2013年12月31日火曜日

その笑い――チャップリン『街の灯』



 「鬣」第24号に掲載された。


小生意気な映画観客の例にもれず、わたしはチャップリンを軽く見ていた。そしてまた、ご多分にもれず、喜劇とは、キートンはそれほどでもなかったが、マルクス兄弟やモンティ・パイソンのようなナンセンスで破壊的な笑いでなくては、と標榜していた。後にシーソーのように彼を上げ此を下げる愚を悟って、チャップリンはチャップリンだと思うようになったが、それでもそのチャップリンは初期の短篇や『独裁者』や『モダン・タイムス』のチャップリンで、『街の灯』や『ライムライト』の甘ったるくセンチメンタルなチャップリンは勘弁願いたかった。

ところが、最近この二本を見直してみると、甘美な音楽に引きずられてつい叙情的な気分に陥りがちなのだが、その内容は実に残酷で、初期の短篇となんら変わらないことに気づかされた。更に、チャップリンの不気味さ、薄気味の悪い手ざわりを味わわされることにもなった。

『街の灯』は、周知のように、花売りの盲目の少女を助けるためにチャップリン扮する「放浪紳士」が奔走する。金をつくり娘に手渡すことはできたが、無実の罪で牢屋に入れられてしまう。牢から出て、尾羽うち枯らし浮浪者そのものになった彼は手術して目が見えるようになった娘が開いた花屋の前を通りかかる。娘は彼が新聞売りの少年たちにちょっかいを出され、やり合っているのを見て
笑う。やがて彼は娘に気づく。娘は自分を助けてくれたのは大金持ちだと思っているので、浮浪者の彼を見てなにを気づくはずもない。浮浪者が持っている花の花瓣が散るのを見た娘は施しの金と一輪の薔薇を手に持って外に出る。彼は薔薇は受取るが、硬貨は受取ろうとしない。彼に近づいた娘はその腕を取り、手の真ん中に硬貨を置き握らせると優しくその手を包む。その手の感触から娘は彼であることを知る。

「あなたなの」「見えるようになったんだね」ここから映像は娘の肩越しに見えるチャップリンの顔だけになり、娘の顔は一切見えない。最初彼の顔は不安そうだが、やがて笑い顔に変わり、その顔が闇のなかにフェイド・アウトする。なんら将来の幸福を見通せるわけでもないなかでの、この満面の笑みは一体何を意味しているのだろうか。チャップリンの映画の中心にあるのは「世界からの分離を終わらせようとする願い」であり、スクリーンとは彼にとってこの分離をあらわす隠喩に他ならないと説く映画批評家のウィリアム・ロスマンは、「正体を明かすことによって、彼は彼女の夢になんら居場所がないという危険に直面するだけでなく、この視覚を得た実在の女性が彼の夢のなかでなんの居場所もないという同じくらい恐ろしい危険にも直面する」(「『街の灯』の結末」)と言っている。

つまり、まさしくこの映画を成り立たせていた幻想を打ち壊すことによって、ここでは生身のチャップリンがスクリーンを越えて我々に笑いかけているというわけである。しかし、その生身のチャップリンとは単純な「ヒューマニスト」などではなく、ヒトラーや殺人者を嬉々として演じる人物であり、その笑いは我々の共感を誘うものというよりは、人間の裂け目をさらけだしているかのように思われるのである。

2013年12月30日月曜日

パウエル=プレスバーガー『黒水仙』(1946年)



原作:ルーマー・ゴッデン 
脚本:パウエル=プレスバーガー
撮影:ジャック・カーディフ
音楽:ブライアン・イースデイル
出演:デボラ・カー、ジーン・シモンズ

 『赤い靴』は随分前にみて好きだったので、パウエル=プレスバーガーの『黒水仙』は名前だけは知っていた。ところが、その題名から、ノヴァーリスの『青い花』や泉鏡花の『黒百合』に似ているせいもあって、またビデオやDVDのジャケットが尼僧姿であることもあって、絶対の探求を目指すようなロマン主義的な映画かと思っていた。今回はじめて見て、とんでもない間違いであることがわかった。

 修道女たちが教育や医療の援助もふくめた布教のためにチベットの奥地に送られる。率いるのはデボラ・カーで、指導力も責任感もあるが、恋人があり、結婚寸前までいった過去もある。修道女のなかには問題児も含まれていて、反抗的で、戒律を破って男に会いにいく。ただそれだけではないのは、彼女がデボラ・カーの無意識の願望を映しだしていることにある。つまり、否定的な、黒いナルシスであるわけだ。

 反抗的な修道女は次第に狂気に陥っていき、デボラ・カーの修道女長が自分の恋愛を阻んでいると思い、彼女を殺そうとする。『青い花』や『黒百合』よりは、ドン・シーゲルの『白い肌の異常な夜』に近い映画だったのだ。

2013年12月29日日曜日

ブラッドリー『論理学』3

 ルドルフ・メッツの『イギリス哲学の百年』(1938年)によると、イギリス観念論でも珍しく、ブラッドリーはヘーゲルを通じてしかカントに触れなかったという。スピノザに親しんだことはある程度確からしい。ヘルバルトをヘーゲルに不可欠な解毒剤として推薦したという。シェリングにはある程度の親近感を抱き、ショーペンハウアーを好んだが、参照するようなことはほとんどなかった。

 §3.我々はよくこう言う、「これは実在ではない、単なる観念だ」と。そして、頭のなかにあり、私の精神のある状態である観念は、外部の対象と同じく確固とした事実だと答えもする。この答えは先の言葉とほとんど同じほどなじみ深いものであり、私の不満はつまるところそれがあまりにもおなじみになったことにある。いずれにせよ、我々は、英国で、心理学的姿勢のなかであまりに長く生活してきた。我々は、感覚や感情のように、観念が現象であることを当然のことと見なして軽視している。そして、これらの現象を心的事実と考えることで、(どれだけ成功するかは問わないにしても)観念と感覚とを区別しようとする。しかし、こうした意図において、我々は論理が観念を用いているそのありようをほとんど忘れてしまう。判断においては、いかなる事実もそれがまさしく意味するものではないし、そのありのままを意味することもできない、ということを見ようとしない。真や偽があるとき、我々が用いているのは意味作用であり存在ではないことを学ばない。我々は頭のなかにある事実を擁護するのではなく、その事実が表わすなにか別のものを擁護する。ある観念が心的実在として扱われるなら、それ自体現実の現象と捉えられるなら、それは真も偽もあらわしはしないだろう。判断において用いるとき、それは自身以外のものに赴かねばならない。もしそれが、自らの実在を強調するにもかかわらず、なんらかの存在について観念ではないなら、その中身は「単なる観念」でしかない。我々が意味を向ける実在との関係においてはなにものでもないなにかである。

2013年12月27日金曜日

ユートピアの横町――荻上直子『かもめ食堂』



 『鬣』第23号に掲載された。


わたしは食べることが好きだし、料理もするが、ひょんなきっかけで中近東かどこかの王様になったら、と幼稚な空想を巡らせることはあっても、料理人になることを想像したことはなかった。特定の相手のためにこしらえ、もちろん自分も一緒にそれを食べるという親密な行為が、誰とも知れぬ他人のためにつくる職業としての料理とうまく結びつくことがなかったのである。

それゆえ、荻上直子の映画『かもめ食堂』を見るまで、迂闊なことに客の来ない食堂というものがユートピア的状況をもたらすことに気づかなかった。西欧産のユートピアでは、島や城といった孤絶した空間において、現実の世界とは別の原理をもつもう一つの世界が形づくられる。それは社会改革の夢の投影であったり(例えばトマス・モア)、グロテスクなまでに自然の原理を徹底することで裏
返しになった社会を現前させる者(例えばサド)もいる。

いずれにせよ、それらは現にある社会に拮抗するために閉ざされた空間のなかで自律し完結した一体系を築き上げる。つまり、ユートピアは〈どこにもない場所〉であるかもしれないが、特定の時代、特定の社会によって生みだされたものである。中国の神仙譚などでは、山奥や洞窟のなかなどに仙境が広がっていて、現実社会の只中で現実社会に拮抗するというよりは、むしろ素朴な願望充足の夢に満ちている。仙術によって手に入るのは畢竟するところ、不老不死によって意味の比率が変質した現世的欲望の対象である。

『かもめ食堂』では、別の社会原理が語られるわけでも、とっておきの仙術が揮われるわけでもないが、ユートピア的状況をもたらすための隔離は慎重に行なわれている。ある女性(小林聡美)が
フィンランドで食堂を開いているのだが、どんな経緯でどんな考えをもって彼女がこの地にいるのかは語られることがない。また、市場や港や森などの場所も出てくるが、食堂のある通りとのつながり(距離や方向や道程)が示されることはないし、この通りがどんな通りなのか、つまり都会なのか田舎なのか、街中なのか街外れなのか最後までよくわからない。そしてなによりも、日本とはまったく異なる白茶けた太陽の光が食堂全体に満ちあふれ、おとぎ話のような空間をつくりあげている。

そこに小林聡美、もたいまさこ、片桐はいりという三人が、非性的な、かといって母性的というのでもない〈姉の力〉を発揮して、シナモンロールを焼き上げ、しっかりとした衣がついてほぼ正確な楕円形を維持しているカツレツを揚げ、その見事な手際と最後に巻かれるいかにもパリパリとした海苔に幻惑されるためでもあろうか、嘘のように均一でありながらも決して食欲を減退させることのないおにぎりを次々に並べていくことで空間がユートピアの実質で埋められていくのである。

2013年12月26日木曜日

黒沢清『リアル~完全なる首長竜の日~』(2013年)



原作:乾緑郎
脚本:黒沢清、田中幸子
撮影:芦澤明子
音楽:羽岡佳
出演:佐藤健、綾瀬はるか、中谷美紀

 センシングという技術が発達し、他人の意識のなかに入っていくことができる。一年前に自殺未遂を起こした結果、昏睡状態が続いている恋人の漫画家(綾瀬はるか)の意識のなかに佐藤健が入っていく。しかし、なかなかうまくコミュニケーションをとって、昏睡から目覚めさせることができない。

 彼女は首長竜の絵のことが気になっているらしい。子供のころ書いた絵だ。男は二人がともに幼いころ過ごした(男はリゾート開発のために移り住んだ父親に連れられてきたが、数年後にはまた引っ越してしまう)島に行って二人の秘密の場所だったところでスケッチブックを見つけるが、年月を経たせいか首長竜の姿は見る影もなくなっている。

 やがて、漫画家である彼女の意識に彼が入り込んでいたと思っていたのが、彼が漫画家で、事故のせいで昏睡している彼の意識に彼女が入り込んでいることが明らかになる。さらに、彼が昏睡から目覚めないのは、島にいたときのトラウマ的経験があったためだった。

 理に落ちたところがらしくない。首長竜がでてくるのもばかばかしさが足りない。ざらつくような、埋まらない視差にぎょっとするようなリアルさをだした黒澤映画は数多くあるのに、よりによってもっともリアルでないものにリアルという題をつけるとは。

2013年12月25日水曜日

近・現代の三句

 『鬣』第22号、創刊五周年特別号で、近・現代の三句を選ぶという企画で書いた。


1.神田川祭りの中をながれけり         久保田万太郎
2.古沼の浅き方より野となりて         三好長慶
3.干物ではさんまは鰺にかなわない       五代目古今亭志ん生


1.東京に住んだことはないし、神田祭にさえ一度も行ったことがないにもかかわらず、神田川でなければならないと感じるところがしごく妙である。適度に小さな川だというところがいいのだろう(隅田川では祭りが呑み込まれてしまう)。祭りのなかを祭りとは全く異なる原理をもった別の世界が流れる。神田川が主であることで、祭りの喧噪も色彩も吸い込まれ、モノクロームの銅版画のような風合いを帯びてくるのがしごく妙である。

2.『三好別記』に出ているそうだが、私が知ったのは花田清輝の『日本のルネッサンス人』において。永禄五年、飯盛城での連歌の会で、「すすきにまじる芦の一むら」に長慶がつけたのがこの句だという。「中世の暮れ方から近世の夜明けまでを生きた三好長慶は、右の一句によって、かれの生きていた転形期の様相を、はっきりと見きわめていたことを示した」と花田清輝は書いている。

3.これほど純度の高いくだらなさにこの句以外で出会ったことがないので選んだ。句を読んで噴きだしたのもこのときだけである。虚子の「痴呆的」と言われた句は、それでもある境地のようなものを感じさせるが、この句はくだらなさを一寸たりとも譲ろうとはしていない。他の句を見ると(すべてを読んだわけではないが)、これだけ高レベルのくだらなさに達していないので、或いは素人の無茶振りでたまたま師範代から一本取ったようなものなのかもしれないが(どれだけの審判がこれを一本と認めるかはまた難しい問題なのだが)、もし句というのが機会の詩であるなら、野球のあの一球、サッカーのあのシュート、ボクシングのあの一発が記憶に刻まれるように、記憶に残されていい句なのではないかと思う。

2013年12月24日火曜日

ブラッドリー『論理学』2

 おぼろげなのはその生涯ばかりではなく、読んだ本や影響関係についてもいえる。「絶対的観念論者」といわれ、イギリスにおいてヘーゲル哲学を極端な形にまでもっていったともいわれるが、ヘーゲルがその著作において言及されることはほとんどないし、文章からみれば、ドイツ観念論の晦渋さよりは、イギリス流の簡明さの方が顕著である。

§2.まず後の仕事から取りかかろう。判断は、厳密な意味においては、真と偽の知識のないところには存在しない。真と偽は我々の観念と現実との関係に基づいているので、観念なしに判断なるものはあり得ない。たぶん、こうしたことの多くは自明だろう。しかし、これから指摘しようとする点はそれほど自明ではない。我々は、観念を使用する前に判断できないだけでなく、厳密に言えば、観念を観念として用いるまで判断できない。我々はそれらが実在ではなく、単なる観念であり、自身以外の存在の記号であることに気づいていなければならない。観念はシンボルとなって始めて観念となり、シンボルを使用する前に我々は判断できない。

2013年12月23日月曜日

くだらなさについて――北野武『みんな~やってるか!』






 『鬣』第22号に掲載された。

〈くだらなさ〉を二つにわけよう。〈くだらなさA〉は、ごく一般的な用法、辞書によれば、「問題にするだけの内容や価値がない」ことであり、排除の身振りを伴っている。〈くだらなさB〉はむしろ積極的な受容によって特徴づけられる価値である。

いつ頃から〈くだらなさ〉が一つの価値として認められるようになったのか定かではないが、タモリやビートたけしといったコメディアンが一役買っていたのは間違いない。それは意味の隙間を縫って進む、ある意味高度なセンスが問われるナンセンスとは異なる。またナンセンスよりは距離的に近しいと思われるが、生の無意味さを暴露する不条理とも異なる。

確かに〈くだらないもの〉を見たとき、我々は生の馬鹿馬鹿しさを感じることがある。しかし、ある種の不条理もののように無意味さこそ生の本質なのだとほのめかされることはない。ところで、〈くだらなさA〉によって人が〈くだらない〉と言うとき、問題になるべき内容や価値が問われていないという意味であるならば、そこには暗黙のうちになんらかの問題が存在することが前提されていると言えよう。

一方〈くだらなさB〉とは、まさしくなんら問題など存在しないことを主張する。ところで、私は、所謂「軍団」とともに活動をするビートたけしには当初からコメディアンとしての、いやむしろ〈くだらなさB〉の伝え手としての魅力を感じなかった。合いの手を入れるだけでほとんどしゃべらないビートきよしや高田文夫と口数にすれば似たようなものだが、同等の仲間ではない「軍団」は明らかに彼らとは異なった意味を担っていた。つまり、いかにビートたけしが「軍団」と一緒に〈くだらないこと〉をしたとしても、私はなにがしかの「問題」をそこに感じとってしまったのである。

ところで、そんな「軍団」が俄然〈くだらなさB〉を獲得したのが北野武の映画においてであって、それは「殿」と「軍団」との固定した関係をフラットに還元するカメラや映画という集団的な制作の場の力でもあっただろう。しかし、それ以上に、とりわけ『みんな~やってるか!』を輝かせているのは、それまでの軍団との〈くだらなさ〉が実は〈くだらなさA〉の裏返しであり、問題にするべき内容や価値があっても敢てそれを問題にしないことによって〈くだらなさ〉を問題にすることだったのに対し、断固として問題が存在しないことを主張し続ける〈くだらなさB〉を発見した悦びであったはずであり、いかにそれが困難な発見であるかは、おそらく同じような方向を目指した『TAKESHIS’』が、ブニュエル風の、フェリーニ風の、リンチ風の「幻想的なイメージ」の集積に堕していることでもわかる。

2013年12月22日日曜日

マイケル・J・バセット『サイレントヒル:リベレーション』(2012年)



脚本:マイケル・J・バセット
撮影:マキシム・アレクサンドル
音楽:山岡晃、ジェフ・ダナ
出演:アデレイド・クレメンス、キット・ハリントン、キャリー=アン・モス、マルコム・マクドウェル

 サイレントヒルはあるカルト教団によって支配されており、父と娘はその追跡を逃れて各地を転々としている。しかし、父親が誘拐され、娘は彼を取り戻すためにサイレントヒルに向かう。

 教団によって火あぶりにされ、いまもその悪を及ぼし続けていると思われている女が実は娘の分身であり、善の部分を切り離して親のない子供に託したのだとされる。二人が対峙し、善の力が勝ったとき、灰に包まれた街はようやく本来の姿を取り戻すかに思えた。

 脇役のキャストが中々豪華で、ゲームにあるような移動するだけで喚起される恐怖や不安を煽るノイズやサイレンの音が効果的に使われていないのが不満といえば不満だが、マネキンの手脚でできた蜘蛛(押井守の『イノセンス』かなにかでみたような気もするが)、暗黒舞踏のような看護婦たちの動きなど面白い部分もある。

2013年12月21日土曜日

小澤實 『万太郎の一句』書評



 『鬣』第21号に掲載された。

 巻末の小論で、「淡雪のつもるつもりや砂の上」という句をあげ、小澤實は次のように言う。

 「句を読みおろしている時には春雪振りしきる空間が現れる。純粋にただそれだけである。その空間には思想や生活の影は一切差さない。が、読み終えたとたん、その空間は消えてしまう。積もったはずの雪ももはや残ってはいない。あざやかで、はかないうつくしさを持っている。・・・・・・万太郎の句を読みながら、無内容の美ということをしばしば感じた。いくつかの句を観賞する際にも、その美を説くことにこころを砕いたつもりだ。万太郎俳句の魅力の中心がここにはある。」

 例えば、談林調の純粋な言葉遊びもあれば、虚子の無内容な句には、その当否はともあれ、ある「境地」が感じとられ、禅と比較されることもあった。つまり、無内容にも様々な種類がある。小澤實は、万太郎の句の無内容の内容を「はかないうつくしさ」に見ているが、私には強靱な造型空間にあると思える。この空間は「おもひでの町のだんだら日除かな」の観賞で「昼寝の夢に浮んだ幻影のような鮮やかさとはかなさ」と書かれ、「わたくしの死ぬときの月あかりかな」の所で「照明の当たった舞台の上の死のようでもある」と書かれた空間である。ただし「淡雪」や「おもひで」とともにこの空間がはかなく崩れ去っていかないところに万太郎の句の魅力があるように感じられるのである
(ひどく小さいが、形が崩れず、空間を支配する万太郎の字のことも思いかえしてみよう)。このことは固有名詞の使い方に端的にあらわれている。「初場所やむかし大砲萬右衛門」、「春麻布永坂布屋太兵衛かな」、「泣虫の杉村春子春の雪」等々がそれであって、私は大砲萬右衛門のことなどまったく知らないし、布屋太兵衛の蕎麦も食べたことはなく、杉村春子に特別な思い入れもないが、ちょうど歌舞伎で衣装や隈取りだけでその人物がどんな人物であるか示し、名優ともなればそれだけを中心に強固な空間が形づくられるように、固有名詞に本来結びつく記憶がなくとも、その字、音、語感に対する鋭い感覚によってある情感の充填された初春や春の空間が造型されているのである。

 実は私の万太郎に関する知識は、もっぱら万太郎が生前に出した全集によっていたため、今回晩年の俳句を読むことができたのは幸いだった。特に、始めて「一めんのきらめく露となりにけり」の句を知ったのだが、空間そのものの発するきらめきを捉えたかのようなこの句を「琳派の小品のような装飾的で不思議な世界が広がっている」と評し、「究極の一句であると評価したい」と述べる筆者には満腔の賛意を表したいのである。

2013年12月20日金曜日

ラッセ・ハルストレム『ヒプノティスト―催眠―』(2012年)



原作:ラーシュ・ケプレル
脚本:パオロ・ヴォシルカ
撮影:マティアス・モンテーロ
音楽:オスカル・フォーゲルストルム
出演:ミカエル・パーシュブラント、レナ・オリン、トビアス・ジリアクス

 ストックホルムの郊外で、一家が惨殺される。国家警察の刑事は、唯一の生存者である息子から話を聞き出すために、かつて催眠の実験でスキャンダルに巻きこまれた医師の協力を頼む。医師は催眠によって息子が犯人であることを知る。

 一方、医師の一家の病気の息子も何ものかによって誘拐される。無関係に思われた二つの事件が絡まり合っていくのだが、さほど説得力はない。

 アメリカなどでは『メンタリスト』のように、催眠術はショー化されているが、この映画で描かれる催眠術は、行為自体は手を握って話しかけるだけで、地味なものだし、とはいうものの催眠術を悪用したといって新聞記事にもなることにみられるように、魔術のようにでも思われているのだろうか、そのへんの催眠術の位置づけも明確になっている方がよかった。

2013年12月19日木曜日

無限の全体――ボルヘス「アレフ」



 『鬣』第21号に掲載された。

アレフを見るには暗闇と最適な角度が必要である。それゆえ、閉ざされた竪穴のような地下室で、二つの折りたたんだ薄い袋を枕に横たわらねばならない。

アレフの直径は二、三センチで、玉虫色に光り輝いている。そこには宇宙に存在するあらゆるものが包含されている。アレフの魅力は無限の全体性を眼に見られる形であらわにしたことにある。

極小の存在のうちにも無限が見いだされることについては、たとえば、パスカルによっても語られている。ダニには無数の宇宙が含まれており、当然ながらダニも含まれていて、そのダニにも無数の宇宙が含まれている、と無限に続く。

このことは、全能の神からすれば、人間の地位など取るに足らないことを示している。無限に続く系列の無限に小さい一点を占めているに過ぎないのであって、無数の宇宙からダニまでの一断片を取り出してみれば、生殺与奪権をある程度握っているだけ人間はダニに較べて相対的に大きな影響力をもっているが、無限の系列のなかでの人間とダニなど区別するにたるほどの相違ではない。

この無限は、確かにその始まりでダニという形を与えられてはいるのだが、ダニそのものにあるのではなく、最小のものに最大のものを見るという無限の繰り返しにおいて捉えられている。別の言い方をすれば、ここには、明らかに視覚的イメージから観念への飛躍がある。ダニのなかに無数の宇宙を認めることには、ダニをばらばらにするという経験可能な視覚的イメージと、無数の宇宙というそれを認識する立脚点が不可能な観念との間の断絶がある。

もし、究極的な顕微鏡が発明され、ダニの血液の粒子のなかに宇宙が実際に発見されたとしても、究極的な顕微鏡が実際に眼で見ることのできるこのものを全く異なった宇宙に変換するものである以上その働きは観念と同じであり、事情は変わらない。

アレフはそうした飛躍のない無限の全体を与えてくれる。そこに認められるのは、銀色に光る蜘蛛の巣であり、破壊された迷宮であり、三十年前に見たのと同じ敷石であり、手の華奢な骨の形であり、地面に斜めに落ちる羊歯の影といった具体的な事実であるから、それこそ無限に続けていくことができるのだが(そして、アレフを最初に発見した凡庸な詩人はそうした世界のすべてについての詩を計画している)、実際には、大量の要素によって多様性が均一性に変じてしまう手前で、蜘蛛の巣と迷宮と華奢な手の骨と羊歯の影とが同時の存在する無限の全体という特異な場をつくりだすことにボルヘスの短編の仕掛けがある。

それはともかく、中心的問題は、いぜんとして解決されていない。つまり、たとえ部分的にもせよ、無限の全体を列挙するという問題だ。この巨大な瞬間のなかに、わたしは楽しい行為、または残酷な行為を幾百万となく見た。そのすべてが、重なりあうわけでも、透けて見えるわけでもなく、同じ一点を占めているという事実ほど、わたしを驚かせたものはなかった。わたしの目が見たものは、同時的に存在していたのだ。わたしの記述したものが連続的に存在するかのように見えるのは、もともと言語というものがそういうものだからである。(土岐恒二訳)

2013年12月18日水曜日

ジョン・ラッセンホップ『悪魔のいけにえ レザ-フェイス一家の逆襲』(2013年)



脚本:アダム・マーカス、デブラ・サリヴァン、クリステン・エルムズ
撮影:アナスタス・ミコス
音楽:ジョン・フリッゼル
出演:アレクサンドリア・ダダリオ

 『悪魔のいけにえ』の正統なる続編とうたってあるだけあって、トビー・フーパー版で生き残った一人が警察に報告することからはじまる。ところが、警察よりも自警団の力の方が強くて、自重を促す警官を無視して、火を放ち、レザーフェイス一家のものを虐殺してしまう。

 女性がひとり生き残り、屋敷を守っているが、死亡し、ある若い女が相続をすることになる。実はリンチ的な殺戮のなかで、子供のできない男が乳飲み子を奪い去っていたのだ。自分の生まれのことなどまったく知らないが、相続の知らせを受けた女は自分の彼氏と友達のカップルを連れて屋敷を訪れる。

 だが、レザーフェイスは実はまだ生きていて、友人や彼氏が次々に殺されていく。ここの辺は特に工夫もないまま進むが、ひとひねりあるのは、レザーフェイス一家の一員であることを知った女性が、家族愛に目覚めたのか、レザーフェイス側に立って、いまでは主導者が町長になっているかつての自警団への復讐に手をかす展開になるところ。

 『悪魔のいけにえ』関連では凡庸な映画。残酷描写の工夫がまったくないし、復讐心で動くレザーフェイスなど魅力がまったくない。

2013年12月16日月曜日

ブラッドリー『論理学』1

 フランシス・ハーバート・ブラッドリーは1846年に生まれ、1924年に死んだ。その生涯についてはほとんど知られていない。波瀾万丈でその行跡がたどれないのではなく、平穏なたたずまいばかりがあって、その裏に葛藤を読み取るべきなのかどうか、よくわからないのだ。

 なにしろ半世紀以上もオックスフォード大学のフェロー(研究員と寮長やら相談役などが一緒になったものと考えればいいか)を勤めながら、一度も教壇に立ったことがなかった。


第一巻 判断
  第一章 判断の一般的性質
   
 §1.論理学を研究し始める前に、どこから始めるべきか知ることは不可能である。研究しおえた後にも、不確実性は残る。一般的な順序などないのであるから、判断から始めることに言い訳することもないだろう。中途から始めたという非難を受けるにしても、主題の中心に触れることくらいは望めよう。
 この章では、判断一般の問題を扱おう。(I)その語が使われるときの意味についていくつかの考察をする。(II)第二に、考え得る誤った見方を批判する。(III)最後に、その働きの発達についていくつかのことを述べる。 

 I.この種の本においては、配列は任意のものにならざるを得ない。我々が同時に主張する一般的学説は、その証明を後の章に譲る。もしそれが問題となる主要な現象をすべてにわたって覆うものであれば、他の観点と衝突しあうとしても、真の観点と思われよう。しかし、こうした理由から、とりあえず暫定的に提示するしかない。 
 判断は心理学と形而上学の双方において深刻な諸問題を提起する。他の心的現象との関係、魂-生の初歩的な段階からの複雑な発達、一方に我々の本性の知的な側面にある意志との密接な関係が、他方に主体と対象との差異、心的活動の存在をめぐる問題などが我々の進む道を示しているかもしれない。しかし、できるだけこうした問題を避けたところに我々の対象はあるだろう。我々がまず問いたくないのは、判断は他の心的状態とどんな関係にあるか、究極的な実在においてそれについてなにが言われねばならないか、である。我々はそれを、できる限り所与の心的働きとして捉えることにしたい。それがもたらす一般的な性格を発見し、更には我々がそれを使用する際のより特殊な意味に注意を向けることにしたい。

 こうした、ある意味ノンシャランな始め方は、哲学では珍しいものだといっていいだろう。アリストテレスからデカルトにいたるまで、確実な根拠を固めた上に、自らの学説を打ち立てることが一般的だからである。

2013年12月15日日曜日

お手本と蝶つがい――内田百閒の俳句



作品抄出 三十句

水ぬるむ杭を離るゝ芥かな      『百鬼園俳句帖』

うらゝかや藪の向うの草の山

麗らかや橋の上なる白き雲

袋戸棚に砂糖のにほふ日永哉

浮く虻や鞴の舌の不浄鳴り

捨て水に雲の去来や飛ぶ胡蝶

犬聲の人語に似たる暑さ哉

欠伸して鳴る頬骨や秋の風

五臓六腑繪解きの色や秋の風

饂飩屋の晝來る町や暮の秋

俯せり寢の此頃の癖を蚊帳の果

毛物飼へる夜怖れのあり枯野人

庭先を汽車行く家や釣り干菜

麗らかや長居の客の膝頭        『百鬼園俳句帖拾遺』

晝酒の早き醉なり秋の風

丘に住んで秋雲長き晝寢哉

コスモスに空高し山の手の露地

橋と橋の間の道の小春哉

獨り居の夢に尾もあり初枕

さみだれの田も川もなく降り包み

砂濱を大浪の走る夜の長き

春立つや犀の鼻角根太りて        『俳句全作品季題別総覧』

立春の大手まんぢゆう少し冷たき

ぞろ/\と楽隊通る日永かな

短夜の狐を化かす狐あり

大なまづ揚げて夜降りの雨となり

新堀の河童の床の魚骨哉

龜鳴くや夢は淋しき池のふち

龜鳴きて亭主は酒にどもりけり

がぶがぶと茶をのむ妻の夜寒哉



 内田百閒の生まれたのは岡山の大きな酒屋で、使用人のなかには俳句を好む者もいた。発句の会で選に入ると持ち寄った会費を取ることができたというから、賭博的な性格もあったらしい。

 俳句を作り始めたのは、本人の記憶しているところでは中学校のときで、「輪くぐりの用意に急ぐ湯浴みかな」という句がその頃のものだという。もっとも、本格的に取り組みだしたのは、第六高等学校に俳人でもある志田素琴が教師として赴任してきてからのことで、一度始めると徹底的にしないではすまされない百閒の性格をあらわすように(琴、鳥の飼育、猫、飛行機、列車、酒、食物などとの関わりを見ればわかるように)、一夜会という句会を、最後には友人と二人きりになって百回まで続けた。俳句だけが原因かどうかはわからないが、学年試験で成績を落とし、素琴先生から苦い顔をされたこともあった。それ以降、高校時代のように集中して句作に励むことはなかった。

 昭和九年の『百鬼園俳句帖』、十八年の『百鬼園俳句』編纂の際、「百閒先生が自ら選外とされた句、句集以後諸雑誌に発表された句、または書簡・真蹟などの遺珠をもひろく蒐集して」、判明している「百閒先生の俳句の全部」を収録した『俳句全作品季題別総覧』に収められたのが四百八十四句であるから、小説家としては少なくないとしても、八十年を超える生涯でコンスタントに俳句とつきあっていたとすると決して多いとも言えない句数である。

 少々意外に感じ、しかしながら、思い返してみるとさもありなんとも思われたのは百閒の俳句への取り組み方が窺える次のようなエピソードである。句集を出すことになったとき、百閒は高校時代の句をほとんど落選させていったが、「幼稚だけれども、捨てるに忍びない」ものがある。その一句に「湧き出づる様に水出ぬ海鼠切る」というのがあり、迷ったあげく「滾滾と水湧き出でぬ海鼠切る」と直した。すると、今度は「妙な事が心配に」なってくる。

かう云う古い、昔に作つた句は、その当時に、きつと何人かのお手本があつて、それを句作の指針にして、同じ題のものを、幾つも試たに違ひない。習作の当時を回想するに、先人の秀句を一つ真中において、その廻りを同じ様な興趣と句法に縛られたなり、ぐるぐると廻つてゐなかつたとは云はれない。その場合、一番ぴつたりした、適切な表現は真中においてある先人の句なので、その通りに云つてしまへば、最も簡単であるけれど、それは人の句であるから、さうは行かない。それで止むなく、舌足らずの、よちよちの、興趣も徹しない類句をいくつも作つて、その中で、ましな奴が覚え帖に残つてゐたものとすれば、今それから仮りに十年を経過してゐるとして、その間に私は当時
の句作上の行きさつや、縛られてゐた綱の事などみんな忘れてしまひ、ただ私の句の稚拙なところだけが、十年後の目に、はつきりとわかる。かう直せばいいと思つて、直した結果は、その昔、真中において、お手本にした句そのままになつてゐるのではないか。そのお手本だつた句も、勿論私は忘れてゐる。句は忘れて、さうして既に知つてゐるのである。だから今直した結果同じものが出来ても、自分にはそれが解らない。古い句を直すのは危険である。
        「海鼠」 (『無絃琴』所収)

 もちろん、俳句が今日ほど「自由な」ものでなかったことは考慮に入れねばならないが、小説のように「創作」するのでも、吟行で詠み捨てていくのでもなく、季語を決め、お手本を前にして、類句を沢山作りながらお手本に近づくことを心がけていたらしいかなり保守的な勉強法が見て取れる。実際、『冥土』や『旅順入城式』といった短編の「幻想」をその俳句に期待するとはぐらかされるだろう。しかも、百閒というと中年から老年にさしかかり、生活スタイルの定着した頃の印象が強いために、つい必要以上に昔の人だと思いがちであるが、俳句に写生以外のものを持ち込んだ、例えば、山口誓子や西東三鬼のような俳人と年代的には一回りも違わないのである。

 こうしたことを心に留めておくと、いわば自分のことは棚に上げて百閒が「文壇人の俳句」に厳しい評価を与えているのも驚くにはあたらない。師である漱石についてさえ、「俳人漱石をさう高く買つてゐない事は、明言し得る」と言いきっている。なぜ「文壇人の俳句」が「殆ど駄目」なのか。

画家の書が本当の書を見る目で見ると、いけないと云ふのと同じであつて、つまり画家は、既に審美眼が出来上がつてゐる。自分の審美眼に合ふ様に字を書く。だからその書は形の整つた、或は趣きを具へた、或は古拙に見える色色の特徴で、一部の人に愛好せられるが、しかし書の美は、その書格の中から生まれ出る可きものであつて、あらかじめ字の恰好なり効果の美を知つてゐる人の書いたものは、さう云ふ点でどこかしら本来の味を失つてゐる。つまりどう云ふ風に書けばどうなると云ふ判断の働く事がいけないのであつて、文壇人の俳句は正にその弊を具へてゐると私は思ふのである。俳句の上手下手は、句法なり措辞なりだけで定まる事のないのは勿論で、昔によく云つた境涯と云ふものに達してゐなければ作れるものではない。文壇人は文士であり、文士は言葉を扱ふ者であるから、俳句の作法を聞けば、自分の豊富な語彙を以て何とか尤もらしい句形を整へる事は出来るのであるが、その十七音が俳句になる前に既に作者の方に一つの標準があり批判があり、それに当て嵌めて俳句を捏造する、盛んになればなる程、さう云ふ第二義の句が人の目にふれ易いので、成る可くならば余り流行しない中に下火になる事を私は祈つてゐる。
     (「百鬼園俳談義」 『鬼苑横談』所収)

 『冥土』や『旅順入城式』の悪夢のような雰囲気を俳句に移しかえることも或いは可能であるかもしれないが、そうしたところで、小説家としての「審美眼」を俳句に当てはめているに過ぎない。つまり、百閒にとって、俳句というのは、琴や習字などと同じく「お稽古事」として始めるしかないものであり、お手本を何回もなぞることで、その形を完全に肉体化することができたときに始めて個性があらわれてくる類の実践である。我流の学習でどれだけ「個性」らしきものを出したとしても、それは俳句の「格」を損なう手癖でしかないのである。「文壇人の俳句」というのは、多くの場合、あまりにその小説と似ており、「小説的」であることと小説を通じてあらわになるべき「個性のしるし」がついていることで二重に俳句を裏切っている。こうした意味で、百閒の俳句がその小説に似ていないことは、百閒の俳句に対する考え方の必然的な帰結である。

 さて、「百鬼園俳談義」(文字通り、百閒の談話を筆記したものであるが)には、こうした意外に思われてもよく考えれば必然性のある厳格さとは対照的に、一見したところいかにも百閒らしいが、その意味するところを辿ると『冥土』の世界に誘い込まれたかのような落ち着かない気分にさせられる発言がある。冒頭、百閒は、人口に膾炙した四句、古池や蛙飛び込む水の音、荒海や佐渡に横たふ天の川、名月や畳の上の松の影、指南車を胡地に引去る霞かな、をあげて評釈している。「この古池を読んでゐると、少し可笑しくなつて来る」と始まった時点で、何か漠とした不穏な雰囲気が漂っている。

古池と云ふものが、考へ方によると、可笑しなものであつて、水際ははつきりしてゐない泥の崩れた様な所で、水面には、この俳句から考へると春の事であるから所所に水草が芽を出してゐるであらう。晴天なら晴れた空を映してゐる。古池の上に空が晴れてゐると云ふのも、想像の上で少し可笑しい。又曇つてゐて、雲が池の上にかぶさつてゐるとか、或は風が吹いて水面に波が立つてゐるとか、さう云ふ景色を此方で古池と云ふものにこだはつて思ひ浮かべて見ると、どうしても滑稽な感じが伴なふ。仮りにその池の辺りを歩いてゐるとしたら、さうしてさう云ふ事に想到するとしたら、人のゐない所で独笑ひが浮びさうに思はれる。その古池に蛙が飛び込んで、静寂を破る水音を立てた。それは幽玄の黙示であると云ふ風に、古来解説せられてゐるが、又さうでないとも云はないが、しかし一寸気を変へてその景色を味はふと、芭蕉と云ふ人も随分可笑しな事を云ふものだと考へられる。段段その考へにこだはると、心の中で古池の句を繰り返すだけで、可笑しくて堪らない。

 「荒海や」の句については、「壮大と云ふ感じは勿論受けるけれども、それも一寸気を変へて読み直すと、暗い荒海の上に天の川が光つてゐると云ふのは、滑稽な景色である」と言い、「名月や」の句については、「名月が松の向うから松の樹を照らし、松がその影を開け広げた座敷の畳に投げて、それを誰かが見て、この句に盛られた様な感興を抱いたとすると、笑はずにはゐられない」と言う。そして、最後には、「さう云ふ事を気にしてゐると、心に浮かぶ古来の名句が今まで気の附かなかつた様な可笑し味を誘ふのである」と述べる。

 もし古来の名句が、すべて「可笑し味」や「滑稽」さを湛えたものであり、いわゆる俳句的な「美意識」の伝統と呼ばれるものが、「滑稽」を生みだすための組み合わせを洗練させてきたものだとすれば、名句を手本にし、修練を重ねるとは、最も深く効果的な無意味さを身につけるための必須の手順であることになる。俳句が小説的な要素を斥けるべきなのは、洗練されてきた俳句の無意味が小説的意味によって汚染されてしまうからであり、我流の個性が俳句にとって百害あって一利もないのは、個々の特殊な気質や利害得失によって限定された無意味が底の割れた私的な無意味でしかないからである。

 『冥土』などの短編では、その多くで、丹念に積みかさねられた描写が、「水を浴びた様な気持ちがした」「怖ろしくなつて来た」などという一文をいわば蝶つがいとして、別の世界へと反転してしまう仕組みが見られる。言い方を変えれば、小説のような有意味性を基盤とする形式では、或いは、小説のような雑多な要素が混在する形式では、蝶つがいになるものがなければ、「水を浴びた様な気持ち」を引き起こす「怖ろしい」無意味を現出させることができない。一方、俳句のようにこの上なく切り詰められた純化された形式では、お手本を身体にたたき込み、意識することなく「可笑しな事を云ふ」訓練を積むことで、形式に密着にした生の無意味さをあらわにすることができる。しかしながら、実は、こうした考え方では、古来の名句を「滑稽」だと感じる百閒の意識が別世界へと裏返る蝶つがいの役割を果しているのであり、期せずして百閒の小説家としての眼が働いてしまっているのである。

2013年12月14日土曜日

ニコラス・ローグ『赤い影』(1973年)



原作:ダフネ・デュ・モーリア
脚本:アラン・スコット、クリス・ブライアント
撮影:アンソニー・B・リッチモンド
音楽:ピノ・ドナッジオ
出演:ドナルド・サザーランド、ジュリー・クリスティ

 ある夫婦が外で遊ばせていた小さな娘を事故で失ってしまう。目が届く範囲で遊んでいたのだが、池に落ちて溺れてしまったのだ。

 数ヶ月後、夫の仕事は教会の修復であることもあり、夫婦はイタリアのヴェネチアにいた。ヴェネチアでは連続殺人鬼が話題になっている。娘を失った痛みはまだ癒えず、妻は精神安定剤を服用している。その妻がある姉妹と知り合いになる。姉は盲目だが、霊感があるらしく、娘さんがあなた方と一緒にいますよ、と妻に語る。妻は興奮して夫に語るが、彼の方は幾分懐疑的である。

 そんななかもう一人の子供である息子が怪我をしたという知らせが入る。夫はすぐに仕事を中断するわけにも行かず、妻が先に出発することになる。残された夫は、ヴェネチアの街に、溺れたときと同じように赤いレインコートを着た娘の姿を認めたように思う。彼は赤い姿を追って街をさまようのだが・・・・・・

 シェイクスピアの、オフェーリアの、さらにいえばラファエロ前派の国の監督らしく、溺死のイメージが繰り返される。

 この映画、10年以上見ていなかったが、見たのは3,4度目である。『マリリンとアインシュタイン』以来新作を見ていないが、もう映画には携わっていないのだろうか。思えば、同じ頃熱心に見たアラン・タネールやエットーレ・スコラの新作も見ていない。

2013年12月13日金曜日

悪魔が映画をつくった――ウィリアム・フリードキン『エクソシスト』



 「鬣」第20号に掲載された。


『エクソシスト』はホーム・ドラマの一変種だという説がある。素直で従順だった子供が、思春期を、或は精神的病いを境に態度や行動を一変させる。そうした決して珍しくないホーム・ドラマの題材に悪魔憑きというひねりを加えたのが『エクソシスト』だというわけである。

確かに、中心になるのは母(エレン・バースティン)と娘(リンダ・ブレア)の関係である(要するに、悪魔さえ取り除けば、『積木くずし』と似たような話になる)。悪魔払いの経験のある老神父(マックス・フォン・シドー)は若い神父(ジェイソン・ミラー)に、悪魔と会話を交わしてはいけないと忠告するが、それはベテランの精神分析医が新米の分析医に、治療においては患者から医者への愛情や敵意の転移を警戒し、患者とあまり深い感情的関わりをもたないよう注意するのと似ていよう。また、神父をある種の教育者と捉えるなら、教育によって「人間性」を(再)獲得する物語とも考えられる(要するに、悪魔さえ取り除けば、『奇跡の人』と似たような話になる)。

ところが、観点を変えて、ホーム・ドラマに悪魔というスパイスをきかせたのではなく、悪魔が我々に最も馴染みのある物語を際限なく生みだし続けるホーム・ドラマを侵略し、その領土を侵しているのだとしたらどうだろうか。公開当時から、かりにも神に抵抗しようという悪魔が、なぜよりによって一家庭の一少女に取り憑き、しかもその命を取り損なうことがあろうか、といった疑問が出されたものだが、悪魔にしてみれば一少女の命など問題ではなく、人間生活に強い根を張ったホーム・ドラマという枠組みに罅を入れる方が焦眉の急であったに違いない。

こうしたことを明らかに示しているのが『エクソシスト』の映像だと言える。『エクソシスト』(1973年)と四年後の『スター・ウォーズ』の公開によって、ハリウッド映画における特殊効果の役割は決定的なものとなった。『スター・ウォーズ』が描きだしたのは、宇宙空間での戦闘であり、人間とは異なった姿形をもつ異星人であり、人間の力には及ばない神の視点であって、特殊効果は神の創造を真似たのだった。

一方、『エクソシスト』の特殊効果が描くのは、三百六十度回転する少女の首、浮遊する身体、罅割れた顔、緑色の吐瀉物という、ごく身近にありながら経験したことのない組み合わせであり、「人間性」についての概念がなんらかの形で変容しないなら実現され得ない事柄であって、特殊効果という武器を得たこれ以降のホラーがますます「人間性」を蔑ろにしているのを見ると、『エクソシスト』で悪魔のしたことはまさしく悪魔の所業と言うに相応しい。

2013年12月12日木曜日

酩酊の要諦――暮尾淳『ぽつぽつぽちら』書評



『鬣』第18号に掲載された。

                  
大田南畝によると、酒はのべつ幕なしにのんではならない、時と場所とを選ぶべきである。即ち、1.節供または祝儀のとき、2.珍客のあるとき、3.肴があるとき、4.月雪花の興があるとき、5.二日酔いをなんとかするとき。

『ぼつぼつぼちら』を読んで、ここに登場する「おれ」がなんの定見もなくしきりに酒をのんでいると考えるのは皮相な見方というものである。目的はただ一つ、酔うことにある。

ところで、「酒をのむ」と書くことが実際に酒をのむことと特に直接的な関係がないように、新宿の酒場で酒をのんで酔っぱらうことと言葉を酩酊させることにはなんの因果関係もないことは言い添えておくべきだろう。酒を手放せない作家が常にしらふの言葉を書き、一滴もアルコールを受けつけない者が言葉において酩酊することもあり得るのである。また、酔っぱらった人間が酔ってないと言い張り、酔ってない者が酔った振りをするように、酒がでてきても酩酊しない文章もあれば、酒のことなどなにも書かれていないのに酩酊している文章もある。

もちろん、ここでは暮尾淳氏の言葉が酩酊していると言いたいのである。では、この本で、酩酊は言葉になにをもたらすのだろうか。

第一に、実際のアルコールが血液の流れをよくするように、人間の流れが円滑になる。夢ともうつつともわからぬ女が「夜目にもしろい乳房」と「ハンカチ一枚みたいな腰」をあらわにして誘いかけるし(「春の夜の風」)、「突然あおく透きとおり/びしょびしょ雪が溶けだした/日本の空の曇天に/なつかしいサイレントムービーの/タイトルバックのように消えて行」く「ゼンタロウ」に出会うこともある(「同級生」)。

第二に、時間の流れが円滑になり、過去が現在と混じり合う。「どこにでも気さくに付いてくる/
死んだ弟と/トタン屋根の上で/巴旦杏を食いながら/星空をながめ」ることもあれば(「ヘール・ボップ彗星」)、「装甲車の残骸が晒されている/草むら」で「灯台草の/乳色の汁で戯れた」少女との指切りを、高層ビルのキャッシュコーナーで紙幣を数えているときに思い起こしもする(「灯台」)。

第三に、自然の流れが円滑になる。酩酊であるだけに、主として水の循環であり、暮尾氏の詩には頻繁に雨が降りしきっている。ここでの水は同じ場所に澱みたゆたい、人を包み込んで安息をもたらす羊水の働きをするのではなく、同じところに止まらず流れ去るかわりに幾度でもあらわれる。どこにいようと安全な定着などないし(「ガラスに額を押しつけて/筏のようなものを見ていたら/ゆ
らりゆらり/波に乗って部屋は進み出し/おれは軽いめまいを覚え」「白い虹」)、身体にたまった水は排出される(「水めし」)、なにより、酔いが停滞を許さないのであり、安息は酩酊の放棄でしかない。

雨のざわざわ降る夜に
雨降るスクリーン現れて
しょぼしょぼしょぼんと音がして
ざあっとトイレの水流れ             (「蕎麦焼酎を飲みながら」)

2013年12月11日水曜日

移動と固定――スタンリー・キューブリック『シャイニング』



 『鬣』第19号に掲載された。

原作者のスティーヴン・キングが、スタンリー・キューブリックの撮った『シャイニング』について大いに不満を抱いていたことはよく知られている。余程腹に据えかねていたのか、二十年近くもたった後、TV用のドラマではあるが、自ら製作と脚本を担当し、いわば原作者のお墨付きを与えている。

もっとも、キングの不満は、原作者にありがちなひとりよがりとだけ言ってすまされるほど根拠の薄弱なものではない。キング版の『シャイニング』の魅力は、最良のキングが常にそうであるように、恐怖のクレッシェンドにある。雪によって交通が遮断された山奥のホテルに管理人として両親と幼い男の子が一冬を過ごすことになる。この閉ざされた環境において、怪奇現象と、それをますます鮮明に感じ取ってしまう子供の超能力、そして父親の狂気への傾斜が渾然一体となり、最終的な破滅に向けて、圧力鍋のなかのように徐々に圧が高まっていく。

ところが、キューブリック版の『シャイニング』でもっとも印象に残る場面がなにかといえば、エレベーターから溢れだす血の奔流であり、二人列んで正面を見つめる双子の女の子であり、赤で統一されたトイレに見られるような色彩設計であり、とりわけ、ステディカムによって撮影された廊下を進む三輪車(といってはちゃちなものを思い浮かべてしまうが、実際は小さなバギーのようなもの)に代表される移動撮影、つまりはキングのあずかり知らぬ部分なのである。

キューブリックは四十回、五十回とリテークするのも珍しくなかったというが、それは各場面ごとに最高の強度を求め、たかまりゆくサスペンスのことなどなんら考えていなかったことを示している。そもそもキングは、正常な状態と狂気とのコントラストを示すためにも、最初から異様な雰囲気を漂わ
せているジャック・ニコルソン(同じことは、始めからどことなく不安定な印象を与えるシェリー・デュバルにも言えるのだが)を外してジョン・ボイドにするよう頼んだらしい。

結局のところ、キューブリックが一読後非常な興奮をおぼえ、すぐに映画化権を獲得するよう秘書に命じたという『シャイニング』の感動は、描かれる個々の出来事の内容とそれによってもたらされる結果に寄せられたのではなく、何気ない描写の積みかさねや繰り返しが持続されることによって、それが別の意味に変わってしまうというキングの手法にこそあったのだと考えられる。そこで生じてくる意味を恐怖に接続しうるというのがキングの発見だったわけだが、他方、車窓から移りゆく風景を映すロードムービーの移動ではなく、同じ対象を捉えながら持続する移動撮影が、対象の固定では同じであってもクローズアップとはまた異なったある意味を生みだすというのがキューブリックの発見だったわけである。

All work and no play make Jack a dull boy...

2013年12月10日火曜日

不釣り合いな友人――スティーブンソン



「鬣」第18号に掲載された。

ジキルとハイド、善と悪とを体現する二つの人格がひとりの人間のなかで戦うのだが、この戦いはナポレオンとウェリントンが戦ったワーテルローのように、原則としてどちらの陣営に荷担することもない中立な土地において行われたわけではなかった。ジキルの身体こそが主戦場であり、ジキルは最初からハンデを負っていたわけである。

そもそも、ジキル自ら述懐しているような善と悪との戦いが行われたかどうか、非常に疑わしい。通りすがりの老人を殴り殺したり、様々な秘密の悪徳に耽っているらしいハイドはとりあえず悪としておいてもいい。しかし、ジキルの方はと言えば、善というよりはヴィクトリア朝の偽善的小心さをもっているに過ぎない。

善と悪とが拮抗しているなら、ジキルは、二つの人格を分離し、ハイドのもとで良心の咎めなく快楽をむさぼることを可能にする実験にかくも容易に飛びつくことはなかっただろう。ジキルは分離を「白昼夢として耽溺」し、実現した暁には「人生は一切の苦悩から解放されるだろう」と思っていたのである。

ジキルはハイドのすることに関心をもち、ときにはハイドの快楽の計画や手助けをし、「共に享楽にふけった」りもするのだが、ハイドはジキルにまったく無関心だった。つまり、善と悪という抽象的な原理の衝突というよりは、ジキルと彼が理性ではわかっていてもどうしても離れることのできない人物、カリスマ的な魅力を放ち、自分の暗い欲望を肯定してくれる不釣り合いな友人であるハイドとの諍いであり、そうであればこそ一つの身体に具体的に二つの人格があることの現実性が際だってくる。


およそ二百年前のジョン・ロックは、当時の哲学者たちが言うように肉体と霊魂とが別々のものなら、カストルが眠っていて意識のないときにその霊魂がポルクス宿り、ポルクスが寝ているときにはカストルに宿ることも可能だろう、と夢想した。つまり、二つの身体に一つの霊魂があるわけである。だが、この霊魂はカストルのときの幸不幸とポルクスのときの幸不幸とどう折り合いをつけるのだろうか。結局、身体のない霊魂は何でも映しだすことができるが、蓄えておくことのできない鏡のようなものだとロックは言って、半端な(あるいは過剰な)霊魂をこの上なく物質的なもので喩えてみせた。一方、一つの身体に二つの霊魂で、ロックを裏返したスティーブンソンは、半端な(あるいは過剰な)身体をむしろ霊魂に似た移ろいやすい幻影に喩えたのである。

我々の霊魂を包んでいる肉体は、一見頑丈そうに見えるが、じつは震えおののく幻影、霧のようにうつろいやすい存在にすぎないことを、これまでの誰よりも深く見抜いたのである。薬品の作用には、あたかも風が天幕を吹きまくるように、肉体というこの外被をふるい落とす力があることを私は知った。(海保真夫訳)

2013年12月8日日曜日

ユーモアと滑稽――椎名麟三




新約聖書全巻のうちにはただ一つの諧謔もみあたらない、しかしこのことで一巻の書物は論駁されているのである、とニーチェは言う。事実、聖書にはイエス・キリストが人々を笑わせたという記録もなければ、自ら笑ったという箇所も見あたらない。

であるから、ほんとうのユーモアをもっているのは、キリスト教だけなのだ、という椎名麟三の言葉を読むと驚かざるを得ないだろう。

キリスト教とユーモアとの結びつきということになると、チェスタトンの名が浮かぶ。しかし、チェスタトンのユーモアがカトリック的で、派手で、多幸症的だとすると、椎名麟三のユーモアはプロテスタント的で、質素で、禁欲的だと言える。チェスタトンにとっては世界のあらゆるものがでたらめで、驚異に満ちており、それゆえにユーモラスで、ユーモアとは神が創造したこの世界を肯定することにある。世界を肯定する哲学や文学は、たとえそれがキリスト教となんの関わりもないものであっても、この創造された世界の驚異を享受するという点において、キリスト教的に読みかえることができる。

つまり、チェスタトンによれば、人間はキリスト教的な存在として生まれてくるのであり、幼児期には誰もがもっていたでたらめでユーモラスな世界に驚嘆する能力を徐々に失うことによってキリスト教的でなくなっていくに過ぎないのである。

一方、椎名麟三によれば、人間とは、成長によって、あらゆる人間的努力を無意味なものとする死を認識することで初めてユーモアというものを視野に入れる。しかもそのユーモアたるやイエス・キリストにしか可能でないような聖性に満ちたものである。

というのも、人間においてユーモアは常に滑稽と苦悩とに分裂する。笑いを誘う滑稽さとは、無意味さを客観的に見やることで、その無意味さとは多かれ少なかれ、究極的な無意味をもたらす死に通じている。こうした滑稽さは、主観的には多かれ少なかれ意味のある苦悩をもたらすこととなろう。

ユーモアとは、死に通じる滑稽の無意味さと生につきものの苦悩に満ちた意味との対立を解消できるようなイエス・キリストや聖霊にのみ可能な超越的地点だということになる。このように捉えられたユーモアは、いかんせん具体的な例が示されないために、細部に止まるユーモアの大半の魅力が失われているように私には思える。ただ、その論の進め方や言葉の端々が幾分滑稽のおかしみを誘うことはあって、たとえば、椎名麟三によるとキリスト教は絶望する人間に次のように答えるという、

君もそうなのか、ぼくもそうなんだ。三十億の人類を片端から殺してしまうだけでなく、人類というものを歴史のはじめから抹殺してやりたいくらいなんだ

2013年12月7日土曜日

ドン・デリーロ『コズモポリス』




 金融界で成功した若い社長の一日を描く。朝、この社長は護衛の者たちに数ブロック先の床屋に行くように命じる。リムジンで向かうのだが、折しも大統領がニューヨークを訪れており、人と車があふれかえって、ほとんど動かないような状態にある。

 リムジンには最新の装備があり、オフィス同然である。ほとんど動かない車には次々に社員があらわれ、知的な雑談を交わしていく。社長は毎日健康診断を受けており、直腸触診で前立腺が非対称だといわれたことになにか特別な意味があると感じている。

 また、少し前に家柄のいい大金持ちの令嬢と結婚をしているが、生活は別であるらしく、ニューヨークの狭い街のなかで擦れ違うたびごとにセックスを迫るのだが、食事をしては別れてしまう。街では大きなデモがあり、暴動にまで発展する。

 社長は莫大な金額の円を買い込んでおり(映画ではウォンになっている)、目算が狂って破産が身近に迫っている。もちろん本人にもそのことはわかっているが、何ごとにも現実感を感じられないようだ。死に関してもそうで、気まぐれのように護衛の者を銃で撃ち殺してしまう。

 クローネンバーグの映画では、「プルースト流」と本人によって形容されたリムジンの、外界の遮断が非常にうまく表現されている。最後、この社長は元社員によって襲撃されるのだが(その結果は小説と映画では微妙に異なる)、銃を突きつけられることによる死の危険がこの男に「リアル」なものとして届いているかはわからない。そうした曖昧さは映画の方がうまく表現されているように思える。

2013年12月6日金曜日

ソポクレス『アイアース』



 トロイア戦争の末期、アキレスの鎧はオデュッセウスに贈られることになり、アイアースは自分が軽視され、屈辱を与えられたと感じ、ギリシャ軍の司令官たちを皆殺しにすることを決意する。

 女神であるアテーナーは、牛や羊などの家畜をギリシャの司令官であるという幻覚を与え、アイアースは家畜類を殺してそれらを自陣に持ち帰る。やがて幻覚から覚めたアイアースは、自分がしたことによってギリシャの戦士たちに嘲笑されると信じて、苦しみのあげく自陣を出て行ってしまう。

 アイアースの異母兄弟であるテウクロスは、ギリシャ陣で、アイアースは一日のあいだ自陣を離れてはならないこと、離れてしまうと死が待ち受けていることを聞く。そこで急いで使者を送るが、すでにアイアースは自陣を離れており、ヘクトールにもらった剣の柄を土中に埋め、突き出た刃に身を投げて自害していた。

 アガメムノンなどのギリシャの司令官たちは自分たちに害を及ぼそうとした行為のことを考え、アイアースを葬ることなくそのままに放置しておくように命ずる。

 だが、そこにオデュッセウスがあらわれ、敵であってもその高貴な死には敬意が払われるのであるから、アイアースにもその身分にかなった適正な葬儀がなされレルべきだとみなを説得する。

 適切に葬られることの必要性というのは(ラカンなどは、身体的及び象徴的に、人間は二度死ぬ、といったが)日本や中国にはあまり見られないようだ。

2013年12月5日木曜日

ナチョ・セルダ『Genesis』『Aftermath』


 ナチョ・セルダはスペインの映画監督。どちらも30分くらいの短編。どちらにも一切台詞はない。

 『Genesis』は創世とでもいえばいいか。家族を撮ったホーム・ムービーからはじまる。おそらくは事故にあったためか、妻は死んでしまったのだろう。男は妻の像をつくりあげる。すると像から血が流はじめる。男が自分の命を捧げると、妻が蘇る。

 『Aftermath』は余波、後遺症、草などの二番刈りを意味する。死体安置所の解剖医が、同僚たちが帰ったあとで、死体愛好にふける。グロテスクな内容ではあるが、少なくとも『ギニー・ピッグ』のように扇情的に描かれているわけではないので、あまり嫌悪感を催すことはない。

2013年12月3日火曜日

言った言葉が・・・・・・--三木のり平



 「鬣」第16号に掲載された。

実は、三木のり平にそれほど関心をもつことはなかった。伊東四朗や三宅裕司の口から敬愛の情をもって語られるのを耳にしたことはあるし、別役実の芝居に出演しているのを中継で見たこともある。それ以外では、森繁久彌や小林桂樹などと共演していた社長シリーズでの姿を微かに思いだす程度だが、本人に言わせると社長シリーズなど、糞だよ、ウンコ、作品なんてもんじゃないよ、ということであり、それは作品としての評価というだけではなく、映画というものが、本来、役者の芝居の流れを好き勝手に切り刻み、好き勝手に貼り合わせる監督のものであり、役者が自信をもって自分の作品だと言えるのは舞台のみであるという考えに基づいている。

思えば、三木のり平に対する私の印象の薄さは、彼が心血を注いだ東京の喜劇について鮮明なイメージを結べないことからきているようにも思われる。物語などは方便でしかないギャグの陳列場で
ある吉本新喜劇とは異なるしっかりした結構をもち、人情と涙と笑いが一緒くたになった松竹新喜劇よりも遙かにドライであるらしい芝居の姿が文章による証言だけでは朧気たらざるを得なかった。

ところで、ここに、<言った言葉が・・・・・・>という遊びがある。撮影所の長い待ち時間ではやった一種の謎々で、映画の題名をあてる。例えば、東北の寒村、飢饉があって、男は出稼ぎ、娘は身売り、年寄りしか残っていない。息も凍るような寒い朝、特に貧しい一軒の家から老婆が出てくる、一羽だけ残った鶏の世話をするためである。餌をあげようとすると、なにを思ったか鶏はお婆さんの肩に飛び乗る。こらっ、と手で払うと、鶏はすぐに下りたが、フンがお婆さんの肩についた。そのとき、その老婆が言った言葉が・・・・・・というのが問題で、答えは、あっ、バッチイ鶏でえ、つまりアパッチ砦。

この、寒村の貧困を眼前に髣髴させる非常に高度な話術と、それに正確に反比例するかのような非常にくだらない回答に東京の喜劇の姿が見て取れるように思える。確かに、東北も寒村も貧困も老婆も答えには全く関係がないし、アパッチ砦を、あっ、バッチイ鶏でえと変換するのもでたらめだが、その途端に鶏のいる状況として紡ぎだされる情景は緊密で間然するところがない。

つまり、あっ、バッチイ鶏でえというばかばかしい駄洒落が高度な話術によって作り上げられる虚構の世界の入口でもあれば出口でもあり、世界のすべてがこのくだらなさによって支えられているからナンセンスであると同時に、一点で支えることができる、ぼろぼろと崩れ去ることのない引き締まった全体を形成する必要があるから芸が問題になるのであって、一見ナンセンスという点では似たように思えても、場受けのよさを第一義とし、センスのよさを競う現在主流のナンセンスとは根本的に種類が違う。

 人を笑わせるにはね、いわゆる芸のボキャブラリーというか、いわゆる「乞食袋」と言いますけど、いろんな笑いのネタがふだんから詰まっていないといけない。これが自慢していいくらい、僕にはあるつもりだよ。漫才のネタ、落語のネタ。都々逸から民謡、踊りから狂言、新作から古典から、それを全部乞食袋のなかに入れておいた。・・・
 ただし、ひとつだけ言っておくと、芸っていうのは、試しちゃいけない。計算もない。客が笑ってくれるか試してみようなんていうのはプロじゃないよ。一発必中のネタをいつも用意しておいてこそ、人を笑わせるプロなんだ。

2013年12月1日日曜日

アレキサンダー・ギャロウェイ『インターフェイス・エフェクト』



序:調停役の一つとしてのコンピューター
1.働くことのできないインターフェイス
2.ソフトウェアとイデオロギー
3.表象不可能なものはあるのか?
4.不誠実な情報科学
後記:我々は金を収穫する農民である

 メディア論。といってもマクルーハンのように新たなメディアの特性を探る楽天的な側面はなく、偏向したイデオロギーと骨がらみになったメディアを批判する。

 現代思想のジャーゴンが駆使されているのでやや読みにくいが、個別の箇所で興味深いところもある。

 たとえば、写真やワイズマンの『ショア―』などの映画を引き合いにだして、ホロコーストや災害は表象不可能だと言われるが、そもそも我々は写真や映画などを見て、嬉しさなり悲しさなり、なんらかの情動を感じなければならないのだろうか。表象不可能というときに、暗黙のうちに写真や映画が前提とされているとき、写真や映画などはひとを動かすものだという要請まで入り込んでしまっているというわけだ。

 アメリカのテレビ・シリーズ『24』を論じて、そこでは人間の身体は情報の流れを阻害するものとしてしか描かれない(ジャック・バウワーによる容疑者の拷問が次々に行われるが、そこで得ようとされているものは要するに情報である)など面白い部分も多かった。