朝月夜双六打の旅寝して 杜國
『万葉集』巻一、「藤原宮から寧楽の宮へ遷都せられたときの歌、(上略)あをによし、奈良のみやこの、佐保川に、いゆき至りて、我が寝たる、衣の上ゆ、朝づく夜、さやかに見れば、(下略)」、同巻九、「鳴く鹿を詠んだ歌、(上略)朝づく夜、明けまくをしみ(下略)」。いずれも有明月である。
双六打ちはそれをなりわいとしているのではなく、ただ双六を打つひとである。双六打つひとが止められずに、我が家に帰るのを忘れ、月が残る暁になってしまったのを、面白く朝づく夜といい、旅寝といったので、わざと旅寝と断ったのに滑稽があり、また前句の坊にも利かせてある。二、三里離れた友の家を訪ね、はじめは泊まる気もなかったのに、互いに好む遊びに我を忘れて、帰ろうとするとすでに夜明けが近く、思わぬ泊まりをすること、誰にもあることである。そこを巧みに句につくり、信楽の坊という街道のせわしい宿でもないところに付けたのは、実にふさわしい。長閑な坊の主人の人品もよく、また双六板なども備わっているよい家のさまが見える。
さてここでは、前句の蕎麦さえ青しをまた新蕎麦もなくてととるべきである。双六も負け込み、好物の蕎麦もご馳走になれないのかと、気の抜けた朝の顔、目に見える心地がして面白い。双六を打つことこの頃の句に多い。なかばは小博打として、大いに世に行われたのだろう。
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