ひとつの傘の下こぞりさす 荷兮
前句の賑わしい光景を描き出した。傘は長柄の爪折りなどで、美しく正装した役僧を取り巻いて、小僧や寺役人など続々と出迎えるのに、こちらは案内の僧を先にして、総名代、村の名代など群れ集って練り込む俗僧俗衆の仰々しいさまは、殊勝なことも世俗的な名聞ととともに行われる世相をあらわしている。前句とこの句を目を閉じて味わうと、大寺のなかの、高い甍の堂の前で、石畳の道上で行われる演技めいた光景が絵のように見える。
ただしこう解釈すると、黄金打荷うという主体のある句に別人物の句を付けたことになり、連句の法則として認められているところとは外れることになる。しかし迎えづけの句などは、主体のある句に別のものを付けたようなものもある。
『冬の日』炭売の巻などでは、発句は人の言葉の形を取ってはいないが、まさに炭売りの男のことをいっていて、脇句は鏡研ぎの男の様子を付けている。また、包みかねての巻の「らうたげに物よむ娘かしづきて」の句に、「灯籠ふたつに情くらぶる」のつけ句は、明らかにその娘に男たちが灯籠を寄せることをいっている。
強いてこの句を主体の句に付けるには主体の句でなければならないという法則に従って解釈するときは、寄進の人々がみなひとつの大傘の下に威儀をつくろって練り歩くことになる。興味は薄いが、それも一解ではある。
この傘を雨傘とし、寺を貧しい山寺と見なして、帰り道の雨に一本の傘を五七人してさすとする解は、前句とこの句との句ぶりに思いを致していない。「御堂に黄金打荷ひ」とあるのに、身にしみるような貧苦の様子がどこにあろう、一ツの傘の下挙りさすというのは、熱真っ盛りでなくしてなんであろうか。句の姿にその様子を見て取るべきであり、そうすれば句は自ずから解ける。句の意味合いだけを探って、その姿を忘れるべきではない、句はいつまでも解釈できない。
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