2014年9月13日土曜日

ブラッドリー『論理学』71

 §46.ここで反対意見のために立ち止まらねばならない。「定言的と仮言的との区別は」と我々は言われる、「実際には錯覚である。仮言的判断はすべて定言的なものに還元できるし、結局のところ定言の一種に過ぎない」のだと。もしそれがしっかりと確かめられるなら、確かに我々に深刻な難点を引き起こすことになろう。しかし、我々はそれほど困ることはないと私は考える。

 「もしAがBなら、それはCである、というのは、BであるAという事例はまたCでもある、と等しく、それが定言判断なのは確かだ」と言われるかもしれない。もし「BであるAの事例」というのがABという存在する事例を意味し、それ以外ではないなら、判断が定言的であることに疑いはないが、それは抽象的普遍ではない。それは単なる集合であり、我々が仮言的判断ということで意味していることを意味していないのは確かである。「もしバターを火にあてると溶ける」というのは、存在するバターの固まりについての主張ではない。それを「バターをなにかにあてるあらゆる場合において等々」といった形に変えても、より以上に定言的になりはしない。「あらゆる場合」というのはここでは「どの場合を仮定しても」ということを意味している。

 実際、もし我々が常に事実についての単純な主張と仮定の力を借りた主張との相違を目にとめておけば、こうした初歩的な誤りにとまどうことはあっても、道に迷うことはないだろう。

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