§44.我々は普遍的判断の共通の型に達した。我々がすぐに気づく点は、そうした判断はすべて形容詞に関わるということである。それは内容の諸要素間のつながりを主張し、出来事の系列のなかでそれらの要素が占める位置についてはなにも言わない。「正三角形は等角である」で私が主張しているのは、ある性質の組み合わせが別の性質の組み合わせをもつということで、それがいつどこでなのかについてはなにも言っていない。「哺乳類は恒温動物である」というのは、このあるいはあの哺乳類についてなにかを言ってはくれない。それが私に保証してくれるのは、ある属性があるときには別の属性が見つかるだろうということである。
抽象的な判断で主張されている事実は主語や述語の存在ではなく(§6)、その二つの間のつながりだけである。このつながりは仮定に拠っている。抽象的な普遍「AはBである」は「Aが与えられた場合にはB」、あるいは「もしAならB」以上のことを意味しない。端的に言えば、こうした判断は常に仮言的であり、定言的ではあり得ない。それらを導入する際に適切な言葉とは「与えられた場合」、「もし」、「するときはいつでも」、「するところでは」、「いかなるものをとっても」、「それがなにであっても」である。「すべて」には用心しなければならない。
0 件のコメント:
コメントを投稿