆が、唐輪に赤枯れた髪を結わえて、ようやく紙漉きをやめ、十二三日の月のなかで休んでいるところをいったもので、「唐輪の髪の赤かれて」は、荷兮が前句に劣らぬようあれこれと意をめぐらし、絞りだした意匠である。

0 件のコメント:

コメントを投稿