§47.これだけ言っておけば先に進むことができる。しかし、もう一つの例を挙げて、仮言的判断を定言的判断に変えようとする試みの無益さを例示してもいいかもしれない。J.S.ミルは『論理学』(I.4,§3)で、この問題を安易な優越感をもって扱っている。「条件命題は、命題に関する命題である。」
「主張されているのは、どちらかの命題の真理ではなく、一方から他方への推論である。」「もしAがBなら、CはDである、というのは、『CはDであるという命題は、AはBであるという命題から論理的に推論される』と言うことの省略である。」
この教義が命題の意味についてのミルの他の見解とどう結びつくのかについては、ミル用語の専門家が知らせてくれるだろう。我々ができるのは彼がここで言おうとしている教義を判読することだけである。(i)もし彼が本当に「推論」を意図しているなら、問題は既に終わっている。というのも、それは同時に言明はあるものについてではなく、あり得るもの、あったかもしれないものについてだということになるからである。それは単なる存在についての命題ではなく、明らかにある種の仮定を含み、それゆえ定言的形式に還元し得ない。ABを得たと仮定すると、そのとき論理的にCDに行き着くことになろう。(ii)しかし、ここにはこうした言い抜け以上のものがあることは疑いない。彼は一方が他方からの推論であると言っている。このことが意味するのは(a)現実には両者が主張されており、その上で、私が実際には第一のものから第二のものを論じているのだと主張しているのだろうか。きっとそうではないが、ではどうなのだろう。(b)どちらの命題も主張せず、それらを心に保持し、その関わりを主張しているなどということが可能だろうか。そうかもしれない。しかし、信じてもいない言明を取り上げ、その帰結を追うという過程は、実際のところ、仮定以外の何ものでもない。主張されたつながりは実在どうしのものではなく、命題はいまだ仮言的である。(iii)しかし、この節の終りにでてくる途方もない言葉は別の解釈を示している。「主語と述語は命題の名である。」理解しようとする希望のない労をとることはやめて、問題をジレンマの形で示してみることにしよう。それは(a)語の小さな固まりという意味における一つの命題が、私の頭のなかの個別的な出来事として同じような別の固まりに続く、ということなのか、あるいは(b)もし一方があれば、他方がそれに続くであろう、ということである。もちろん、第二の選択はいまだ仮言的である。第一の場合、最終的には定言のようなものを得るが、そこには仮言的判断(実際にはいかなる判断でも)を還元しうるようなものはなにもない。あまりにひどい誤りで、反駁する価値もないといえよう。
著者の意図がどのようなものだろうと、結局のところ、我々は次のことを確信できる。仮言的判断を還元できると彼が自称している定言的判断はその名に値しないか、あるいは、言葉の曖昧さという薄膜の下に判断の条件である仮定が含まれているか、そのどちらかである。
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