その恍惚は「人間を超越したものであり、精霊界を啓示するもの」で、こうした「霊的印象には、日常の印象と似通ったものが全然ないからである。私は丁度、五官の代りに、五万の、人間のものではない感官を持たされたように感じる」とポオが書いてあるのをみると、あるいは極彩色のサイケデリックな幻覚などを連想してしまうが、むしろ真の「影の影」とは、日常の世界と似かよっていながら決して日常にはあり得ないような、世界にあいた穴、裏返しになった世界のようなものではないだろうか。
デヴィッド・チェイスが総指揮をとった『ザ・ソプラノズ』というアメリカの連続テレビ・ドラマがある。コッポラの『ゴッド・ファザー』やマーティン・スコセッシの『グッド・フェローズ』の流れを汲むマフィアが主人公の物語だが、中心となるトニーは、ニュージャージーを支配し、富もすでに得ている。チンピラからボスに這い上ることが物語の求心力として働くわけではないことで、通常のマフィア映画とはまったく異なった視界が広がっている。事実、『24』のように各話ごとにクライマックスが連続するシリーズとは異なり、海の沖のようにうねりだけが存在している。
抗争や過激なバイオレンス描写もあるがそれと同程度に(あるいはそれ以上に)、強く愛してはいるが意地悪で強圧的でもある母親との葛藤や成長していく子供たちとのあいだの誰にでも起きうるような諸問題が扱われているのが特徴である。また、トニーは、剛胆さと用心深さを兼ね備えているが(暴対法にあたるものがアメリカでも施行されており、アル・カポネのように、街中で銃を撃ちまくって相手組織を潰せばすむような時代ではなくなっている)パニック障害で昏倒してしまうことがあり、ファミリー・ドクターの勧めで、精神科医に通っている。だが、そのことは総じて「インテリ」を馬鹿にしているマフィア仲間のうちで公言することはできない。しかも、こともあろうに、その精神科医は女性なのだ。
第一シーズンの後半、身内のなかにFBIとの内通者がいることがわかり、また、実は組織のすべてを取り仕切り、自分を窮地に追い込んでいるのが母親であることが明らかになってくる。ストレスがたまる一方のある日、二階の窓から隣の家で若い女性が洗濯物を干しているのを見かける。また別の日、風で飛んだのか、草むらに落ちている洗濯物を拾い、庭に座っている女性に手渡し、ちょっとした話を交わすようになる。それによると、彼女はギリシャから出てきて、アメリカで歯科の勉強をしているという。隣家の人々が旅行しているあいだ、留守番かたがたいるらしい。ギリシャの穴蔵のような小さな家で、隣で彼女が幼子に乳を与えている美しい夢を見る。二階の窓から外を眺めている夫の姿を見た妻が若い女を認めてちょっとした口論になるのだが、特にトニーは性的に彼女を見ているのではなく、あり得たかもしれない幻想の対象として、暴力や血みどろの葛藤がなく、富もなく貧しくはあるかもしれないが平安の象徴として見ていたのである。
ところが、隣家の人々が帰ってきたとき、主人にギリシャ女性のことを聞いてみると、狐につままれたような顔をしている。要領を得ないまま、妻にも尋ねてみるが、彼女も変な顔をしている。口論したことももちだしてみるが、なんのことを言っているの、という反応しか返ってこない。つまり、ギリシャ女性に関することはすべてトニーの幻想であったのだ。
あるいは、それはポオの『マルジナリア』同様に吉田健一が翻訳したイブリン・ウォーの『ピンフォールド氏の試練』のように、精神科で処方された薬の作用によるのかもしれない。この小説では、船旅をしている小説家が、おそらくは薬の副作用によって、船員や客の多くに意地悪され、陰謀が張り巡らされているという被害妄想に襲われる。結局、妄想が晴れ、「ピンフォールド氏の試練」という新しい小説を書きはじめることでこの小説は終わるのだが、『ザ・ソプラノズ』のエピソードは無意識が現実のなかに突発的に介入する幻想の性格において、ブニュエルの映画により近いかもしれない。実際、映画監督でもあり、ホークス、フォード、ラングなど巨匠と呼ばれる作家たちのインタビュアーであり、トニーがかかっている女性精神科医のカウンセリングをしている精神科医として俳優としてシリーズに登場するピーター・ボクダノヴィッチによる制作総指揮のデヴィッド・チェイスのロング・インタビューでは、チェイスはブニュエルのファンであることを自認している。
夢や幻想に対する反対意見は、ミラン・クンデラが『ほんとうの私』という小説で、登場人物に次のように考察させている。
夢によって惹きおこされた不快感がとてつもないものだったので、彼女はその理由を解読しようとつとめた。あたしがあれほど動揺したのは、と彼女は思う。夢によって現在の時間が抹殺されたからだ。というのも、あたしが自分の現在に激しく執着しているからで、あたしはなにがあってもこの現在を過去とも未来とも交換しはしない。だからこそ、夢が好きではないのだ。夢は同じひとつの人生のさまざまな時期を平等にしてしまうけど、そんなことはとうてい受け入れられない。それに、人間がかつて生きた一切のものを無理やり均質にして、同じ時代のものにしてしまうし、現在に特権的な立場を認めることを拒んで、現在の価値をさげてしまう。(西永良成訳)
周知のように、夢や幻想の擁護者として徹底していたのは澁澤龍彦である。擁護者といっては言葉が弱く、アナキストにして皇帝であると書いたのは種村季弘だったが、悪魔学もエロティシズムも古今東西の綺譚も同一平面にあり、いわゆる「現実」などは形而上学や寓話への道筋を開かない限り鼻もひっかけなかった。人間の生は夢のごときものだというのは、比喩としては手垢にまみれているが、大病によっても生に執着することはなく、「ますます観念的になり、ますます『人生は夢』という意識は強くなって・・・・・・やがて夢をみるように死んでゆくでしょう。」(池内紀との対談「澁澤龍彦氏に聞く」)と言いきり、実際にそのように死んでいったのをみると、到底及ばないものを感じる。
その死後、晩年のエッセイを集めた『[都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト]』が刊行された。知識の量においても生に対する姿勢においても遙かに及ばないが、唯一私が自慢できることがあるとすれば、幻覚を見たことがあることだ。しかも、澁澤龍彦の場合、手術後の痛み止めの麻薬が原因らしいが、私の場合自前で見たのであるから自慢しないわけにもいくまい。病院で見たことも同じで、病院に運ばれる前に2,3度血を吐いているので、必ずしも自前で絞りだしたとは言えないかもしれないが、どんな幻覚でも原因があることを思えば、原因も自分であってみれば自前といって差支えないだろう。また、「生れてから一度として、幽霊もおばけも見たことがない」し、「例えばメリメのように、鷗外のように、私は怪異譚や幻想譚を冷静な目で眺めることを好んでいたし、げんに好んでいるわけで、ネルヴァルのような譫妄性の幻覚には自分はまったく縁がないと思っていた。」という点についても澁澤龍彦と同様であったので、幻覚を見たことは実に新鮮な経験であったのだ。
結局私はその病院で、二度幻覚を見た。一度目は、救急室に運ばれたときのことで、ペイズリー柄のようなよくある模様の天井だったが、その柄が壁のほうに流れていった。妙なだ、と思って目をこすったりぎゅっとつぶってみたりしたが、あいかわらず流れているので、これが幻覚なのかと妙に納得した。
一度目の幻覚は、かくしてごく単純な知覚的なものだったが、二度めの幻覚はより物語的な起伏に富んだものだった。あとになってわかったが、私が入院したのは古い病院で最新の器具や集中治療室もなかったが、軽い手術後やしばらく様子を見なければならない患者は最上階の(といっても3,4階)看護師さんの詰め所近くにベッドが置かれた。そこにいたとき、最初、患者は私ひとりだった。そこは備品置き場も兼ねているらしく、ちょうど入れ替えのときだったので、騒がしくなるのでベッドを移動しましょうか、と尋ねられたが、いや別に構いませんよ、と私は答えた。ベッドはカーテンで締め切られている。しばらくすると、カーテン越しに右手の壁が開き、スモークがたかれ、舞台で使うような強い照明の光が差し込んでいるのが見えた。照明の先には祭壇のようなものが築かれ、しずしずと歩んできた男がラテン語を唱えだし、ぴかぴか光っているナイフ状のもので、祭壇に横たわっている人間を幾度も突きさした。また、太い綱で巨漢の白人を打ち据える。この大男はうなり声を立てながら私のカーテンの裾まで転がって来ると、ずっと丸まってうなり声を出し続けている。
まず考えたのは夢ではないかということだった。夢との関係についてもちょっと述べておくと、これもまたどこかで澁澤が言っていたのと同じく、私はいやな夢を見たことがない。年に2,3度、血まみれで逃げ惑うようなスプラッタ映画そのままの夢を見ることはあるが、おそらく心のどこかで夢だとわかっているのだろう、楽しく感じている。遊園地でジェットコースターを楽しんでいる感覚に近しいかもしれない(私はそちらの方は、回転木馬さえいやなのだが)。
しかし、もし自分が見ているものが夢なら、カーテンに囲まれたベッドにいる目覚めているときと同じ状況にあることが妙であるし、周りにある物を次々に触れてみると確かな感覚がある。視覚も聴覚も触覚も確かに働いている。夢だと意識している夢はあっても、感覚を確かめて確固たる手応えを感じるような夢は見たことがない。そこまで考えると、世界にひび割れが入ったように本当に怖くなってきた。こんなに近くに置いておいて、自分がこのままで済むわけがないと思ったこともある。最大の勇気を振り絞ってカーテンの裾を少しまくってみると、やはり大男が身体を丸めて呻いている。キリスト教から派生したある種のカルト集団で、鞭打ち苦行的な実践をしているのだと推測された。儀式が終わると歓談が始まり(半分は外国語だった)、それも終わるとごめんね騒がしくて、と看護婦さんが言いにきた。それからとろとろと眠ってしまったのだろう、朝見る部屋はホラーゲームの『サイレント・ヒル』に出てきてもおかしくはないほど古びたものだったが、それ以外に特に変な部分はなかった。それで幻覚だったということがわかった。
わからないのは原因である。強い痛みを伴うような病気ではなかったので、点滴はしていたが痛み止めのようなものは使われなかったはずだ。酸素マスクをしていたが、高山病のように低酸素で幻覚を見ることは聞いたことがあるが(久生十蘭の短編にも高山でおかしくなる印象的な様子が描かれていたと思う)、酸素を吸入していておかしくなるのは聞いたことがない。一週間ほどたって、一般病室のほうに移ると、廃屋のような『サイレント・ヒル』的な要素は薄れていて、いささか残念に思わないこともなかった。
0 件のコメント:
コメントを投稿