2014年9月18日木曜日

高柳重信の一句

 『鬣』第48号に掲載された。

秋さびしああこりやこりやとうたへども

                                               齋藤 礎英

 おそらく他の『鬣』同人の多くと大きく異なることのひとつは、私がついぞ高柳重信にイカれたことがないということにあろう。嫌いとまではいかないが、平岡正明が言うように、思想はいくらでも変わりうるが、趣味は絶対だとするなら、高柳重信は私の趣味には合わない。ふらんす堂の中村苑子が編集した『夜想曲』という瀟洒で薄い文庫本が重信の句をまとめて読んだすべてで、その編句集にもここで私が選んだ句以外には数句しかチェックを入れていない。それゆえ、重信の句が全体で何句くらいあるのか、いかに多行形式を極めていったかなど、肝心なことはまったく知らない。

 「「月光」旅館/開けても開けてもドアがある」などは、ちょっといいなと感じないこともないが、総じて格好をつけすぎているように感じるのだ。構図を決め、照明の量と加減を決めた上で撮られた写真のように感じる。言いかえれば、偶然性が念入りに排除されている。たしかカール・ポパーだったと思うが、ハイゼンベルグなどによって量子力学の不確定原理に関連して、科学における主観性の役割についてかまびすしかったときに、どんな科学においても主観性は必ず介入するものであるから、主観性の役割について論じるなどはよけいな心配にすぎず、客観性を厳正に追求すべきなのだと書いていた。同じように、偶然はどうしても関与するものであるから、それをいくら排除しても排除したりることはない、というのも立派な態度だと思うが、科学はともかく、偶然性を排する方向に向かう俳句は私の趣味に合わない。

 重装備で息苦しい俳句が、かといってエロティックな襞を感じさせないことも不満である。立川談志が枕でよく言っていた数え歌に、「十二単とするときにゃ、かきわけかきわけせにゃならぬ」という一節があるが、重装備とはいっても襞の多い十二単というよりは、西欧風の鎧を連想してしまう。松尾芭蕉を神格化するつもりなど毛頭ないし、芭蕉風の俳句の作り方をしたことさえないが、身軽に旅にでて、眼にとまったことを俳句にできればそれに越したことはないとも思う。

 これらに関連するが、俗っぽさがないことももの足りない。狂歌や川柳のように俗化を旨にするべきとは思わないが、俗な部分が欠けていることで、私が俳句に求めている世界に開かれた感覚にも乏しいように感じられるのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿